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おりひめ7-2(追憶) [おりひめ]

訃報です・・・

R2年9月12日(土)

ミズノ氏から松之山のオカヤマ先生宅の電話が【現在使われておりません】

繋がらないと連絡あり
同9月13日(日)

ミズノ、千葉県在住の先生の奥様に連絡

 去年の暮に「少雪をついてキノコ採り(?)に出掛ける」と言ったきり、今日までついに帰らず 地元の人が懸命に探してくれましたが ようやく諦めと踏ん切りがつき、先月8月に松之山の家を引払い 電話も解約したとの事

突然の訃報に言葉もありません・・・

先生:「山菜もキノコもどこにあるかみんな頭にインプットされてるよ」「散歩がてら20Km位歩けば山菜もキノコもドッサリだよ」

私:「先生、そりゃ散歩じゃなくて立派なトレッキングですよ~」


多分、滑落による負傷のための歩行困難、低体温症・・・

沢筋のどこか深い藪の中に隠れて居られるのなら

発見はこの先も難しいのかも・・・

自分だけの秘密の場所が逆に仇になったのかも知れません・・・   

でも、シミズ氏が言う通り「自分の生き方を貫かれ自然へ帰って行かれた先生は幸せだったのかも」


先生を偲び過去のおりひめ寄稿文再掲します(奇しくも遭難の記述があり悲しいです)

瞑目 合掌


或るイメージ


 僕は、音楽が好きだ。文学が好きだ。スポーツが好きだ。そして、自然が、特に山が好きだ。専門的知識など何もないし、数多く登ってもいないけれども、山が大好きである。僕は時々、山について或るイメージを夢見る。

 真夜中、誰もいない白銀の冬山を、僕はひとり、月の光を背に受けてシュプールを描く。サイレント映画のスローモーションの場面のように。処女雪は、柔らかく僕をつつみ、舞い上がる粉雪の中で、僕は完全に重量感を失う。二本のスキーは、生き物のように雪の中をぬめる。不意に現れる目の前のギャップを、ふわっと僕は飛び越える。僕の身体は空中に浮かび、雪煙の中で、カミソリのようにエッジが光る。スキーが再び雪面に着く瞬間に、僕の姿は形而上の世界に昇華して、雪の精と化した僕は、白い恋人の中に残された一本のシュプールを眺めている・・・・・・

 或る日、白骨化した遭難死体が、虚ろな眼で沢蟹の遊ぶのを眺めていた。たえずぶつぶつ独りごとを言っていた。

 「私が死んだのは三年前。あの岩から落ちたのだ。私には両親とひとりの恋人がいた。三人とも、全財産を投げうって私を捜索してくれた。でも、もう、諦めたようだ。無理もない。読経の声も聞かずに、私は死んだ。雪が消えると、毎年自然が花を手向けてくれた。私は淋しくなんかない。ほら、両足と右の腕がないだろう。二年前の雪崩が、右脚を持っていった。去年の冬は左脚を、今年が右腕をもぎ取っていった。けれど、このエンゲージリングだけは、今もここに残っているよ。」

 山はいいものだ。僕自身、1年中、山とは縁が切れない。春は山菜採り、夏は登山、秋は紅葉狩り、冬はスキー。息子も僕に似たのか、特に夏休みなどは、毎日毎日飽きもせずに近所の山で一日中虫を追っかけている。

 山岳部の皆さん、君たちは良い部を選んだと思う。登山は苦しく、地味なスポーツだ。決して華やかではない。自分勝手な行動は時に死を招く。

けれども、そうであるが故に、他のスポーツと違った真剣さと良さがある。心の触れあい、忍耐、冷静な判断力、連帯感、責任感、一糸乱れぬ団体行動。奉仕。
 
君たちは、山岳部活動を通じてこれらのことを実感として学ぶことが出来たはずだ。

 山岳部の合宿には二度参加させてもらった。春の巻機合宿と、夏の鳥海登山であった。学年別の分担による入念な事前準備、山荘や山での男子に劣らない活躍ぶりとガンバリ。それぞれに強く印象づけられた。本当にお世話になりました。良い顧問に恵まれ、君たちは幸せだと思う。三年生は三年間よく頑張った。見事な活躍ぶり。一,二年生も、途中で挫けることなく、最後まで続けてほしいと思う。

三年間の経験は、必ずや君たちの人生にプラスすることを確信しています。

おりひめ第7号より転載

学生時代:「君たち 鯉(コイ)の一番美味しい食べ方 なんだか知ってるか?」
       「知りませ~ん」
       「それはね こいの笹焼き (恋の囁き)だよ・・・」
       だじゃれが好きでロマンチストな英語の先生でした。
       
 O先生、リタイア後は千葉の房総に居を構えるかたわら、最後の赴任地、松之山の離農農家を借りて晴耕雨読、悠々自適の生活を楽しんでおられます。

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あ!オカヤマ先生だ!・・・と思ったら山学同志会の小西政継さんでした


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おりひめ13(追憶) [おりひめ]

平成30年7月6日金曜日

R先生逝去の報を受け

悲しくて、やりきれない気持ち・・・です
さしあたり
僕らの時代の先生の寄稿文、
再掲して先生の事
偲びましょう・・・



過ぎ去った『あの一年』がR先生の軽妙な筆致で甦ります。




この一年を顧みて



 今年一年間の活動をふりかえると今年ほど巻機に縁のあった年もなかろう。



春山合宿から送別山行までクラスの山荘旅行を含めると三十日は巻機に行ったろうか、清水に山荘があるという事より、各大会が巻機山域に集中したためでもある。



 全国大会二チーム、国体に一チーム出場という部にとっては多くの点で大変だった年であり、それなりに意義があったが、わがクラブ独自の楽しい山行が少なかった点、一抹の寂しさがあろう。以下、この一ケ年の反省や印象深い出来事をふり返ってみたい。



△ △ △ △ △ △ △ △



 今季の春山合宿は例年の如く三月下旬の六日間、山荘をベースに行われた。一年の活動の原点であり技術習得の合宿である。雪上技術は勿論、幕営技術の向上が目標であった。合宿初日は春の陽光と南風が吹く暖かな日で、男子は沢口より、キスリングを背に山荘まで歩く。舗装された無雪道路が更に延び、清水まで真冬でも車が入る時代となったが登山者にとっては便利になっても果たしてプラスだろうか。



交通機関の発達は山へのアプローチを無くしてしまい、山への序章の楽しみが失われた、とある登山家が嘆いたのもあながち嘘ではない。とは言っても沢口を後にすると悔いる気持ちだ。荷は重い。道は長い。今冬あれほど降り続いた豪雪も意外と少ない。途中、選挙の車が行き交い、雪の山郷にも春が来た事を告げる。



部落に着き、新衛門(編者注:旧山荘を管理してもらった民宿)に寄る。毎年この日、親父さんに山荘の雪堀の苦労話を聞くのだが、人手もない厳冬期は大変だったと思う。部落からスキーを背に二汗もかいて杉木立の道を登る。夏は急登で長い道も、雪道となると辛いがさして時間は掛からぬうちに天狗岩が見え隠れしてくる。もう少しの頑張りだ。T大山荘を過ぎて橋をまわると懐かしき山荘に着く。一日目の夜は楽しい。合宿の前途を祝って乾杯する。



 停滞の日もあった。炬燵を囲んでH先生の座学を聴く。こんな午後もあっていい。その夕方、N先生、I OGが雪を踏み越えてやって来た。お隣さんのT大さんに遊びに行く。快活な五人の山男が我々を迎えてくれた。うちの女子も仲々やる。我々には見せない一張羅のセーターを着ていくのだ(その気持ちは良く分かる)



 登山予定日の三日目。悪天候を予想して寝たのだが、起きてみると皮肉にも快晴だ。春山の天気は難しい。登山準備をしていないのでスキーに変更する。新雪のゲレンデは実に素晴らしい。二年生は初心者だが雪面に穴をあける数ほど上達する。三年生がその証拠だろう。寒い中での雪上訓練も辛いが、広大な急斜面での訓練は効果があった。特に雪上歩行はザイルワークと共に身につけてほしい。雪渓を登る事が多い越後の山ではいかに大切か、きっと分かるだろう。その夜、T大の三人がやって来た。酒一本空にして酔いもまわる。今夜は女子がテントに泊まる日だ。



 昨夜の予報では好天は期待出来ぬが四日目に巻機登山を実施。七時に山荘を発つ。井戸の壁手前で朝食。冷たいお握りは喉に通らない。今朝はトップのH先生が実に早いペースだ。ラストが辛い。三年男子が一泊する為七合目近くの森林限界にテントを設営する。曇り空に風強く雪面はクラストする。八合目の急登を越すと更に風強く寒い。ニセ巻の避難小屋脇で震えながらの昼食。食後ものんびり出来ず樹氷を背に証拠写真を撮って一気に下る。テントでH先生達を見送り、のどかな陽光を受けて暖かいテントの中で横になる。



夕方、ザラメの雪に四回ほどシュプールを描く。少し登って眺めると広大な斜面に黄色のテントが実に小さい。夕食は洋風おじや。何か飲みたいが何もないのでチョコレートを湯に溶かして五人で飲みまわす。山の端に陽は落ちたが、気温下がらず三日月がかかる。湯沢あたりのスキー場の花火がシーズン最後を飾って微かに光る。二十時過ぎまで男同士の話をして寝袋に入る。



 夜半すぎ、風の音に目が覚める。(時計は三時を指す)テントは膨らみ雪面を吹き荒れる風は二十mを超えていよう。フライが音をたてて鳴り、眠れない。唸りを発して吹き続ける風に不安をかきたてられテントが倒れるのではと心配する。朝までには弱まると期待するが仲々、時間が経過しない。足先が寒い。実に長い夜明けだ。三年生は熟睡している様で羨ましい。風雪となった様でテントに雪が舞い込む。



 七時過ぎ、漸く風が呼吸する様に間歇的に吹き止み始めた。内心ホッとする頃、Nが用足しに起きる。まだ入口から外には出れぬので反対側を開けて済まさせる。風が弱まり始め八時に外に出て撤収を開始した。埋木のロープが凍ってほどけない。歯で噛んで苦心の末ほどきようやく撤収作業終了。数人のパーティーが登って行く。九時すぎる頃、あの強風が嘘の様に止み陽が差して来た。



 皆、心配していると思いながら下山開始。ブナ林を滑り降り井戸の壁の先端に出た。山荘が見える、誰かテラスに出てこちらを見ている様だ。手を振り大声でコールする。



三年をトレースに沿って下山させ、左斜面を滑り降りる。上から見ると息をつめる程の覚悟がいる。一気に斜面を横切り、ジャンプして三、四回曲がるともう下にきてしまった。ブッシュに突っかかり大きく転倒。生徒が下ったのを見てからそのまま二子沢目指して林間コースを滑る。快調!踏み跡もない最高の斜面だ。空は青く陽が眩しい。沢を渡り斜面を登れば山荘だ。H先生が迎えてくれた。



吹き荒れた稜線も白く浮かび上がっている。皆、五人を案じて心配していたと言う。「ありがとう」遅くはなったが無事下山できた。



 我々には山荘の近くで泊まるのだという安易な気持ちは無かったか?たとえベースの近くの幕営にしても非常食、予備食は持つべきで雪山であれば完全装備をすべきだろう。指導不足を痛感すると共に良い経験となった。又今回は各学年単位で雪上幕営を実施したがテント設営に時間が掛かりすぎる。こんなに立派な山荘があるのは幸せかも知れぬが、山荘に甘えているという声もあり同感である。もっと積極的な活用が必要であろう。多くの面で収穫があった合宿である。



▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲



 新学期になって慌ただしい日々が過ぎて春山講習会が近づいた。春山合宿から一ケ月後の巻機に再び行く。山麓はすっかり春の装いとなり新緑に桜が花を添え、春が一日一々と山を昇っていく。T大山荘奥のゲレンデが幕営地で、天気にも恵まれ花見も出来た。講習内容は合宿の復習とは言え、他校と比較できた点、良かったのではないか。春早い割引沢も楽しかった。ニセ巻機に突き上げる急峻な沢の雪渓は快適だ。一歩毎に天狗の頂が足下になり高度が稼げるのだ。



 グリセードで下った涸木沢は面白かった。しかしグリセードそのものはどうだろうか。高校生でなくとも下降はキックステップで確実に歩行すべきで、繰り返し身体で覚えるのが先決だろう。安全な斜面で楽しむのは悪くないが、重い荷を担いででは勧められるものではない。楽しみにして来たスキーも講師を依頼されるとそうもいかぬ。幕営地付近で五回滑っただけだが花見が出来た事で満足しなくては。講習会が終わってからの山荘での一泊、新入部員を迎えて春の陽を楽しんだ。



△ △ △ △ △ △ △ △



 帰ってすぐ五月の連休に再び巻機に来た。国体予選である。どうも部員は余り乗り気でないらしい。一般のパーティーと一緒に参加するのも良いではないか。国体の登山競技も得点種目になるそうで競争化の傾向が強く、OL(オリエンテーリング)の様な踏査競技と重量制限のある縦走競技では本来の登山の在り方と違和感があるのは歪めない。



 塩沢町から踏査競技がスタートして、清水分校に再び集まり、荷を計量して不足のパーティーは三人合計七十Kgにして縦走競技の出発。軽量化とは逆にザックに石を詰めなくてはならぬ矛盾である。雪解けの井戸の壁を登り五合目で幕営。翌朝、残雪を踏んで巻機往復、森林限界で「ホウキ雲」の雲海を眺めた。もう一汗かいて頂上に立つ。いつも会う会津、谷川の山々はまだ白い冬の装いだ。帰路、割引沢を下り、雪崩の痕跡を見る。閉会式で女子は八甲田行の切符を手にした。北陸予選での健闘を祈る。男子の得点は意外に厳しかった。踏査の失敗があったにしろ、意気込みが足らなかった。反省したい。



◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎



 六月上旬、例年の様に県大会が近づいてきた。考査後で準備の日数も少なく、すぐ大会になった。この大会に懸けている三年男子は心中期するものがあった。困ったのは女子である。予定の三人が先の国体予選で青森行となれば誰を出すか?一・二年でメンバーを組まなくてはならない。出場した女子には悪いが即席チームである。短時間ではメンバーシップは望めない。準備する事が余りにも多い。ペーパーテストの模試もやった。一夜着けの効かぬ事は君達の方がよく知っていよう。地図に着色し、コースを入れて現地のイメージを頭に叩き込ませ、予想される小テストの設問をする。テント設営、装備、食糧計画、そしてトレーニング。あっという間に前日となる。国体三人娘は実によく手伝ってくれた。(内心、男子はいい線までいくのではと期待し、女子は精一杯やればそれで良し。模試のつもりでやって来い)



 一日目。清水分校に出場校が集まる。ペーパーテストは日頃の座学と山行経験がものをいう出題だ。車道を登川まで歩いていよいよ、きついと言っておいた謙信尾根の登りにかかる。バテるパーティーも出る。空が怪しくなり清水峠で豪雨となる。女子は全員濡れながらの設営。新校OBの助け船でなんとかフライを張る。食後、濡れたまま寝袋に入る。明日は早い出発だ。



 国境稜線を巻機に向けて縦走する二日目である。ジュンクションで女子隊は二校となり、男子は快調に先の方を歩いている。女子隊の後尾をK、Y先生らと歩く。山はまだ豊富な残雪があり春山だ。北に向って千七百~九百米の頂が幾重にも連なり重厚な山波が続く国境稜線である。



 大烏帽子の登りで一年のIがバテはじめる。山行といえば今回が初めてと言っても過言ではなく、雪渓歩行もペースを知らぬのは当然だ。早めの食事を摂らせてもらい、水を余り飲ませずに兎に角食べさせた。食べなくては駄目だ。昼食後元気になった。



槍倉、柄沢山と登降を繰り返し、石楠花、山桜が灰色にガスった空に色を添える。女子は頑張り牛ケ岳の雪田で男子隊を追い抜いて巻機から八合目の避難小屋目指して下った。体力の限界を超えた十三時間の行動だったが、共に歩いた中央校の掛け声に力づけられて歩き通したのだ。



 三日目。下山して閉会式。男女共よく頑張り、晴れの県代表として広島の全国大会に出場することとなった。他校の分まで中国山地では健闘して来たい。



△ △ △ △ △ △ △ △



 代表校となった後、八月の大会までの準備も何かと大変だった。男子代表の長岡O高校と連絡を取って今後の日程を決める。強化合宿の打ち合わせ、大会申込、予算請求、列車の手配に装備の購入等で月日は実に早く過ぎた。



それに今夏、山荘十周年記念行事の準備も重なり多忙な日々であった。そのうちに国体女子にM、K、Sの三嬢が正式に県代表となり7月下旬のブロック予選に八甲田行きの切符をかけて出場する事に決まり、その準備もしてやらなくては・・・



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  △



 梅雨も明け夏本番となった七月下旬、夏季行事に引続いて清水峠~谷川縦走の夏山合宿を計画する。今回はインターハイ強化合宿も兼ねて最後のトレーニングである。北信越ブロック予選で一位となって代表権を得て戻ってきた国体三人娘も加わり部員十八名が二十五日の昼過ぎ、炎天下の中を清水峠に出発した。



広島の暑さを想定して車道を歩くが、翌日またこの道を戻るとは誰が予想したろうか。



登川で大休止してゆっくりしたペースで謙信尾根を登る。予定より遅れて清水峠についた頃、風もあり気温も低く寒気を覚えた。汗に濡れた衣服を着替えた。生徒にも着替えを指示するが徹底させなかった。



 遅い夕食後、寝る準備に取り掛かった二十二時頃、Sが熱あり寒さを訴えていると言う。検温すると三十八℃を超えている。H先生が厚着をさせ冷水で冷やす。他のテントのHも高熱という。Sは夜半に三十九℃を超え、翌二十六日二時には四十℃となる。こんな高熱は何が原因だろうか。下痢がないか心配するが本人達は熱いと言うだけでその気配はない。Hは時々うわ言を言ったという。額にのせたタオルはすぐ温かくなり相当の熱だ。三年に聞くとSは山荘で風邪気味だったという。六時過ぎまでSは四十℃、Hは三十九℃の高熱が続き、下がらない。先にH先生に仮眠してもらい途中で交代して二・三年生と一緒に看護と検温にあたった。




 今朝の投与が効いたのか、二人の熱も下がり始めた。救助隊も遅いので覚悟を決めて自力でゆっくり二人を歩かせて十一時四十分下山を始める。小休止を取りながら快晴の井坪の道を下る。十三時前に救助隊と合流した。新衛門の親父さんの顔を見て安心すると同時に下では大騒ぎをして多大な迷惑をかけているだろうと思うとすまない気持ちになる。親父さんに昨日からの経過を話したが、直接連絡してくれたらと言われても今朝の状態ではとても出来ない事と思う。十四時に雷雨の中を車道に出て役場にジープにH先生と(発熱の)二人と二年のTが乗る。救助隊の方々に厚くお礼を述べ他の部員は歩いて清水に戻る事にする。空腹を忘れていた。濡れたパンでも口に入りジュースがうまい。雨の車道を清水に戻る足は重く、歩みも遅い。昨日この道を歩いた事が一年も昔の様に思え、この一日が実に長かった。

▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲

 あの状態を考えてみると二人の高熱のある者を峠から下山させる自信は我々にはなかった。これ以上病状を悪化させず病院に運ぶ最善の方法としてヘリを要請したのである。マスコミに、他人に何と言われようが、無事に二人を親元に返さなければならない。

帰宅して新聞を拡げたら我々と同じ日時に同様な状態で発熱した高校山岳部(横浜市)の記事が目に入った。北アルプスで三日間、看病した結果手遅れとなりヘリで富山まで運ぶが肺炎を起こして死亡したのである。措置が遅れて最悪になってから救助を要請しても手遅れの場合どうするのか。遭難騒ぎで強化合宿の目的も果たさず帰校後、広島大会の準備に追われる。どうも意気があがらない感じがする。計画書も仕上がり準備も進むが時間的にはやや不充分だった。

□ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 八月二日、見送りを受けて東三条を発つ。約一名、座席が余るのだ。大事な時にNが遅刻した。子供でないのだ、なんとか広島に追いかけて来るだろう。新幹線で西へ五時間、暑い広島に降り立つ。

食糧購入、事前打合せをやり四日に会場の戸河内に向う。市中行進は暑かった。全国から山の仲間が集まって開会式となる。菅笠が揃った新潟県代表に拍手もおこる。山梨の南アルプスの大会で会った先生、富山の講習会で世話になった友人にも会えて旧交を温める。やはり全国大会に来たという実感が湧く。式後、各コースに分かれる。

 H先生と四人娘、長岡O校とも暫くお別れだ。大会の様子は報告書を読んで貰うとして我々の歩いたBコースは暑くて長い道だった。大会のコースを設定するのに苦労したと聞く。山高きが故に尊からずで、それなりの良さもあった。細見谷も奥三段峡も面白く涼しかった。長い林道にはいささか堪えたが、千米級の準平原が拡がるのは中国山脈ならではの景観だ。

 夏の一週間の旅で同じ精神状態を保つ事は非情に難しい事を思い知った。県大会で見せてくれたメンバーシップが見られず、意気込みも確かに欠けていたと思う。行動中に声が出ない。持てる力を充分に発揮する事は難しい。先の夏山合宿の挫折感もあろう。それから立ち直る時間も少なかった。多くの反省事項もあるが、それよりも全国の山の仲間と友情を深め、他校の優れた点を学び取る事が大切なのだ。

青春を中国山地で燃焼させた君達は幸せと言うべきだ。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  △

 大会も終わった。タ◎ノは夏期講習のため東京へ直行。残った九人は急ぐ旅でもない。各駅停車で山陽路を上る事にして、途中下車も大会の付録として帰りたい。尾道のグランドでテントを張り、残った食糧を始末して一泊する。瀬戸内の海を車中から眺め、倉敷の古い町並みにも立ち寄った。大阪から夜行に揺られ二日がかりで帰ってきた。

◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎

 帰ってまもなくお盆の十四日に一年遅れの山荘十周年式典。建設当時の校長以下、OGが集まった。広い山荘のテラスも狭い程だ。建設当時の思い出や苦労話に花が咲き、遠路馳せ参じてくれたOGもいて、初めて会う貫禄ある先輩も多かった。

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 秋、十月。東高が当番となって秋季大会が開かれた。(編者注:京都桂高校の高田直樹先生http://www.takadanaoki.jp/が講師として参加された)紅葉の映える巻機に三百五十名が参加、小さな事故もあったけれど秋の割引沢を満喫した。

▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲

 これで今年の役割も終わった。春から兎に角忙しかった。

 今季、七度頂上を踏んだ巻機山であるが、来年もまた、登りたい。


おりひめ第13号より転載 (フェ~長かった~!)

男ざかりの働き盛り R先生三十六歳の「充実した?一年間」の記録でした。ある章では「あったな~そんな事!」と膝を叩き、またある章では穴があったら飛び込みたい衝動にかられ・・・山での休憩中、タバコを片手に大判の手帳にペンを走らせていた先生の姿が目に浮かびます。

(編者注:明らかな印刷時の誤植は訂正、天気図解説や当時の新聞報道等の記述は割愛しました)




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おりひめ28-2 [おりひめ]

手持ちの【おりひめ】最後の登場はW先生
今年の小屋開きには日帰りで参加してくださいました。

県大会から全国大会へ

 

前年の 10 月に新潟高校で、登山部の顧問会議が開かれた。
この会議ではその年の活動報告とともに、次の年の活動方針が議題となる。最後に、翌年度の大会の割振りがあって、大会運営にあたる主管校が決まる。大会のおおよその期日と会場に使う予定の山の名前も発表される習わしになっている。
現在、新潟県高体連登山部は、加盟校の数に基づいて県内を 4つの地区に分けている。上越、中越、下越、新潟。
この地区割は、昭和61年度から実施された。これ以前は A 、 B 、 C と 3 つになっていた。
3 地区の分け方は複雑で、長岡の学校が上越といっしょにAであるのはよしとして、魚沼が三条・加茂とともにBになっていた。
今は、魚沼と長岡、それに三条・加茂の4つが中越地区です。大会は、4月中・下旬の総体 1次予選(技術講習会)、 5 月中旬の春季大会、 5 月の終わりから 6 月のはじめにかけての県総体(県大会)、 9 月中・下旬の秋季大会(県大会)と 4 つある。

顧問会議で、どの大会を引受けるかの話し合いになると、なぜか秋の大会がもてもてになる。秋季大会なら主管校になってもいいという立候補が出る。
逆に、県総体だけは遠慮したいという雰囲気もある。県総体は 2 泊3日で、しかも審査がついてまわる。

総体1次予選は、新学期そうそうのことでもあり、 2 ・ 3 年生が対象であっても、準備が大変である。
春季大会は、初めて山に登る 1 年生が参加するため、 1 泊 2 日であっても大会が終わるまで緊張が続く。
秋の大会の運営希望が多くなるのも納得出来るでしょう。この会議のあった日は、丁度石川国体の最中でした。石川から戻った翌日、巻機山周辺で県総体をやるようにという連絡をもらいました。
裏巻機を中心に検討してみては、といっています。
しかし、地図を広げてながめても、 2 泊目の幕営地の目途がまったくたちません。
清水峠から巻機山に至るコースは、大いに魅力的ですが、大会で使うとなると道の整備が必要です。
4 年前に三条工業高が、県総体のコースとして第 1 次候補にあげて検討しましたが、道の整備が出来そうにもなく断念しています。
方針を、今まで大会に使っていないコースを設定する、に変更しました。

三条工業高の吉田光ニ先生と相談して、候補地を谷川岳に絞りました。三条工業高が 4 年前に主管した大会では、谷川岳が会場になりました。群馬県の土合駅から入って、白毛門山に登り、笠ケ岳、朝日岳を経て、清水峠に抜けています。今回は、まったく新しいコースとはいえませんが、新潟県側の土樽から茂倉岳に登り、武能岳と七ッ小屋山を越えて清水峠に至るルートを考えてみました。
武能岳を下ったところが蓬峠です。この峠からは、土樽へ下りる道と土合に下がる登山道があって、どちらも避難路として使えそうです。
 6 月の初めの頃は、 2千m の山の上では、天候次第でまだ油断が出来ません。悪天候に見舞われて、予定通りに日程が消化出来そうもないとき、避難路が確保されているのは、何とも心強いものです。この年の県総体は白馬岳で行われましたが、 2 日目は雨と風で出発時間を遅らせて、なおかつ登山行動を午前中で打ち切りました。
この日は白馬大池で幕営、上の小蓮華山には行けませんでした。このときのコースは、蓮華温泉から登り、同じ道を下ります。従って、日程の短縮は割合容易だったようです。
茂倉岳を会場に使うとして、まだ確認しなげればならないことがいくつかありました。
まず、1 日目に十分な広さの幕営地があるのか。登山道の整備具合いはどんななのか。
2 日目は歩いてみてどのくらい時間がかかるのか。土樽までの交通手段はどうなっているか。いずれも直接自分の目で確かめる必要があります。

10 月下旬、土樽山荘に向かいました。この日は土曜日です。午後、高速の関越道を湯沢イン夕ーで下りて、中里を通って土樽を目指しました。
丁度、紅葉の真っ盛り。周りの山々は赤と黄色に彩られ、見事の一言。
これを見に来ただけでも価値があると思った程です。陽射しも暖かく、朝早く来ていれば、山頂にも十分に立てたことでしょう。
土樽山荘の伊藤周左衛門さんに相談にのってもらい、幕営地は山荘の駐車場に決定。広さはまずまず。ただし、上越線をはさむようにして、線路と並んで伸びている高速道路が気になりました。昼夜をたがわず、ひっきりなしに走り去る自動車の騒音のひどいことといったら、想像していた倍以上です。山荘のアルミサッシの窓を閉めていても、キーンという音が小さいながらも伝わって来る。
テントではこの騒音をまともに受けて、夜まんじりとも出来ない選手が続出する恐れさえある。
その上、水はともかくとして、トイレの絶対数が足りない。全部のトイレを女子用にあてたとしても、まだ十分ではない。懸案となっている男子トイレの確保はまったく不可能。早くも男子選手の不満の声が耳に届く感じです。
この日の宿泊客は 20 数名といったところでしょうか。
玄関の棚に並でいた靴は、最初山歩きに適したものばかりでした。それがタ方になるにつれて、街で見かけるものばかりになって来ました。ネク夕イを締めた人も到着します。風呂から上がって食堂に行くと、私以外は皆んな知り合いらしく、テーブルを口の字に囲んで楽しそうです。そこから離れたひと隅に、ひとり分のご馳走が置いてありました。
にぎやかなグルーブの方を見ながら、ひとり食事をとるのも何んとなく恥ずかしい気がします。
かといって、それに背を向けて食べるのも、すねているようで気が引けました。結局、皆んなに横顔をさらす感じで、ひとりビールのコップを口に運んでいました。

明日はきっと雨になるだろう。でも、出来るだけ朝早く出発して山頂に立ちたいなあ、などとぼんやり考えていたとき、若い女性から声をかけられました。えっと思って振り向くと、石川、富山の北信越国体でいっしょだった助川さんです。
彼女は新潟県の山岳競技の成年選手でした。知り合いならこっちに来ませんか、とグループから誘いの声もかかり、伊藤さんの勧めもあって、合流させてもらいました。
年1回開かれる、植村直巳を偲ぶ会だそうです。毎年同じ時期に、この山荘に集まるとか。今年は、植村夫人が風邪で出席出来ず、参加者の人数もいつもより少ないそうです。
山荘の玄関を上がってすぐの受付のところに、登山家の
長谷川(恒夫?)、ヨットマンの多田といっしょに写っている植村直巳の写真がありました。
この高名な人達は、若くして3人ともすでにこの世になく、惜しい限りです。皆さんの話しに、ついつい遅くまで耳を傾けてしまいました。

翌朝は予報通りの雨。ゆっくり起きて朝食をすまし、 8 時30 分に山荘を出発。
玄関まで助川さんの見送りを受けました。おかげで、張り切って出発出来たみたいです。伊藤さんに教えてもらった通り、登山口まで自動車で直行。雨の中を登り始めました。登山道は聞いたように、よく整備されていました。登り口は高速道路のバーキングエリアのすぐ脇です。
道標はほとんどありませんが、 1 本道で迷う心配はまったくなし。最初はともかく登り一方です。
振り返るといつまでも、すぐ下に高速道路が見えていました。尾根筋に大きく育ったヒノキの並ぶ槍廊下に到着。太い幹が尾根をふさぎ、根も高く張り出しています。両側は切れて崖です。両手と両足を使い、張り出している根をまたいだり、その上に上がったり。
時間がかかり、歩行のリズムがくずれてしまいました。下って来る男ふたりの登山者とすれ違ったのは、この時です。
矢場ノ頭で腰を降ろしました。時計を見ると、10 時半を過ぎています。この後 1 時間歩いても、せいぜい川棚ノ頭に達するだけ。山頂は、まだはるかに遠い感じ。
雨足も衰えずとあって、山頂に立とうという決心はたちまちくずれてしまいました。下山すると決めて、ザックから無線機を取り出しました。 3局と交信して 10分余り。歩いている時は我慢出来た寒さも、じっとしている時は耐えがたいものです。

大会の丁度ひと月前、 5月の連休を利用して、当番地区の予備踏査を行いました。参加者は地区の顧問 4 名と男子部員 3 名です。三条工業高の水落先生、清水先生、真島先生と私。生徒は 3 年生の大野、松永、 2 年生の更級です。 5月2 日土曜日、授業が終ってから学校を出発。夕方土樽に着いて、無料休憩所に泊まりました。小雨が降っていたこともあって、少し離れたところに、新潟高校と新潟中央高校がテントを張っていたのを知りませんでした。
翌日もまだ小雨が残りましたが、天気はなんとか回復しそうです。ふたつの学校は、われわれよりも早く出発していきました。
休憩所の鍵を山荘の玄関に置いたのが 5時10分。登山口着、 5 時 40 分。登山道の雪の上に、先行者の新しい踏み跡がはっきりとついていました。 8 時丁度、矢場ノ頭で 10 分間の休憩。
ピッケルを手にしたのは、矢場ノ頭を越えて下った鞍部からです。目立って雪の量が多くなりました。上空には青空も見えています。でも、風は強く、冷たい。 9 時 10 分、川棚ノ頭の手前で小休止して行動食を食べる。カステラ、チョコレート、アメなど。
天気はますます回復傾向にあって、展望は開けるばかり。茂倉岳の山頂がくっきりと姿を現わしました。頂上付近は一面真っ白です。太陽の熱で溶けて枝から落ちた氷のかけらが、風で飛ばされてきて足元できらきらと光っていました。
10 時 35 分、茂倉岳山頂( 1977、9m )に立ちました。谷川岳本峰の一ノ倉はすぐそこです。
山頂には登山者が動いて見えていました。これから向かう、武能岳( 1759、6m )、蓬峠、七ッ小屋山( 1674、7m )、清水峠も一望出来る。清水峠の白崩小屋さえもはっきりとわかります。
これからあそこまで歩くと思うと、気が遠くなりそうな感じ。武能岳に向いて下をのぞくと、先行パーテイがずっと下がったところで休憩しています。
私達も昼食休憩にはいりました。パン、べーコン、レ夕ス、サバ水煮缶、調味料はマス夕ードにケチャツプ。マス夕ードがことのほか好評。防寒具や雨具の上下を身に着けてもまだ寒くてじっとしていられない。

11時10分山頂出発。 12時、茂倉と武能の真ん中、笹平の標識を通過。この鞍部で休憩。
山頂で着た雨具を全員が脱ぐ。風は強いが、寒くはない。ピッケルも背中に差した。 12 時50 分、武能岳の山頂到着。笹が多い。地面も出ている。一ノ倉と茂倉が真向いにみえる。手を伸ばすと、すぐそこといった感じに思える。一ノ倉の頂上から土合に向けて一直線に下り降りる登山者の姿が、白い雪の上に小さく見えていた。
風は強いが、展望はすこぶるよろしい。 20 分の休憩。 13 時 45 分、黄色の蓬ヒュッテに着く。雪原が広い。登山者が多い。新潟高校と新潟中央高校のパーティにようやく追いついた。でも、ふたつの学校はすぐに出発。天気はいつの間にか薄曇り。先を急ぐことに意見がまとまった。七ッ小屋山手前の登りで、先行パーティを追い抜く。
蓬ヒュッテからずっと、登山道が出ていたが、登りの斜面にはまだ雪がたっぶりと残っていた。この急斜面をキックステップで一歩一歩登る。さすがに息が切れて、トップは交替。
14 時 40 分、七ッ小屋山頂通過。休まず、そのまま清水峠をめざす。下り斜面は雪が広くついている。
かかとをしっかりと踏みしめないと、転びそうになる。ところどころ雪が硬く凍っていて、知らずにその上に乗るとすべる。
身体ごと流されそうになって本当に恐い。尾根筋のところどころに笹が出ていた。
15 時 25 分、清水峠に到着。避難小屋の中には、清水から上がって来た3 名の先着パーティがいる。われわれ 7 名と先に着いていた 3 名、それに後から追いついて来た単独行の登山者が加わって、 11 名が小屋に泊まった。
もう 3~4 名は楽に泊まれたであろう。最初の 3 名が広く場所を取って、ゆずろうとしない。小屋のうしろにふたりパーティがテントを張り、その脇では、いちばん遅く着いた 3 人連れがツエルトを立てていた。
小 1 時間もしないうちに猛烈に冷えてきた。陽がかげって急激に暗くなる。白いガスが広がる。それを透かしてみると、白崩小屋の側にテソトが 2 つかすかに見えていた。

4 日月曜日、 5 時起床。 3 人パーティの出発準備がうるさくて、寝ていられなかった。風が強く、雪もちらつく。前日見えていた周りの稜線は、時冷ガスに包まれて姿を消す。稜線の頂は、全部厚い雲におおわれて顔を見せてくれない。
6 時 50 分、小雪の舞う中を出発。雨具の上着のみを着用。新潟高校らのテントはもうすでにない。少し登って、送電線の鉄塔を目標に雪の斜面を横断。強風が吹くとザックが重いこともあって、身体がゆれる。先に下りたパーティの踏み跡がくっきりと残っていた。
7 時 20 分、国鉄避難小屋の脇を通過。みぞれで、全員が雨具を着用した。
8 時 30 分、登川の渡渉点に到着。天気は晴れ。行動食をとった。
9 時 10 分、追分を通る。
10 時 10 分、上田屋着。 50分休憩。
11時 25 分、タクシーで六日町駅に到着。予備踏査は無事終了した。予想していた通り、雪が少ない。
雪上歩行の審査は、茂倉岳直下の斜面しか使えない。それより困ったのは、清水峠に雪のないこと。
避難小屋の周りは、完全に地面が出ていた。雪上幕営が不可能であれば、テント場の規模がずっと小さくなってしまう。
はたして、全部のテントが張れるだろうか。

大会の 10 日前、 5 月22日(金)、 2 回目の事前踏査に出発。
今回は審査員を案内するのが主たる目的です。その上で、審査と運営の大会方針のすり合わせを行います。この日は、自動車で朝早く出ました。六日町、塩沢町、湯沢町の順に巡り、役場をはじめ、教育委員会、警察署、消防署、病院、駅、地区の有力者などの挨拶回りも、一気に済ませてしまおうというわけです。全部に予め依頼状を出し、電話でも大会協力のお願いはしてありました。
運転手は清水先生です。車には三条工業高の吉田先生、真島先生と私が乗り、清水先生だけはこの日私達 3 人を土樽山荘に運んだだけで帰りました。
タ刻、土樽山荘に集まったのは、地区の顧問が 4 名、審査員が 4 名の合計 8 名です。前回はテント持参のフル装備でした。
今度は出来るだけ身軽にと考えて、寝袋もピッケルさえも持ちません。この夜は山荘泊り。翌日の清水峠も、 JR にお願いして、白崩小屋に泊めてもらうことになっていました。
 23 日(土)、朝と昼の 2 食分のおにぎりをつくってもらい、 5 時に出発。休憩地点に適当と考えられる場所を選び、木の枝や登山道脇の草に赤い布テープを目印として結ぶ。
天候は晴れ。茂倉山頂直下の避難小屋は、まだ雪の中に埋まったままで姿を見せてくれない。
山頂からの展望はこの日も素晴らしい。蓬峠で、ヒュッテの管理人古田さんにアマチュア無線の使用予定周波数を告げた。
無線の電波は大会中、六日町警察署でも傍受していてくれることになっている。
 JR の白崩小屋は、ストーブがあかあかと燃えて誠に快適。寝具もきちんと揃っている。われわれのためにこの日、六日町駅前の事務所から職員がひとり、清水峠に上がって来た。小屋の鍵を開け、風呂まで沸かしてある。【民宿やまご】のご主人でもある小野塚さんだった。
小屋とはいいながらも、 3 階建ての立派なもので、自家発電によって電気もつく。高体連の登山大会のために、快く開放してもらった。
現在、事務所に 5 人しか職員がいないため、個人で利用を申し込んでも応じていないという。
 4 年前の大会でもお世話になりました。

24 日(日)、圧力釜で持参の米を炊いてもらいました。温かいご飯を食べて、皆んな元気に清水へ向かいました。時折、小雨もばらついたりしましたが、雨具をつけると止んでしまいます。途中でコシアブラをとったり、フキノトウを摘んだりもしました。
茂倉岳の登山道にもコシアブラは、食べごろのものが沢山目につきました。
しかし、審査の準備に来たということと、先を急ぐ必要もあって、誰も手を出しませんでした。
この日の下り道は、審査の対象から外れています。特に打ち合せをすることもなく、山菜採りを楽しみました。審査員の感想は、 2 日目の歩く距離が長いこと、茂倉岳まで登り一方だから、山頂に立てない脱落チームがいくつか出るであろう、というのに集中しました。大会の準備でいちばん困ったのは、救護員がなかなか見つからないことでした。いろんな方々に知恵を借りて、病院や消防などと連絡をとっても、全部断わられてしまいます。
たまに引き受けてもらえそうになっても、山に登るのならだめとか、 1 日だけならといわれて、話しが振り出しに戻ってしまいました。
加茂高校の浜田先生には、卒業生を紹介してくれるようにお願いしました。三条高校の卒業生にも連絡をとってみました。万策尽きた感じです。でも、救護員なしというわけにはいきません。
三条工業高校の吉田先生に、知り合いの歯医者さんを口説いてもらいました。ようやく救護員が決まりです。歯科医師の大竹先生には、大会中診療を休んでもらい、大きな迷惑だけをかけてしまいました。高体連から支給された、わずかばかりの旅費のみをお渡ししました。
でも、そのお金の大半が後日、北信越大会に出場する三条工業と、全国大会に出る三条東に、餞別となって帰ってきてしまいました。

第 45 回新潟県高等学校総合体育大会

第1日目 6 月 2 日(晴れ)
天候に恵まれて、屋外の開会式には絶好の日和となった。気温が上昇して、じっとしていても汗ばむくらい。
普段駅員のいない土樽駅に、大会の受付時間に合わせて、湯沢駅から切符受取りに出張してもらった。
ホームに降り立つと、歓迎の横断幕が掲げられているではないか。歓迎県総体登山大会と書いてある。
湯沢町には、大会の後援をお願いしてあった。でも、このようにしてもらえるとは、予想もしていなかった。感激したのは、私ひとりだけではなかったと思う。開会式に引続き、天気図の作成、ペーパーテスト、テントの設営、タ食準備と、日程が予定通りに進んでいった。
テレビ局が取材に来ていた。カメラに撮ったものが、晩にニュースとして放映されたが、私達は誰も見ることが出来なかった。

第2日目6月3日(晴れ)
4 時 30 分の出発時間がせまって来ているのに、幕営地の方を眺めると、テントがいくつか立っている。
せかせても、テントをたたむのに手間がかかる。 5 分前集合どころではない。
点呼に遅れたパーティは、班の後を追いかけさせることにして、当初の予定通りに出発。
茂倉岳の登山口までは、工事用の自動車が入るため、立派な舗装道路になっている。道路の途切れたところで最初の休憩。ザックが重いこともあって、すでに汗びっしょりの選手も見られる。各班の隊列を整えた。この後、全員が顔を揃えるのは、タ方清水峠に着いたとき。
一旦登り始めると、平らなところはない。休憩の時は、登山道に一列になったまま腰を降ろして休む以外にない。
山頂まではひたすら登りが続く。特に出だしの部分が、粘土質ですべりやすく、傾斜も相当にきつい。
このコース初めての人は、ここでもう気が遠くなってしまうかもしれない。移動本部は、半谷委員長と三条地区の顧問ふたり、それに補助員 2 名で構成した。お互いに無線で連絡が取れるとあって、しいて固まっている必要もない。各班の通過を見守るため、私ひとりが三条工業の 2 年生ふたりを連れて、この坂道を先行した。
どの選手も張りきっているのか、予想していたよりも登るペースが速い。各班に先導係をつけ、先頭を歩く班長にも出来るだけゆっくりと登るように頼んだ。玉の汗を流しながら、先を急ぐ選手もいる。
4 名の選手の連携がとれていないのか、最初から 4 名がばらけ気味になっている学校もあった。
矢場ノ頭を過ぎて、川棚ノ頭にかかる辺りから、脱落パーティの連絡が無線に入り始めた。
遅れがちなパーティは、各班のいちばん後におく。それでもついて来れそうにもないときは、班から外す。外れた学校は監督が呼ばれて、選手に付き添うことになる。
監督が審査員になっているときは、審査員がひとり減ってしまう。今回の大会コースはきついと判断したのか、 4 人の選手に監督ふたりの学校がいくつかあった。そんなわけで、三条地区の選手や補助員がばてるのを、何よりも恐れた。
最後尾のサポート隊が脱落パーティとともに歩く。青空を背景に、雪を頂いた茂倉の山頂が、白い姿を見せている。それを見て闘志をかきたてる者と、逆に気の遠くなってしまう者とがあるようだ。出発からすでに 5 時間半、時計の針はすでに 10 時を回ってしまった。
頂上直下の避難小屋の屋根が、雪の上に顔を出している。ほんの 10 日前には、雪に埋もれていて、所在がまったくわからなかった。
ここまでの間に、落後したパーティのうちふたつが、登頂を断念する。
 2 校とも男子で、登山口に向かって下山を開始。女子1 校も、すぐ近くに来ているにもかかわらず、停滞したままで動く気配がない。
救護係としてそばに付き添っている清水先生からの連絡では、腹痛の選手1名が岩陰に入ったままだという。
避難小屋の上部で、雪上歩行の審査が始まった。雪が減って、斜面の傾斜がさらに増した感じがする。はるか下まで見えるせいか、下りの歩行は腰の引けた選手が多く目につく。
三条東の女子も顔が下を向いたままで、足元の何かを捜しているように見えた。
山頂からは無線で、早く選手をこっちによこせという矢のような催促。上で、別の審査が行われているようだ。さらに男女ふたつのパーティが、避難小屋まで到達しないで下山することとなった。
山頂がすぐそこのように見えていても、このまま登れば小 1 時間もかかるであろう。土樽まで引き返す時間も考えると、決断は早いほうがいい。移動本部から2校に対して、下山するように指示を出した。
選手の無念な気持ちを思うと心が痛む。 4 人全員が動けないのではない。不調なのはひとりだけだ。
移動本部が最後尾となって、山頂を通過。
とっくに午後になっていた。この日の展望も素晴らしいの一言に尽きる。
茂倉岳を足早に下って武能岳の登りにかかると、再び脱落の連絡がしきりとなった。男子 1 名がこの登りで倒れた。
無線機のスピーカーから流れる声は、日射病だろうといっている。その選手が汗をかいているかどうかと、吉田先生が問い合わせた。汗びっしょりの返事が帰ってきて、一安心。様子を見に、吉田先生に先行してもらった。
行動食は持たず、朝も昼もろくに食べていなかったらしい。
コンデンスミルクをたっぶり含ませたパンをもらったら、元気を回復したという連絡。
武能岳の山頂から女子班についての連絡がはいった。上から見ると、選手がてんでばらばらに分解しているという。先頭をいく班長は下りとあって、快調に飛ばしているらしい。そのすぐ後ろを、 4 人の選手がぴったりとついて来るため、全部の学校も皆んな続いているものと思っている。
実際には 1 校だけで、それ以外の学校はかなり遅れていて、さらには 4 人の選手さえも離れ離れになっているパーティもある。先頭を追いかけて、先頭を止めてくれと、新潟中央高の中村監督に頼んだ。
武能の手前で、班から落後した学校が 3 つ。学校単位で監督といっしょに雪の上で休憩しているのが見える。その手前には、ひとり遅れた監督が歩いていていかにもつらそう。
背中のザックは、選手のものよりも大きくて見るからに重そうな感じがする。このままでは遅れがさらに大きくなると判断した。
強制的にピッケルとザックの中身を取り出して、補助員の三条工業の 2 年生に分配した。監督としての自尊心を傷をつけたことであろう。選手がどんなにばてたとしても、補助員に選手の荷物を持たせるつもりはない。残り 3 人の選手が分担して持てばいいのだし、あるいは監督が持ってもよい。
落後した選手の学校名は無線に飛び交った。でも、監督の件については触れないように配慮した。
夜、審査員のひとりから、監督に落後者がいたかどうか質問されたが、ひとりもいなかったと答えておいた。

武能岳を下りきってほっとしたときに、恐れていた事態が発生した。三条地区の学校で構成した、救護隊とサポート隊が全員登山道に集まっている。皆んなが取り囲んだ足元には、三条高の女子選手 1 名の姿が横になって見えている。これから先の行動が無理となった場合は、他の学校と同じように監督をつけて、蓬峠に残ってもらわなければならない。そうなれば、運営の人手が確実にひとり分減る。しばらく横になっているうちに、自力で歩けるまでに回復した。
蓬ヒュッテの前で、男子 1 校の監督より行動打ち切りの申し出があった。もう選手に、清水峠に向かおうという気力がなくなった。ここでテントを張り、明朝は土合に下りたい。したがって、閉会式には参加出来ない。ヒュッテの管理人の古田さんが、雪の残り具合いからして、土樽よりも土合に下った方が安全ですよといった。
これで合計 5 校が大会から消えた。午後 3 時を過ぎた頃、先発した設営隊の真島先生から清水峠到着の一報が届いた。先頭にいた男子の 1 班は、追いつく勢いで先発隊を追いかけていたのではないか。
20 分くらいで 1 班も峠に到着の連絡が入る。ずいぶんと速い。班長に選手の学校名を確認する。何んと 3 つしかない。 9 校いたはずだ。 6 つの学校はどこにいるのか。なぜそんなに急いだのか。
脱落パーティは運営上困る。予定時間より遅れても、何とか全パーティを掌握しておいて欲しかった。
七ッ小屋の登りと下りで、遅れている学校を追い抜き、移動本部が先に清水峠に着いた。
峠は日本海から関東地方への風の通り道。いつも風が強い。ガスがかかって、風は冷たい。
すでに地面に張り綱が交差して、テント間の狭い隙間を歩くのが難しい。
全選手清水峠に揃ったのはほぼ 6 時。茂倉岳で予想した時刻は 7 時であった。あの時は、暗くなって到着する学校もあるであろうと覚悟を決めていたが、何とか、足元の見えるうちに間に合った。
タ刻、白崩小屋の本部に、 2 ・ 3 名の選手の体調不良が報告された。いずれも疲労による発熱と考えられる。
解熱剤でなく、風邪薬を飲んで温かくして寝るようにという大竹先生の指示を伝える。
幸い、翌朝皆んな元気になった。土樽に下山した 4 つの学校のその後の様子が気になっていた。
山頂と違って無線の電波はかすかにしか届かないため、 JR の携帯電話を借りて、清水集落の上田屋に確認を入れた。麓本部は三条高の中村先生ひとりだけ。ふたつの学校は電車で帰宅。 1 校は土樽で幕営。もう 1 校はすでに清水に着いてテントを張っているという。
ふたつの学校とは明日の閉会式で再会出来そうだ。茂倉への登りの途中で、赤いシャクナゲの花が目を引いた。蓬峠から七ッ小屋山の間にイワカガミやイチリンソウとともに、シラネアオイの花が咲いていた。
皆んながそれを楽しむ余裕があったであろうか。

第 3 日目 6 月 4 日(晴れ)

4 時 40 分、先発隊よりもひと足早く JR の小屋を出る。 10 日前よりも一段と雪が解けて、心配していた雪の急斜面も、ことごとく夏道が顔を出している。特にルート工作をする必要もない。
登川の丸木橋の渡渉点まで一気に下り清水の集落に直行。 8 時過ぎに各班がぞくぞくと下山して来た。周囲ににぎやかな話し声があふれる。
予定通り 9 時から、審査員の講評を交えた班ごとの反省会が始まる。閉会式は菊埼審査委員長の話しが少し長くなって 1 時間近くかかった。
11 時過ぎ、選手がバスに乗車して大会が無事終了した。

3 日間、気温が急上昇したせいか、夏の到来を思わせるセミの鳴き声も聞こえた。

大会結果 最優秀校 男子六日町 優秀校 男子三条東 三条工業 三条 小千谷 安塚
奨励校 男子湯沢 新潟東工業
インターハイ出場 男子六日町 三条東
北信越大会出場 男子三条エ業 新潟
(以下略)

全国総合体育大会登山大会(男子C隊、3 班)
会場宮崎県期日 8 月 5(水) ~8 月 9 日(日)
県大会の後始末に追いまくられているうちに、いつの間にか 7 月になっていた。期末テストが終わると、もう中旬ではないか。
遅ればせながら、ようやく計画書作りから準備が始まった。 3 年生松永が受験勉強に専念したいと選手を辞退したため、 2 年生木村をメンバーに加えた。
午前中は補習授業があって、選手 4 名全員が揃うのは午後も 3 時頃になってから。
当初は、宮崎は猛烈に暑いと聞いていたため、暑さ対策を兼ねて日中のトレーニングを計画していました。ところが、そんな時間は取れそうにもありません。
選手のことは選手に任せ、午前中のトレーニングはもっばら私ひとりでやりました。計画書もパソコンできれいに作りたいといい始めて任せたところ、皆んながパソコンに不慣れとあって、予想外に時間がかかってしまいました。
打ち込みよりも、縮小印刷の設定で手間取りました。次の計画書にすぐ使えるものも、フ口ッピイディスクに残りましたので、まったく無駄ではありませんでしたが。
卒業生の間で、本間博先生の追悼文集をつくる話しが出ていましたが、具体的なことはまったく決っていませんでした。
 10 月 25 日に完成するとなると、逆算して、原稿集めの手だても本気になって考える必要があります。宮崎から戻れば 8 月も半ば。お盆もあっという間に過ぎてしまうことでしょう。卒業生名簿が完成しないまま、連絡のつくところから、原稿用紙を発送し始めました。
選手は計画書作り、私ひとりは文集の準備と、方向も歩調もばらばらの状態です。
今回の大会の開会式と閉会式の会場は延岡市です。競技の最終日閉会式の前日は、柔道大会とかち合って市内の宿舎の絶対数が足りないとか。
柔道を遅らせると、お盆とぶつかる。そこで登山関係は全員、一般家庭に割り当てられて、ひと晩お世話になることになっています。
大会本部から、指定宿舎と浅草徳三さんのお名前と連絡先が、要項とともに送られて来ました。
早速、よろしくというつもりで手紙を書きました。その中に三条新聞の記事のコピーも同封しました。県大会の様子と選手の写真も載っていて、山岳部の紹介としては格好ではないかと思ったものです。
それが届いたのでしょう。おい出をお待ちしていますと、わざわざ学校にお電話をいただきました。延岡はずっと雨が降らなくて、連日温度計は 37 、8 度を記録しているという話しです。奥様は、こちらはとにかく猛烈に暑いんですよ、とおっしゃっておられました。

浅草家は、すでにふたりの息子さんが独立されて、現在はご夫婦のみ。ご主人は旭化成にお勤め、奥様は民生委員をされています。お住まいは住宅団地の中にあって、極く普通の感じの新しい 2 階建てです。
一歩中に入ると、掃除が行き届き、よく手入れされているのが伝わって来ました。
さらに目を引いたのは、机の上、夕ン
ス、階段の床の端などにところ狭し置かれた小物類です。
実用品もあれば、ミニチュアとしてつくられたものもありました。
最近ミニチュアの花瓶などは、どこでも見かけて珍しくはありませんが。素材はガラス、金属、陶器、貝殻など。息子さんが描いた油絵もキャンパスのまま、無造作に何枚も床に置かれてありました。

8 月 2 日(日)晴れ
総監督の三条工業高吉田先生とともに 6 人で、東三条駅を 8 時に出発。大阪から神戸に移動して、午後のひと時を異人館の見学に費やした。宅配便で事前に送る予定のメインザックは、皆んなの背中にあって何とも邪魔になる。昨日、まだ買い出しになどといってる有様では、仕方のないところか。
日向行きのフェリーの乗船手続きを済ましてから、食堂をさがしに出かけた。
日曜日とあって、待合室のレストランはお休み。何とも不便なこと。食事と若干の買物をして戻ると、新潟中央高校 6 名が到着していた。出航後すぐに入浴。
新潟中央高校がこちらの船室まで遊びに来て、顧問どうし、生徒どうしで夜遅くまで交歓。

8 月 3 日(月)薄曇り
台風9 号の接近により、船の揺れは夜半から次第に大きくなっていった。朝、べットから起きて床に立つと、壁に手を添えないと歩けないほどだ。
 9 時の下船時刻が近づいても、選手 4 名はべットで頭から毛布をかぶったまま。起き上がると気分が悪くなるだろうからと、起きるに起きられなかったらしい。
前日買った朝食に、選手は誰も手をつけなかった。いちばん最後の乗客となってフェリーから降りた。
日向港の周りには高く伸びきったヤシの木、ワシソトンニアパームの並木が見られる。
道路脇にはハマユウの白い花も咲いている。新潟とひと味違う雰囲気。
夕クシーと電車を乗り継いで延岡に向かう。指定宿舎のビジネスホテルにザックを置いてから、受付場所に出かける。駅から離れた丘の上の公民館で、畳敷きの広間。
他のチームが誰も来ていないこともあって、全員が私達ふたりに注目して一瞬足が止まる。
入り口にいた女子高生が、お茶をどうぞと差しだしてくれた。ひと口飲んでやっと落ち着いたが、その間も皆んなから監視されているみたい。
そこで渡された袋は 5 個。監督とリーダーのふたりでは、なかなか持ちきれない重さだ。 5 人揃って来るべきであったと後悔する。しかし、運搬係がちゃんと設けてあった。女子高生ふたりが自転車で延岡駅近くまで運んでくれる。助かった。
タ食まで市内の散策としゃれる。他県のチームは、大会コースの下見に入っているところもあるらしい。小高い丘の上の神社は人影もまばらで、セミの鳴き声だけがすさまじい。新潟のものとくらペて、鳴き方が少し軽い感じとでもいおうか。
下に見えている風景は、三条のそれとほとんど変わらない。心配していた暑さも、三条と変わりがない。

台風が雨雲を運んで来たせいか。タ刻、静岡東高校の金子昌彦先生が私達の宿舎を訪ねて来られた。
静岡産のグリーンティーの差入れをもらう。
昨年の静岡大会ではコースの情報をもらい、事前準備に大いに役立った。
今年もすでに大会コースをくまなく歩いて来られたとか。コースの様子や感想を聞かせていただいた。
静岡県チームは 3 月と 7 月の 2 回、コースの事前調査に入ったとのこと。予算も意気込みもうらやましい限りだ。

8 月 4 日(火)雨
監督・リーダー会議
朝から激しい雨。この日の予定は生鮮食糧品の買い出し。他県のチームも同じらしい。
入れ替わり立ち替わり玄関に出て来て、空を見上げて雨模様を眺めていた。傘をさして三々五々 と、 10 時頃までには皆んなでかけたのではなかっただろうか。
延岡の繁華街は三条に勝るとも劣らないといったぐらいの規模か。
いく先々で買物をしている選手に出会った。買い出しは宮口、石附、木村の 3 人にまかせて、バスで 15 時 30 分からの監督・リーダー会議に大野とふたりで向かう。
台風の影響で飛行機もフェリーも欠航。神奈川県のチームだけがこの会議に遅れるかもしれないと、冒頭アナウンスされた。
終了後、六日町高のメソバーと初めて顔を会わせる。
入場行進の際の県高体連旗は、六日町高のリーダーが旗手を務めることに決定。
なお、新潟県の旗は新潟県に置いたままで、誰も持参していなかった。
タ食後、山行に必要なものとそれ以外のものに分けてパッキング。この宿舎はビジネスホテルのため部屋は小さく、私達は 3 つの部屋に分散していた。
打ち合せには誠に不便で、選手ひとりひとりのザックの中までは点検出来なかった。
特に、この日買った全部の生鮮食糧品に目を通さなかったのは大失敗。大会に入ってから悔しい思いをした。
終日雨が激しく、気温は30度を割って、膚寒い。

8 月 5 日(水)晴れ
開会式 7 時に宿舎を出発。バスで西階陸上競技場に向かう。
9 時、サブグランドに県ごとに集合して隊列を整える。 9 時 30 分開会式。
1 時間で終了。上空は青空、再び暑さが戻って来た。リーダーと気象係集合。リーダーの大野は筆記試験、気象係の石附は天気図の審査。
 4 問の筆記試験はすぐ終了。天気図は 20 分間の放送を聞いてから書くため、 1 時間はかかる。
この間に昼食。 12 時、マイク口バスに分乗して出発。
気象係の昼食時間は最初から設けられてない。今年も弁当をバスに持込み、揺られながら食べる以外になかった。改善出来ないものか。
入山式をやる北方町の上鹿川までは道路が狭く、大型パスは通行不可能。対向車とのすれ違いもままならないとあって、マイク口バスを白バイが先導する。大名行列といったところか。途中の窓から、岩登りに最適といわれる岩峰が見えた。名前は比叡山と矢筈岳。
会場の上鹿川小学校は全校生徒が 25 名。全員で鼓笛隊をつくり歓迎してくれた。
集まってきた地元の人達は、この鼓笛隊を見るのが目的ではなかろうか。
14 時から開会。男の子の舞う神楽で入山式が終了。
15 時 30 分、川沿いに鹿川キャソプ場に向かう。すぐ、笛の合図で設営の審査。
この間を利用して、監督は交流会。若い人が多い。新採用と初めての顧問が半数くらい。
革の登山靴は少数派、軽登山靴の監督が多数を占める。私も軽登山靴で、出発直前に買った。
スニーカーの人もいる。自己紹介をして、缶ビールで乾杯。まだぎこちない雰囲気だ。大会用に特設されたテント場に、テントが立つのはこの日が初めて。
地元宮崎のチームが事前調査に入った時も、テントを張る許可を出さなかったそうだ。
まだ、芝が馴染んでいない。歩くと靴に、黒い湿った土がべっとりとつく。テントの重量が確実に増す。
雨模様とあって外に寝るわけにもいかず、狭いテントの中で 5 人が躯を互い違いにして横になった。

8 月 6 日(木)晴れ
大崩山 4 時起床。 5 時 30 分出発。
鬼の目林道の平坦な道を歩く。 1 時間程で隊列が止まる。腹痛を訴えた選手がいて、トイレ休憩になった。道の脇に移動トイレがひとつ置いてあって、その前に行列が出来ている。本日の鹿川越えコースは、明治の西南の役で敗走する西郷軍の通ったところとして有名らしい。その時は、逆方向で越えたとか。ヒノキとアカマツの中を通る登山道は、大会のためによく整備されていて歩きやすい。昨年までは、林床にスズ夕ケが一面に生い茂り、それをかき分けながら歩いたという。
地元北川町の人達が総出で刈り取ってくれた。もちろん、無料奉仕で。
樹林帯を通過してもセミの鳴き声がまったくしない。昨日までのにぎやかさが、まるでうそのようだ。
台風の接近を本能で察知して、鳴りをひそめているに違いない。通称ブヨ谷と呼ばれている地点に来たが、ブヨも見あたらない。唯一、副隊長が眼の上の血を吸われたらしく、右のまぶたを腫らしていた。
風が適度に吹いてきて、しのぎやすい。風に秋の気配を感じる。遠見岩を過ぎると、急斜面になる。
整備され過ぎたのではないか。土がむき出しになっていて、手がかりがない。滑りやすいこんな急斜面で、小休止の声がかかった。腰を下ろすことも、ザックを置くこともままならない。
ここの登りが、今大会でいちばん難儀をしたところになる。

 9 時 30 分、大崩山( 1643m )の山頂に立つ。ヤブは刈ってはあるが、展望はきかない。支援隊のテントがひとつ。中の自衛隊員は大会終了まで常駐するとか。
少し下って、石塚で休憩。全員で万歳を三唱する。展望は開けてはいるが、遠くの山並はかすんでいる。 10 時 30 分、モチダ谷まで下って昼食となる。登山道に腰を下ろして食べる。引続き班ごとの交流会が始まった。選手の自己紹介と学校紹介。
40分くらいで出発。上わく塚、下わく塚と呼ばれる岩場を通過。白くガスがかかり遠くは見えないが、深い谷をはさんだ対岸に、岩壁のそそり立っているのがわかる。雄大な岩壁が垂直に落ち込んでいるとでも表現したらいいか。迫力があった。下わく塚からは急で足場の悪い下りが続く。そこにはザイルやはしごがかけてある。はしごをここまで運ぶのはさぞ大変だったであろう。
大会終了後は全部取り外す約束になているとか。
ひとりづつ順に通過するとあって、最後尾にいる監督達には岩壁観賞の時間が増えるばかり。
小積谷に下りて、巨岩の転がる祝子川を渡渉した。川に沿った細い登山道は大崩山荘へと続く。
15 時、山荘前を通過。さらに林道に出て、 16 時過ぎ、大崩キャソプ場に到着。
班ごとに整列。 4 人のうち、木村のユニフォームが上下とも泥だらけになっていて目立つ。
チームの先頭を歩いて、だいぶ苦労したようだ。
斜面を 3 段に削ってつくられたテソト場は、最上段が洗い場とトイレになっている。
台風が直撃すると知らされた。県名を書いた立て札があって、地面は白いひもで区割りされていた。
その縄張りを無視して、テソトの間隔を十分に空けるように、また、テントの周りに排水用の溝を掘るよう指示が出た。

顧問の交流会が済んでテント場に行く。ひとりがテントの中でタ食の準備をし、 3 人の選手がテントの周りに堀をつくっているではないか。それは水を流す溝ではない。水を貯めるための堀というべきであろう。要領がわからず、排水路を設けようともしないで、やたら深く掘ってあった。ついつい大きな声で叱り、埋め戻す。そうこうしているうちに、ばけつの水をひっくり返したような雨になった。
 23 時 50 分、日程変更の大きな声で目が覚める。明日の起床時間が 4時から、6 時に。
その後は指示あるまでテントに待機とか。時計を見ると、あと 10 分足らずで午前0時になろうとしていた。

8 月 7 日(金)
小雨 三里河原
 6 時前に皆んな起き出した。まだ行動についての指示がない。
朝食を終えたところで、 7 時 15 分、下の広場に集合の声がかかった。時計の針は 7 時を過ぎている。まだ食事中の学校もある。どこも大急ぎでテントをたたみ、メインザックにつめ始めた。
行動は半日に短縮するとの連絡。サブ行動に変更。サブザックを背にして指定場所に全員が揃ったのは、 7 時 40 分近くになってから。
 8 時出発。 1 班から順に動き始めたのに、なぜか和歌山県のチームだけが隊から離れて 5 人で固まっている。何の説明もないので、皆んな不思議そうな顔をして脇を通り過ぎた。
この日はずっと幕営地にいたらしい。監督の間に、まだ各チームとも点差がないという情報が流れる。特に
体力点と歩行点は全チーム横並びとか。

昨日通った大崩山荘の前を 9 時に通過。昨日のコースをかなり戻る。一度歩いた道であり、ザックが軽いこと、点差のないという噂もあって、とにかく先を急ぐ。走らないと前の人を見失ってしまいそうだ。
 10 時 50 分頃、この日の目的地三里河原に到着。
九州一の渓谷美をほこる三里河原も、増水して水の流れが激しいせいか、あまりさえない。
大会用にかけられた木の仮設橋さえも奪い去ってしまった。河原の岩は雨にぬれて、腰を降ろすと尻から冷たさが伝わってくる。 40 分間の昼食休憩の後、同じ道を引き返す。
 
12 時 30 分、大崩山荘に着く。山荘前の広場にC 隊全員が集合して、講義を受ける。
内容は大崩山系の植物。大崩山の標高がわずか 160 om しかないため、上部に針葉樹林帯と落葉樹林帯がかろうじて存在する。針葉樹ではモミやツガ、落葉樹ではブナが見られる。
標高の割には山が深く、人間をあまり寄せ付けなかったため、今日までこのように保存されてきた。この山系では、変種の植物も数多く見つかっている。ブナの葉は新潟のそれよりもずっと小さい。
東日本と景観はほとんど変わらないが、よく見ると植物にほんの少しづつ違いがある。

キャンプ場に戻り、バスで北川町に移動することになった。
北川町立中学校の体育館に到着。直ちに、最後の装備検査。
タ食の材料と計画書の献立の照合。灯油容器の記名の確認。コン口の台の検査。夕マネギはすでに使いきり、ニンジソはポリ袋に密閉してあったため、食欲をなくす状態であったとか。
タ食には、ジャガイモとソーセージだけのカレーが出来上がった。
立派な体育館で、内部での火気使用は厳禁。
まだ雨が降っていなかったこともあって、炊事は外でする。
明日は台風が通過するまで体育館で待機と決まる。監督の交流会の場に選手よりもひと足先に連絡が来て、最後の交流会が非常に盛り上がった。
大会役員は大会期間中、サブザック行動で宿舎泊まり。私達と違って寝袋も炊事用具も持たない。
避難と決まって、寝具を集めたり、炊き出しを受けたりで大変だったらしい。
夜は体育館の床に手足をゆったりと伸ばして、ぐっすりと眠った。

8 月 8 日(土)雨のち晴れ
北川中学校体育館台風 10 号が通過。夜半より激しい風と雨。
早くから目は覚めていたが、急いで起きることもない。外での炊事はまったく不可能。体育館の一隅にシートが敷かれ、その上だけ限定されてコン口使用の許可が出た。
停電時間が長く、回復したなと思っても、照明がすぐに消える。

8 時 30 分から講話。
役員は近くの宿舎から強風の中、ずぶぬれになって文字通り体育館にたどり着いたようだ。
瞬間最大風速 45m を記録したとか。ゲームをやったり、かくし芸披露の交流会も始まる。
宮口がチームの代表となってゲームに出場するも、なぜか反則負けになる。御苦労さま。

11
時 30 分、解散式。これで競技がすべて終了した。
昼食後、開会式を行った延岡市の陸上競技場に向かう。
バスの窓から見える川は増水して濁流となり、河川敷を洗う。そこにある自動車教習所は、コースはもちろん、自動車の車体の半分まで水役している。道路の信号機は軒並そっぼを向いている感じ。
瓦の飛んでしまった家もある。街路樹が何本も倒れ、市役所と書いてあるトラックが出て後片付けが始まっていた。
競技場には B 隊が先着していて、新潟中央高校と再会。
A 隊の六日町高校と D 隊の総監督がなかなか到着しない。土砂崩れで道路が不通の連絡が入る。

14 時30 分、 B 隊と C 隊はバスの編成を組替えて、 A 隊と D 隊を待たずに出発した。
浅草さんはこの日、ふた月に 1 回の泊まりの日とか。初対面の挨拶の後すぐに会社に出勤して行かれた。奥様の友達の竹内さんも来ておられて、ふたりがかりで沢山のご馳走がつくってある。
その品数と量の多さは、三条東高山岳部員 33名全員が食べられるぐらいだ。
ひと皿の五目寿司も、普段部員が顧問に盛り付けてくれる量の倍以上はありそう。
料理の得意な竹内さんがつくった押し寿司は、見た目もきれいで食べるのがおしい感じがする。
ご飯と魚がなじむまで 1 週間の日数が必要とか。私ひとりで 3 切れいただいたが、選手は誰も手を出す余裕がなったはずだ。
香ばしい焦げ目のついたグラ夕ン、新鮮な野菜を使って彩りの鮮やかなサラダ、揚げたてのトンカツと鳥の空揚げ、刺身に、ウナギなど。
これは市内の五ケ瀬川でとれた天然アユなんですよ、といってざるに並べたものを私達に見せた。
食べきれないからと辞退したはずなのに、しばらくしてこんがりと焼けたアユに変わっていた。
折角の厚意を無にしてはいけない。何とか 1 匹だけはいただいた。
さらに、食後のアイスクリームが冷蔵庫に入っているから、ご自由にどうぞという話し。
お腹がいっばいになったら、瞼がどうしょうもなく重い。 2 年生の木村と私はお先に失礼して、早々に眠ってしまった。
21 時になっていたであろうか。皆んなは2時近くまで話し込んでいたとか。

8 月 9 日(日)晴れ閉会式
 7 時 10 分までに、指定された。バスの停留所に行かなければならない。
支度を始めようとしていた時、電話がかかってきた。相手は和歌山県の総監督。
まったく面識はない。すぐ医師会病院に来て欲しいといっている。 D 隊に参加していた新潟県のふたりが、今朝がた救急車で運ばれて入院した。この電話も病院からかけているらしい。
選手だけで閉会式場の受付を済ましておくように指示を出す。浅草さんの友人の方に来ていただいて、とりあえず私だけ自動車で病院に向かう。
ふたりともベットで点滴を受けていた。ひとりはたいしたことなさそう。もうひとりは、嘔吐と下痢でかなり体力を消耗した感じで顔色がよくない。
和歌山県の総監督とホテルのご主人とで、昨夜からの話しを聞いているところに、保健所から担当の係長が到着した。
皆んなが同じもの食べて、ふたりだけ具合いが悪くなったのだから、食中毒ではないだろうという。
診断は貝による食当り。ホテルがタ食に出した、貝の処理方法がまずかったらしい。

9 時30 分から文化会館のステージでアトラクショソが始まって、 10時より結果発表と表彰式と閉会式。
約1 時間で大会日程がすべて終了。
得点は 83・3 点、順位は 12 位。閉会式後、選手 4 名だけが大分県の別府に向う。
六日町高は式後ただちに特急に乗り、宮崎市まで行って、タ方発のフェリーで大阪を目指す。
この日は船中泊。新潟中央高は宮崎市に泊まり、翌日飛行機で羽田に向かう予定。私達は逆方向を電車で別府に行き、次の日大分空港から羽田に飛ぶ計画であった。
六日町高校が行きに通ったコースの逆回りになるとか。
3つの学校が新潟県チームとして同一行動をとれば、総監督を入れて17名になり、団体割引きの恩恵もあったのに。なぜか、学校ごとにばらばらになってしまった。

再度病院に行くと、ひとりは元気になって、すぐにでも退院出来そうな様子に見える。
でも、退院はまかりならぬと、許可されず。その代わり、もうひとりの世話は十分に出来る。
私が近くで宿をとって待機する必要はなくなった。それならと安心して選手の後を追い、別府に向かうことに決めた。
延岡駅から東京行きの特急寝台富士に乗る。ホテルの最上階に展望風呂があって、 5 人で大きな浴槽を占領する。ホテルは結構にぎやかだったが、大浴場はすいていた。
ようやく、大会が本当に終ったんだなあ。
そして、明日は家に帰るんだ、という解放感が皆んなの顔に出てきた。
のんびりと温泉を楽しむ。大野と木村はさっさとふとんに入り、寝息をたてている。
私ひとり話し相手もなく、テレビを見ながら。0時過ぎまでビールを呑む。

8 月 10 日(月)晴れ
5時30分、ひとり別府駅に急ぐ。延岡に戻るため、特急寝台着星に乗る。百キ口以上も距離があるため、特別急行を使わざるを得ない。 2 日間とも寝台車に乗るなんて、最初思ってもみなかった。
入院していたふたりは帰り支度をして、病院の玄関に立っていた。
選手 4 人は夕クシーを借り切り、別府温泉の地獄巡りをしていたとか。
搭乗手続きが始まっても、4人はなかなか大分空港に姿を見せない。
いらいらしながら待つ。

15 時 40 分、羽田に向けて飛行機が飛び立った。


おりひめ第28号より転載

真面目で几帳面な【山ヤさん】というイメージのW先生です。
退職後の現在も県の山岳協会の重鎮を成していると聞きます。


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おりひめ28 [おりひめ]

再度登場 鉄人M先生

 山と薬

普段なにげなく使っている薬。風邪には風邪薬、頭痛には頭痛薬をと、ほぼ無意識の内に薬を選びながら飲んでいる。
当たり前であるが、その薬がなぜ風邪や頭痛に効くのか、どのように効いているのか。確認しながら飲んでいる人はどのくらいいるだろうか。

われわれ岳人にとって欠かすことのできない薬。その効き方について今回は考えてみたいと思う。(例によって Tarzan を参考にした)

われわれが使っている薬には飲み薬、張り薬、塗り薬など様々なものがある。
また、同じ飲み薬にも錠剤・丸薬・カプセルなどいくつかの夕イプがある。なぜ薬の形状が種々雑多なのか。
たとえば飲み薬。液体のものがいちばん早く効き目を現す。次が粉薬、丸薬やカプセルがその次で、錠剤は効き目が現れるまでにいちばん時間がかかる。
溶けやすいものほど体内に吸収されやすいということである。

けれども風邪を早く直したいときには液体のものがよいだろうと早合点してはいけない。
大部分の飲み薬は小腸で体内に吸収されるが、そこに到達するまでに、薬は胃酸などの消化液のなかをくぐる。
その影響を受け易い成分を持つ薬は液体のかたちで飲むと効果を現す前に分解されてしまうというわけである。
逆に、クスリの成分が、消化器官を荒らすものもあり、これも、早く溶けすぎないように工夫する必要がある。
小腸から吸収されたクスリは、門脈という血管を通って肝臓へと運ばれる。肝臓は体内に入った毒物を処理する働きがある。
体のためにと飲んだクスリも、肝臓にとっては一種の毒物である。クスリは、今度はここで化学変化を受けて最終的には分解されてしまう。ただし肝臓の処理能力には限界がある。その限界を超えた分のクスリの成分が、肝臓から出る血液の流れに乗って全身に運ばれることになる。
その結果必要とされている場所にクスリの成分が達して、そこではじめてクスリの効果が現れる。

飲んだクスリがそのまま、目的の場所に行き渡るというわけではないのである。どのタイミングで溶ければ効率よく、しかも体に負担をかけずに吸収されるか、薬のかたちは成分や目的に合わせて綿密に計算されているのである。

では、そもそもなぜ薬は効くのだろうか、冒頭にも書いたが風邪薬は風邪に効くということはわかっているが、なぜ効くのかはあまり知られていない。
素朴であり根本的な疑問である。しかし、これを知っているといないでは大きな違いがある。
特に医者などいない山においては自分で判断をして薬を飲むしかないのである。
病状を正確に判断し正しい薬の服用をしなければならないのである。(以下は、雑誌 Tarzan による)

クスリの効くメカニズムはいくつかの夕イプに分けられる。最も単純なのが、胃酸過多の場合に中和剤を飲むというケース。
これは胃酸をクスリによって化学的に中和してしまう。それからビ夕ミンなどのように、細胞の中に取り入れられたりして、何らかの効果を及ぼすもの。
さらに細胞や組織の表面にあるレセプターに働きかけて、症状を抑えるという夕イプの効きかたもある。

ある物質が、細胞などの表面にあるレセプ夕ー(受容体、鍵穴みたいなもの)に入ったときに症状が出る場合、その原因物質と非常によく似たかたちの物質が、クスリになることがある。
クスリがレセプ夕ーにぴたりと嵌ってしまい、原因物質がレセプ夕ーに入り症状を引き起こすのを妨害するのである。

抗生物質のように、病原菌を退治するクスリは別として、普通のクスリには病気の原因そのものを取り去る効果はない。
クスリはほとんどの場合、病気を治す上での補助的な役割を果たすにすぎないのだ。
熱を下げたり、頭痛を取り去ったり、吐き気を止めたり。クスリのもつさまざまな効能は、あくまで表面的な症状を抑えるためのもの。
病気を治す主体は、本人の自然治癒力なのである。異物である病気の原因と戦う白血球や、体のバランスを保つホメオス夕シスという能力が、病気という状態から体を回復させる。
クスリはその過程の不快な症状を抑え、体が病気と戦うのを支援するためのものである。

このように、薬のほとんどが対症療法にすぎないということであるが、薬の効き方を知らずに飲むことの怖さがよくわかる。もっともプラシーボ現象というおもしろいこともある。
外見上はクスリとまったく見分けのつかないただのメリケン粉を、頭痛薬と偽って患者に飲ませると 6 割以上の人が直ってしまうと言われている。これをプラシーボ現象というが、時には無知も役にたつということか?

ところで、われわれが山でよく使う薬に解熱剤がある、山での発熱は命取りになりかねないので必携薬ではあるが、使用には注意が必要である。これもまたメカニズムを知らずにいる人が多いのではないだろうか。

そもそも何故熱がでるのか、解熱剤はどのように作用するのか。次はこのことについて説明しよう。(以下再びTarzan による)

人間を含む噛乳類と鳥類は、恒温動物、あるいは温血動物と呼ばれる。これに対して爬虫類や両生類は変温動物とか冷血動物と呼ばれる。
何故恒温なのかと言うと、それは外界の温度にかかわらず、ある一定の体温を維持するためのシステムを体の中にもっているからだ。この体内エアコンを制御する中心は脳の視床下部にある、体温調節中枢と呼ばれる場所だ。
体温中枢では、神経を介して皮膚の表面や血液の温度を常にモニ夕ーしている。
それぞれの場所に温度計の働きをする神経末端があるのだ。そこからの情報で、たとえば体温が下がると、体の各部に体温をあげるようにと言う指令が下される。
皮膚を緊張させ、汗腺を閉じ体表の毛細血管を収縮させて熱が外に漏れないようにする。同時に筋肉や肝臓で、燃料となるブドウ糖やグリコーゲンをどんどん燃やして熱をだす。逆に体温が上がっているときは、汗腺を開き汗をだし、体表の毛細血管を開いて、血液をできるだけ外気近くに送り込む。
体表の汗の気化熱で、血液を冷やし、体温を下げるのだ。
体温調節中枢は、いわばサーモスタットの役割をはたしている。熱がでるというのは、このサーモスタットの設定温度が、何らかの理由で平常よりも高い温度に切り替えられてしまった状態だ。
人間の場合なら三十六、五度前後が平常の設定値だけれど、それがたとえば三十八度にされてしまうのである。
三十八度に設定温度が切り替わると、体温中枢は三十六、五度という体温では低すぎると判断する。それで体は寒気を感じ、ぶるぶる震え、熱を発生させ、どんどん体温をあげていく。

こうして熱が出るのだ。それでは何が体温中枢の設定温度を替えてしまうのか。
風邪などの病原菌から出る何らかの物質によって、体温調節中枢の設定温度が上がる、ということはかなり昔からわかっていた。
これは、発熱物質と呼ばれるが、その詳しい働きについて明らかにしたのがベイン博士だ。
彼の学説によれば病原菌の発熱物質が直接、体温調節中枢に働くわけではない。
その病原菌と戦う体内の白血球が病原菌の発熱物質に刺激されて、白血球自身が別の発熱物質を作る。これが直接体温調節中枢に働きかけて、設定温度をあげているのだ。

白血球が作る発熱物質はプロス夕グランジンという情報伝達物質の一種である。
なぜ、体を守るはずの白血球から、熱を出せという要請がだされるのか。体温が高い方が白血球が活動しやすくなるからだとか、病原菌によっては熱が上がるだけで死んでしまう者がいるからだとか、様々な説明がなされいるが、確かなことはわかっていない。

ただ仮にいくら白血球には有利な状態だとしても、あまりに高い体温が続くと、体そのものが弱ってしまうということも事実である。そこで使われるのがアスピリンなどの解熱剤だ。
アスピリンには、白血球がプ口ス夕グランジンを作るのを阻害する働きがあるのだ。
プ口ス夕グランジンがなくなれば、体温調節中枢の設定温度はもとの平常体温に戻される。
それで熱が下がるというわけなのである。したがって解熱剤は安易に使うべきではない。熱が下がったからといって、白血球と病原菌の戦いが終わったわけではない。
薬の働きで熱を抑え体力を回復し、十分な栄養を補給できるようにしたら、安静を保ち熱の本当の原因である病原菌を白血球がしっかり退治してくれるのをじっくりと待つ。
それが解熱剤の正しい使い方なのである。薬がどのように体内に吸収されどのように作用するかの概要が理解していただけたであろうか。

いつも使用上の注意をよく読んで服用している人は別として、やみくもに薬を飲んでいた人にはある程度参考になったのではないだろうか。
私自身もこの記事を読むまでは風邪で熱がでるのは白血球が病原菌と戦っているためにでるものだとばかり思っていたので解熱剤は多く飲めばいいんだと危険な認識でいた。

薬はそれぞれ綿密に計算されて作られているので服用法をまちがえれば薬になるどころか、毒になってしまうものであるだけに、服用には正しい知識と注意が必要であろう。

おりひめ第28号より転載

M先生ご専門は何なんでしょう?
その博識には舌を巻きます・・・

 


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おりへめ27-3 [おりひめ]

訃報と近況報告

2 月18 日午後 13 時 40 分、長岡のN病院でH先生が逝去されました。
三条東高を 4 月に退職されたばかりで、まだ丸1年もたっていません。
1月13 日、ご自宅の玄関でお目にかかったのが最後でした。
現職であった一昨年の夏に、もう一度ヒマラヤに行きたいと、春から準備を進めていました。
6 月になって、念のためと健康診断を受けたところ、食道に異常が見つかったのです。
検査をくり返して、夏休みに入院しました。
9 月に手術を受け、一度は学校に復帰されました。
4 月の離任式で学校に来られた時は、しっかりと挨拶されて割合お元気そうでした。
6 月にもう一度学校に顔を出され、クラブ員を前にしてインターハイ、北信越大会、北信越国体に頑張るようにと激励費をいただきました。
職員の有志や三条市内の山岳部の顧問で、H先生の退職を祝う会を何回も計画しましたが、そのたびごとに先生がいずれ元気になってからとおっしゃって、延期、取り止めになっていました。
手術の難しい食道Kに耐えて、先生はよく頑張っておられたと思います。
ベットの中で今日は何歩というように、横になったまま足を動かして歩く練習をしていたそうです。

昨年 10 月 9 日、上田屋の御主人がなくなりました。
リンパ線悪性Kという病名で、六日町病院への入退院をくり返していました。
H先生も帯状庖疹に悩まされてしきりと痒みをうったえていたそうですが、同様に御主人もかゆがって奥さんを困らせていたとか。
最後まで生きる望みを失わないで病気と闘っていたようです。
死ぬとか、だめとかいう言葉を決して使わなかったと奥さんから聞きました。おふたりの御冥福を心よりお祈りいたします。H先生に対して、山岳部の名前で花環と香典を、上田屋さんには香典を、おりひめ会計より差し上げました。

H先生が退職された後のクラブ顧問には、異動でK高から来られたS先生に入っていただきました。K高でも山岳部の顧問でした。 30 代後半で、早速静岡イン夕ーハイの監督をやりました。

今年度男子は県大会 2 位になり、 3 年連続北信越大会出場をはたしました。
富山に遠征して、今年も優秀校の賞状を持ち帰っています。女子は昨年に続き 1 位です。
静岡イン夕ーハイに参加しました。
成績は 9 位です。また女子は、長野の北信越国体でも 1 位になり、北信越代表として石川国体に出場しています。踏査 7 位入賞、縦走 13 位で、総合 10 位の成績を残しました。

おりひめ第27号(平成3年)より転載 
月日の流れの速さにただ頭を垂れるのみ・・・です


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おりひめ27-2 [おりひめ]

鉄人M先生が再度、山のトレーニングについての寄稿をされています


AT について

 

今年は前回の予告通り、乳酸のたまりにくい体質に近づけるトレーニングを考えてみたいと思います。

運動と乳酸の発生のバロメー夕ーとして「 AT 」というものが最近注目を集めています。
といっても、 AT については異論を唱える科学者が大勢おり、科学的なバ口メー夕ーとはいえないところがあります。
しかしスポーツの世界では結構たくさんの人たちがこの AT を利用しながらトレーニソグする事で、大きな効果をあげているようです。

AT とは、日本語で「無酸素性作業域値」と訳されています。体のエネルギーの発生の仕方が酸素を利用した持久的なものから酸素を利用しない瞬発的なものへ移行するポイソトを指し、一般的に心拍数で表現します。
この AT と運動の関係は以下のようになります。筋肉を動かすときには、 ATP (アデノシンⅢリソ酸)という物質をェネルギーとしていますが、このATP を生み出すシステムは大雑把に二種類あります。
酸素を利用する「有酸素系(エアロビクス) J と酸素を利用しない(無酸素(アネ口ビクス)」です。

のんびりとジョギングするなど運動強度(質)が低いときは ATP の産成は有酸素によって行われ 100M ダッシュのような瞬発的な運動のェネルギーは無酸素系が利用されるのです。
この切り替わりのポイソトが AT というわけです。 AT を越えればきつい運動となり長時間の持続は困難となります。
また AT を越えなければ持続はできるが楽な?運動なのです。

さて、次に AT の測定方決を紹介しましょう。 AT の測定方法はたくさんありますが、今回は「コンコーニ法」と呼ばれているものを紹介しましょう。
コンコーニ法は、一言でいうならば、心拍数を測定しながら徐々に運動強度をあげていき、心拍数の伸びが鈍ったポイントをATとするというものです。
この方法はATを超えてエネルギーの発生が無酸素系になると酸素の需要が減り、このため血流量の伸びも低くなって心拍数にも反映されるという理論が基になっています。

では実際の方法です。ペースや記録を管理するため、二人以上で行った方がよいでしょう。
心拍数の測定には器具を利用するのがべストですが、なければ手首の動脈を指でふれて脈をとります。
1 分間の値で示しますから10秒計ったら6倍して 1 分間の値に換算します。
まず、ランニングによる方法は、できればトラックで行います。トラックが利用できなければ、距離のはっきりした200M位の直線コースを選びます。
最初のスピードは最大努力時の半分くらいの速度がいいでしょう。
200M ごとに 2~4 秒ずつ速度をあげていきます。手で脈をとる場合はその都度止まって計測しますが、計測時間は15 秒などとしてばらつきがでないようにします。

こうして求めた心拍数のデー夕をグラフ化にします。
そのグラフの中で心拍数の伸びが鈍くなっているところが AT です。
グラフにするときは縦軸を心拍数とし横軸を速度とします。しかしこの値は完壁なものではありません。
そのときの負荷の強度で 10 分間ほど運動して下さい。
だいたい「少しきついけど何とか続けられる」という感じだと思います。
そしてその10分間 AT スピードを維持したときの心拍数をトレーニングメニューをたてるときに利用します。
この方がより正確な値がとれます。

さあ、これを基にトレーニングメニューをたててみましょう。
まず AT 以下の強度では主に持久力が向上します。
たとえば測定による A T での心拍数が 160 拍/分の人ならば 140~150 拍/分程度を維持して長時間の運動に挑戦してみて下さい。

このような比較的低い強度の運動では 30 分間以上やらないと効果はないといわれています。
 AT レべルでの運動ではかなり無酸素的な要素が入ってきておりこのレべルを維持して 10~20 分程度の長めのインターバルトレーニングを行うとかなりハイレべルなトレーニングとなるでしょう。

AT を完全にこえる強度の運動は無酸素系のエネルギー発生機構が動員されたものです。
山岳競技には、関係なさそうですが、これを休憩をはさんだ 1~2 分程度イン夕ーバルとして行うと、休憩の時に、たまった乳酸を除去するので乳酸の蓄積にたいしての耐性が強化されていくのです。

エベレスト無酸素登頂に成功した彼も乳酸の蓄積に対する耐性が強かった事は前回のおりひめで紹介したとうりです。
彼はトレーニングで強化した訳ではなく先天的に備わっていたようですが、われわれも少しは彼に近づけるのかも知れません。

これまで見てきたように心拍数を利用したトレーニングをする事で目的に応じたトレーニングメニューの組立てが可能になります。
それぞれの場面でそれぞれの目的に応じたトレーニングを考えてほしいと思います。

これからの山岳競技は、良い悪いは別として、体力重視の方向に向かっていくと思われます。国体競技がそのいい例ですが、競技としての登山をめざしていくのならやはり ATレベルでのトレーニングは必ず必要になってくると思います。

さらに AT をこえる程度のものも週に 1 回程度は行う必要があるのではないかと思われます。
しかし競技としての登山なんてナンセンスと考える人も大勢いるのではないでしょうか。
私もそう思う一人ですが、その立場にたったときのトレーニングはやはり安全に帰ってこれる体力づくりという事になるのでしょうか。
とすればやはり AT をこえない程度のトレーニングをなるべく長く行うという事になるのではないでしょうか。

しかもトレーニングがいやにならない程度、週に 2~3 回程度をみんなで楽しく行うという事になると思います。

さて来年はどんなメニューを組むことになるのでしょうか・・・。

 

おりへめ第27号より転載

 


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おりひめ27 [おりひめ]

おりひめ第26号欠版

新任の顧問、S先生 教科は数学だそうです

群れなす花と花一輪

一九九一年の梅明けは観測史上二番目に遅い八月十日頃と記憶しています。
六月、七月、八月の山行の準備日、移動日はいつも決って大雨でした。
しかし、山行中はガスが出るにしても微小雨程度の洗礼しかなかったことは今もって、不思議な出来事と心に残っています。ただただ自然に感謝する思いです。

このような条件の悪い時の山行は天候に対していつも以上に身構え続けなければならない辛い山行になるものだ。
また、これ以前に、頂上に立っても何も見えないという切ない、気の重い山行にもなります。
だから、ついつい、こんな時の山行には何の口マソを求められるのだろうかと反芻してしまうものです。

しかし、いかなる条件下でも、登山という行為からなのか、山という舞台のお陰なのか、変化していく人間の為なのか、こうし た悪条件を背にした山行も不思議なことに山にあっては私達に感動を与え、歓喜を呼び起し、町に戻っては何とも言えぬ充足の余韻を残してくれる。

梅明けから初夏にかけて咲く花々の中にニッコウキスゲチシマギキョウと呼ばれる花があります。
ニッコウキスゲは山地や高山の草原に群生する60cm余りの花で濃い橙黄色の花を三個余りつけるユリに似た花です。乱暴ですが、色の違うユリの花と言ってもよい花です。
七月の霧ケ峰(長野)の山行でこの花を堪能しました。そこは標高一、八〇〇M余りの所です。私は役割の関係で山岳道路を車で走り回ったこともあり、平地にいる感覚しかなかったのですが、この花の群生の中の山行でした。

昨日までの大雨が止み、太陽が初夏の輝きを持ち始め、そして、連らなる草原を覆い隠すように根付くこの花達に光を注ぎました。花々は橙黄色を黄金色に輝き返す。
そんな中での山行です。
この花は三個余りの花を下方にある順に開花していく性質がありますが、どれもこれも、一斉に開花していました。行けども行けどもこのニッコウキスゲの群生の中を歩いた。
ここちよい風も吹き、花々の語いが聞こえてくる思いでした。
映画「ひまわり」で主演女優のソフィア・口ーレンが口シアのひまわり畑を彷徨する私の青春時代の一シーンをつい重複させてしまい我を忘れてしまった。

この辺が、M先生やW先生と違う名前だけの新入りお伝い顧問なんだろうなと、後になって苦笑してしまう仕末でした。

チシマギキョウは7cm余で茎の先端に青紫色の花を横向きに必ず一個だけつけて開花する花です。
キキョウ科に属するんですが、これを乱暴に、リソドウの花と言ってよい花です。

八月の槍ケ岳からの燕岳でこれを見つけた。燕岳は標高二七六〇M ぐらいで全山に奇岩というか大岩を誰がなしたのか、芸術的に配置されていることで有名な山です。
前日には八月というのに朝方に霰に見舞われるぐらいでしたから、時折、陽は射すのですが風もやや強く、すぐガスに覆われ寒いぐらいでしたが、この天候が逆にこの山を幻想的なたたづまいを創り出していました。

この花はこんな状況下のこの山頂にありました。
岩と砂礫(サレキ)で、何の生の脈動を感じない幻想的な世界でたった一つだけ咲いていた。
それも、北と南に大岩を置き風から身を守るように狭い大地に目立たぬように、隠れているように咲いていました。

花の青紫色といい、茎と葉の緑色といい、一番、鮮やかな時でした。
チシマギキョウは別名として「弧高の花」と名付けたい。三千m近くの頂きに一つだけ力強く咲いていました。

この山行中バカチョン力メラで百枚余り写真をとりましたが、この花が唯一の失敗でした。
夢々、力メラの理由によるものでないような気がします。
どの花が一番美しいとか一番好きだと言うことではありません。なぜなら、この二つの花は花の大きさ、色合い、視覚的スケールは違うだけでなく、完壁なまでに正反対である。けれど、ともにいつか自分の周囲の自然と一体になってやろうと芽吹き、厳しい環境下で一年間耐え成長し、ほんの僅かな時間だけど力強く、精一杯咲こうとしているからです。

ある小説家が作品の中で【・・・高山の頂きに咲く一輪の花、それが真理である・・・】と書き、ある数学者が「生命を燃焼しなければ真理が見えてこない」と述べています。
だから、言うのではないのですが、私と同じ経験をする人はほぼ間違いなくチシマギキョウを選ぶと思います。
それは山行そのものが、生命の燃焼のシュミレーショソ行為だからだろうと思うからです。
この二つの花の舞台に、瞬時に行かなければ、これもたぶん、多くの人がニッコウキスゲを選ぶんだろうと思います。広大で美しい花園だったからです。

山行はこうした一面があるような気がします。

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おりひめ第27号より転載 


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おりひめ25-3 [おりひめ]

ありがたいことに宇都宮のSさんから
「登山の為のトレーニングを考える」の前編を読みたいとのメールをいただきました。
【トレイルラン】の業界では
超有名な方みたいです
喜んで掲載させていただきます。

登山の為のトレーニングを考える(その 1 )

山は我々に多くの感動を与えてくれる。登山に感動を見い出せるからこそ、人は山に登るのだと思う。山によって、また、登山の方法によっても、様 々 であろうが、いずれにせよ、山頂に立ったときの感動は、一塩である。山に登ろうと考えて、それなりの準備をして、山に登る。準備を念入りにすればするほど、山頂に立った喜びも大きいものであると思う。

準備というと計画や装備のことをすぐに思いつくがトレーニングもその中の一つであると私は考えている。山をたくさん登ることがトレーニングであると考えている人もいるであろうが、何か特別な事で体を鍛えた人とか、ベテランならともかく、初心者にはそれなりのトレーニングが必要であることはいうまでもない。

念入りにすればするほど喜びは大きくなるのである。そこで今回は、登山に必要な(向いた)トレーニングとは何かを考えてみたい。

トレーニングを、特別な運動をして、体の運動遂行能力を向上させること、と定義して話を進めたい。運動遂行能力の主体は筋肉であるが、筋肉は、かならずしも運動だけの影響で適応していくのではないらしい。

栄養、内分秘、神経、遺伝子などの影響も大いに受けるらしいのだが、トレーニングの基本因子となるのは、やはり運動であるので、運動を中心に述べることにする。
トレーニング効果が生じる運動の条件についての実験結果を紹介する。
等尺性筋力(筋肉の長さを変えないで発揮する力・動かない壁を押すような場合)の場合、力の発揮は、最大に発揮できる力の 40
~50%で十分であり、一回の力の発揮は、最大なら1~2 秒間、 3 分の 2 の力なら 4~6 秒間維持すればよい。

しかし、最低一週に一回は必要である。従って、ザイルにぶら下がって、落ちないだけの筋力をつける為には、自分の体重の 40~50 %の負荷をかけたトレーニングを少なくとも、一週に一度はしなければならないということになる。
しかも、力を発揮できるのは短時間であるので、しばらくザイルにぶら下がっていられるようにするためには、筋続久力をつける他のトレーニングをする必要があるが、これは後で述べることにする。

次に、全身的な運動遂行能カとしての最大酸素摂取量の場合であるが、運動の強さは、最大酸素摂取量の 40~50 % (脈拍が 130 /分ぐらい)。その運動の継続時間は 20~30 分、頻度はー週に 2~3 回が効果が確実に生じる条件であるとされている。
従って、楽に登山ができる体力をつける為には、脈拍が 120~140 位になる運動(ランニングがおもしろい)を20~30 分続け、それを、最低でも週に 2 - 3 回行わなければならないということになる。
しかも、ここで引用した二つの例は一般人について
であり、スポーツ選手となると更に別のトレーニングが必要になるのである。

トレーニングの内容である運動は、筋肉が収縮することによって発揮される力の上に成り立っている。
人間の筋肉は、心臓以外の内臓諸器官の壁をかたちづくっている平滑筋、心臓壁を構成している心筋と骨格筋の三つに分類される。これらの筋肉の中でスポーツなどのからだの動きを直接的に生み出しているのは骨格筋である。
人体には、 400 種以上の骨格筋があり、ほとんどの骨格筋は、両端の腱によって、一つ以上の関節をまたいで、異なる骨にそれぞれ付着している。
それゆえ、筋肉が収縮すれば、関節を中心として、骨が引き寄せられるように動くことになる。
筋肉は、多数の筋線維から構成されている。
一本の筋線維は多数の筋原線維の束をふくみ細胞膜である筋線維鞘で包まれている。
この筋原線維は、たくさんのフィラメントの集合体である。
フィラメントは収縮機能をもつ二種類のタンパク質からできており、太いフィラメントをミオシンフィラメント、細いフィラメントを、アクチンフィラメントと呼ぶ。
この二種類のフィラメントは、相互に、規則正しく配列していて、電子顕微鏡でみると明暗の縞模様となる。この横紋のうち明るい部分を I 帯、暗い部分をA 帯、 I 帯の中央を走る縞をZ 膜と呼ぶ。このZ 膜の間が筋肉が収縮する単位となり筋節という。

筋肉が収縮するときは、どうやら、太いミオシンフィラメントの間に細いアクチンフィラメントが滑り込んでいるようである。

筋肉の構造がだいたい理解できたと思いますが、細い事を覚えてもらう為に書いたわけではなく、あくまでも、トレーニング効果が上がるように書いたということを注意しておきます。
つまり、トレーニングをしながら、使っている筋肉に意識を集中し、ミオシンフィラメントが、アクチンフィラメントに滑り込む伏態を頭に思いうかべながらトレーニングをして欲しいということである。

これで、筋収縮の原理がだいたいわかったと思うが、その様式は一律ではなく、等尺性(アイソメトリック)収縮、と、等張性(アイソトーニツク)収縮、に分けられる。
等尺性収縮とは、筋肉の長さを変えないで力を発揮するものであり、等張性収縮とは、筋肉の長さを変えながら力を発揮するものである。
後者は、短縮しながら発揮する短縮性収縮と、筋肉が伸ばされながら力を発揮する伸張性収縮に、更に分けられる。

登山に関する運動を考えれば、ほんどが等張性収縮であり、登りはおもに短縮性収縮、下りはおもに伸張性収縮になるだろうか。
滑落などの非常時に、ザイルにしがみつく運動は、等尺性収縮といえるだろう。
筋肉が収縮するためには、エネルギーを消費しなければならない。
人間が食事として体内に摂りこむ糖質、脂質、タンパク質などの有機栄養物質は、豊富な化学エネルギーを持ってはいるが、それ自体では人間が行う運動の直接の動力源とはならない。
生体内で直接の動力源として働いているのは、 ATP (アデノシン三リン酸)である。
筋中で、 ATP がADP (アデノシンニリン酸)と Pl (無機リン酸)に分解され、その際、筋肉が収縮するエネルギーを遊離させるのである。
ATP は、わずかしか筋肉にふくまれていないためにただちに ATP が再合成されなければならないのである。
この ATP の再合成には、三つの機構があり、それぞれ収縮の強さと時間により変わるのである。
短時間の最大努力の反復運動では、この ATP の再合成の反応は、酸素のない状態で生じるので無酸素的反応と呼ばれる。(乳酸の発生がないので非乳酸性機構ともいう)
第二の供給源として、無酸素的解糖がある。これは、酸素を利用しないで、グリコーゲンはピルビン酸から乳酸になるため、このェネルギー獲得代謝を乳酸性機構という。
一方、運動強度が弱いため、 ATP 再合成のためのエネルギーの供給量が少なくても十分まにあう場合は、運動中に体内に摂りこまれ、血中のへモグ口ビンによって筋肉へと運ばれてくる酸素を使い、有酸素的反応によって ATP が再合成される。したがって、この機構を有酸素性機構という。

脂肪が燃えるのはこの機構の時であり、エアロビクスや、登山も、おもに、この機構を使うことになる。
従って登山は、美容に良いということになるはずなのだが。

さて、我々の骨格筋が収縮するとき、その収縮の速さ、発揮される力、持久性などの収縮特性に差異があることに気づくであろう。
一般に筋肉の太い人は、力持ちであることは知られているが、実際、等尺性筋力は、筋肉の断面積に比例するようである。

しかし、速さ、持久性などは、どうやら筋肉の質によるところが大きいようである。人間の筋線維は、収縮速度は遅いが持久性にすぐれているSO線維、速く収縮し、発揮する張力も大きいが疲労しやすいFG線維、 FG線維とSOの両方の性質を有し、収縮速度も速く、持久能力もありFOGの 三つにわけることができる。

誰もが考える事であるが、自分の筋線維がみんな FOG 線維であったらと思う。
しかし、この線維の組成は、遺伝的要因が強く、自分でどうすることもできないようである。

一流のマラソン選手は、SO 線維が多く、ウェイトリフティングの選手は、FG 線維が多い、というように、それぞれの運動種目に適した筋線維組成を有する者が、自然選択的に各スポーッ種目へと進んでいるようである。
だからといって FG 線維が多い人が登山に向かないかというわけではなく、トレーニングによって与えられる刺激に対して、筋肉は適応する能力を有しており、トレーニングをすることで、筋線維になんらかの変化が生じるであろう。

大事な事は、まず、自分の筋線維の組成を見きわめることであり、自分の組成に合ったトレーニングをすることにあるのではないだろうか。登山に向いている筋線維組成は、もちろん、SO 線維であるが、 FG 線維の多い人でも、トレーニングによって、少ないSO線維を増強することで、よりパワフルな、登山が可能になるであろう。

登山のように、弱い運動を長時間行う場合は、おもに遅筋線維が動員されるのであるが、この場合のエネルギーである ATP の再合成は、主に有酸素性機構である。
有酸素性機構であるからもちろん酸素が必要となるわけだが、体外から活動する筋肉まで、酸素を運般する体の仕組が重要な役割をはたすことになる。
その機構については詳述はさけるが、目安となるものに最大酸素摂取量と、脈拍がある。
最大酸素摂取量は、12分間走でだいたい知ることができるので、ぜひ測定してみてほしい。

簡単に言えば、同じトレーニングで、呼吸回数が少なければ、最大酸素摂取量が増大したと考えてよいだろう。

以上、トレーニングに関して知っておくべきものを、簡単にまとめてきたが時間の都合でこれ以上書けなくなりました(編集委員が、鬼のように取りたてに来ている)ので、最大酸素摂取量を増大させるためのトレーニングはどうすればよいか、遅筋線維を増大させるにはどうすべきか、などトレーニングの実際については、登山の為のトレーニングを考える(その 2 )で述べたいと思います。

トレーニングを科学する NHK 市民大学を参考にした)

おりひめ第24号より転載 


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おりひめ25-2 [おりひめ]

H先生最後の寄稿文です(一部割愛) 

昭和最後の夏山合宿

昭和六十三年七月三十一日、十一時五十四分。顧問三名、三男(3年男子・・・以下同)二名、三女三名、二男五名、二女十一名、一男一名、一女八名、というなんと三十三名にのぼる大部隊が大糸線の小さな駅、北小谷駅へ降り立ったのである。

この駅では未だかつてない数の登山者の降車ではなかったろうか。
駅前で昼食を食べ、写真を撮ったり、案内板を見たりして、これからの入山の気構えが徐々に盛り上がってくる。

十二時三十五分出発。姫川の橋を渡り駅裏の車道をだらだら歩く。
沢に沿った車道が第五休憩あたりからやや登りになる。民家があるのでまだ六百米の高さしかない。夏の真盛り、しかも午後二時とくれば蒸し暑く最悪のコンディションである。
はたせるかな第六休憩後歩き出して間もなく、三時二十分。一女の三人が遅れだした。
はじめて大きい荷を背負っての登りはきついはずだ。水と石油と電燈(大型)を取り出し三女に分配する。

これから先が思いやられる。それでも四時四十二分に車道の終わる南股橋に到着する。ここで三男を先発隊として出す。
目的は水場に隣接した良いテソト場捜しである。橋を渡るとすぐジクザクの急登になる。
北斜面なので薄暗いが日陰で涼しい。ようやく尾根へ出た。右下に北股沢。左下に南股沢の水の音が両側から聞こえてくる。五時二十分、先発が空身で戻って来る。その状況報告によると登山口にテントが二張り程張れるし、二十米位下りると水場もあると云う。

広さに難(テント六張りも張れるかどうか)があるがまあ良しとしなければなるまい。
先発の目的は彼等にはテント場選定と云ってあるが、これは名目なのであって真の目的は空身で戻って来て一女のバテ荷を持ってくれることにあったのである。

それでも男子は喜んで?一女の荷物をボッカ(荷役)して戻ってくれた。
風吹登山口着、五時五十分であった。幕営・炊事・食事は電燈が必要になった。
月夜で明るい。

八月一日、快晴。七時、風吹登山口出発。狭い尾根の急登が続く。左に石楠花沢、右下にクセエ沢の水音がする。小さいピークを越えて右下をみるとなんと沢が百米余にわたって真黄色に染まっている。そこから流化水素の臭気が立ち登り鼻を突く。
名のとおりクセエ沢だ。顧問三人はカメラとビデオを構える。シャッターを切りカメラをしまって本隊に追いつくと、休憩中であった。
一女三人程(昨日とは異なる)が。バテ気味だと云う。
「では、持って貰いたい荷物を少し出して。」と云うと、これもあれもと半分も出しそうになるので慌てて少しにしろとたしなめる。
一昨年の一女の頑張りとは随分違うような気がする。休憩後、リーダーの「出発。」の掛け声がかかるや否や、タイミングよく「チョット待った。」が
かかった。
これから【チョットマッタコール】が流行するようになった最初である。

高度を稼ぎながらしかもゆっくりと、四十分で休憩をとるペースで進むが次第に休憩時間が十分から十五分、二十分と長くなる。そしてリーダーの「出発!」で間髪を入れず「チョットマッタ。」がかかり五分延長してしまう。

ようやく周囲の植生がオオシラビソやヒノキの針葉樹が多くなり、「風吹大池近し!」と思わせるようになって来た。
十二時十五分。待ちに待った風吹山荘着である。昼食にする。
外人一人と、東京から来たと云う学生七人と出会う。風吹大池からは長野国体の時の北信越大会等できているので何か懐かしさのある風景であった。大池を背にした登りは急であるが針葉樹の日陰で高度も一五〇〇 m を越え涼しい。
風吹天狗原は素晴らしく、快適な草原であった。快晴の青空は白っぽい。周辺のオオシラビソは青黒く、その中に光に充ちた草原がひろびろと広がりを見せ登山道が続く。
思わず” 休憩” と叫ぶ。そういわずにはいられなかった。
一九四四米。フスブリ山手前。休憩。

 14:45 分出発。
だらだらの緩い登りだ。三十人程の中学生の集団登山と出会う。引率者の少なさに驚く。
いよいよ千国揚尾根だ。二つのピークを越え、ようやく二千米を突破する。乗鞍岳手前の天狗原への最後の急登になる。
道端に黒いトカゲのようなものが這っているのをみて二女のひよちゃんか誰かがすっとんきょうな悲鳴を揚げる。
急いで行って手に取ってみるとそれはクロサンショウウオだった。そういえば直ぐ近くに水溜りがあり、卵塊があったので産卵が終わって寝ぐらへ帰るところなのだろう、そっと離してやる。

15:12 分。天狗原の見える下り尾根になる。
山ノ神と栂池から来る道の出会いへ着いたのは十六時三十分を回ってからだった。
東高登山隊の行動は驚異に値する程緩慢になっている。もう限界にきている。今日予定の白馬大池までは乗鞍岳を越えなければならない。顧問三人で相談し、この天狗原で幕営することにきめる。
よい泊地を捜さなくてはならない。
幸い一番奥に沢水を見つけ、又沢の合流点でやや乾いた泥の広場を見つけ、そこへ三張り。傍らの草地の斜面に三張り、テントを張り終わり、タ食はやはり暗くなってしまった。
血に飢えた蚊の集団の襲撃に悩まされる。そして翌日起きて真っ青。出る筈がないと思った水が下の広場いっばい。三男、二男がテント撤収に大騒ぎであった。

八月二日。白馬大池までの二時間を取り返えすべく、早く出発する。とはいいながら結局 5:50分、出発。やっばりチョットマッ夕コールがかかる。この頃になると興味半分に使うようになる。

乗鞍岳の緩やかな山頂へ出ると紺碧の水を満々と堪えた白馬大池が見えた。
黒い大きな火山岩のごろごろした道をたどって池を半周し、白馬大池山荘前にたどり着く。
ここで休憩しながら、一二年生と顧問でこれから予定通り進むか蓮華温泉へ下るか相談する。
R顧問は一女の状態ではとても無理だから蓮華温泉へ下山することを主張する。私は一女は荷物を軽くすれば、否二人分の荷物を全員で分担すれば人数が多くいるので一人の負担が少ないから続行可能を主張する。
三男も勿論荷物が増えても行きたいと云う。真島顧問もそれに傾き、予定通り小蓮華山に向かって出発と決まる。
もう一つ良い条件がある。それは二千五百米を越えると真夏でも雪が残り冷涼感があり、あまり疲労しない。それに視界が開け、縦走路の展望が何よりも心を夢中にさせてくれる。
しかも行程をゆったり取ってあるので急ぐ必要はない。

蓮華温泉ー白馬大池ー小蓮華山ー白馬岳ー大雪渓コースは直江津高校時代学校登山で毎年来ていたし、東高でも二回やっているのでここは十数回目の足跡をたどることになる。
雷鳥坂のあそこにコマクサがあり、三回目の曲がり角のハイマツの下からキ。ハナシャクナゲが咲きはじめ、七回目の角の石の左にムシトリスミレがあることまでわかる。

舟越ノ頭から稜線に出るとヤマハハコの郡落がある。ここまでくるといっきに夏山の展望が開け、小蓮華山の鉄の剣が指呼の間に見える。
小蓮華山で大休止。振り返ると白馬大池。栂池や頚城山郡、菅平の根子岳、四阿山浅間山、八ケ岳連峰、そして明日行く白馬岳、雪倉岳、朝日岳の連山と大パノラマが展開する。
山頂の鉄剣を背に記念撮影。昼食をとる。ここから三国境までは稜線上の散歩である。

14:00 三国境着。
ここにザックをデポし、私を除いて全員白馬岳まで往復する。少なくとも二時間はかかるのでその間私は自由である。
白馬岳は何度も登ったので「今更行ってもしょうがない。」と思ったのともう一つ、私にはもっと重要な目的があった。
それは、自分だけの時間をもつ必要があった。
その間に高山植物の植生と高山蝶の習性の観察が出来るからであった。
この二時間の空白は皆は頂上の石の展望板にしがみついて寒さにふるえていたであろうし、私は思う存分、コマクサやウルップソウ、チソグルマ、ヨツバシオガマ、チシマリンドウに接し、スケッチしたり、夕カネヒカゲ、クジャクチョウ、ミセマモソキチョウを観察することができた。
でも道からそれて高山植物帯に足を踏み入れていたので上の稜線を絶えず気にしていたことは確かである。
それも早めに切り上げ三国境から少し越中側へ入った雪渓まで行って送り出る冷たい水と戯れ、存分に飲んだ。

16:00 。全員が山頂から帰って来た。
早速一女がポンチョ(雨具)を抱いて、さき程まで私が植物や蝶を観察していた雪倉岳側の高山植物の真っ只中へ入って用を足した。
折悪しくか、運悪くか、夕イミングよくか、小蓮華山の下の方から稜線上にクリーム色のユニホームを着た植物監視のパトロール隊員二人がやって来たのが見えた。
用足しをし、すっかり身軽るになり爽やかな顔つきで戻って来た一女が忽ち捕捉された。
私の方は六、七百米も離れた雪渓上にいるので詳しい内容は解らないが三十分余りにもわたって相当油を絞られていたようだ。
ようやく開放されて隊列が帰って来たが壁易したR顧問の愚痴を聞いてやらねばならない破目になる。

何しろ来る途中、「高山植物を採ったり、高山蝶を捕ると十万円以下の罰金に処せられる。」という看板が二・三枚あり、三国境のザックデポ地点にも麗々しく立っていた。
遠くにニホンカモシカの姿を見る。

16:30 分。越中側へ足を踏み入れる。
鉢ケ岳は右へ巻いてだらだらの下りだ。広い尾根道は気分爽快である。鉢ケ岳の北側斜面は大きい雪渓があり、ガスで見えなくなってしまった。併し豊富な高山植物が惜し気もなく咲き乱れている。フウロウソウ、イワギキョウ、アズマギク、チングルマ、シラネニンジン、と忽ち二十数種は数えられる。

鉢ケ岳巻き道7:40 分着。
 17:55分出発。大分行動が鈍化している。

雪倉岳避難小屋着、 18:35 分。前の広場で早速幕営。
水が少ないので鉢ケ岳の雪渓まで山谷、須戸と大ポリを持って戻る。

八月三日
同小屋発は 7:45 になってしまった。
二千五百米の朝はまだ寒い、それでも植物の観察に周囲の散策に出掛けた。丁度二人の女子大生にでっくわし、やはりノートをもって植物のチェックをしていたので種類を聞くと昨日から大雪渓を登ってきて五十種をリストアップできたという。
私がその朝、小屋付近の種類を書き出しただけでも三十二種あった。何しろ高山植物図鑑作製の最も基本とされたフィールドが白馬岳連峰なのだから、高山植物五百種の90%以上は存在するはずである

雪倉岳は朝の冷気をついて一気に踏破する。
8:55 分。雪倉岳山頂。
登山者が多くなった。行く手左側にはくっきりと青と白のコントラストも鮮やかな立山連峰。ふりかえると昨日山頂を極めた白馬岳の山頂が独特の形をしたシルエットが浮かび上がっている。
これからは下ったり登ったりの尾根が続く。この辺りから一人の大学生(メンバーの一人の息子 〉 をガイドにした日本のオバサン連五、六人と道ずれになる。
年令は四十歳から五十才歳位で、大学生はガイド兼、いざと云うときのボッカというところか?
なかなか屈託のないオバタリヤン族で、「日本の政治」から「今どきの若い者は・・・ 。」までいろいろな話が出て結構話が弾み、退屈な水平道も飽きないで済んだ。
よき日本のお母ちゃん達であった。

11:30分小桜ケ原着。昼食とする。
赤男山は巻き道の水平道(全然水平ではなかった)を通ったので直接登らず通過してしまった。
ここを廻り込んで二時間もすれば朝日岳だろうとたかをくくっていたらとんでもない、休憩を多くとったことも事実であるが、なんと朝日小屋へ着いたのは16:30 分であった。
小屋の前には既にオバチャン達が到着に及んでいてビールで乾盃し話の花を咲かせていた。
そして感激した事には新しい缶ビールまで用意し席まで開けて東高顧問を待っていてくれたのだ。
こんな山旅なら何度あっても嬉しい。
三男は超スピードで明るいうちに朝日岳を往復した。

タ方薄暮の頃、隣のテントの前橋工業高の顧問がウイスキーとスルメをもって遊びに来た。
本意はヒマラヤへ行って来たのを自慢しに来たのかもしれない。翌朝暗いうちに朝日岳を往復しようと二女三女と約束して寝る。
ところがである午前二時になって隣のテントが何やら騒 々 しくなった。隣は夕方駄弁って帰った、前橋工業のテントである。どうも顧問が生徒を叱っているような声だ。
聞き耳を立てる。「なんだ?心臓が痛い?それはだな、お前が心臓のある左側を下にして寝たからだよ。バカだな、反対にして寝ろよ。」と云っている。
思わず私もこれを聞いてもぞもぞと寝返りを打とうとしたら、同時にR、M顧問も衣擦れの音をさせながら寝返りを打っている。

翌朝三人、起き出すや否や大笑いであった。「本当に左側を下にして寝ると心臓が痛くなるんだろうか?」と。
でも三人共無言のうちに寝返りを打っているのを互いに確認し合っていた訳だ。それにしても夢の中の誘導というものは恐るべき効果をもつものだと痛感する。

3:30 分。電燈をつけながら朝日岳に向かう。
四十分で登頂。次第に夜の闇がうすれ朝日がさし込んでくる。明けだ!
御来光が雲海に広がり美しい。下りは三十分で小屋前へ。下る途中例の前橋工業パーティーとすれ違ったが顧問の前に卒業生、そして前にいる生徒は今にもぶっ倒れそうな烈しい息づかいをしていた。
何とも
なければよいがと心配していたが、案の定後で北又小屋へ着いてから知ったのだが、途中で心臓麻庫を起こし予定を変更して救助隊を要請しこちらの我々が通った道へ下っているということを知った。

7:00 、朝日小屋出発。
東高山岳部はぶっ倒れるような事はしない。常に臨機応変どんな危急にも対応できるし、一人一人を大切にする。その証拠に捻挫しためぐちゃんはM顧問が丁寧にテーピングしてくれた。

7:38 分、タ日ケ原着。
朝日岳の西側だから夕日なのだろうか。もう登りはないのだと思ってみんなうきうきしている。

9:01 分。イブリ山頂、休まないで通過。

9:30 分。小林トイレへ。全員は下るが私だけ彼を待つ。約三十分も待った。

11:30 分。三合目手前。小休止。

12:30 分。北又小屋着。
最後の五十段の石段がきつかった。カレーを食べ始めたらマイクロバスとハイヤーが来た。
食器を持ったまま乗車。カレーを花に食わしたものもいた。

14:00 分。小川温泉着。
幕営。奇麗なミヤマカラスアゲハが舞っていた。
露天風呂最高!

おりひめ第25号より転載
本当に先生のお人柄が偲ばれる山行記録です・・・
 


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おりひめ25 [おりひめ]

登山の為のトレーニングを考える

前回は、運動の主役となる筋肉の仕組み、エネルギー供給のメカニズムなどについて書きましたが、今回は、よりパワフルな運動をするためのトレーニングの実際について考えてみたいと思います。

トレーニングの話に入る前に、以外と忘れられている体力測定の話をしておきたいと思います。
陸上の選手などのように一分一秒を争う選手の場合は、常に自分の記録を取り練習のはげみにしているようですが、山岳部のように、補強としてトレーニングをしているような人は、1Kmを何分で走れたなどと、いちいち記録を取る人はまずいないと思います。
毎度おなじみのトレーニング
メニューを、ただなんとなく、消化するといった人が多いのではないでしょうか。
しかも、部員全員がまったく同じメニューを消化する場合がほとんどだと思います。
そうすると当然能力以上のことをやらされている人と、楽でしかたのない人が出ることになります。
能力以上のトレーニングの効果は上がりませんし、楽でしかたのない人も、トレーニングになっていないのは言うまでもありません。

その人の能力に合った、それぞれのトレーニングメニューが必要になってくるのがわかると思います。
体力測定は、その能力を知る上で大変に重要なことなのです。
では、何を測定すべきかということが次の問題になりますが、スポーツの種類や、トレーニングの目的によって違ってきます。

高校の山岳部として測定しておくとよいと思われるのは、1500mとか3000mなどの長距離走の記録や、背筋力、脚力などがあげられると思います。
定期的に測定し、トレーニングの効果を見たり、適切なトレーニングメニューを考える上で、役に立つことと思います。
またトレーニング後の脈拍を測定することも習慣にしておくとよいでしょう。

次に、実際のトレーニングを考えてみたいと思います。
登山のように、小さい力を長時間、持続的に発揮するようなスポーツ(ローパワーの運動という)では、有酸素性機構によるエネルギーの供給が主体となります。筋繊維では、 SO繊維とFOG繊維がおもに動員されてきます。
つまり、エネルギーの供給を有酸素性機構に依存し、筋繊維ではSO繊維とFOG 繊維を動員するような運動様式によってトレーニングする方法、が登山に必要なトレーニングだと思われます。

ローパワーの運動では、有酸素性機構によるATP再合成が主役となるため、空気から体内へ酸素を取り込む能力。
循環によって筋肉へ酸素を運搬する能力。さらにATP を再合成するために、筋肉で酸素を消費する能力、といった、酸素運搬系の機能的な能力の優劣がきわめて重要となってきます。
そして、その能力を判定する基準は、最大酸素摂取量と呼ばれています。これは単位時間内に、有酸素性機構で出しうるエネルギーの最大値を意味し、とくに最大酸素摂取量を体重で割った、体重1kg当たりの最大酸素摂取量が有酸素性運動能力の指標として広く測定されています。

従って、最大酸素摂取量を増大させるトレーニングが登山に有効であることがわかります。有酸素性運動能力を高めるトレーニングの代表例として、エンデュアランストレーニソグと、イン夕ーバルトレーニングをあげることができますが、前者は休息なしで30分から60分間、ほとんど同じ強さの運動を反復するトレーニングで、ジョギングなどがそのよい例です。効果が期待できる運動の強さは、最大酸素摂取量の 60~70 %、心拍数では、160拍/分程度とされています。

様々な実験の結果では、強度が強く( 170~180拍/分)、長時間、頻回にトレーニングするほど、最大酸素摂取量の増大が著しいという、結果(考えてみればあたりまえ)が出ています。
少なくても週に3 回、 30 分以上の時間をかけて、160位の脈拍になるようなジョギングが必要ということでしょうか?

後者のイン夕ーバルトレーニングとは、最大努力の80~90%に相当する強度の運動を、休息をはさんで10~20 回反復するトレーニングをいいます。
運動時間は、30秒から90秒で、休息期間に心拍数が120~140拍/分まで低下するように実施するのが好ましいといわれています。イン夕ーバルトレーニングは、エソデュアランストレ一ニングに比べると、休息を入れることにより、より強い運動が可能になるのが特徴だと言えます。
インターバルトレーニソグの効果は、負荷の強さと、休息の長さの組み合わせによって決まります。
二つのグループに[15 秒運動+15 秒休息]×60 セット(グループⅠ)と、[三分運動十三分休息]×15セット(グループⅡ)の運動を週三日、二カ月行わせ、またもう一つのグループ(グループⅢ)に[3分運動+13分休息]×5 セットの運動を週 5 日、一カ月間行わせた実験が報告されています。
それによると、いずれのグループにおいても最大酸素摂取量は増加したが、そのトレーニング効果は、グループⅡとグループⅢの方が有効でした。

また、強度の高い 50~200m走を用いたイン夕ーバルトレーニソグ、グループと、600~800m走を用いたイソ夕ーバルトレーニング、グループ、および両者を混ぜたトレーニング、グループの三つのグループに週5日、七週間トレーニングを行わせた実験報告があります。
それによれば、いずれのグループも最大酸素摂取量の有意な増加が認められ、その増加率は約9 %、5 %、7 %であったと報告されています。
このことはインターバルトレーニングにおいては、時間条件よりも強度条件の方がトレーニング効果に大きな効果をもたらすことを示唆していると思います。

以上、最大酸素摂取量を増大させる基本的な二つのトレーニング法を紹介しましたが、同じトレーニングをするのでも、トレーニングの方法によって、効果が違うということがわかっていただけたかと思います。
そこで、毎日のトレーニングをどうするかということになるわけですが、個々の具体的なメニューを作る方法を簡単に説明しておきたいと思います。

メニューを考える時は、長期、中期、短期の三つ位に分けるとよいと思います。長期の計画は、 6 カ月位を目安に、大まかな目標を設定します。中期は、1~2カ月を目安に、より細かい部分の目標を設定します。短期は、1 週間を目安に具体的なトレーニングメニューを考えます。
そして、中心となるのが、短期の計画ということになります。 1週間の短期メニューでは、運動の強度を考えて、メリハリのある内容にします。
たとえば、月、水、金曜日は、イン夕ーバルトレーニングのような強いものにし、火、木は、軽いジョギソグにする、とか、月、木を 60~90 分のロングジョギングにし、火、水、金は、軽いウェイトトレーニングにするなどです。
また、 1週に 1日~2 日の休養日を入れることも忘れてはならないことだと思います。
疲労のたまり易い中日、(日~土の運動とすれば水曜あたり)は、軽くジョギングをしたり、疲労の程度によってはストレッチだけにするなどです。
また、気分が乗らないときには思いきって完全休養日にすることも必要だと思います。とにかく休養もトレーニングなのだと考えていいのではないかと思います。(ただし、これを理由にずる休みはいけませんよ。)

このように、短期の計画は、一週ごとに目的や、体調に応じて変えていく必要があるのです。なかなかできないことですが、
また、長、中期の計画がしっかりしていないと、かえって効果が上がらないという危険もありますが、意欲的にトレーニソグをする為には、必要なことだと思います。

クラブの練習は、全員一緒に、同じメニューを行う場合が多いのですが、週のうち、2 日ないし、3 日位は、自分の作ったメニューでトレーニソグをしてみるのもよいのではないかと思います。

登山の為のトレーニングを考える、という、題で二年もかけて書いて来たのですが、運動機能の説明に重点が移ってしまい、トレーニングの具体的な方怯まで言及できず、結局、どんなトレーニングが良いのかよくわからなくなってしまったような感じですが、とにかく、自分に合ったトレーニソグを計画的に行い、継続することが大切だと思います。
頑張りましょう。

 

おりひめ第25号より転載

顧問2年目のM先生です。登山を科学するって感じです
ご自身、トライアスロンに出場するほどの鉄人先生だそうです!

この年R先生が転勤、
W先生が赴任されました。 


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おりひめ24-2 [おりひめ]

世に言うバブル景気の頃のお話です
当時の状況を窺い知ることができるR先生の貴重なレポートです 

 

開発と自然保護ー巻機山

巻機山をめぐる観光開発計画が報道され、関心を集めているのは周知のとうりである。
この山をめぐる開発計画は、以前から何回か持ちあがっていた。

高度経済成長の末期、「列島改造論」で全国各地で観光、リゾート開発が計画され、土地投機がブームとなっていた頃、巻機山のスキー場計画が公表された。
黒川シャトーによるスキー場建設である。その後昭和四十八年秋にはじまった石油危機により高度成長は終りを告げ、安い石油に依存していた日本経済は極度の不況になり「列島改造論」は御破算になった。
当然、この巻機山のスキー場開発も計画のままに終った。

その後いくつかの話はあったようであるが、計画までには至らなかった。昭和六十一年になって大手資本が建設業者と提携して塩沢町に開発を申し入れ、具体的に動き出したのが今回の計画である。

その頃から地元の清水集落で話を聞き、山にロープーウェーがかかる大規模な開発計画を知った。
他校の顧問から「東高校の山荘はゲレンデの真中になる」と言われたりした。

このような大規模開発には多くの問題を伴う。
地元の清水集落の過疎化対策、地区の振興に期待がかかり、一方ではスキー場造成による自然破壊である。

最近の動向を追ってみると、昭和六十三年二月十日に地元が町当局に開発同意書を提出した。
地元とは清水森林生産組合を中心とする巻機山開発委員会であり、同森林生産組合は巻機山域の大半を所有している。
集落の過疎脱出のため、スキー場を核とした観光開発に同意し促進の方向を打ち出した。

但し地元には
一部で開発反対の声もある。この計画が持ちあがって以来、自然保護の立場から開発反対の意見も多く、巻機山の自然を後世に残そうと登山者らが集まって、同年二月二十八日「巻機山を守る会」の設立総会を開催した。
当日は六日町に県内はじめ東京や関東から百人が集まり、この山の自然を子孫に残そうという設立趣意書や規約、役員を決めた。翌二十九日、同会は趣意書や要望書を県、町当局と六日町営林署に提出し協力を求めた。
夏になって開発業者の地元説明会が開かれた。

六月二十三日夜、会場の旧清水分校に地元住民と塩沢町関係者が集まった。開発計画の業者は大手資本の住友不動産(本社・東京、資本金七百八十億円)と大手建設業者の大林組(本店・大阪)である。
開発計画によれば、開発面積は百五十ha 、巻機山(一九六七 m )の七合目の一七三〇 m まで八人乗りのコンドラを架けて、他に山麓に四人乗り七基、三人乗り十六基リフトを架ける。

スキーセンターやレストハウスのほか、二百室(八百人収容)のホテルを建設、駐車場は四千台を収容。
スキー場は昭和六十五年のシーズンからオープンの予定。(昭和六十三年六月二十五日、新潟日報)
スキー場が建設されるのは巻機山の尾根道と威守松山麓一帯なのである。

要するに山荘からみえる斜面がほぼ全部ゲレンデとなり、西にひろがる緩い斜面にホテル、駐車場、テニスやサッカー場が出来る。業者の説明通りとすると、ゲレンデの面積はあの有名な苗場スキー場(百十九ha)を上回り、七合目からのコースは四・四km と長くゴンドラ終点との標高差は千百六十m は国内最大で、まさに広さ、長さ、高度差とも全国有数の大スキー場なのである。この建設事業費が約二百億円、スキー客は初年度で三十万人、次年度から六十~九十万人を見込んでいる。

開発業者側は一年近く調査をやり、開発のめどがつき’日本有数のスキー場"にしたいという。はたして一年位の現地調査で巻機山の自然が判るのだろうか。

魚沼でも麓の清水は豪雪で知られる。そこからニセ巻機の下までゲレンデにしようというのである。
雪崩の危険はないのか。割引沢や米子沢でない尾根筋だから出ないように見えるが、厳冬期には表層雪崩が発生すると聞く。このニ年ほど暖冬続きで少雪時のデータでは当てにならない。
一晩で一m も積る豪雪を知っているのだろうか。またコースの下部にあたる井戸の壁は、あの急斜面に大木がなく灌木の疎林であることが雪崩を物語たっている。

実際、数年前の春山合宿で巻機登山の帰路、スキーで壁の斜面を横切っただけで足元から表層雪崩をおこし冷汗をかいたことがある。計画では雪崩対策として、スキーコースをニセ巻機(八合目)から下の登山道沿いの尾根に造成し、森林の伐採を最少限に留めて、伐採する場合でも樹木のある程度の一局さ(どの程度かは不明)は残すという。

この程度の対策で急斜面の雪崩を防止できると考えているのだろうか。切株を残せば少雪時や目王となる春スキーでは雪上に切株が頭を出して危険でないのか。
無雪期の尾根道はブナ林が幅広く伐り払われ、足元には切株がひろがる中を登ることになる。
新緑や紅葉に染まって歩いた道は望むべくもない。

巻機山の地質はグリーンタフといわれる火成岩が基盤岩で、この岩盤の上に赤土と岩石が混じった地層が被い、表土は黒い腐植土である。薄い表土がはがれると、雨水によって下の赤土層は深く削られる。降雨は岩のすきまに流れこむ。頂上付近やニセ巻機の急登でみられる、あの深くえぐられた溝である。
もっとも頂上周辺は県やボランティアの尽力で修復され、木道や階段も造られた。
下の基盤も硬くしまった岩盤ではない。むしろ脆さが目立つ。
割引沢、ヌクビ沢源頭の赤茶けた脆い壁、天狗岩直下のはがれ落ちた岩石屑を見ればよく判る。
割引沢、米子沢の下流は巨大な岩が沢を埋めている。

このような地質の山に大型建設機械を入れ、山腹に工事用道路を造り、ゲレンデ造成のため表土を削ればどうなるのか。
浸み込んだ雨や雪解け水により土石流がおこる可能性がある。基盤がしっかりしていれば砂防ダムは必要ないが、地元の話では今後十数年かけて巨費を投じて建設省が砂防堰堤を作る。米子沢川(割引沢と米子沢合流点より下流)に七ケ所、米子沢には九ケ所を建設する計画である。
スキー場開発のための堰堤か否かは判らぬが、とにかく砂防工事が必要な山域なのである。

この開発計画のポイントは何か。新幹線、高速道路沿いに残された最後の大規模スキー場適地で、暖冬少雪でも雪不足の悩みはない。
この"売物"が山にかかるゴンドラである。最初の計画では下からニセ巻機の頂上まで架ける予定であったが、山頂保全法により七合目(千七百三十 m )が山頂駅となる。地形図でみるとニセ巻機急登の最後の辺である。
上越国境の稜線まで一気に運んでくれるゴンドラであり、スキー客や登山客にとってこれ程便利なものはない。

山で"楽"になれば人が集まる。多くのスキー客が集まれば色々な問題がおこってくる。
ゴンドラを降りると稜線が目の前にひろがる。四時間も汗をかいて登った稜線に、八合目の急登を一汗かけばすぐに立てる。
ニセ巻機から頂上にかけては緩やかなスロープが連なる。二千m のゲレンデは粉雪の山スキーの天国だ。
山頂から麓までの長いコースは、適度な斜度と雄大な風景でスキーヤーを魅了する。豊富な残雪で春スキーの時期も長い。上越沿線の’最後"のスキー場かも知れない。

だが厳冬期の天候を考慮しているのだろうか、降り止まぬ豪雪、目もあけられぬ吹雪、稜線部の立っていられない強風とアイスバーン。
天候不順や急変は上越国境の山では当り前である。スキー客の遭難が心配される。また春スキーでは、ゲレンデを固めるためにまく塩が植生に影響を与え、頂上周辺の湿地は姿を消すであろう。
悪天候の際にスキー客の行動を規制するとしても不可能であり、各地のスキー場で遭難騒ぎがおこっている。
高度成長期に大規模スキー場が開発され、ロープウェーや。コンドラが山に架かり、ゲレンデは山麓から山にまで拡大した。
麓のゲレンデしか知らないスキー客も簡単に山に運ばれ、山スキーの領域に入ってしまう。
巻機の、コンドラ終点駅に降りるとそこはスキー場ではなく「山」なのである。
計画通りに数十万のスキー客がやってくれば、遭難は予想される。現在でも巻機山では早春からの春スキーで遭難があり、死亡事故もおこっている。

このような大規模スキー場開発計画は巻機山に限ったことではなく・県内にも地域開発や過疎地振興を核とする開発計画がある。最大規模の計画は「マイ・ライフ・リゾート新潟」構想で、余暇の有効利用から昭和六十二年に成立した「リゾート法」を背景にして、全国各地でこの法の指定を受けようと活発化しているリゾート開発である。
該当地域は南、北、中魚沼、十日町、東頸城の十四市町村、重点整備地区は八ケ所で総面積は二万三千ha 、今後十年間で民間、公共資本が約五千億円が投下される壮大な開発プロジェクトである。
開発の主目的は雪を最大限に活用した雪国リゾート地の形成で、スキー場、ゴルフ場をはじめとする各種スポーッ施設の造成、観光農園、牧場、ホテル、温泉と多方面の行楽、観光施設を建設する。
八ケ所の重点整備地区でスキー場建設計画がないのは川口 ・堀之内地区だけで、他は規模は様々だが建設または拡張計画がある。

主な計画は魚沼丘陵地区の国際的交歓型スキーリゾート地としての上越国際スキー場拡張、当間高原の二つのスキー場新設、南越後地区のマウントパーク津南スキー場拡張、大手資本の計画としては越後三山山麓の国土計画による阿寺山スキー場があがっている。
詳細はまだ決定してないようだが、この開発プロジェクトは全国六ケ所の指定地域の一つで、国の低利融資を受ける有利な条件で巨額な資金が投入されてリゾート開発が動き出そうとしている。

これに次ぐ大規模開発計画は、「奥只見レクリエーション都市」整備構想である。
この計画は南、北魚沼の七町村にまたがる奥只見一帯をおよそ二十年かけて観光開発しようと気の長い計画である。
この構想は昭和四十五年に建設省の公園事業の一環として立案された。目的は大都市圏や地方都市からのレクリエーション需要を充足するため、スポーツ施設、子供の遊び場などを中心に、休養宿泊施設や自然保全
地区を設けるというもので、現在で言うリゾート開発である。

北魚沼では昭和五十四年に同盟会が結成され、昭和五十九年に「奥只見レクリェーション地域整備構想」として計画がまとめられた。事業主体は県で、地元町村は計画立案に参加し、費用の五十%は国が負担するものである。

この長期計画は昭和六十年から動き出し、各地区ともまだ計画立案の段階であったり、ようやく用地買収が始まる地区もある状態のなかで、最も整備が進んでいるのが浅草岳地域である。

この地域では二つの地区が開発される。破間川ダムの五味沢地区では、すでにテニスコートや体験実習館などの一部の施設が完成して駐車場や遊歩道も工事に入っている。メーンとなるのは当然ながら浅草岳山域で、現地調査が行われている。浅草岳の山麓には国民宿舎の「浅草山荘」が営業している。その地域を中心に山の北西部の原生林のブナ林は昭和四十年代までに見事に伐採されて、そこに。ゴルフ場、キャンプ場、ホテル、そして大スキー場が計画されている。
計画の概要では千二百ha の面積に約三百億円が投資されて、巻機山と同様に山麓から浅草岳山頂にゴンドラが架かる大規模スキー場が造成されると聞く。

まだ計画の段階で民間企業が現地調査中であるが、山麓から集落が離れているためか、巻機と同様に考えられる自然破壊を心配する声を余り聞かない。
山麓の五味沢の集落は、過疎化が進み山の宿が一軒あるだけで、かつて盛んに木材を積み出していた長岡営林署の現業所も廃止され、森林軌道の跡が残るのみである。

浅草岳(一五八六 m )は守門岳と同じコニーデ型の休火山である。山頂から北、西斜面はゆるやかな斜面が広がり、春スキーには快適な滑りが楽しめる。四月の日曜日にはへリコプターでスキー客を山頂まで運んでいる。北西部のネズモチ平は森林が伐採されてしまい見事なブナ林は姿を消し、トラックが往復した林道が山腹を削っていろ。
この広大な斜面にコンドラを架け、リフトを作ろうという計画らしい。完成して多くのスキー客が入れば、浅草岳頂上付近の湿原は荒されていづれ裸地になるのは明らかである。
美しい原生林の伐採だけでも問題があるのに、山腹を削る造成工事は痛々しい限りである。

このような大規模なスキー場計画は何も県内に限ったことではなく、高度
経済成長の昭和四十年代には、全国各地で観光ブームにのり、スキー場が建設された。
だが、その後の石油危機による不況もあるが、小規模で特色のないゲレンデや、スキー以外にこれといった取柄のないスキー場のなかには倒産騒ぎがおこっている。
そのようなスキー場を大手資本が買い取り、大きく衣更えをして成功した北海道の富良野スキー場のような例もあるが、うまくいっている例は少ないようだ。

三年程前から問題となっているのは、青森県の八甲田山のロープウェー計画である。
八甲田山は十和田八幡平国立公園に属し、その中心部は規制が厳しい「特別保護地区」である。
その八甲田山域の大岳(一五八五 m )の山頂にまたがって、山域を横断する大ロープウェー計画がもち上った。
立案したのは青森県で、昭和五十八年から調査を開始、県予算もついている。県が国立公園の真中に長大なゴンドラを架ける必要性があるのだろうか。

計画を推進している県観光課の話では二点ある。青森県は雪国でありながらスキー場が少なく、県内のスキー客が隣県に出かける。
次に、八甲田山域の観光資源が夏場中心で、冬季も含めた通年観光をはかり、地域の活性化を期待する、というものである。

八甲田山地は国立公園に指定されてから五十年すぎ、自然保護にはとくに力を入れてきた。戦後の観光ブームのなかで大衆化はさけられず、古くからの温泉地の酸ケ湯近くにロープウェーを建設した。
特別保護地区の直前の標高千三百m まで百一人乗りの大型ゴンドラが架っている。
団体客や学校登山などで終点駅周囲の高山植物は消え、崩壊も進んでいるという。

これを上廻る大規模なロープウェーを建設し、国立公園の特別保護地区を横断する計画なのである。
県内の巻機山、浅草岳は国定公園であるが、八甲田山は有数の国立公園の核心部である。このような自然保護を無視した計画に監督官庁の環境庁はどう考えているのか、八甲田の計画が実現にむけて動き出した頃(昭和六十一年二月)、環境庁は青森県から何の連絡を受けていないので、公式な発言はさけていたが、計画が本格化するなかで自然保護の立場から慎重な姿勢をとっている。

また国立公園の特別保護地区では、このような大規模ロープウェー計画が実現した例は今までないことは確かである。
現在まで国立公園にゴンドラが架った例はいくつかあるが、山頂や特別保護地区はさけている。
白馬山域の八方尾根、西穂高岳、中央アルプスの宝剣岳にはゴンドラやロープウェーが建設され、多くの観光客を山頂や稜線が望める地点まで労せずに運び上げている。
そのため自然が崩壊されているのは事実で、深刻化している。

青森県は山スキーのメッカ、八甲田山を全山ゲレンデ化しようとしている。県民の税金を投資して貴重な八甲田の自然を破壊していいのだろうか。県は立ち入り禁止区域を設定して、徹底した観光コースを整備すれば、懸念される自然破壊は防げるというが、はたしてうまく行くだろうか。
ロープウェーが架かればリフトもできて、全山がスキー場となる例は、北海道のニセコアンヌプリや山形県の蔵王をみれは明らかである。

美しい自然が残っている巻機山、その登山口の清水は昭和四十年代、人口は百七十人をこえて小学校の分校は三十人前後の児童でにぎわっていた。
成長した子供達は清水を離れ、現在、二十二世帯、九十一人に減少した。八十年余の歴史のある分校も閉校した。過疎脱却の切り札としてスキー場の建設も一手段であろう。
開発計画には部落の大半が賛成というが、自然破壊を懸念されるのも事実である。大手企業の開発に全面依存して、この先、不安がないのだろうか。若者が働く職場ができるか、否か。
地元の利益をどの程度考慮してくれるのか。山一つ越えた湯沢のようなマンションが建つのだろうか・・・ 。

現在、県内には前出の大型開発プ口ジェクトの他に、スキー場建設計画が目白押しに企画されている。上越新幹線と高速道路で首都圏と短時間で結
ばれ、多くのリゾート、観光客を当て込んでいるのだが、その地元の地域振興に結びつくかどうかは疑問視される面がなくはない。
地元の人達の生き方に口をはさむわけではないが、広い視野に立って、将来性を見通した開発計画を決めてほしい。


おりひめ第24号より転載
少子高齢化とレジャーの多様化による若者のスキー離れで
どこのスキー場も経営は青色吐息・・・
湯沢町の現状を見るまでもなく
巻機はこれで良かったんだと思います。

「雲天」の【おかあちゃん】に
 合掌・・・


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おりひめ24 [おりひめ]

素敵な文章発見!
 
送別山行(やっと解けた方程式)

「送別山行」
自分には到底手に届かなかったものなのに、なぜかこの日を迎えることができた。
二年前、本当にこの部がイヤになり、明日にでもやめようと思っていた私がこうして「送別山行」を迎えることができたのは、先生や先輩の励まし、同輩との友情、後輩たちとの信頼などがあったためである。

しかし、なんといっても一番の理由は私の親不孝のせいである。
高校へ入って間もない頃、私は安易な理由でこの山岳部に入部した。もちろん家族は良い顔をしなかった。特に父は断固反対した。しかし、普段から父に反抗していた私が父の言うことをきいて、入部を撤回するわけがない。
私はそのまま父の反対を押し切って春季大会に臨むことになった。父はとうとう大会の日の朝まで良い顔をしなかった。おまけに私に大きな荷物を一つ「ドスン」と背中に投げつけた。

それは、以前から体調が悪いと訴えていた父の虫が知らせたのだろうか。
「和佳が山から帰って来る頃には、俺はもう白木の箱に入っている。」と一言つぶやいたのだった。
私はその言葉を無視するかのように浅草岳へと足を運んだ。

それから一週間後、父は本当に白木の箱へ入ってしまった。私は山岳部へ入部したことが父への最後の親不孝になってしまったことがとても悔しくてたまらなかった。
そう思うと部活はちっとも楽しくなく、私にとってマイナスの面だけをつきつけた。かといって部をやめることは、私のプライドが許さなかった。
私は父に対しては強気だった。だからあれほど反対されても入部した山岳部をやめるのは
父があの世で「ホラ、やっばり和佳には山岳部はムリだったんだ。」と笑われているようで、仏壇に手を合わせるのさえ恥ずかしいと思った。
それに、「私は母子家庭だから登山なんてやってられないヨ」といったように、いじけた」高校生活をあと二年以上も送るのは私には堪えられないことだった。

解答が出ないまま一年の三学期を迎えた。でも、私には本当に限界だった。父のことだけでなく、その他諸々の理由でこれ以上、この部にいるのは堪えられなかった。
それでも、成り行きで、春山合宿まで参加することになった。しかし、その合宿が私に解答を与えてくれた。合宿の日々は毎日がとても充実していて私にこれまでにない壮快感を与えてくれた。

この頃から私の父に対する親不孝の考え方が変わってきた。
今まではこの部に入部したことが親不孝とばかり思っていた。しかし、 もしかしたら、この親不孝を親行孝へつなげる方法があるかもしれない。私がこの部に入ったこ
とにより、充実した高校生活を送ることができたら、きっと父も喜んでくれるだろう。」
そう考えると部活が楽しくなり、思わぬ出来事も次々と転がってきた。

まず廃部寸前の女子部に十一人もの一年生が入部したり、行けるはずのない北海道のキップを手にしたり。恐しいほど何もかもうまくいった。
「もしかしたらこれは父が …… 。」などとかってな想像をしたくなるほどだった。

長々と父のことを綴ってきたが、やっばりこの送別を迎えることができた一番の理由は父のおかげである。
そんなことをずっと思いながら最後の山荘の夜をすごした。ランプのほのかな明かりとは対照的に一つ一つの思い出が鮮明に蘇ってきたあの夜。
沢山の後輩に囲まれてあの狭い部屋をぎっしりと埋め尽くしたあの窮屈な感覚。

私は一生忘れない。そして今、二年前に先輩たちが言った言葉を思い出す。
「やっと山が楽しくなるころ、部活を引退しなくてはならないね。」
私にもこの言葉の意味がわかる日が来た。今やっと、長い方程式が解けたような気がする。

おりひめ第24号より転載
 


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おりひめ23 [おりひめ]

国  体  Ⅱ

山岳部でのトレーニング 2 年間の成果がどれ程のものか、いやそれ以上に、仲間の必要性を教えてくれ、気持ちの良い思い出を残してくれた。それが高校生活 2 度目の国体であった。

 

仲間と山に登り始めて早 2 年。同じ服、同じ靴、同じザック、同じ帽子、そして同じ山を登ってきた仲間がこの大会で 2 名に減らされる。
その 2 名が去年体力チームとして奮闘した奴だから困ったモンだ。この 2 名と山を駆けずりまわることを考えると体が重い。どうなるかは「水戸黄門」の結末のように目に見えてわかっている。
体力でだめなら頭で勝負だ!と張切ってみても、得意の天気図が今年は無いときた。
それなら仕方無い、定点確認で点を稼ごう。それしかない。「スタート!」
三条東 D チームの出発だ。さすがに大会役員の前では調子良く足が出る。しかし数分後、思ったとおりの展開となった。体力の差を改めて感じた。ほんの15 キログラム程度のザックが足を上げさせてくれない。これが最初の難関「スキー場直登」の前の姿である。情けない。この 2 年間のトレーニングはやはり少なすぎたのだろうか。

スキー場を登りきると先に行った2人が待っていてくれた。「持つべきものは友である」という言葉が脳裡をかすめた瞬間、
目の中に地図とコンパスが飛び込んできた。
「定点確認だ。やれ。」気が狂う程疲れているのに正確に読図できるわけがない。おおよそこの辺だろうと印をつけると、
2人は早く来いと言わんばかりに走って行く。
このようにチームの仲間は定点確認の所で待っているだけであとはとっとと飛んでいってしまう。
「畜生」こんな大会に勝って何になるというのだ。こんなつまらない登山は他にない。この大会に対してというよりもむしろ、
やけになっている自分自身に対して腹が立っていた。
こんな文句を言っているのは、自分の甘えにすぎないのだ。

【♪涙の海に泳ぎ疲れてもあきらめるための舟に乗り込むな♪】
 こんな歌が頭の中にこだまする。
今まで山を登り続けてきたが、いつも頂上という目標があり、必ずそこへ着けると信じていた。しかし今回はゴールがないように思えてならない。
この路を走り過ぎた後には何が待っているのか。わからない。(少なくともこの時はわからなかった。)

ー垂れた頭を上げると先に行った内の一人の顔があった。そいつは、今までになく穏やかで、「少し休もう。」と声をかけてくれた。半ばあきらめているのだろうと思った。
2分程座っていると、こんな所で何をやっているのだという気持ちが頭を駆けめぐる。
更に重く感じるザックを持ち上げ懸命に走るがスピードが出ない。これでは絶対に悔いが残る大会になることは十分承知なのだが体がついていかない。
これほどチームの足を引っばっている自分に、仲間はザックからスポーツドリンクを取り出して飲ませてくれることをやめない。なんとかして仲間に憑いて( ? )行こうと思っていると、やっとゴール寸前に設置されているペーパーテスト会場に到着。

テストを終わらせ、ゴールに転がり込んだ。「ごくろうさま。」と、先に到着したチームの人がポリ夕ンクを差し出す。
その水をガブ飲みしていると、ようやく三条東山岳部の一員に還ったような気がした。思えばこの喜びにも似た安心感が、
2年間ずっとついて回っていたようだ。
「山」自体も確かに好きだ。が、それが自分をこの部活に引きつけておいたすべてではない。この山岳部、この仲間が好きなんだ。

温泉に漬かり、サッパリとしたところで、いざ表彰式。三位、三条東 D チーム。」奥歯と握り拳で喜びを抑え、講評も耳に入らぬまま大会終了を迎えた。

おりひめ23号より転載
某君は、高校在学中2度も国体に出場したんだ
羨ましい・・・ 


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おりひめ22 [おりひめ]

そういえば「おりひめ」は高校山岳部の部報でした
たまには現役の文章も・・・ 

 
実録東高山岳部・国体予選編

国体ではとても貴重な経験をした。三日と間をあけない連チャン登山、優劣を競う異常な状況下の登山、両方とも初体験だった。
それもロクに準備もない。前の山の疲れの残る部員を一人だけ元気な大会至上主義者、渡辺が鞭打って準備させた。
あれだけの仕事を二日か三日でこなしたのは凄い!


当然のことながら大会前日の部室は修羅場と化し、選手(除く渡辺)はヒステリックになっていた。(特にプリティ芳徳)
傍らで先輩方はオドオドして、当初補欠だった私めは笑いながら見てた。
(いつ芳徳に殴られるかとヒヤヒヤしていた。でもよくいるでしょう「こわくないよ~んだJ とかいって意地はってるガキが、あの感じで)


ところが、真剣に働いてる奴を笑っている補欠クンにはしっかり天罰が下った。
当日、なんと選手が一人(仮名 田× 直× )たりない、従って私めは大会に駆り出されてしまった。(♪チャンチャン)

教訓・其の1
 たとえ補欠といえども出場する覚悟で臨むこと
けっして選手をからかったりしないこと。

この大会  我々は3 名ずつ、2 チームにわかれA を「体力勝負チーム、B を「頭脳派チーム」とし、体力勝負の国体のため、良い備品はB チームにまわした。
体力がない故に補欠の私めは、突然、装備も満足でないのにそれを持ってる奴が現れないA チームに。ギャグだ、まったく。(やっばり天罰だ)
その上、私めは「補欠だから」と、とんでもねェことを考えていた。
ったく、ふてェ野郎だ。勝負を投げかけた私めと、どうしても勝っという大会至上主義、渡辺が組んだから当然、喧嘩腰だった。
それに、足を傷めてもふだんと変らない佐藤と、妙なチームだった。

教訓・その2
なるようになったら心を決めて真面目になること。
こんな時ビシッと決めるとかっこいい。

踏査のとき私めは、定点確認(決った点を地図にうつす)の係をやった。
「んな位、簡単なもんだ」、と高をくくって、でしゃばってしもた。やってみると割に出来ないもんだね!
めちゃくちゃ、全オーダー中最下位(もっとも途中で変ってもらった。ま、半分その人(仮名  × 辺)にも責任はあると思う)という汚点を残した。
作戦立てて、落ち着けばもっと出来たね、それを見事に落した。

そして 2 日目、ハードな国体で一番ハードな縦走。あとンなりゃたいしたことないが、そのときは死ぬほどつらい。
下は雪だし、陽は照りつけるし、まァつらかった。リーダーに怒鳴られ、がんばろうかなァと思ったが、目先のつらさに負け「るせー、出来るか、ンなことォ」と怒鳴りかえした。
惨めだったね、自分で、自己嫌悪にまみれて(あと汗も少 々 )走ったもんね。その上、いったら、いったで装備点検。指定の装備ないんだもん、これも見事にもっていかれた。
もの凄く、悔しかった。

教訓・その3
出来もしねェことを「知ったか」しないこと、世の中点数じゃないが、アホみたいなとこで落さない。世の中要領も必要だ。ンなとこでコケると後でめちゃくちゃ悔むゾ

教訓その4
死にそうだと思っても、本当に死ぬ寸前までがんばること。人間はそう簡単には死なないから。頑張れるときにやっておかないと、これまた後悔します。

今、その時の報告書を参考にしているが、当時、私めはいつになく真面目に書いている。遅れてきた選手(仮名 × 浦 × 樹)をそうとう責めいるが、今となればいい笑い話でしかない。競技では技術的、体力的、精神的なもろさを今さらながら見せつけられた。

この反省はインターハイと合宿にある程度の効果が上ったと思うが、今また大会前の自分に戻っていることがとても恥かしい。そんなことや、競技の後、全パーティーで登った焼峰が素晴しかったことでこの山は五本の指に入る山だ。 360度全てを春の山が囲み、陽ざしの中で食べた昼飯はうまかった。

教訓・その5
我儘にならないよう気をつけること。もう少し素直になること(ふだんから)

あれだけの悪条件下で 4 位というのはまあまあだと思う。さらに 5 つの教訓を心に刻むとモアべ夕ーでしょう。
一年生はよく読むように。自然は我々を呼んでいる。
これで私めのレクチャーはおしまい。

追記
話がつまらなくなったので気に入らない人は、プリティ芳徳やランボー渋谷あたりから読んでくれ。
素直じゃない私めは、後輩がいるにもかかわらずフザケた文しか書けないんだ。

さらに追記
今年は卯年、私めもうさぎちゃんがほしい(限るかわいいうさぎちゃん)

お話は町田メディチ豊和でした

ー以上

おりひめ第22号より転載
マチダくん印度のムンバイだかに仕事で行ってるって聞いたけど
お元気でしょうか?
可愛いうさぎちゃんの奥さん(クラブの後輩)とは仲良くやっているんでしょうね?

 


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おりひめ21 [おりひめ]

遭難の記事が続き恐縮ですが・・・
34年も前の大きな悲劇です、R先生の貴重な警鐘として残しておきたい 

高校山岳部の遭難


今年(八六年)も年明けから山の遭難のニュースが報じられた。毎年くり返される年末年始の遭難騒ぎであり、多くの死者、行方不明者が出て、社会的批判をうける。未熟な技量、天候の判断を、充分な日程をとれ、更に引き返す勇気を、という登山界の指導者や地元関係者の論評が紙面に載る。新聞の見出しからひろってみると、年末の三十一日「冬山合宿、高校生死ぬ」、一月三日「年明け遭難続出、北ア・中アで滑落して四人が不明」「剣岳でも一人」、四日「新雪に四人のまれる、青森・岩木山、スキー進行中に雪崩に」(朝日新聞より)この年末年始にかけて山で遭難した死亡、行方不明者は十二人にのぼった。

高校生が蔵王で死亡した事故は何とも気の毒な面があり、注意すれば未然に防げた遭難である。概要を記すと、山形県蔵王スキー場で雪山訓練で雪洞に寝ていた県立山形東高校の山岳部一年生の二人は雪洞が崩れて生き埋めになり、一名が死亡した。同高山岳部は一、二年生の八人が二名の教員に引率されて、二十七日から三泊四日の日程で蔵王の冬山合宿に入った。二十九日夜は三つの雪洞とテント一張に生徒二人ずつで寝た。
翌朝、四時半の起床に二人が起きてこないので他の生徒が起しに来たら、雪洞が潰れているのを見つけ、すぐに掘り出したが一名は窒息死していた。

助かった生徒の話によると、ひと眠りしたあと突然雪洞が崩れてきて助けを求めたが、 S君は三十分位で声がしなくなったという。二人の寝た雪洞は斜面にタコツボ状に掘ったもので、奥行二 m 、高さ八0cm である。これでは居住性も悪く、酸欠の危険性もある。
天井は二十 ~四十cmと薄く、夜半に雪洞の上の枝から雪が落ちて崩落した。そばにあったアオモリトドマツの枝からの落雪で潰れるような構造では危なくて泊れない。

確かなことは言えないにしても、その二人の一年生部員は雪洞を掘るのは初めてであろうし、まして雪中泊は初めての体験であったのだろう。現場で設営に立ち会った顧問はどのような指導をしたのかは判らぬが、引率した顧問のうち一名は前日に下山しており、ニ十日は K 教諭(三十才)だけだった。事故当時(その日未明)は現場から五00 m 離れた山小屋に宿泊していた。冬山はほとんど初心者の一、二年生の八人をも引率した顧問としてはいささか気になる行動である。

何かの用事で顧問の一人が帰ったのであれば、当夜は生徒と一緒に泊るべき立場である。生徒と離れて泊る際、注意をしたと思われるが、まさか雪洞が潰れるとは考えもしなかったのだろう。
問題は雪洞を掘る地形の選定やその構造であり、ビバークを強いられて雪面や時間が限定されたのでなければ、硬くしまった斜面を選び、横穴式のしっかりした雪洞を掘らなければならない。
設営時に安全面での細心の注意をはらって欲しかった。生徒の引率、指導上の責任は、当然、顧問にあるにしろ、現在の高校生の年代は雪遊びをほとんど経験していないことも遠因でないかと思う。雪に慣れ親しめる地方の高校生の事故であったから、尚その感を強くする。

高校山岳部の遭難で大きな教訓を残したのは逗子開成高校の八方尾根遭難である。
八十年の暮から八一年一月にかけて襲った「五六豪雪」は各地に大きな被害をもたらし、山では遭難が続発して死者、行方不明者三十七人を出し、救助された者は107人にのぼった。
連日報道される冬山遭難騒ぎのなかでも、高校山岳部六入全員が消息を断つという衝撃的なものであった。
年の瀬、全国を襲った記録的な大雪は二+四日から東北各地の国鉄、道路を寸断し、吹雪の谷川岳ではヒマラヤ登山の訓練に登った栃木県の六人が帰らず、帰省が始まった年末には北陸地方の国鉄がマヒ状態になって、猛吹雪の続く中部山岳一帯の各地から登山パーテイーの救援、行方不明の報が相続いた。

一月二十九日朝、長野県の大町署に神奈川県逗子市の私立逗子開成高校から「教師一人と生徒五人が、ニ十五日から北アの唐松岳に登ったが、予定のニ十七日を過ぎても連絡がない」との届け出があった。
翌朝の新聞に「唐松岳の六人帰らず’逗子開成高のパーティー」の見出しが各紙社会面のトップに載った。

一行は顧問の H 教諭(四十一才)、生徒は二年三名、一年二名の男子五人で、引率の教員は冬山登山のべテラン、装備や食徴も十分で、ビバークして吹雪の止むのを待っている可能性がある、と報じている。
計画では前夜に横浜を発ち、ニ十五日は八方屋根に登り、国民宿舎の八方池山荘付近に一泊、ニ十六日、唐松岳(ニ六九六 m )に登頂、同夜は唐松岳山荘に宿泊し、二十七日に下山になっていた。全員が冬山装備で三日分の食糧を持っているが、白馬連峰は二十六日から猛吹雪が続いているので消息が気遺われた。

スキー場で知られる八方尾根は冬休みに入ると首都圏や関西方面からのスキー客で賑わい、兎平に行くケーブルに朝から長い列ができ、リフトは長時間待たされる。
このケーブルとリフトを乗り継ぐと一九OOm の国民宿舎まで歩かずに行けるため、冬山訓練を兼ねた大学や社会人のバーティーが唐松岳を目指し、八方尾根のツアーを楽しむスキーヤーが多く入る。
そのため一行六名と行動を共にしたり、目撃した登山者からの情報がいくつかあった。
ニ十五日の入山から翌二十六日朝まで一緒に行動した成跳大パーティーの話によると、同高校は登る途中で教師からアイゼンのつけ方を習っていて、冬山の基礎技術はほとんどなかったようで、二十六日の朝に第二ケルン(二千五十m 付近)で別れたという。
と、すれば、二十五日は予定の国民宿舎付近で泊らずに第二ケルンまで登って幕営をしたのである。

二十六日朝、テントをたたんでいるのを見かけた東京歯科大の二人は、唐松岳まで登る予定であったが、吹雪で第三ケルン(二一四十m 付近)で引き返した。第三ケルンは丸山ケルンとも呼ばれ、第二ケルンより一Km西にある。二人連れは戻る途中、八方池(第三ケルンのすぐ下)近くで一行とすれ違っている。
更に午後一時半頃、第三ケルンで休んでいるのを見た他のパーティーがあり、これが最後の目撃者であった。昼前から天候が悪化して引き返す登山者と出会いながら、何故早目に戻らなかったのか。それとも予定通り唐松岳に登頂しようとしたのだろうか。

二十九日に唐松岳に登った日大パーティーからの無線連絡によると、山頂近くの同山荘には誰れもいなかったという。寒波の中休みとなった三十日朝から、長野県警の要請をうけた陸上自衛隊のへリコプターによる捜索が開始された。
松本を発ったへリは午前九時すぎ、八方尾根の第二ケルン脇にオレンジ色のテントを発見、現場に強行着陸して救助隊員二人が降りた。雪に埋れたテントに記入された校名を確認したが、テントは無人で付近にも人影はなく、張り綱のあたりに無造作に差してあるスコップやテント内の様子から、六名がすぐに戻って来るように見えた。
中には寝袋六つ、炊事用具一式、サブザック四つ、食糧、ワカン五つ、へッドランプ等の装備が残されてあった。消息を断って四日目、生存はほぼ絶望的となった。
三十一日の捜索も空しく、春まで打ち切られることになった。

八方尾根といってもスキー場の上部は二千m をこえ、白馬連峰から東に伸びる大きな支稜である。厳冬期は豪雪、吹雪の悪天候が続くのが普通であって、晴天はむしろ珍しい。麗のスキー場でも強風でリフトやケーブルが止まり、ケーブル終点の兎平のリフトが一晩のドカ雪で埋ってしまうことがあり、スキー場のゲレンデから上部は冬山登山の領域なのである。八方尾根では今までにも氷雨にうたれ、吹雪で倒れた登山者が何名かいる。その慰霊碑が一七00m から上に建てられた三つのケルンである。

これらのケルンは霧や吹雪に捲かれた登山者を無事に導いたことも多かった。
第二ケルンは国民宿舎から急坂を少し登った地点にあり、尾根はゆるやかに広がって平坦になっている。そこからは白馬連峰が右手に見え、左に五竜と鹿島槍が、振り返ると妙高、浅間、遠くに八ケ岳と富士山が浮かぶ眺望が広がる。夏なら腰を下して一息入れたくなる。
しかし、冬季は強風の吹きすさむ広い雪稜となり、所々に岩がのぞいている。稜線からはづれた斜面の吹き溜りの雪は深く、乾燥した粉雪は滑降すれば雪煙の舞うシュプールを描く。バランスを失って転倒するとすっぽりと埋って手足をもがくと沈み、雪にまみれて難渋した経験がある。

五月の連休に再開された捜索は、逗子開成高校の職員と OB 、神奈川県高体連登山部、横須賀や湘南の山岳会、それに地元遭難救助隊の凡そ四十人で隊を編成して、ニ日から第二ケルンと第三ケルン中間のオオヌケ沢を重点に行われた。
残雪の沢を下り、ゾンデ(四 m の細い鉄棒)で雪面を刺しながら稜線にむかって登った。消息を断ってから四ケ月、その間に一行六名が辿ったコースが億測され、吹雪に迷って沢に入り、雪崩にやられたのではないか、という推定で捜索が再開されたが、ゾンデの先は異物に触れず、何の手がかりも得られなかった。
ところが五月一日朝、残雪の沢をつめて唐松岳を目指して登山中の仙台市の三人パーティーが、二股発電所上流の南股川で遺体を発見した。遺体発見の一報が二日夕方、大町署に連絡が入った。
県警の調べでは、着ていた赤いヤッケと安全べルトから行方不明となっていた逗子開成高校の二年生の一人と確認された。現場の南股川は八方尾根の北側の沢で、ニ日に捜索隊が人った沢とは反対側になる。
捜索の重点を南股川に移し、四日までに教員と生徒一名、六日に残る三名の遺体が見つかり、消息を断ってから百三十日目に全員が発見された。

六人は川沿いに百m程の問にかたまっていて、状況から雪崩にやられたのではないらしい。身につけていた着衣や見つかった装備をみると、ヤッケ上下、安全べルト、ミトン(大型手袋)ピッケル、アイゼンは全員で、他にザイル二本(十一ミリ、四十m )、魔怯ピン、サブザックニ個?である。非常食はテントに残していったから空身で出発した。

テント脇で氷雪の訓練をするのならば別であるが、この装備で第三ケルンまで登っている。磁石は持たず、ワカンは全員が置いてツェルトやスコップ、へッドランプの装備もテントに残していった。コース目印用の小旗もなかった。冬山でべースを離れて行動しようというのならば、ビバークも出来る万全の用意が必要である。また、アイゼンよりはワカンを、魔法ビンよりは非常食を、ピッケルよりは地図と磁石を、というように装備の使い方に問題がある。

逗子開成高校の山岳部の活動状況はどの様であったのか。朝日新聞の特集記事「逗子開成高の遭難」(八一年六月十一日)によると) 一年生三名のなかで最も経験のあるK君は、今回が十回目の山行で、雪山は春の八ケ岳が一回だけであとの主な山は木曽駒、薬師、北岳の夏山であって冬山は今回が初めてである。他の二名は春山の経験もなく、まして一年生は雪を見るのが初めてといった初心者であった。

高校の場合、顧問が実質的なリーダーであることが多いが、顧問のH教諭の山歴はどうであったか。当初の報道では’冬山登山のべテラン登山歴が二十年といわれていた。
ところが関係者の話では冬山を本格的にやったこともなく、神奈川県高体連が主催する八ケ岳の冬山研修会(毎年二月)にも参加したことがないという。
山歴二十年というのは高山植物の採集を主とする夏山であって、冬はスキーに行ったことはある。お花畑で知られる白馬岳に登ったり、八方尾根には仲間と滑りに来たことはあるのだろう。現地を多少は歩いた経験があるのでないかと思われる。確かに第ニケルンから第三ケルンまではいくらもない距離で、国民宿舎の家族連れが敵策を楽しむ道である。 c れは夏山の話であって冬山はそうはいかない。

山の雑誌にも、八方~唐松岳ルートは冬山入門コースの一つとして紹介されている。遭難直後、地元の遭難救対脇の話でも「このコースは天候がよく冬山経験者であれば、一泊三日の日程で必ずしも無理なことはない。しかし経験者が一人だけのパーティーでは余りにも無謀だ」と顧問のとった行動が信じられないという。
一行の技量以上のコース設定の誤りを地元でも指摘しているが、べテランといわれた教員に冬山の経験がなかったのだから、これは無謀でなく何と言ったらいいだろうか。

前出の特集記事にワカンのことがある。山行の準備をしている時に、顧問は今回はワカンはいらない、練習に使いたい者は持っていけ、と指示している。二、三の生徒は出発前に他人も持っていくので買ってきた。そのワカンを全部置いて行った。春になって見つかった顧問のカメラに最後のスナップ、遺影というべき一枚の写真がある。
生徒全員がフードをかぷり、安全べルトをつけ、ピッケルを手にして頂上を踏んだような姿で並んでいる。撮影地点は第三ケルンの下あたりと思われるが、 この帰路に吹き狂う白魔が待ち構えていようとは夢にも想わなかった。

みるみるうちに踏み跡が消えてしまうドカ雪にはアイゼンではどうにもならない。北アルプスに登るからワカンなどは不用と考えたのか。朝日の本多勝一記者は「この時期この山でワカンがいらないとしたら、世界にワカンのいる山はない」とまで断言している。

三年続きの暖冬にピリオドがうたれ、上旬から寒波に見舞われた八十年の十二月は大雪であった。
十四日はこの冬一番の冷えこみで東北地方と日本海側で雪となり、二十三日から二十四日にかけて本州南岸を低気圧が通り、東方海上に抜けて台風並に発達した。この低気圧は東北、北海道にクリスマス豪雪をもたらして国鉄はマヒ状態になり、漁船の遭難が相続いた。

東京近郊も雪が降って大雪注意報が出た。十五日、日本海に低気圧が発生して東に進み、二十六日(この日に消息を断った)は冬型の気圧配置に戻り、日本海側は雪になり夕方から夜半にかけて低気圧は発達して三陸沖に抜けた。
二十七日から冬型は強まり、北陸地方に年末の記録的な豪雪が降った。中旬から日本列島は寒気団におおわれていたのである。
冬季に低気圧が日本海を発達して通過する際、中部山岳一帯では接近する前に風が弱まり雪が小降りになって回復するようにみえる。それは一時的な晴れ間であって、通過後は北西風が強まり、寒気が入って山では猛吹雪となる。
二十六日は「日本侮低気圧」の天気図であった。この地域の山を知る白馬村のパーティーは同じコースで唐松岳を目指したが、天候の悪化の兆しが現われたのを見て、二十五日すぐに下山している。地元のべテランとはいえ、この天候の判断は正しかった。

この「日本海低気圧」で遭難した例では、二十三年前の、三八豪雪"の一月に北ア・薬師岳で遭難した愛知大がある。
低気圧接近前の晴れ間をねらって太郎小屋から頂上に向ったが全員帰らなかった。十三名が一度に消息を断っという悲劇で、同じ日に登頂した日本医大の一行は無事に下山している。この時も小屋にザックや食糧を置いて軽装備で出発した。秋までに全員が遺体で見つかり、山岳史上に残る大量遭難であった。

大雪警報や雪崩注意報が出ているなかを、何故行動したのか。
二十六日は朝から雪であったが風はまだなかった。

唐松岳に登るには遅すぎる午前十時すぎテントを出発した。すでに時間的にも登頂は断念したと思われるが、顧問が行動を指示していたとすれば、この山行にたいする顧問の心境を示すニつの証言がある。
出発前に一年生の父親(県立高校教諭で山岳部顧問)は、未経験の息子の山行に反対して不参加の旨を伝えたら、 H 教諭は「いや、雪上訓練だけですよ。冬山の生活技術の習得ですから」と答えている。当初の報道では二十六日に唐松岳登頂、同夜は同山荘に泊り、翌日下山の予定になっているが、計画書では二十六日は唐松岳往復と記されている。
この父親は一日だけでは上まで登れず、八方尾根で幕営して雪上訓練ならば、と息子を参加させている。

また捜索が打ち切りとなった翌日の元日に配達された年賀状には「山岳部の冬山合宿、唐松岳に登り冬山の厳しさと美しさを狭いテントの中で語り合いました」の文面に顧問の気持ちが込められていて、心の中に唐松岳があった。

天候は下り坂で登頂は無理でも、ここまで来たのだからもう少し上まで行こうと出かけた。
登る途中で引き返す東歯大の二人連れに出会っている。午後、第三ケルンに着いた頃、最後の目撃者が下山している。
小休止して戻ろうと吹雪のなかを下り始めた。第三ケルンからしばらく降りると、尾根は緩くなり第二ケルン手前で平坦地となる。視界がきかず、踏み跡も消えかけた雪面では直進するのは難しく方向も定かでない。吹き荒れる雪で上下の区別さえ怪しくなってきた。

テントらしき白い三角形を見つけるが、それは大きなシュカブラであった。歩き廻り第二ケルンの石積みを探した。五m先も見えぬ白く塗りつぶされたなかでは、探すことが無理だった。
クラストした硬雪につまづき、吹き溜りに足を取られながら六人は離れないように一団となって歩いた。先ほど見たようなシュカブラに出会った。同じ地点を廻っているように思えたが、すでに方角も判らず、とにかく吹雪に向って進もうとした。ふぶく雪が暗灰色となり、刻 々と夕闇がせまっていた。

手探りで歩いている雪面の傾斜がまして、いつしか雪は腰まで埋まり、膝で雪を押さないと進めなくなった。地形の判断がつかなくても急な雪面を降りていることに「おかしい」と気付いたに違いない。平坦な尾根を東に進むべきところを、北に向ってガラガラ沢に入り込んでいた。おそらく一度は戻ろうとした。ピッケルで雪を落し、踏み固まらないステップに足をのせが、崩れて沈むだけだった。雪にまみれて何度もくり返すが無駄だった。
一歩でも尾根に近づこうと努力をすれば、小さく雪崩れてくる。ワカンがなくては身の没する斜面を登り返すのは不可能に近い。

ここでどう判断したかは判らない。登るのはとても無理だが、転んでも何とか下降はできそうだ。この沢を降りて行けばスキー場の細野の集落に出れると考えたのか。晴れていると八方尾根からは麗に細野の家並みが見える。この眺めを頭のどこかに描いていた。

ふたたび、六人は吹雪の渦捲く谷底に踏み出した。雪をかき、泳ぐように転がりながら、歩くよりは滑り落らながら沢を下った。眼も開けられない吹雪のなかを歩まねば生への道は閉ざされる。
雪は一層激しくなり、しだいに前後の問隔がひらいて遅れる者が出た。先頭は胸まで潜る雪と格闘して前に進もうとするが、雪に沈むほうが多かった。いくらも下降しないうちに、辺りは夜の闇につつまれて急速に気温も下がった。動きを止めると容赦なく雪は顔まで白くして濡れた着衣は寒気で硬く凍った。疲れ果てた六人には空腹も寒さもなかった。虚な耳に白魔の吃味が聞えるだけだった。

遣体が発見された南股川から推測すると、第ニケルンの手前からガラガラ沢を降りたとみられる。八方尾根から南股川までニ版で標高差が九百m 、そこから二股の発電所まで川沿いに三Km 、発電所から細野まで三kmある。この猛吹雪とドカ降りの雪ではとても歩ける距離ではない。不可能と判っても下界に一歩でも近づこうと必死に吹雪と苫闘して力尽きたか、又は装備もないままビバークして極寒に耐えられずに果てたかであろう。

この年の冬は気象条件が悪く豪雪も予想され、気象庁の飯田睦次郎氏は、山の雑誌の新年号で「ここ十年近くの間、荒れ狂う吹雪が一週間も十日間も続いたことがない。そのような荒天になれば、経験の少ないリーダーや初心者によって、昭和四十四年正月、北ア・剣岳一帯で起きた大量遭難騒ぎ(死者六人、不明十二人、救助を求めた者八十人)がくり返されることは必定であろう。
過保護な現代っ子登山者が増え、あ<までも頑張る精神が失われつつあるので・・・」と警告していた。この警告が不幸にも的中した形となったが、日本の冬山はヒマラヤ以上の難しさがある。

このような長期予報も知らずに冬山合宿の計画が進められた。
準備段階で生徒がこの山行にあまり乗り気でなかったと言われ、むしろ顧問が積極的だったのではないか。雪山の美しさを知っていても腰まで潜るドカ雪や何も見えない猛吹雪、強風による体感温度の急速な低下などの冬山の恐しさを顧問は知らなかった。

厳冬期の唐松岳に初心者が登ろうという計画に無理がある。一年生の父親が不参加を申し出たことでも、この登山計画は経験者からみれば適切でなかった。
遭難当時の天候急変は予想でき、途中で吹雪がひどくなって戻るバーティーと出会いながら引き返すのが遅すぎた。
猛吹雪に襲われたのは決して不可抗力でない。何も知らぬ教員がリーダーとして初心者の生徒を連れて冬山に行くこと自体が大きな問題であり、まして全員が帰らなかったのだから、その責任は重大である。

酷な言い方だが、顧問が状況判断して行動を指示していたとすれば、過失致死の責任を問われても致し方ない。リーダーの無知、未熟が大きな原因を占めると思われる遭難事故であった。

【べテラン】の教員を信じて子供を送り出した親は、悲しみの涙を流しても流しきれるものでない。逗子開成高校は 、旧制中学時代にボート部の海難事故があり、十二名が相模灘に消えた。その鎮魂歌が有名な「真白き富士の根」である。今回、出発前にある二年生が父親に「こんどは山の歌ができるよ」といった一言が吹雪に消えることを予言していたように思えてならない。 

おりひめ第21号より転載 

 kerunn.jpg
八方尾根第3ケルン
吹雪の夜に、おリンの音に交って子供の泣き声が聴こえる、
沢筋からヘッドランプの灯りが見える等々
事故後いろいろな怪談話を聞きましたっけ・・・ 


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おりひめ20 [おりひめ]

R先生 渾身の「植村直己」論

栄光も夢も雪煙に消えて

 

 植村直己がマッキンリーの稜線に消えてから一年がすぎる。昨年(八四年)二月、四十三才の誕生日に同峰登頂、南極への夢をふくらませた朗報が伝えられた。
下山途中、行方不明となり捜索が続けられたが、下旬には絶望的な文字が紙面の見出しとなり、彼の超人性に期待を寄せ、奇跡の生還に望みをつないだが空しかった。

ニ月一日、山麓のカヒルトナ氷河に張ったべースキャンプを出発。十二日に北米最高峰、マッキンリー(六一九四 m )の頂上に立った。冬季単独登頂である。七〇 年夏、初の単独登頂とあわせて夏冬の成功であった。登頂後、ブリザードのため連絡がとだえて安否が気づかわれていたが、十六日に捜索のセスナ機が元気に手を振る姿を確認したのを最後に消息を断った。

二十日からの捜索の模様は報道されたとうりである。P7210002.jpg
比較的詳細に伝えた新聞は「朝日」である。朝日新聞は山の遭難に関しては客観的な立場から報道し、時には鋭い社会的批判をのせて警鐘を鳴してきた。(例えば「五六豪雪」の大量遭難や逗子開成高校の八方尾根遭難など)
「朝日」には著名な本多勝一をはじめ疋田、武田編集員や大学山岳部出身の記者が健筆をふるっているが、今回は系列のテレビ朝日が、取材で一月から現地に入っていたため情報も早かった。同局はスポンサーではないが、取材を通して結果的には捜索にも協力した。

この遭難で捜索を直接担当したのはマッキンリー(デリナ)国立公園事務所である。二月末まで空前の航空機作戦で経費もかさみ、人件費も含めて一千万円かかった。その後の母校、明大山岳部 OB 会(炉辺会)の第一次捜索が四、五百万円と伝えられる。たった一人の遭難でこれだけの経費をかけたのは植村直己だったからである。

冬のマッキンリーは想像も絶する極寒の地の果て。その山に単独で挑んだのだから、実績のない登山者なら【無謀】の一言で非難され、捜索の航空機が飛んだかどうかも疑わしい。

登頂成功から消息不明の悲報までの報道で思ったことは、彼の冒険、登山歴を称え、生存絶望を惜しみ必ず【朗報】をもたらすのを信じて、批判めいた声が聞かれなかったことだ。素人がこの遭難に口を挟むのは気がひけるが、現地から伝えられた記事からいくつかの疑問がわいた。
全部、解明できないが、その疑問を追ってみたい。

なぜ、厳冬のマッキンリーに挑んだのだろうか?

各大陸の最高峰頂が目的ならば、十四年前の七 〇年夏に同峰に登っている。この謎をとく鍵は、八三年十月に渡米した時、つけていた日記にある。
その一部を引用する。

「十月十日、五時四五分成田よりロスに向けて出発。これから来年の三月まで約半年の予定でアメリカの旅をする予定だ。

今回のアメリカの旅の目的は南極へ向けての糸口をつかみ出したいということが最大の目標であるが、その行動として、一つは十ニ月 ~ 一月にかけて行われるミネソ夕州にあるアウトワード・バウンド・スクールに入り、犬ぞりコースに参加すること、ニつは一月中旬より犬ぞりの教科が終った後、アラスカに入り、厳冬期のマッキンレーの世界初の単独登攀すること。」
 
渡米の行動目的の第二にマッキンリー登頂をあげており、厳冬のフスカは未知なので、可能性を見極めた上で慎重に行動する旨を記している。

今回の渡米はミネソ夕の野外学校で南極向けの犬ぞり術習得が第一であって、マッキンリー登頂に関しては公子夫人にも話していない。直前の準備で荷物にピッケルを詰めているのを夫人にみつかり、「いらないんだっけ?」と言い訳している。

 では【南極へ向けての糸口】とは何か。
マッキンリー登頂前の一月三十日、カヒルトナ氷河のべースキャンプでテレビ朝日の大谷映芳ディレクターが取材をしている。同氏は八一年、第二の高峰 K2 の西稜初登頂に成功したクライマーであり、消息不明後は現地で米国の登山家、ジム・ウィックワイヤー(弁護士で K2登頂者)と協力して捜索活動に当った。

その取材の中で、同峰登頂の目的は、と問われて「別にこれといった目的はなく、冬季単独登頂もやりたいが、極地の冬山を自分で試登してみたい。登頂できなくともいいが・・と言いながらも、話が一昨年の南極行で失敗したことに及ぷと、「悔しい。畜生!」とその時の気持ちを口にしている

 植村は七八年の北極点到達後、もう一つの夢である南極横断を実現すべく、七九年に米国側の協力を得ようと知人を通して関係方面に手を打つ。エドワード・ケネディに会い、マンスフィールド駐日大使も好意的に動いてくれたが、最終的には米国の南極基地を管轄している科学財団から協力拒否の返事をもらっている。
そこで四回の南米行で知己のいるアルゼンチンから南極へ渡ったのが八二年の一月。アルゼンチンは南極大陸に最も近い国であり、突出している南極半島中心に領土宣言をしている。

その半島に多くの基地を有し、その一つのサンマルチン基地に陸軍を通してもぐり込み、南極大陸横断の準備をしながら越冬して機会をうかがっていた。
同半島のつけ根にはこの大陸最一局峰のヴィンソン ・マシフ(五一四〇m )がそびえ、当然大陸横断三千キロと合せて、同峰の単独登頂をねらっていたと思われる。

長い冬が終り氷がゆるむ頃になると、南極に近いフォークランド(マルビナス)諸島をめぐる英国、アルゼンチンの軍事衝突が起り、いわゆるフォークランド紛争のために基地の陸軍は彼の冒険旅行の援助どころでなくなり、すぐ近くに聳ゆるヴィンソン・マシフにも登れず、一歩も基地から出られずに計画を断念して諦めきれずに、翌八三年三月に帰国している。

その年十月、前に記したように渡米の旅に立ったのも、もう一度米国側の協力を得るためで、マッキンリー登頂後に南極の交渉の一つの窓口であるカナダのイエローナイフ(極北地方の都市で犬ぞりに関係があるらしい)に行く予定であると言っている。

遭難取材で現地にとんだ朝日新聞の竹内記者によれば、マッキンリーは南極大陸横断の資金を出す予定のスポンサーを納得させる実績作りであり、そのスポンサーとは米国の化学と軍用機メーカーの巨大企業二社である、という。(化学会社はデユポン社と思われる)

南極行きは確かに北極点の時より、巨額な資金と米国側の全面的の支援がなければ実現不可能なのである。

冒険家、植村直己の最終舞台が南極であり、その横断成功をもって引退の花道を飾ろうとすれば南極への渡航、各種の準備、空からの補給やサポートなど二、三のマスコミ関係のスポンサーには負えない旅となる。当然この巨額の費用を負担するスポンサーをさがさねばならない。資金提供の相手に色よい返事を求めるため、植村の存在を強く印象づけることが必要であり、厳冬の雪煙の中を単身でひたすら頂上をめざしたというのであれば何か悲壮である。

登れなければ「頭をかかえて日本に帰る」と言い、べース出発前夜の一月三十一日の日記の最後に、「さあ、精神一到何事か成らざらん、マッキンレーの単独登頂をやるのだ!」
それ程重要な意味をもつ登頂とあれば準備や装備などに問題がなかったのか。
登山装備はミネソタの野外学校が終って、アラスカへ向う前にシアトルで購入している。
シアトルには八年来の友人で、先に記したジム・ウィックワイヤーが在住しており、装備品の調達に協力している。

国内からクレバス転落防止用の竹ザオを航空便で送った他は、大半の装備を米国で購入したらしい。アラスカの厳冬季登山ということで防寒対策には充分配慮したと思われるが、着用していた衣類に問題点を指摘した専門家がいる。山の遭難凍死と肌着の関係の研究で知られる武庫川女子大の安田武教授である。植村は七〇年春のエべレスト、同年夏のマツキンリー単独登頂で、同教授の作った防寒衣を着て頂上に立っている。

今回着用していた衣服は、肌着にウールの上下、次に裏地を起毛したポリエステルのジャンパー上下で、汗の透過がよく、最近の米国登山界で流行しているもの。その上に化繊綿の防寒アノラックと防寒ズボン。アノラックは大きすぎて袖口を短かく切り毛皮をつけ、衿にも毛皮を縫いつけた。一番上にはゴアテックスの赤いヤッケを着た。

肌着のウールは汗を含む。その上の厚い二枚の化繊は水分を含まず外側に汗が出てくる。その上にゴアのヤッケを着ると大量の汗はヤッケの内側に寒気のため凍結し、ゴア本来の機能を発揮せずに下の着衣を濡らしてしまう、と同教授はいう。
このため、ヤッケ上下は最終ア夕ックキャンプと思われる五二〇〇m の雪洞に他の装備と一緒に残されていた。

べースキャンプ(二三〇〇 m )で零下三〇度以下になり、稜線は強風が吹き、零下五〇~六〇度にもなろうマッキンリーでは防寒性を優先しなければならない、防寒と吸湿を兼ねるとすれば、ウールと羽毛の組合せが最適と思われる。

又、軽量化をはかるため、べースキャンプからの登はんではテントを持たず、雪洞を多用している。雪洞はテントより暖かいが、掘るのに時間がかかりすぎると日記に記してあり、更にシュラフなしもねらったが、極寒に対してためらいもみられて五二〇〇 m の雪洞まで持参している。

次に新聞にも報道された「靴」の問題である。今回の登頂に用いた靴はエアブーツ、又はバニーブーツと呼ばれる特殊靴である。このブーツは前回登頂の時に知りあった地元ガイド、レイ ・ジュネ(七九年エべレスト登頂後に遭難)に強く勧められた、と言っている。

元来は極地用に開発された軍用靴で、全体が二重のゴム袋となり空気を入れてバルブで調整する。軽量で、保温効果は過去に凍傷なしの保障済みである。頂上付近の稜線では零下五 〇度にも下り、雪煙の舞う列風で、体感温度がマイナス100度になる厳冬季登頂を考慮して、高所靴ではなくこの靴を選んだものと思われる。
「バニーブーツ」と呼ばれるのは、登山靴の二倍もある大きさであり、ディズニー漫画のウサギに見えるからこの名称が付けられた。特に登山用に作られたブーツでないため、底は厚いラバーで曲りやすく、滑り止めもズック靴程度で、雪山で用いるにはアイゼンをつけなければならない。このブーツ専用の特殊アイゼンも出てきたばかりで、植村はそれを知らず、登山用のアイゼンを用いていた。
靴底全体が軟らかく大きさも倍であるブーツにアイゼンを装着するには、難しく多少の慣れを要した。

二月五日頃の日記に「五分おきにアイゼンが何度もはずれ、強風で手が凍えて着け直すのに二十分もかかった。やっと直して歩き始めると反対側のアイゼンが外れる」

かなり苦労し、難渋している情景が浮ぷ。当然、体力も消耗するし、行動のペースも遅くなる。冬のマッキンリーの斜面はアイゼンもきかぬ青氷の壁になるという。
登りは何とか急斜面を越えられたにせよ、下りの氷壁では後向きでアイゼンの出歯をけり込む技術を用いるが、これができなければ前向きで下降せざるを得ない。

靴底が軟らかく、力を入れると曲ってしまうので、滑落の危険性が指摘されている。地元のガイドが勧め、同国立公園事務所がその保温性を保障しているといっても、夏季に限ってのことと思う。何しろ冬季のマッキンリー登頂に成功したのは、植村直己が単独で挑戦するまで二パーティーの六人しかいない。新しいブーツを用いるにしても、事前に小登山をするなりして履き慣らす周到さがほしかった。

冬のエべレストより最悪の気象といわれるマッキンリーに初挑戦であれば、資料を検討し国内で万全の準備を整えてからアラスカに向ったのではないだろうか。
この点に関して、植村はマッキンリーを甘くみたのでは、という指摘もある。前回、七〇年夏の単独初登頂の際は運も良く、比較的楽に登っている。べースを出発してから濡れた衣服で凍傷にかかりはじめ、食糧も底をつきかけた四日目にテントを見つけた。
このテントは一ケ月前に登頂した日本スキー隊のもので、豊富な食糧にありつき、ゆっくり休むことができた。

その後は好天にも恵まれ、トレースにも助けられて七日目に頂上に立った。
高度差四千mを三日で登れると判断し、地吹雪に阻まれビバークを強いられた時に、大型テントと食料が残されていたのは幸運であった。
撤収されていればどうなっていたかわからない。

酷な言い方をすれば、十四年前につきもあって後半、楽に登れた体験が、同峰に対して組み易し、とみて気構えに油断があった。

今回の登山行動を断片的に日記で追ってみる。二月一日、カヒルトナ氷河のべースキャンプを出発、登山開始。二月二日、悪天に悩まされている。「なぜ、冬のマッキンレーはこんなに天候が悪いのだろうか。前のときの夏のように進むことができないのがくやしい
二月三日、この日は停滞。四日は難所といわれるウィンディー ・コーナーの三六〇〇m地点でビバーク。 

「風速三、四〇m 。一日三、四時間しか行動出来ず、空身で四、五〇m ラッセルし、クレバスの中に穴を掘って荷物を取りに戻ったら猛吹雪で穴がみつからなかった」
強風で吹きとばされそうになり、スコップとノコギリをザイルに結びつけ、腹ばいになり穴を掘った。歩くのも四つんばいだ。雪洞がみつからず、「確かにこの辺りだったんだが四つんばいになって右へ左へ探しまわる。おれは死ぬかもしれない」
と乱れた文字で記す。苦心惨澹、やっと戻って「青い山派」を大声で歌って励ました。一途で純朴な人柄をしのばせるが、この日は遭難一歩手前で危く難を免れている。

二月五日、四二〇〇m 地点まで登り雪洞を掘った。この登りで先に記した様に「アイゼンの不調」を訴えている。

「風速が三、四〇m 。ザイルを背負って立っていられず、雪洞を掘ろうにも風が強く、掘る場所がない」そして、「顔の感覚もなくなってきている。気温は何度あるのか、とにかく痛い。逃げばがない。どうしたらいいのか」想像をこえる強風と寒さ、それに吹雪に阻まれ、行動もままならない。

「雪洞を掘るのに二時間以上かかってしまう。雪洞の中にも風が入ってきてマイナス二〇度ぐらいある。寝袋も凍ってバリバリだ。乾いた寝袋で寝てみたい」

二月六日、停滞して装備の整理をする。「昨日、今日の風で右頬が凍傷でやられて皮層がむくれる。両手の中指の第一関節から先の感覚なし・・・ ローソクが短かくなってしまった。夜がとても長く感じられる」

凍傷にやられて精神面にも参っているのか最後に太字で「何が何でもマッキンリー登るぞ」
と記して日記はここで終っている。

最後の一行が彼をよく知る人々にとっては異常に思えたのではないだろうか。余程、身体的にも精神的にも疲れて正常な判断力を失っていた、という関係者もいる。
この大学ノートの日記は、四ニ〇〇m の雪洞に燃料、かんじきなどと共に残されていたのをニ月二十日、現地にへリコプ夕ーで降りた大谷、ウィックワイヤー両氏により発見された。

七日以降、十二日に登頂するまでの行動は記録もなく詳細は判らないが、苦闘を強いられたことは確かであろう。

登頂前後の足どりを追うと、十三日午前十一時頃テレビ朝日のセスナ機と(十二日の午後六時五十分に登頂」と無線交信している。その時の地点を二万フィート(六一〇〇m )と報告しているから、頂上の百m下になる。
その後、連絡がとだえ最後に姿が確認されたのは十六日午後、捜索のため飛行したパイロットが、四九〇〇m の雪洞で元気に手を振っているのを発見、無線で呼びかけたが応答はなかった。
このパイロットはマッキンリーで最も信頼され、十年の経験を誇るダグ・ギーティングである。同氏は当初、いわれていた地点の標高を五二〇〇m から四九〇〇mに訂正したが、姿を確認したという証言は変えない。

その地点は急斜面、ウェストバットレスの上の西尾根で、そのためここから下山途中、斜面を滑落してクレバスにのみ込れた、との見方があった。現地の国立公園救助隊が「ウエムラ絶望」を発表した二月二十六日に入山した明大山岳部 OB 隊は、四九〇〇m 以下に重点をおき捜していた。念のためウェストバットレスを登った三月六日、五二〇〇m 地点で大量の装備が残されている雪洞を発見した。

この雪洞は好天ならば頂上まで約一日のビバークで行けることから、ここを最終キャンプとして登頂を果したとみられる。残された装備品は石油コソロ、燃料、寝袋、ヤッケ、カリブーの肉、スコップ、ノコギリそれにフレーム付ザックなど約十五Kg

これらの装備品は下山時に絶対に必要で残していくことはあり得ない。この雪洞発見により、それまで推定されていた西尾根から下山途中に滑落したのではなく、これより上部で遭難した可能性が強まった。

とすれば、十六日に元気な姿が確認されたのは誤認であったのか。同パイロットの証言は姿を見たのが数秒間であっても間違いなければこの雪洞より下に降りたことになる。

猛吹雪で「ホワイトアウト」になって雪洞を見失って四九〇〇m まで降りた。
十六日以降、装備を取りに上の雪洞に戻る途中、何らかの事故がおこったとみられる。

だが現地を捜索した明大隊によると、雪洞を見落して通りすぎても五〇mも進めば狭い稜線になるから必ず引き返すであろうという。仮に装備を残した雪洞を見失ってべースキャンプに戻るにしても、好天であっても一日で降れる距離ではない。
その途中に強風で知られ、幾人もの命を奪っているウェストバットレスを下降しなければならず、標高差一〇〇〇m のこの氷壁は三、四〇度の急斜面で上部は青氷でアイゼンの爪が刺さらぬ状態だったという。

この斜面を空身で下降するのは自殺行為に等しく、とても考えられない。地元の同国立公園事務所は、当初の五〇〇〇m以下の急斜面で突風か、又はアイゼン不調」で滑落したとの見方を捨てていない。

一方、明大隊は頂上登頂後、この雪洞までの下山ルート途中でアクシデントがおこり遭難した可能性が強いと見ている。
五月になって第ニ次明大隊が捜索に向った。登頂の証として残された日の丸が回収されたが、植村直己の姿はどこにも見当たらなかった。悲報はついにくつがえらず、極北の自然に背かれてしまった。

二十年も前の六四年、明大農学部を卒業後、建設現場のバイトで貯めた一〇〇ドルをポケットに、氷河の山を見たい一念で米国からフランスに渡る。スキー場で働きながらアルプスに登り、モンブラン登頂以来三年余の放浪の旅をしつつ 、キリマンジャロ、アコンカグアの単独登頂とアマゾン川イカダ下りを達成する。そして七〇年、最高峰エべレストとマッキンリーに登り、初の五大陸最高峰登頂を果した。

エべレスト以外は単独登頂で夢は南極単独横断へと拡がる。
二年後の七二年、南極をやる計画でアルゼンチンの基地に渡るが、訓練不足で戻りグリーンランドのエキスモーと生活を共にして北極へのめり込んでいく 

七三年グリーンランド大ぞり三〇〇〇キロ単独行に成功して帰国すると野崎公子と出会い、翌春結婚する。家庭に落ち着く間もなくその秋(七四年)再びグリーンランドに渡る。「結婚したら山をやめる」と夫人に約束したのに、北極に向う言い訳けは
「北極は山じゃない」

七六年まで足かけ三年、グリーンランドからカナダを経てアラスカまで海水原を大ぞりで走り抜いた。氷のとける夏はエスキモーと生活して結氷を待った。
走行日数三百十三日、北極圏一万ニ〇〇〇キロの旅である。
高度成長が終り物質万能主義がいささか否定された時世に、我 々に替って冒険とか探険などの夢を再現してくれた男として一躍脚光をあびた。

マスコミが放っておくわけがなく、この費用七百万円はマスコミ三社、毎日新聞、文芸春秋、毎日放送が出している。毎日新聞はアラスカのコツビューに特派員を待機させて犬ぞりのゴールを特報し、文春は旅行記を書かせ「青春を山に賭けて」以来「北極もの」まで四冊の版権を握っている。

スポンサーがつけば資金援助と引き替えに日記や写真を提供する【商業的冒険】になっていく。
輝しい冒険の実績が重なると気ままな単独行ができなくなり、スポンサーに拘束されて次の企画が待っている。北極圏の次は北極点へと冒険はエスカレートし、七八年に北極点犬ぞり単独行に出発する。莫大な経費は前述のマスコミ三社ではとても賄えず、広告の電通がスポンサーを引き受けた。

三月、極点に向けて出発。極地探険の伝統的な犬ぞりで挑んだが、安全確保に文明の利器を最大限利用して万全を期した。食糧はいうまでもなくエスキモー犬まで航空機から補給を受け、 NASA の協力で人工衛星ニンバス六号に監視され、自分の位置を知らされて気象情報まで無線で送られている。四月下旬に初の北極点単独到達に成功、迎えの航空機で犬ぞりごとグリーンランドに戻った。飛行機一回のチャー夕料が三百万円、十回以上も補給したからそれだけで三千万円を超えた。基地に連絡員を常駐させ、人件費、食糧、各種の装備に犬など合せて総経費は一億四千万円といわれている。

これには極点到達後のグリーンランド縦断も含んではいるが、それにしても莫大な金額でぜいたくな冒険である。これだけの費用を負担してもらうと講演会、パーティー、広告の義務が伴ってくる。この前後、背広姿の【冒険家】の CM が国電につり下り、二万円パーテーで頭を下げ、サイン会にかり出され、「極点に立つ」記念レコードまで出されたのも全部資金集めなのである。

「私なんか商品の一つと思われてるんですよ」と出発前にもらし「人からお金をもらって、どこかへ逃げ出して一種の乞食」と自潮しながら北極点に旅立った。

グリーンランド縦断三〇〇〇キロは初の偉業で、北極点単独行より評価はされる。八月末、グリーンランドの帰路米国の記者会見で感想を述べている。
(これまで、一つの挑戦が終るたびに満足しかねて、とうとう今回の極地旅行となった。現代の冒険には、知識としてわからないことは何もないが、私は自分の心を満たしたいのでやった。計画立案の段階で大ぷろしきを広げてしまえば、あとは引き返すことはできないわけで、これが私を駆り立てる力となった。
【周囲からの圧力】といってもいいが、それだけではない。今度の探険で私は使命を果たしたと思ったが、あとで冷静になって考えてみると、私は口ボットにすぎなかった。みんなの助言通りやったまでです。」

又、冒険に対する気持ちを次のように言っている。 
「 私は意志が弱い。その弱さを克服するには、自分を引きさがれない状況に追いこむことだ。多くの方々から過大な援助と期待をいただき、自分の好きなことをやらせてもらうのだから、約束を果たさなかったら、みじめな存在になる。そうなると、少々 辛くても投げ出すわけにいかない。多くの人の支援は大きなプレッシャーだが、同時に自分の中の甘さを克服していくバネになると私は思っている」

これが本心とは思えない。大企業に【売ってしまった冒険】の商品となってしまった自分自身への言い訳けであり、余りにも大掛りとなって自分の手から離れた冒険の反省である。

旅費を節約するのでペルーの熱帯林からイカダを組み、パンツ一枚で南米の大河、 アマゾン川を下った六〇〇〇キロの旅に冒険旅行の原点がある。年令的にも一区切りをつけて、将来は北海道の原野で子供の野外学校を作り、自分の経験を伝えたいプランを抱き、最後の夢、南極への再出発の第一歩で不帰の旅に発ってしまった。いつかこんなことを言っていた。

「でも本当は怖いんです。たった一人で自然に挑もうなんて無茶な話ですよね。やっばり、畳の上で死にたいですね」と。


おりひめ第20号より転載

もう、あれから30年も経つんですね・・・
植村さん遭難の第一報を聞いたのは、当時親しくしていた探検部のTの下宿でした
植村さんの垂直よりも水平の冒険魂に憧れて探検部に入部した彼が
絶句して泣いた事を思い出します


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おりひめ19-2 [おりひめ]

S先生が 再度、山とは直接関係ない名文を寄稿しています。
前の寄稿はhttp://blog.so-net.ne.jp/taku1toshi/2012-04-21

題して「ある青年教師の悩み」?
                       昔話をひとつ

 私はどう考えてもネクラな人間のようだ。このところ身辺には落ち込むことばかり起こって、正直、陰陰滅滅としている。

 思考の糸は未来に向かうことはなく、ひたすら過去に向かう。それも十数年前の学生時代に思いを馳せる。まるで救いを求めているかのように。
 友人 Y との思い出を記そう。
Y は私にとっては畏友であった。つまらない講義などサボッて一緒に喫茶店で談笑するといった友人ではなかった。「あの先生の講義は最低だ。自分の著書を学生に買わせ、それをダラダラと読み進めるのがあの先生の講義だ。サボ夕ージュ、サボタージュリそういう友人ではなかったのである。  「つまらぬ講義だからこそ出席する そういう友人であった。
 
Y は強い自我の持ち主だった。自分の納得のいかないことに対しては、大勢順応な私などとは比較にならぬほどの拒否反応を示した。依怙地とほとんど偏執的とさえ見られる意固地さであった。
Y にはまた、確固とした独自の論理性があり、他人の介入を許す余地はなかった。
だから Y は、私たちのグループでは白眼視される存在だった。講義中でも、 Y は徹底して最前列の席にただ一人でぽつんとすわり続け、後列には私たちがすわった。
 
私は Y の物事に対する考え方、つまり Y 独自の論理性に興味を持っていた。いや、興味よりも羨望を待っていたといった方が正しい。
私は常に自分の論理性薄弱を意識し、劣等感に悩まされていた。友人たちとの交際で最も自己を主張する有効な手段は、それぞれの持っている固有な論理性だったのである。

私はその点において強く Y を必要としたのであろう。私は友人たちの「お前、よく Y と馬が合うなあ という言葉を尻目に Y との交際を始めた。交際してみて、やはり Y は尊敬に値する人物であり、 Y の論理性には頭をさげざるを得なかった。煙草をすわない Y は私の吐き出す煙にけむそうな顔をしながらも、私の持ち出す話題に対して、言葉少なではあるが的確に問題点を整理し明示した。
まことに恐れいった。客観的論理性よりも主観的心情的解釈を得意とする私はいつも聞き役であり、内心では自分の低能さを思い知らされていた。

 ある時、 Y と何を話していたのかもう記億にないが、私はあまりの劣等意識のため、ついに Y に向かって、「ぼくは君を尊敬している。強い人間だと思う。自分の中に確固としたものを持っている。止直いって、うらやましい」といったことがある。 Y は黙ってジーの顔を見ていた。それから次第に視線を Y の組み合わされた手の方に向け、とつとつと話し出した。「おれはただ自分の思うこ
とを言うまでだし、また自分の弱さを痛いはど知っている。むしろ、お前の考え方がうらやましい。自由に生きている感じがする」

最初、私は聞いていて、 Y が私の劣等意識丸出しの言葉に対して、慰めの気持ちでいってくれたのではないかと思った。しかし、 Y の表情は険しかったし、 Y は Y 自身の心の中であれこれ自問自答しているとしか思われなかった。

私はそんな Y に、「ぼくがうらやましい?僕は大勢順応で、自分というものがはっきりしていないんだ」と言った。

その後も二人の会話は続けられたが、どちらも口数が少なくなっていった。かなり長時間にわたって話したはずなのに、 Yも私もそれほど疲れは感じていなかったようだ。
 
この日の Y との交際は、おそらく私にとっては史上で最も静かなものあったろう。しかし、史上で二番目か。三番目くらいに貴重なものであった。

なぜなら、この日、私は新しい発見をした。それは私がYの中に私自身を見たということである。あの強い人間であるYの中に、私のような弱い人間を見い出したのである。そして同じように、 Y も私の中に Y 自身を見い出したにちがいない。

以来、私の Y を見る目は変わってきた。今までの受身的存在から積極的存在へと変わった。 Y は私のそういった姿勢に対して、拒否するどころか歓迎するように思われた。 Y の私を見る目も変わったのでろう。

私たちはより深くお互いの中に一歩踏み込んだことになり、より身近な存在としてお互いを理解したのである。
「人間なんて、みな同じだ。そんなにちがうはずはない」 と言われればそれまでだが、しかし、私にとっては、あるいは Y にとっては確かに貴重な発見だったのだ。

陰々滅々とした現在の私の日常を、かっての日と同じように Y に話したら、 Y は独自の論理性でもって、どのように考え、どのような表情で私に向かうだろうか。人間は人間を完全に理解することは不可能であろうが、過去のある時期において、より完全に近い理解を経験し合ったと思われる

友人は、ただ笑って私を見つめるだけであろうか。

「おりひめ第19号」より転載


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おりひめ19 [おりひめ]

おりひめ19号~28号が手に入った
P6210882.jpg






















貸してくれたのは一つ後輩のT女
彼女 国体の山岳競技出場の経歴を持ち
今は東京で公務員をされている
(昔は山口智子系でちょっと可愛かった?)

「もう 要らないので、読み終わったら山荘に置いといてください」
だそうで
おまえもそろそろ【断捨離】か?
最近知った言葉を返した
P6210883.jpg













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おりひめ18 [おりひめ]

わが会のロナウジーニョ・・・
A君達がインターハイで羨ましい処へ遠征しています。

ロナウジー.jpg


インターハイの価値


長い開会式を終えて、バス輸送で目的地へ着いた。
バスを降りた時、山麓の緑が僕の目を突き射す。はるか彼方を望むと山並みがずっと奥まで続き、心は山頂にいるようだ。

 しかし、現実は食料しかないザックを背負い不規則なトロッコ道を進んでいる。標高九百Mといっても気温は二八℃だ。新潟の平地の夏と同じだ。

さすがに汗がボタボタ流れ落ちる。幕宮地に着いた時は「三十分しか歩いていないのに、明日は地獄だ。」と思いながら腰をおろして汗をふいた。
       
ザックの重量検査、天気図提出、などといろいろあったが、なに一つ満足のいかないものだった。しかし人間というものに完壁なものはないのだとなぐさめる。


新潟の米のうまさは、屋久島やそこらの米とは比べものにならないことをまざまざと実感した貴重な食事だった。その晩はぐっすり眠り次の日に備えた。


目が覚めると空は曇顔だった。朝食を済ませ、出発の準備を始める。テントをたたみ集合すると、もう他の学校はほとんど整列していた。中には30分位前から並んでいた所もあったようだ。役員の話が終わり、各班が順番に出発し始めた。


自分たちの班が出発して数分後に天からの洗礼を受けた。ヤッケを着て歩き出したが、この雨はそこらのよりすごい雨だった。


ザックカバーには水がたまって足のふくらはぎにぶつかる程だった。しかし晴れて頭がアホになるのなら濡れた方が・・・。


その考えも一理あったが、トロッコ道の平坦な道は頭が無になり、眠っているような気持ちを感じさせた。つまり、ここにもアホになる原因があった。



大株歩道入口付近で小休止をとり、今大会の一つのクライマックスに突入である。最初は急登で疲れたが、翁杉、ウイルソン杉と巨木を見ると時間というものを、心から感じる様だった。そんなことを考えると今まで歩いてきた疲れも、ちっぽけなものに思えてしまう。

大王杉、夫婦杉と歩を進めると大会役員より『行動中止、全員退却』という指示があった。夫婦杉で昼食を摂り、今来た道を戻る。残念な気持ちと明日もこれらの杉を見れるという楽しみが入り混った。


幕宮地に着く頃には雨も上り、清々しい空気が漂ってくる。テントを張っていると次々と他の班が帰ってくる。夕食準備をしながらラジオに興じる。夜は皆で合唱したりで、なかなか和んでいた。わが校はもう就寝時間だったが……。



朝、今日はしっかり晴れてくれた。これで上へ行ける。出発してトロッコ道も終わり、大株歩道入口頃にはメンバーも少々バテてきているようだ。


巨杉を見ても昨日程感激を味わえずに歩いたが、縄文杉だけは例外だった。とても大きなものが僕らを静かに見ている風だった。上の枝を見ようと顔を上げると、頭の後まで延びていて転びそうになる。ここで昼食となったが、食が進まず半分も食べられなかった。


出発後すぐに高塚小屋がある、ここいらから稜線なので多少風が吹くので元気が出はじめる。高度が上がるに連れて花崗岩、丸い大きな岩が多くなってくる。平石、坊主岩と丸い巨岩にただ目をぱちくりさせて言葉を無くしてしまっていた。


平岩の幕営場はヤクザサの上にテントを張るために特注ロングペグを用いたが、効果はあまり見られないようだった。


今日の本当の行程だった花之江河行きは中止になっていたので、サブ行動も無くなったので急遽サブザック検査をやられた。夕食を終やすと、すぐに翌日の昼食を作ってから横になる。月のよく照っている夜だった。


 「ウー。」と鳴るサイレンの音に「何事だ。」とぱっと飛び起きる。すると雷雨の接近のため危険なので避難できる格好で待機だそうだ。すぐさま(寝ぼ眼で)ヤッケを着る。リーダー召集。指示があるまで静かにしていろなどと言われたので、テントに帰って寝る。その後朝まで何も起こらなかった。朝食を終えて撤収しているとB隊が宮之浦岳からやって来た。


今日は空もよく晴れて夜中の騒ぎなんて嘘のようだ。宮之浦山頂と永田岳との分岐点でデポして手ぶらで宮之浦山頂に向う。ヤブの丈が背より高く前の人にくっついて行かないと迷いそうな道だった。


山頂は素晴らしい眺めだった。空は青くて周りの海もこれに同調して、山肌の岩とのコントラストは言葉を無くす程だった。記念写真を撮ってから下りだ。永田の手前の登りもきつかったが、永田山頂の巨岩の織り成す芸術にも目を見張った。


そしてローソク岩の滑らかな肌は新鮮な感動そして自然の偉大な力を感じた。下りは長くだらだら続き、最後は前日までの疲れのために意識も朦朧としていたが花山入口の車道に着いた時は、声を大にして叫びたい心境だった。

山の上での時の経つのは遅く、下ってしまうと早かったと後悔の様なものが湧いてくる。人間とはおかしなものである。


夏、南の高峰、宮之浦岳を完走できた満足感がまた一つ自分の大きな自信になった様に思える。山岳部入部以来の集大成だったに違いないインターハイ屋久島は青春の大きな思い出になることだろう。


 この大会のために、どれだけの多くの人の援助をいただいたのか想像もできないか、それに報いるだけのことは出来たつもりだ。



自分の心にきめた


山の頂にたったとき


人は次に何をするのだろう


しばらくの安息を


するのだろうか・・・


 ・・・それでは、


あまりにもたいくつだ


その山を下山しながら


次の頂をさがすのだろうか


ぽくにとって


これは頂でないのかも知れない


やっと・・・一合目


「麦ちゃんのヰタ・セクスアリスより」





250px-Jomon_Sugi_07.jpg
「縄文杉」( ウィキペディアより)





おりひめ第18号より転載





世界遺産登録前の屋久杉は立ち入り禁止区域もなく「へぇ~、これが縄文杉か~!」 ペタペタと手で触り、みんなで手をつないで屋久杉を囲んで記念写真を撮ったそうです。現在は15m離れた展望台から眺めるのみです。



















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おりひめ17-2 [おりひめ]

長い、永い、とってもナガ~イ・・・けれど、谷川の登攀史、読み応えあります!

越後山岳誌 Ⅳ

谷 川 岳

固くしまった斜面に続くトレース、一歩々々高度をかせぐ。桜坂の山荘が足下となり、麓で小休止した時に見上げた壁の上部は見えず、朝の陽光が差しても壁には夜の帳が残る。雪面は対岸の米子沢を斜めに区切る。下から見上げたよりもずっと急斜面で、背に喰い込むスキーが重くテールが斜面にふれる。喘ぎながらクラストした踏み跡を慎重に登る。三十分でようやく上のブナ林に着いた。雪庇の脇で一息入れる。
 例年、春山合宿で登る井戸の壁である。雪庇からブナ林の緩登を進むと正面に広がるニセ巻機はまだ冬の厚い装いである。桜坂は林に隠れ、背後に大原太のピーク、その上に苗揚が大きく浮ぶ。八合目のニセ巻繊を登れば東に上州、会津の山が拡がる。武尊と至仏、燧の尾瀬の山々。巻機より南には米子、柄沢桧倉の稜線が続き、清水峠が低い鞍部となり鉄塔と小屋が小さく見える。峠より一段と高まる稜線が谷川連峰である。
 谷川岳、一九六三m。富士に次ぐ第二の高峰、白根山=北岳は知らなくても二千mに未たぬ標高でこれ程知られた山も数少ない。穂高、剣と共に我が国三人岩場の一つに数えられ、開山以来およそ七百人の命を呑み込んだ。魔の山である。遭難のたびに大きく報道されるから山に登らぬ人でも谷川岳は知っている。

 
三国山脈の主稜をなす谷川連峰は清水峠から三国峠までの稜線をいう。清水峠(一四四八m)から七ツ小屋山(一六七五M)、下って蓬峠(一五二九m)より主稜は大きくS宇状に続き武能岳(一七六〇m)を登り詰めると茂倉岳(一九七八m)と一ノ倉岳(一九七四m)が平頂で並び、一ノ倉沢を足下に非対称山稜の国境稜線を進めばオキの耳を経て谷川岳(一九六三m)に連する。頂上直下の肩の小屋から広い稜線は西に延びオジカの頭(一八九〇m)、小、大障子の頭と登降をくり返して急登すれば万太郎山(一九五四m)。毛渡来越(一五六八m)に大きく降って仙ノ倉への長い登りを頑張ると素晴らしい展望が待っている。連峰最高峰、仙ノ倉山(二〇二六m)には二等三角点が置かれ四囲の山々が眼下となる。明るい草原の平標山(一九八四m)から南に向って稜線は下り、大原太山(一七六四m)から三国山(一六三六m)を降りて三国峠(コニー六m)に至るおよそ二七Kmの長い連峰である。湯桧曽川をはさんだ白毛門(一七五〇)、笠ケ岳(一八五二m)、朝日岳(一九四五m)の谷川岳東面岩壁を一望できる展望コースを含める場合が多い。

この連峰は越後と上州両国の国境であり、古くから低い鞍部を通って上越の両地域の交流があった。峠道として清水峠、土樽越(現在の蓬峠)、毛渡来越、渋沢越(どこかは不明)そして三国峠の五つがあった。主要な峠は清水峠と三国峠である。清水峠は鎌倉末期から戦国にかけて軍道の役割を果し、謙信が関東へ出陣の際、最短路として峻険な山道を上州へ軍馬を馳せた峠である。

三国峠は堆古天皇の頃(七世紀前後)に大仁鳥臣により開かれたと伝えられる。上州には蝦夷鎮定の日本武尊命や坂上田村麻呂にまつわる武尊山、三国山の伝説があり、この頃、上州から日本海側に抜ける峠が開かれたとしても不思議はないが、どの程度の交流があったかは判らない。室町後半の「北国紀行」に三国峠越えが記されてあり、冬季も通行していた。戦国期は謙信と北条氏との相剋に伴い、清水峠と同じく軍道として歴史の舞台に登場する。

江戸時代になると参勤交代の順路となり街道が整備され、湯沢、三俣、二居、浅貝、猿ケ京に本陣と陣屋が設けられ各宿場に馬二十五頭と人夫二十五人が常置した。三侯と猿ケ京には関所が置かれ旅人を監視した。参勤交代した大名は長岡の牧野、村松の堀、村上の内藤の各藩で、新潟、佐渡奉行所の役人も往来した。出雲崎に陸揚げされた佐渡の金もこの街道を通って江戸に送られた。浅貝は最盛時、戸数は七十余、駅馬百四十頭が常置したと言われるから往来はかなりのものであった。

「三国街道筋書」によると、「浅貝村より三国峠境迄一里、道幅一間半よし。岩道、石道難所、一騎打之所も御座候。境目には家なし、宮一つ門に三社有り。南東は関東分、この神赤城明神、西は諏訪明神、信州分、北は弥彦明神越後分」とある。三国峠は三ケ国の国境にあって三神を祀る三坂神社がある。峠は旧暦の十月より四月まで降雪で牛馬の通行が不能で、積雪は一丈、およそ三mに及んだという。

明暦三年(一六五七年)には各宿場の問屋より清水新道開発停止願が奉行所に出されている。魚沼郡内清水村(現在の南魚沼市清水)より上州湯桧曽まで新道が開発され、そのため三国街道の往来が衰退するので停止してほしい趣が記されている。もっとも清水街道は裏街道であり清水に国留番所が置れていたから、停止願は杞憂であったのだろうが……。

明治以降、鉄道建設が進むにつれて三国街道も往来が少なくなり、特に上越線開通後は寂れた。戦後、国道一七号線として整備され、昭和三六年、峠下に「三国トンネル」が開通して、再び日本海側と関東を結ぶ主要道として脚光を浴びることとなった。峠下の宿場、浅貝部落には西武系資本により大規模な開発が進み、筍山(一七九m)山麓は苗揚国際スキー場が開設され、雄大なスロープと乾燥した雪質で知られWカップの会場にも選ばれて、東京から車で直行出来るスキー場として人気がある。夏季はテニス等の学生村で賑わいをみせている。

 北と南の両峠間の山稜は人跡が稀であったが、上州側では信仰登山が行われていた。伝承では室町初期の康暦元年(一二七九年)、谷川岳に富士山の浅間大明神が入来して地元民が山頂に祀ったといわれる。水上から少し奥に入った谷川温泉に浅間神社があり、富士、浅間大明神が祭祀されている。この神社は江戸初期、沼田城主真田伊賀守が造営したもので、水上郷一帯の総鎮守の社であった。神社に拝った富士講、浅開講の人々が天神尾根から山頂に登拝した。

谷川山頂(トマの耳、一九六三回)には薬師如来像が置かれ、薬師岳と呼ばれており、オキノ耳(一九七〇m)には奥の院が祀られて浅間岳と呼ばれていた。信仰登山の名残りに天神尾根、ザング岩、ノゾキ等の地名がある。西黒尾根の上部にザング岩の奇岩があるが、本来は天神尾根の大岩をザング岩と呼んだ。登拝の人々がその場で懺悔して登ったので名付けられたのだが、西黒尾根の奇岩の尻出し岩と取り違えられた。この山域は昭和になって登山の対象となってから地元での呼称が誤認されて地名となった例が多いが、ザング岩もその一つである。白毛門に銭入沢という小さな沢があるが、当時は一ノ倉沢がゼニイレ谷と呼ばれた。戦前の岩場開拓期には急峻なルンゼに古銭がみられたそうで、稜線から一ノ倉沢を覗くと、足元から切れ墜ちた絶壁に霧が捲く谷底には神が宿っていたと信じられたのかも知れない。


信仰登山がみられた頃、一方では秋田マタギの活躍した山域であった。明治以降は越後備の猟師が獲物を求めてかなり登っていたらしく、所謂、マタギ言葉に故来する地名が数多くみられる。


ヤバは熊狩りの時に勢子が追って来た熊に鉄砲を構えて待っていた所であり、コヤは狩り小屋を作った地点である。茂倉新道の矢場の頭(一五〇四m)は見晴らしのよいピークで絶好の地である。シシ小屋の頭(蓬峠の北西、群馬大ヒュッテ南)、井戸小屋沢(万太郎谷)や小屋場沢(毛渡沢)などがあり、シシはこの周辺でも熊のことを言ったと思われる。浅草岳の麓、五味沢では熊をクマノシシ、下田村大江部落ではシシ、新発田市赤谷地区ではシシケラと呼んでいた。かもしかは山言葉ではアオシシやクラシシと呼ぶ地方が多い。なお、清水峠西の七ツ小屋山(一六七五m)は陸地測量部の地形図作製時に天幕が七つ立てられたので地名となったという。


 蓬沢や南面の幕岩の鷹ノ巣沢はタカ狩りに関係あると思われるがこれは当宇であってタカノスとはタカスが正しくマタギ言葉で樹幹に出来た熊穴をいうのである。熊狩りに関した地名が多いが、それだけ熊も多く生息し猟師が活躍した証拠であろう。他にナカゴは熊撃ちの見張り場所、マナイタグラは熊狩りの猟場を意味しており、南面には中ゴー屋根と俎クラがあるが俎‥まないたは当字であってそれ程平坦ではない。その他、狩猟に関した地名にオジカ沢の頭(谷川岳の西方)や熊穴沢(西黒沢と赤谷川谷)がある。土樽駅の西方4Kmの一五二九mの峰はタカマタギ山と呼ばれ何か故来がありそうだ。


明治二五年から旧陸軍陸地測量部が全国の三角測量を開始して五万分の一地形図を作製し始めた。約四十年の歳月をかけて大正十三年に全国の基本測量を完成した。この地域は明治四三年頃、測量された。地名は地元の呼称を採用する場合も多く、この山城では上州側の呼称を地名に採用した傾向があり、誤認された地名もある。


谷川岳は上州側では耳二つと呼ばれていた。湯桧曽方面からみると山容が猫の耳に似てピークが並んだ双耳峰である。十九六三mの三角点の置かれている本峰をトマの耳(トバロの意味で手前にあり)少し離れたピークをオキの耳(オキ=沖、遠いの意)と呼んでいる。


信仰登山ではトマの耳を薬師岳、オキの耳を浅間岳又は谷川富士とも呼んでいた。越後側では谷川岳のことを薬師岳と呼んでいたらしいが定かでない。

 地元で耳二つ等といっていた山をいつ頃から「谷川岳」と呼ぶようになったのだろうか。おそらく明治末の測量時に誤認したのでないかと考える。谷川岳の「谷川」は河川名である。「谷川」は水上駅付近で利根川に合流する支流の一つで、谷川温泉を逆登り支流を詰めると主流のオジカ沢の頭から南東に延びる俎クラ…田植の川棚ノ頭とその南の小出俣山(一七四九m)を結ぶ鞍部が谷川の源流である。


地元では俎クラを谷川岳と呼んでいたらしい。一ノ倉開拓期に輝しい足跡を残し先年亡くなった登歩渓流会の杉本光作によれば、昭和八年頃、谷川温泉や湯桧曽では本峰を薬師岳、耳二つ、トマの耳、オキの耳と呼び、強いて古老に聞くと谷川岳は俎クラを指したらしいと云う。五万分の一地形図では谷川岳はトマの耳の三角点を示していることを考えると測量時の誤認であったと推測できよう。


この連峰の最高峰、仙ノ倉山は越後側では三ノ字の頭と呼んでいた。現在では頂上北の前峰を三ノ字の頭というが、士樽方面から山頂の残雪が三の字形に見えるからである。仙ノ倉のセンは滝の方言で、北面に集ゼン、西ゼンの美しいナメ滝がかかり、クラは岩場のことで、倉とも記す。東面の一ノ倉沢もこの意味で、この辺で一番大きい岩場であるから「第一の岩場」である。


人名が付けられたと思われる万太郎山は越後側でサゴーの峰、サゴの頭、又は砂峰山と呼んでいた。サゴとは東南アジア産のサゴヤシの米粒状の澱粉をいうが、頂上付近の風化した砂がサゴ米に似ているため付けられたという。土樽方面で越後富士と呼んでいたのはオジカ沢の頭である。このオジカは大鹿又は雄鹿に故来している。


谷川岳東面のマチガ沢のいわれがよく判らない。マチガ沢は町ケ沢であり、かつて集落があったという説によれば、清水峠越えの物質がここで交易された。清水峠は謙信の関東出陣の最短経路で直路とも呼ばれ、軍道の性格が強かった。川中島合戦以後は関所が置かれ、江戸時代は国留番所が設けられ通行は監視された裏街道である。多くの物資がこの峠を越えて交易されたとは思えない。明治になって清水街道の工事が始まり、明治一八年に新道が完成した。開通後の二二年頃は人力車が百輛、出稼者が七十人も往来したと伝えられるからマチガ沢出合にも交易所の様な番小屋が建てられた可能性はあろう。清水峠を越えた物資を少しでも越後側に近い所で交換した方が上州の人々に有利であった。冬季の豪雪と雪崩を考えると通年の居住は困難であったろうし、清水新道もその後、雪崩で崩壊して途絶していった。


又、マチガ沢はマジカ沢の訛りで真鹿という説もあるが、鹿に関したオジカ沢もあるので狩猟に関係ありそうだが、「町ケ沢」の方が相応しい様である。大正末期、清水トンネルの工事が始まった頃、湯桧曽以北には民家が一軒あったと記録されている。どの辺なのかはわからぬが、この頃にはマチガ沢出合に集落はなかったと思われこの山城に近代アルピニズムの足跡が印されたのは六十年前の大正九年七月である。日本山岳会の藤島敏夫、森喬の二人が土樽の案内人を同行して、土樽から沢をこざき薮をこぎ、茂倉、一ノ倉の稜線から谷川岳の頂上を踏んで天神尾根から谷川温泉に下った。近代登山の幕明けである。十一年前後には我が国登山黎明期の泰斗、木暮理太郎や武田久吉が西海の赤谷川谷、阿能川岳、三国山に踏み入り、十四、十五年にかけて一高旅行部が土樽から万太郎に登り、残雪期には仙ノ倉の頂を踏んでいる。


昭和に入って谷川岳を岳界に紹介したのが慶応大OBの大島亮吉である。交通不便なこの地方にも清水トンネル建設用鉄道が水上まで延びていた。大島は昭和二年三月に二人パーティーで水上からスキーで土合まで登り、武能沢から谷川往復を狙ったがドカ雪で追い返され、谷川温泉にまわって天神尾根から頂上に立った。谷川岳の冬季初登頂である。七月には三人で一ノ倉沢と幽ノ沢の岩場を観察し、更にマチガ沢を遡行して本谷の初登攀をなした。


慶大山岳部機関誌の「登高行七年」に彼は「主として谷川岳の岩壁の下調べに行きたるなり。総じて尚研究を要すべし、近くてよき山なり」と記している。翌三年三月に谷川の岩場に心を残しつつも前穂高北尾根で転落し、不帰の旅に立った。不世出の岳人と云われた大島はこの時三十才である。


三年の秋には上越南線は水上まで開通して谷川に入山が少しは楽になり、慶応、早稲田、法政、一高、東京高師の大学山岳部が入って稜線にトレースを重ねた。


昭和五年になると春から夏にかけて一ノ倉沢の初登攀が相次いだ。ここで一ノ倉沢の概観を簡単に記しておこう。オキの耳から東尾根がマチガ沢を分け、出合の左側より一ノ沢、ニノ沢が流れ落ち、正面に滝沢の大滝が懸かり上部に滝沢スラブが広がる。その右手に第ニルンゼ、第三ルンゼが国境稜線に切れ込んで本谷の第四ルンゼが一ノ倉岳に突き上げる。一ノ倉岳からの一ノ倉尾根が幽ノ沢と区界をなし、本谷側に第五、六ルンゼを刻み、出合の右手に頭上を圧する烏帽子岩、衝立岩、コップ状岩壁の垂壁が立ちふさがる。高度八百mで平均斜度四十五度になり、逆層で雪崩に磨かれ、沢の下半はスラブで上半は垂壁とルンゼが喰い込んでいる。


この年の五月、まず早大の出牛陽太郎が三人で一ノ沢からシンセン岩峰まで登り、七月に青山学院の小島隼太郎の三人パーティーがニノ沢左俣を完登した。同じ七月に東北大の小川登喜男が三人でザイルを組んで谷川に現われた。彼らは一ノ倉沢の核心部に踏み入り、中央壁より急峻で長い第三ルンゼを攀って国境稜線に出た。画期的なケルンが積まれたのは七月十六日のことである。小川登喜男は七年秋に谷川岳を去るまでの二年間の短期間に輝しい初登攀を成し遂げ、多くのトレースを残した。特に一ノ倉開拓史は彼を置いて語れない天才的クライマーである。


秋十月になってはるぱる関西からパイオニア精神の果敢な京大の四名が遠征して来て、一ノ倉に入るが果さず、衝立前沢のガンマールンゼから一ノ倉尾根に出た。


昭和六年は谷川岳登山史上で記念すべき年となった。上越線開通直前の七月下旬に再び東北大の小川パーーティーがやって来た。ビバークを重ねながら幽ノ沢ニルンゼを完登し、右俣を登って堅炭岩に抜けて、更にマチガ沢本谷を詰めて東南稜を登りオキの耳に出た。五日間で三つの難ルートに初の足跡を残すという超人的な技量と体力をみせている。


九月一日、清水トンネルが完成し上越線が開通した。新潟県、特に魚沼の長年の夢が叶い、信越線に遅れること三十二年目にして待望の新潟~上野間の最短鉄路が開通したのである。上越北、南線が徐々に延長されて来たが、最後の障壁は国境稜線の谷川連峰であった。長大なトンネルで抜けることとなり、大正二一年より清水トンネルの工事が開始された。松川、湯桧曽にループ式トンネルを掘って急勾配に対処したが、清水トンネルの工事は落盤、出水に堅い岩盤と難工事の連続で四十四名の尊い犠牲者と巨額の国費を投入し、九年と三ケ月の歳月をかけて完成して、茂倉岳直下を十分足らずで通過することになった。全長九七〇二mは、東海道線の丹那トンネルを抜いて我が国最長のトンネルとなり、開通してしぱらくの間、旅客は少なく、現在なら赤字ローカル線であったが、日本海側と関東を結ぶ最短経路として重要路線となるには月日を要しなかった。


開通後の十月に一ノ倉沢本谷、第四ルンゼに記念すべきトレースが記された。十七日、青学の小島の三人パーティーが本谷を詰めて最後は第五ルンゼとの中間リッジから一ノ倉岳に出た。翌十八日には東北大から東大に転学した小川は二名で第四ルンゼを正確に辿り真直ぐに一ノ倉岳に突き上げた。小川は本谷第二登であるが、第四ルンゼを完登した点では初登攀者と言える。更に小川は十一月、現在でも難壁であるコップ状岩壁に挑み、右岩稜を攀って尾根に出た。当時、不可能と言われた登攀であった。翌年三月、豪雪に埋れて静まりかえった一ノ倉に小川が戻って来た。一ノ沢を登り東尾根から稜線に出てビバーク、翌日は風雪の一ノ倉尾根を降りて積雪期初登攀の珠玉を手にした。


清水トンネルの開通が谷川岳を「近くてよい山」にしたのも事実だった。鉄道の使が悪かった谷川岳の直下に停車場、土合信号所(六七〇m、後に駅に昇格)ができ、上野から夜行日帰りが可能になった。この頃から社会人の山岳会が谷川岳に入山し多くの足跡を残すことになる。二千mに達しないが穂高、剣に劣らぬ岩のゲレンデに駅から直行出来る魅力は現在でも変らない。長い休みの取れない勤め人にとって夜行日帰りできる山の存在は大きい。交通が便利で有数の岩場、冬の豪雪が夏でも雪渓として残り、硬い岩稜が鋭くそびえるアルペン的風貌は同じ標高の他の山では絶対にみられない。これは岳人を引きつける条件であっても、逆にベテランに混じって一般の登山者や初心者が増えて、特に戦後は遭難事故が続発する原因でもあった。事実、開通直後に東京の青年が万太郎谷で疲労凍死した。遭難事故の最初である。単なる鉄道の開通が。山々を大きく変えたのである。


この頃より戦前に活躍した社会人山岳会は東京の登歩渓流会、日本登高会、明峰山岳会、遅れて昭和山岳会であった。特に八年頃から谷川をホームグランドにして岩に取組んだのが登歩渓流会である。東京の下町の江戸っ子が多く、そのリーダーとなり会を率いたのが杉本光作、山口清秀、中村治夫らで、当初は三つ道具は高価だった事もあるが用いず、草鞋ばきで肩で確保してザイルを組んだ。七年六月、山口清秀は一週間で一ノ沢を手始めに第三・四ルンゼ中間リッジ、負傷しながらニノ沢左俣と全部単独で登りきった。夏から秋にかけて日本登高会が南面のオジカ沢、ヒツゴー沢、タカノスB沢を遡行し、西面の赤谷川本谷も東京高師によりトレースされた。


この年の暮、新しいメンバーが加わった。芝倉沢に虹芝寮を建てた成蹊高校である。山荘をベースとして年末から翌春にかけて、堅炭岩に幾つものルートを開いた。この有力メンバーの渡辺兵力、高木正孝らは八年の三月末に一ノ倉本谷・第四ルンゼを完登し積雪期初登頂のピッケルを立てた。山麓にベースを持っている強昧である。


八年の夏に登歩渓流会の山口が単独で一ノ倉・第六ルンゼ右俣を登り、杉本、中村らはタカノスC沢、幽ノ沢の第ニルンゼと右俣に新しいトレースをつけ、一ノ倉沢の核心部では、慈恵医科大の高木文一ら二名で正面の滝沢上部にルートを開いた。第ニルンゼからザッテル越えして滝沢上部に入り、ビバークを強いられ急な草付を慎重にこえて国境稜線に出た。秋になると、再三、小川登喜男がやって来た。九月に衝立岩に挑んで中央稜を攀り、十月には弟とザイルを組んで南稜にルートを開いた。これを最後に小川の姿は谷川岳では見かけなくなった。短期間の度重なる山行で健康を損ねたのである。/div>

一ノ倉の核心部のルンゼがトレースされた中で、頑なに登攀を拒んで来た垂壁があった。滝沢である。出合から仰ぐと正面に黒い岩壁が見え、大滝が懸っている。大滝をさけてザッテルを越えて上部に出るルートは慈恵医大により開かれた。しかし下部は五〇mのハングした大滝と急傾斜の逆層のスラブで、登攀は不可能といわれた。この下部突破が課題であった。昭和九年の四月にこの滝沢に挑み、ほぼ完登したと言ってもよいパーティーがあった。上田哲農が率いる日本登高会の精鋭、中村と宮北の両名が残雪の滝沢に取り付いた。大滝を埋めた三角錐の雪渓を登り、滝を突破した。残されたメモや三時半を指して止った腕時計からして、その後は順調に登攀を続けて稜線の近くまで達したと思われる。後日、二人の遺体が滝沢下のデブリで発見される悲惨な結果に終り、一層滝沢下部が注目される様になった。


この衝撃的な遭難が一段落した五月から渓流会の活動が続く。山口が衝立沢ガンマールンゼをやり、夏には中村らが一ノ倉第五ルンゼを完登し、続いて中村は杉本とザイルを組みニノ沢本谷を詰めて東尾根からオキノ耳に出た。しかし九月に第三ルンゼで明峰山岳会が遭難して一名が滑落死亡する事故が起きた。当時、谷川の遭難は地元ではどうにもならず、後日になって渓流会の手で収容された。


十年になると、登歩渓流会の谷川岳への取組み方は凄まじいものがあった。主な記録だけをひろってみると、厳冬期の二月、杉本は岩田と組んで丈余の豪雪で埋まる万太郎谷を土樽から遡行して頂上に立ち、三月には岩田が単独で北面の仙ノ倉谷の東ルンゼを登り、六月は杉本が単独で一ノ倉のニノ沢に入り、続いて杉本、山口ら五人が衝立岩北稜に登って、七月には山口が村上とザイルを組んで衝立沢アルファルンゼで滝に難渋しながらも一ノ倉尾根に披けている。


このような果敢な登攀は常に危険と困難が伴うが、遂に渓流会から犠牲者が出た。九月中旬、谷川南面の集中登山で事故がおこった。若手の伸び盛りでこの年活躍した岩田、村上の両名が未踏の幕岩でスリップし、オジカ沢に墜死した。会にとっては初の遭難であり痛手は大きかった。翌十一年四月に再び遭難がおきた。山口清秀の弟である。山口は残雪の一ノ倉本谷に入ったが、パートナーと意見が対立し、単独でガスの中を第四ルンゼに消えた。雪崩の最盛期の本谷を狙うには無理があった。ニケ月後、滝沢下の雪渓に変り果てた彼の姿があった。


昭和八年頃から、意欲的に集中して谷川岳の各ルート開拓に心血を庄いだ登歩渓流会であったが、杉本光作の言を借りれば「今まで「実業登山家」と呼ばれて一種の侮蔑の目で見られていた私達も、近代登山を谷川岳に実践してその力量を実証したのだった。」その結晶が十一年秋に出版された大冊、「谷川岳」である。


一ノ倉に次々とルートが開拓されて行くなかで登攀を拒み続けていた滝沢下部にも登歩渓流会は情熱を傾けて来た。特に杉本は昭和八年に一ノ倉に初めて入山し、第三ルンゼを完登した時から滝沢に関心を持ち、九年秋に滝沢上部の第五登を果してから下部突破の機会を狙い、試登を繰りかえして偵察と研究は怠らなかった。


昭和十四年九月二十六日、遂に滝沢下部が完登された。まったく初めて谷川岳一ノ倉にやって来た慶応大の学生、モルゲンロートの平田恭助が登攀者である。彼は滝沢が未登であることを知り、直前に北アルプスでトレーニングをして登山相手の北アのガイド、浅川勇夫とザイルを組んだ。垂壁の草付バンドからトラバースしてハングした大滝を突破、滝沢本谷を登って、四時間の苦闘の末、国境稜線に出た。登った証拠に「トラバース中、ハチマキをさいて榛の木に結びつけた。」当時では珍らしく新聞に「谷川岳、未登の滝沢、初登攀される」と大きな見出しで報道された。 新聞を見た杉本は切歯扼腕した。彼が滝沢を観察して可能性を見い出した草付バンドから登ったのである。十月、杉本は何くそ、と滝沢下部に取り付くが追い返され、再度挑戦して同ルートの第二登に成功し、七年間も狙い続けて初登攀できなかった無念を晴した。


平田恭助は滝沢を完登したものの他の一ノ食のルートは知らなかった。当時、宿願だった難壁の初登攀者が一ノ倉を登っていないでは彼のプライドが許さなかった。一ノ倉で出会った渓流会に入会し杉本や、風雪のビバークの松涛明らの知遭を得る。その後は残された時間を惜しむかの様に北アから北海道に積雪期山行を二十回も重ね、翌春の五月に一ノ倉に戻って来た。彼は藤田とパーティーを組み、一ノ倉本谷を登っていった。午後から天候が崩れて夜半に稜線では雪が舞った。消息を断って三日も戻らぬことから遭難が確実視され、不明者が平田であるため騒ぎが大きくなり捜索隊が出された。一ケ月後、衝立沢の雪渓の下に変り果てた平田を杉本が見つけた。更に遺体収容の日、誰も夢想もしなかった破局が待っていた。収容作業を開始直後にブロック雪崩がおき、サポート隊の三名が捲き込まれて二重遭難する悲劇が起った。一ノ倉の過酷な試練であった。


昭和の初め、大島に紹介されてから十余年、滝沢が完登されて一ノ倉沢の開拓期は終りを告げた。


 戦後、世相が一段落すると一ノ倉沢にもハーケンがこだました。昭和二五年、浅間、草津白根とともに谷川連峰が上信越高原国立公園に指定され、二九年にマチガ沢から西黒尾根に新しい登山道が聞かれた。沼田営林署の竹花巌と小川副の両氏の努力で完成し「巌剛新道」と命名された。三五年には東武資本により西黒沢から天神平にロープウェーが架設され、二十分で千五百mの稜線に立てるようになった。通年営業のため観光客の急増をまねき、山頂駅周辺はスキー揚が開設され、初滑りと春スキーを楽しひ若者がシュプールを描いている。


戦後の谷川岳で活躍した山岳会は、二十年代からの緑、鵬翔、日本山嶺の各会、三十年頃からベルニナ(のちのJCC)、雲表、山学同志会、独標、雲稜会などで、若手の精鋭が先人のトレースを追い、新しいルートを追い、新しいルート開拓と積雪期登翠に積極的に取り組んで挑んでいった。


昭和三十年頃から登山者も増えて土曜や休日前夜の上野発二十二時の夜行列車は混みあい、土合駅ホームはシーズンともなるとザックで溢れた。ベテランから初心者まで玉石混淆となると事故も多発する。交通が便利になっても谷川の自然の厳しさは変らない。戦前の開拓期、昭和十年の秋で十六名だった事故死者が、戦後は遭難続発に伴い増加し、昭和二七年には一〇〇名を越え、三〇年七月では一七八名の多きを数えた。度重なる遭難に手を焼いた地元群馬県は、三三年からシーズン中は土合に県警の山岳警備隊を常駐させて事故防止に全力をあげるが、遭難は増加の一途をたどった。


一ノ倉の核心部は戦前に主なルートは登られてしまったが、この頃、未登壁で注目を集め試登がくり返されたのが衝立岩の岩壁である。出合の右手に頭上を圧して立ちふさがる巨大な壁で、烏帽子奥壁、衝立岩正面壁、衝立コップ状岩壁がおよそ三〇〇mの高距で垂直、あるいはハングして屏風状に聳え立つ。一ノ貪の核心部のルートはルンゼやスラブが多いが、この三つの前衛壁は巨大なフェースである。


烏帽子奥壁は昭和十五年に渓流会の丹羽パーティーが初登攀しているが、岩が一ノ倉では異例な程に脆く自然落石も多く、登攀の難しさは少しも変らず、ようやく数パーティーが尾根先端の烏帽子岩に達した位である。この奥壁に新ルートが開かれた。昭和二九年、ベルニナの古川純一が変形チムニールートを攀り、三三年には雲表の松本竜雄と奥山章の両パーティーが凹状岩壁に、そしてJCCの小森康行が中央カンテに各ルートを開いた。


だが、衝立岩の正面壁とコップ状岩壁は今だに未登であった。逆層の巨大なオーバーハング、脆く剥げ落ちる壁は従来のハーケンだけでは登れず、不可能とさえ言われた垂壁であり、ともにハング突破が登攀の鍵である。多くの山岳会が虎視眈々と狙っていたが、その中で未登の逆壁に執念を燃していたのが緑と雲表、雲稜の三つである。緑山岳会は二四年以来十年、コップに執拗に取りついて試登をくり返していた。


昭和三三年、四年は谷川岳登攀史でエポックをなす年となった。三三年は厳冬期に衝立沢のベータ、ガンマールンゼ、衝立中央稜、烏帽子南壁が攀られ、春から夏にかけて烏帽子奥壁に二つのルートが開かれた。


六月、衝立岩のコップがついに墜ちた。衝立沢の奥に立ちふさがって、ちょうどコップを縦に割った様にみえるのでコップ状岩壁と呼ばれる。高距三〇〇mのコップの底にあたる下部に四mの大オーバーハングが挑戦を拒んで来た。六月十五日、緑山岳会と雲表倶楽部が同時に壁に取りついた。緑は十年狙い続けた寺田甲子男が指揮をとり、左側のルートから、雲表は松本竜雄が三年前より試登していた右側にルートをとった。下部の大ハングにかかりピッチがおちる。傾めの天井、あるいは真上の壁に緑はコンクリート釘を打ち、雲表は埋め込みボルトのジャンピングをたたき込んだが、巨大ハングは越えられなかった。


翌週二十一日、再び先週打ったボルトを追って逆壁に挑んだ。緑の執念は八〇本のハーケンと六〇個のカラビナ、一〇個のアプミ、それにコンクリート釘に速乾剤にセメントまで用意し、五本のザイルと縄梯子まで担ぎ上げた事にあらわれている。雲表は新兵器の埋め込みボルトで初登攀を狙った。基部のスラプでは雑誌社とTV局のカメラが彼らの姿を追っていた。数m離れて両パーティーは 互いに攀る姿を見ながら、激しい闘志に燃えていた。ボルトや釘を打ち、アブミに足をかけ、身体は壁から離れ、ザイルを引いて宙に乗り出す。三〇分で一mも奪えぬ登攀が続いた。下部の大ハングを乗り越えて上のテラスに出た雲表の松本は、テラス直下で苦闘している緑の山本にザイルを輪にして差し出した。山本は友情のザイルに手を伸ばしテラスに立った。ここに衝立コップに二つのルートが聞かれた。テラスから上の垂壁も悪く、二隊の五人は一つのパーティーのように混じり合ってザイルを結んだ。スラブと草付の壁に時間をくい烏帽子尾根懸垂岩に出る頃、夕暮が迫った。ビバークした彼らが帰宅するより早く、全国紙がコップ状岩壁の初登攀の成功を報じた。末登の大ハングを人工登翠で登る写真までのせ、革命的な手段を用いて長年にわたる労苦が戦いとった輝しい勝利であると……。同じくコップを狙っていて遅れをとった雲稜会の南博人は四日後に第三登をなしている。


雲表の松本竜雄はこの年、七月に一ノ倉滝沢の第二、三スラブ、八月に北穂高の滝谷C沢右俣など七ルートの初登翠をなし遂げ、戦後の谷川を代表するクライマーの一人になった。


翌三四年もビッグクライムの朗報がもたらされた。厳冬期の二月末、衝立のコップ状岩壁が又も緑と雲表の両パーティーにより、同日に昨夏と同じニルートから攀られた。凍った雪はガラスの壁となり、頼りにならないボルトに身を託し、凍てつく寒気に眠れぬビバークを強いられた。緑と雲表は衝立コップの難壁の初登攀を夏冬とも分ちあった。


七月下旬、一ノ倉沢の滝沢とニノ沢を分ける末登の岩稜、滝沢リッジが横須賀山岳会の四名の六日間にわたる攻撃で登られたのもつかの間、最後の壁といわれた衝立岩正面壁を雲稜会の南博人が完登した。衝立の正面壁は脆い逆層のスラブに二段の大きなハングが頭上にのしかかり、豪雨でも濡れない大岩壁である。一ノ倉だけでなく、我が国でも最後まで残された壁で、それだけに幾つかの山岳会が最後の栄光を手にせんと狙っていた。壁にはそれらの挑戦者のボルトが打たれ、固定ザイルが幾重にも張られて無残な傷痕が残されていた。


雲稜の南は三三年から四回の試登をして適確な目で岩を読んでルートをさがしていた。八月十五日、南は藤と二人でザイルを組み、四人のサポート隊をつけ五回目の正面壁にアタックした。前回の三日間で五本のボルトと二〇本のハーケンを打ち込んだ下部ハングの突破が第一の難関であった。首をそらして天井にボルトを叩き、ハーケンを打つ。両足は壁にふれず、振れる体でハンマーを振う。脆い岩からハーケンが抜け、宙に落ちる。重力に逆ってセンチメートルを奪い取る闘いである。ハンモックに揺れて二晩のビバークの末、三日日に下部のハングを乗り越えた。上部の二回のハングを越えても脆い垂壁が続く。小さなスタンスに片足の爪先で立ち、リスを探す。スリップで滑落もした。体力の限界を超えた四目日(十八日)衝立の頭が潅木のむこうに見えた。南は胸の高鳴りを押えることができなかった。


八月末、雲表の松本は南の残置ボルトを辿り、二日で第二登を果しているが、四日も要した南の初登がいかに苦闘であったか判かろう。南は翌年二月の厳冬期、同ルートを攀り、真冬の衝立岩正面壁の初登攀の栄光をものにした。


未登の難壁が登られ「衝立ブーム」がおこり、我はと思うクライマーが続々と衝立岩に集まった。シーズンの日曜は早朝からザイルを肩に旧道を一ノ倉へと急ぎ、遅ければ下で順番を待たねがならなかった。そんな折、衝撃的な事故が起った。衝立岩宙吊り遭難である。三五年九月十九日、衝立岩正面壁上部でザイルで結ばれたまま墜死しているのを警備隊員が発見した。横浜の蝸牛山岳会の二名が滑落した。現場はハングした悪壁で、遺体収容は困難に思われた。二十日に衝立に登りに来たJCCの小森、服部が協力を申し出て、現場に向った。宙吊りのザイルには、小森、服部の技量をもってしても届かず、ザイル切断は不可能に近かった。更に二重遭難も予想され、この危険は避けねばならなかった。救助本部で自衛隊の出動が検討されたが、某新聞の記者の早合点で、二一日朝刊に「自衛隊出動、ザイル銃撃か」の見出しで報道された。現場の本部は驚いたが、論議した末に自衛隊の出動を要請した。二四日、陸上自衛隊相馬ケ原駐屯部隊の五〇名が出動、ザイルを銃撃で切断することになった。当日は朝から現場や地元関係者、警備隊と報道陣に野次馬を含めておよそ一〇〇〇人が一ノ倉出合に集まり、見守る中で銃撃が開始された。弾はザイルに当るが切断出来ず、関係者の間から溜息がもれた。午後再開され、壁に接したザイルを狙うとほどなく二本のザイルが切断され、二名の遺体は衝立スラブに音もなく落ちた。


最後の壁と云われた衝立岩正面壁が登られてから一年余、多くのパーティーが正面壁を登り、ハーケンやボルトが無数に連打され、壁が傷だらけになっても、衝立正面はやはり最後の壁であり、壁が易しくなったのではない。この遭難はザイル銃撃という世界の登山史上でも例のない事故処理であり、多くの社会的批判を浴びた事件であった。その後、衝立岩の宙吊り事故は数回おきている。


登山ブームを反映して谷川岳の遭難者も年をおって増えていった。四一年は全国各地で遭難が多発、死者一八六名に達し、谷川岳ではこの一年間の遭難が三八名と多く、そのたびにキリキリ舞いさせられた群馬県は十二月に谷川岳登山規制条例を定めた。世に言う遭難防止条例である。三月から十一月末まで、東面の一ノ倉沢、幽ノ沢、マチガ沢と南面の岩場に登る際は事前に登山計画書の届出を義務づけている。登山を規制する点から反発も強く、識者からは続発する遭難を考えれば当然という声もあって、社会的反響も大きかった。この条例では県知事が悪天候や雪崩の危険が多い場合は禁止措置を取ることが出来、十二月から二月末の厳冬期の規制は設けてなく、凍てついた岩と多発する雪崩で、命と交換して登る危険が大きい事は判りきっている。冬季は危険地区の岩場は登らないことを前提としている。


条例の賛否の論議が収まらぬうちに四二年の正月を迎えた。新年早々から北ア、八ケ岳、十勝岳、谷川岳等全国各山で遭難が続いた。 「いつまで繰り返す冬山遭難」の大きな見出しが全国紙の紙面を埋めた。当時の新聞をめくると「昨年暮から正月登山の遭難事故は警察庁などの調べによると、全国で二十件以上死者行方不明五十名を出し史上最悪の冬山となった。……山岳専門家たちは無知、無謀な行動と口をそろえて指摘している。自殺行為だけでなく、二重遭難という遭難が遭難を呼ぶような悲惨な事故がどうして跡を断たないのだろうか。


その二重遭難が谷川岳でおこった。◎◎市の山岳会の十人が正月登山で一日に人山、一ノ倉沢から三隊に分れて頂上に向った。下山予定の四日を過ぎても三人が帰らず、東尾根シンセン岩峰で消息を断った。約五十人の救助隊が土合にかけつけた。マチガ沢出合をベースとした捜索隊のテントに十日早朝、表層雪崩が襲い五人が捲き込まれて死亡した。一方、行方不明の三人は十一日に新聞社のヘリコプターが東尾根で発見、二人を吊り上げて救助した。一名は九日に雪洞で息をひきとった。入山してから晴れたのは一日だけという猛吹雪が続き、一晩で六〇センチの新雪が積る天候であった。三人のうちりーダーが冬山を一、二度経験しているだけで、他の二人は末経験者だった。三人は入山した一日、天候悪化で引き返す二組のパーティーに出会いながら、引き返す勇気がなかった。と言うよりも冬山を知らなかったと言える。


条例が施行された四二年はこの二重遭難を含めて十八名と半減したが、数名に激減したわけでなく、四四年には五〇〇人を越え、その年八月末で五〇七名という遭難死亡の犠牲者を数えた。アルプスのアイガー・マッターホルンは遭難が多く「人喰い山」、「自殺クラブ」といわれても一五〇年程で二、三百人であるから、谷川岳の遭難者が途方もない数であることがわかろう。魔の山と呼ばれて久しい。遭難の大半が一ノ倉沢で、90%以上が岩場の事故である。又、脊稜山脈で裏日本と表目本の気候の境界にあたり、天候が急変して晩春でも吹雪となる。春、秋山で稜線での疲労凍死も多い。辛夷(コブシ)の花が咲く五月、山稜の雪は雪崩れて沢筋を磨き、メイストームが吹き荒れて、連休は遭難が続発する。


開山から五十周年の今年(五六年)、すでに八名の墓標が立った。
 土合を見おろす広場の遭難碑「山の鎮」の余白も僅かである。開山以来の遭難者六九三人の名が刻まれた。


おりひめ第17号より転載

墓標.jpg

平成17年の統計では遭難者781名の名前が刻まれているそうです。・・・合掌

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おりひめ17 [おりひめ]

新顧問のS先生です

雑  感

 「おりひめ」編集責任者である白井前部長が、「H、S両先生は、数十枚の大作をものされましたよ。あなたも当然、原稿を・・・・・・。」と私のところに来る。彼は、私の怠慢を侮蔑と哀れみをもって非難しているのだ。だが、彼はあくまで職務に忠実であって、ひたすら正しく、悪いのは私なのだ。
 「おりひめ」の原稿が書けない。虚心に今年一年間の山行を振り返っても、断片的な情景が浮かぶだけで、それはそれで非常に鮮やかなのだが、しかし一向にまとまらない。かと言って、コースタイムを羅列したような文章は書きたくない。ほとほと自分自身が情けなくなった。
 
山に対する私の姿勢があまりに脆弱なため、いつも何一つつかまずに山を通り過ぎているからだろうか。どうも、そうに違いない。
それなら、しかたがない。無能な自分を呪って、諦めるしかない。
 
今年の「おりひめ」には、山のことは書けそうもない。山に関しては、両先生にお任せして、私は全く山に関係のないことを書こう。おそらく、「おりひめ」はじまって以来のことだろう。

 
実は先日、車の中で懐かしい曲を間いた。マイペースの「東京」だった。それは八年前、私が東京を離れて、赴任地、新発田で新参者として無我夢中で突っ走っていた、昭和四十九年の春頃にヒットしていた。当時、私はこの曲を聞いて.故郷新潟に戻ったうれしさよりも、東京を離れた淋しさの方を強く感じたのを覚えている。
 
東高山岳部からも、多くの先輩たちが東京に出て行ったに違いない。私が顧問をさせてもらってからも、本田、皆川、湯沢の三人が出て行った。今年は松井が出て行く。来年も、きっと、誰かが出て行くだろう。彼らは東京で、まさに青春時代の真っ只中の数年間を過ごすことになる。
 
彼らにとって、東京とはどういう意味を持つのだろうか。東高山岳部が貴重な体験の場であったと同じように、東京も彼らにとって、生の根源にかかわるような何かをもたらすのだろうか……。
 
マイペースの「東京」を聞きながら、私は私自身の数年間の東京生活を思い出していた。私にとって、東京とは何だったのか。しきりに気になり出した。今、それを考えるのも悪くはないだろう。自らの青春時代を追体験することで、今の私には欠落している何かを発見できるかもしれない。

 
私にとって、東京とは何か。もちろん、それは政治、経済、文化などの観点からとらえた東京ではない。それは私自身とは何の精神的なつながりもない、歯の浮くようなものだ。私にとって意味のあるのは、私と東京との内面的なつながりを意識できるような思考だ。
つまり、私の内部にある東京だ。
 灰色の空気が層を成している固体の街。巨大な意志と愛欲の集積する街。善悪美醜の洪水の街。コンクリートの迷路、うごめく群集。雑踏、喧騒、氾濫。自然から遠のいた薄汚れた人工的な街でありながら、洗練されたアバンギャルドの街。最も際立った危機感のある街。私が、時には飛ぶように、時には這うように生きた街……。
 
私は私自身の内部に感性的にとらえられている東京についてのイメージを追いかけてみて、私は東京が好きであり、私の青春時代は東京とイコールで結ばれていることを感じる。私の東京における青春時代史は、充実した孤独と憂愁に彩られている。
 
東京はあふれるほどの未知なものを提供してくれた。ためらうことなく私に未知な世界への郷愁を抱かせてくれた。私自身を見つめさせ、私自身の限界を暗示してくれた。
 
私はいつの日か、東高山岳部から東京に出て行った部員個々人に、彼らの心の故郷である巻機山清水山荘で、「私にとって、東京とは何か。」を語って欲しい思いがしきりにしている。

おりひめ第17号より転載


shibuya_1.jpg


私、渋谷パルコも表参道も議事堂も行ったことがありませんが。kurakichiさんのブログのように自然が多い一面もあり、色々な意味で懐が深い街・・・それが東京だと思います。




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おりひめ16 [おりひめ]

越後三山を載せて巻機を載せないと織姫が機嫌を損ねますので・・・

越後山岳誌・巻機山

毎年必ず訪れる山がある。巻機山である。春山合宿、夏季行事、米子沢、送別山行に春の総体一次予選会=技術講習会と秋季大会で山には五回登った。清水山荘があることにも因るが、高体連の大会が毎年といってよい程、この山域で開かれるために訪れる機会か多くなる。

 
上越線の車窓に越後三山がそれと分かる姿を写し、その奥に幾つもの白い峰を連ねる稜線が巻機から谷川まで続く上越国境の山並である。優雅で最も高いのが巻機連峰である。

 
六日町から国道一七号線と分れて登川に沿って走る道路が国道二九一号線である。今でこそ改修された立派な無雪道路であるが、十年前までは沢口を過ぎると杉林の中を九十九折の砂利道をバスは重い音をたてて登っていったもので、蟹沢から二子沢の橋までの山里には勿体ない広い直線の舗装道路を通ると隔世の感がある。

 
二九一号線に沿って流れる登川は魚野川の支流で、朝日岳に源流を発し上越国境の桧倉、柄沢、巻機の豊富な雪解水を集め、大源太の水は丸沢となって謙信尾根の手前で合流する。丸沢出合でハ00M、沢口で三八〇Mとこの間は急流で岩を噛み、岸を挟り、深い谷を刻んで一気に北流する。沢口をすぎると流れも緩くなって下長崎の扇状地を作り、三郎丸(一七〇M)で魚野川に注ぐ。蟹沢あたりからは川沿は耕地整理された水田か拡がるが、水田は一枚毎に段差があり畔に巨礫がみられるのは急流で荒れ川であった証しであろう。

 
登川の最奥の部落が清水である。六日町よりバスで五十分、バス停先の神社下が標高六〇〇Mの山間の集落である。集落が続いている沢口より約六㎞も離れ、山間部に隔絶した山村には集落形成時に謂れがあるが、この清水も例にもれない。

 
清水の歴史も古く、およそ九百年前に安倍貞任の子孫が上州湯桧曽に落ちのびて、その一部が国境を越えてこの地に入ったと伝えられている。安倍貞任は平安中期の陸奥に勢力をもっていた豪族で、俘囚の長である。俘囚とは古代に律令国家に帰服した蝦夷で、中央政府は首長に爵位を与え懐柔したが、九世紀以降弾圧政策をとったために反乱か絶えなかった。藤原氏の摂関政治の全盛期、一〇五一年に貞任は父、頼時と前九年の役をおこした。この乱は俘囚の乱としては最大で最後の乱であったが、六二年、源頼義、八幡太郎義家の討伐をうけて衣川に敗死した。衣川では戦の最中に、義家が詠んだ「衣のたては綻びにけり」の下句に「年を怪し糸の乱れの苫しさに」と上句をつけたと云う逸話は有名である。

 
清水部落の戸数は昔から二十八戸と変わらず(最近、二戸減少したと聞く)明治の国道開設時に移って来た小杉姓が一戸ある他は、この安倍貞任の子孫と言われる阿部姓(本家はバス停脇の「和泉屋」)と京小野塚と言われる小野塚姓(本家は民宿「おのづか」)が二分している。京小野塚とは木曽義仲に追われた小野塚太郎良房であり、詳細は知らぬが出身地が京都の清水と云われる。

 
地名の由来は、京小野塚の出身地に因んだ説と、「将門の乱」で知られる下総の平将門一族が上野吾妻からこの地に着いた時、清水が湧いていたという落人伝説かおり、「温古之栞」 (明治中頃の雑誌)には「清水入の家数は二十八軒……村際の清水は二間四方の井壷より噴出し滝の如く流下し矢の走る如し。村名の名称之に起る」とある。その名の通りここの水は美味い。夏まで消えぬ雪渓と花崗岩から湧き出して来るためであろうか。山荘の水で茶をたてると言って、水筒に詰めていく顧門の先生がおられる程である。

 
巻機山は標高一丸六七M。二千Mに僅かに及ばぬが越後駒、中ノ岳から谷川連峰の茂倉岳の間では最も高い。麓から眺めると独特の姿をみせる天狗岩の右に、しまりのない前巻機が広がって頂上は望めない。

 
前巻機(一八六一M)は尾根道のハ合目で急斜面を登り切って頂上かと思うと、米子沢の源頭を隔てたむこうに頂上が見えてガックリするので偽巻機とも呼ばれる。「偽巻」の方が通りがいい。それにしても偽巻機とは気の毒だ。もっと相応しい名称はないものだろうか。
 巻機山とは古文書によれば、いつも雲が山の腰に巻く様にして懸っているので「巻幡山」と云う。幡とは雲の意である。幕末に著された「越後野志」には、巻機山‥‥‥「妻有二在テ信州二近シト。村人云、山中稀二美女ノ機ヲ織ルヲ見ル。因テ巻機ト名ヅクト云。」とあり、これが機姫伝説である。この「巻機」とは機を織って布を巻くの意であろう。

 「温古之栞」には「南魚沼郡姥沢人の深山なる巻機山は牛が岳、鶴ケ岳と並び、上野国に近く其辺の高山にして木材と薬草に富む。上古より神山の称ありて元文(一七三六年)頃まで樵夫も頂上へ登る事なかりしといふ」。魚沼では古くから知られ「神山」と呼ばれていたから山岳信仰に関係があったと思われる。しかし山岳信仰では、中世以来のハ海山ほどの歴史はなく、魚沼の農山村の人々か信仰と登拝の旅に出掛ける様になったのは江戸中期以降ではなかろうか。
 明治維新の神仏分離と修験道の廃止により、その中から発生した神道修成派は魚沼中心に隆盛をみせた。その中心人物が行者、平賀明心である。信仰登山が盛んになり、明治二〇年に石摺が神字峰に祀られた。この有相は戦前、割引岳山頂に移された。又、牛ケ岳の石摺は平賀明心師の従弟によって戦前に祭祀されたという。この一派は現在も魚沼に信者が多く、毎年じ月ニ二日に里宮の巻機山権現社(バス停脇の高台にある)で火渡の祭事が行われている。この日は夏季行事で山荘にいっているのだが、どういう訳かまだ見ていない。来夏はこの夜は酒盃など手にせず部落に降りて見ることにしよう。

 
雪国の文人、鈴木牧之の「北越雪譜」には巻機連峰の破目山(われめきやま)が記されている。「魚沼郡清水村の奥に山あり、高さ一里余り、周囲も一里余り也。山中すべて大小の破隙あるを以て山の名とす。山半ば老樹枝を連ね、半ばより上は岩石畳々として其形竜躍り虎怒るが如く奇々怪々云わべからず。麓の左右に池川あり合して滝となす、絶景又言べからず」

 
この破目山は天狗岩(一五七八M)と思われる。文中の表現は天狗岩そのものであり、「左右の流川」は割引、ヌクビ沢で「滝」とはアイガメの滝である。牧之が巻機に登ったかは定かでないが、清水から眺めると巻機連峰の中では最も目立ち、特異な形状の岩峰であり、割引岳からの尾根を鉈で断切った様な正面壁は冬も雪がつかず「黒ツブネ」と呼ばれる。「百名山」の深田久弥は、測量時にワレメキ山を見聞き誤りワリビキ山として地名を付けた説を述べている。実際、深田説の如く天狗岩の左後に割引岳の三角錐の鋭峰が重ってみえ、測量時の錯誤も致し方ない。全国各地にはこの様に地元の呼称と異なる地名が付けられている例は多い。」

 
ヌクビ沢を詰め、稜線の鞍部から割引の頂上は一投足なのだがなかなか辛い。息を切らせて頂上を踏むと、南を巻機主峰で遮られる外は上中下越と会津の山々が展開する眺望が待っている。標高一九三一Mの山頂は碗を伏せた円頂で、三角点の石柱の傍に巻機大権現の石祠が祀られ山岳信仰の隆盛が偲ばれる。割引岳の三角点は県内では数少ない一等三角点の本点で、全国に三八九点、県内には十二点が置かれている。四〇~五〇㎞の三角形の網目に一ケ所設置されて測量の重要なポイントである。割引岳の他には妙高、越後駒、浅草、米山、日本平、弥彦の多宝山と見通しがよい著名な山頂に置かれている。残り五点は佐渡に二点、粟島の灯台、中条の朴坂山と新潟の松ケ崎である。」

 
割引岳のピークは山容や三角点からして登った実感が味わえる。これに対して、主峰巻機山は峰もない平頂で三角点も置れていないため、山頂が明確でない。標高の最も高い地点はどこか、と二万五千の地形図でみると、群馬、六日町、塩沢の境界点から西に二〇〇M寄った縦走路脇に一九六七Mの標高点が印されている。ちょうど偽巻機の正面の右寄が頂上にあたる。

 
夏季行事では、ヌクビ沢の鞍部から稜線の緩い登りを終えた縦走路との分岐点の広場で巻機山登頂万才!をやる。成程、標柱が立っているけれども正確に言えば頂上を踏んだことにはならない。毎年何回か登っているが、「頂上」には登っていない事になる。どうしても頂上を踏みたければ重い足を引きづって四〇〇Mは歩かなければならないのだ。そんな些細なことはどちらでも良い。平頂の北端に足跡を残すだけで充分である。最近は偽巻機で山頂を眺めて戻ることが多くなった。

 
実にいい山なのに最後の頂上だけが登り甲斐のないのが借しまれる。
 
この様な巻機山に対して、割引岳は麗から望まれる鋭峰の山容や山頂からの眺望が申し分ないのに、標高が主峰に僅かに及ばないので、その点を「割引」いた、として付けられた山名でないかと思うのだが・・・。

 
なぜ、巻機山の頂上は平坦なのだろうか。今から六五〇〇万~二〇〇万年前は地質年代で第三紀と呼ばれる。第三紀はアルプス、ヒマラヤ、ロッキー、アンデスの大山脈が形成された時期で、日本列島も激しい地殻変動がみられた。第三紀後牛の中新世=二六〇〇万~七〇〇万年前にかけて、著しい火山活動がおこった。続いて沈降が始まって千~二千Mの厚い緑色凝灰岩が堆積した。これが有名なグリーンタフと呼ばれている火成岩で、東北日本の脊梁山地、裏口本の山脈、富士山周辺などに広く分布している。この頃、糸魚川から静岡にかけて断層か生じてフォッサマグナが形成された。この火山活動に続いて大海進(海面の上昇)がはじまり、日本列島の大半は海没し、日本海も生まれた。

 
中新世後期になると、今度は広域にわたり隆起して造山運動が起り、現在にほぼ近い陸地を形成した。この造山運動で奥羽山脈、出羽山地、越後山脈、三国山脈そして関東の丹沢山地が生まれ、第三紀末まで隆起を続けた。この造山運動はグリーンタフ造山運動と呼ばれる大規模なもので、アルプス造山運動と比較される。

 
海進の時期でも越後、三国山脈は海没せず陸化していて侵蝕を受けた。その後の造山運動で著しく隆起するが、この地域では只見川、魚野川の侵蝕作用が勝って、直線状の深い河谷を刻んだ。しかしこの隆起も一気に起ったのではなく、間歇的に起ったために隆起が停止した静止期は侵蝕をうけて平坦地が作られ、尾根や稜線、山頂に平坦面が残されたのである。

 
この周辺で平坦面をあげると、千九百~二千M前後では巻機山、牛ケ岳、朝日岳、越後三山の中ノ岳、それに平ケ岳の各山頂と多くを数え、干五百~千七百M前後では七ツ小屋山、蓬峠、清水峠、巻機山では七合目の物見平、天狗尾根の天狗池があげられる。この様な平頂山嶺がみられるのは早壮年期山地の特徴であり、越後、三国山脈はまだ若い青年の山なのである。

 
更にこの尚辺の山地は、我が国有数の豪雪地帯で積雪も四Mを越え、一晩でIMものドカ雪に見舞われるのも稀ではない。沢筋は雪崩の巣となり、雪溶けの晩春まで危険に曝される。北西の季節風は東~南側に大きな雪庇をつくり、春先にかけて稜線から崩れ落ち、山肌を削り岩壁を磨く。越後側が穏やかな藪山であるのに上州側は稜線から一気に薙落した岩壁が続き、非対称山稜をつくった。谷川防、一ノ倉の岩場が好例であり、土合側の東面はこれが二千M級とは思えない壮絶な岩壁が天空を遮り、穂高、剣と並ぶ岩と雪の殿堂として知られることは、ここに記すまでもない。

 
巻磯山から南へは、米子頭、柄沢、松倉、大鳥帽子と千八百~九百Mの稜線が続き、主稜は更に朝日、笠から白毛門へと延びる。ジャンクションの分岐から県境の稜線は高度を下げ、清水峠と七ツ小屋山をはさんで蓬峠と二つの鞍部となる。蓬を越えると笹の茂る稜線は式能から茂倉・一ノ倉岳と再び二千M級の岩稜を連ねる。

 
清水峠は三国峠と並ぶ上越を結ぶ主要路であった。鎌倉末期に勃興した新田氏と関係深く、南北朝の頃、三国峠と共に開かれた。一三三三年、上野で新田義貞か挙兵した時、越後の新田一族がこの峠を越えて加勢し、北條一族を滅ぼしたと云われる。戦国になって上杉謙信は関東の北條氏と争い、しばしば、関東へ進撃している。文禄三年(一五六〇年)、謙信は関東からこの峠を通って帰陣した。とあり、清水峠は「直越」=すぐごえ(「上杉記」)、「直路」=すぐぢ、「湯漬飛楚越」=ゆのひそごえ、又は「馬峠」などと呼ばれていた。

 
謙信は関東への通路として、三国峠も通ったが、難路の清水峠を採ったのは上越の春日山から関東への最短経路であったためである。松之山街道から十日町を経て、六日町に出て清水街道を南下して清水峠を越えた。「直越」とか「直路」は最短経路を意味している。後になって、これに囚んで峠の北尾根は「謙信尾根」と呼ばれたが、軍勢を率いて人馬一体となり、あの急登を越えたのであろうか。又、清水から上州水上の藤原まで十五里あったので、十五里尾根とも言われる。

 
清水峠は軍争上、重要視され、謙信は坂戸城の出城、「清水城」を築いている。活水城は志水城とも書き、謙信の部将、長尾伊賀守の持城であった。峠を挾んで関東の北條氏との戦いか繰返されたらしい。

 
一方、信越の覇を競った謙信、信玄の対決は風雲急を告げ、川中島の合戦(一五五三年から六四年にかけて五回)がはじまる。合戦になってから、謙信は軍事上からこの峠の通行を禁止し、清水に関所を設けた。関所はバス停脇の「和泉屋」のところに置かれ、城主長尾伊賀守を取締の任に当らせた。

 
つい最近まで清水城は、威守松山周辺の尾根にあった見張小屋の館程度と想像していたが、そうではない。清水城址は、部落から街道を南へ〇・四K行った、柄沢山北西尾根の上に本丸跡がある。かなりの規模の山城で、ここからは街道と峠が一望され、動勢をつかむのに絶好な地であった。

 
謙信の死後、代を継いだ景勝は越後をまとめるが、慶長三年(一五九八年)会津に移封された。堀秀流入封後は、清水城は廃城となり、関所は国留番所に替った。国留番所は関所と同じ所に置かれ、江戸時代には年貢に苦しむ農民が脱出、又は関東から潜入するのを防ぐため峠の通行を厳しく監視をした。この番所は明治三年に廃止されるまで存続したが、三国街道に宿場が設けられ、越後の大名が参勤交代で通る表街道であったのに対し、清水街道は間道にすぎず、華やかな舞台には登場しなかった。

 
明治になって清水峠越えの新道開発が日の目をみて、明治六~七年に開発工事が行われ、政府の本格的工事は明治十三年から十八年まで六年の歳月を要して完成した。同年九月の開通式には北白川殿下、山縣有朋、新潟、群馬県知事が湯桧曽村に参列して馬車三台と人力車百輛の行列を呈したと伝えられる。開通後の明治二十二、三年頃は群馬への出稼者が一日に七〇人往来し、人力車百輛が動いたといわれるが、冬季は交通が途絶し、豪雪によって崩壊され、次第に衰退の一途を辿らざるを得なかった。

 
明治政府がその重要性を認め、長い歳月と莫大な費用をかけて建設した新道は、いわゆる旧道で土合側ではマチガ、一ノ倉、幽ノ倉、式能沢と大きな沢を迂回し、等高線に沿って走る側の道である。随所に切石を積んだ石垣が残っている。そして湯桧曽川沿に白樺尾根まで続く新道が、その昔の清水街道にあたり、新旧が逆に呼ばれているのは谷川岳開拓期に入った登山者が勘違いしたのではないかと思われる。

 
清水峠越えに再び開発の手が加わったのは、戦前の送電線建設工事である。信濃川の豊富な水力に目を付けた国鉄が、東京周辺の電車動力に利用する計画を立てたのは大正年代であった。計画は大遅に遅れ、昭和六年、中魚沼に千手発電所の工事か着工され、同十四年に第一期工事が完成し、送電が開始された。高圧の送電線は、十日町の対岸から魚沼丘陵をこえ、六日町から清水街道沿いに走り、清水峠を越えて東京までおよそ二〇〇㎞、送電される。

 
更に戦後、千手の下流に小千谷発電所の工事も開始され、昭和二十六年に二本目の送電線が峠を越えた。両発電所とも最大十二万Kwの発電力で、完成時は国内最大の出力を誇っていた。

 
峠越えの送電線工事では、古い清水街道、旧国道が各所で役に立ったのは言うまでもない。峠には「雪崩見張所」が置かれ、近年まで職員が常駐して送電線を守っていた。

 
戦後、著名の山々が観光開発の波に洗われて、北アルプスをはじめ、南ア、谷川岳にもロープウェーか掛かり、スパー林道が高山を走る様になった。「上越の知られざる山」として紹介されて以来、巻機にも多くの登山客が押しかけて来る。芽葺屋根が軒を並べた清水部落も、カラー鉄板の屋根に替り、民宿の看板が目立つ昨今である。

 
春の巻機、夏の割引、ヌクビ沢、秋の米子沢、早春の山荘と四季を織りなす巻機山はすばらしい。豪雪に埋まれた今冬、山は清水とともに眠っている。
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おりひめ第16号より転載
感想:清水ってそんな歴史と伝統のある部落だったという事がよく分かるR先生の素晴らしい講義でした。

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おりひめ15 [おりひめ]

再度R先生の登場です。

越後山岳誌

 
越後三山

 中越の平場から見える山の一つに越後三山がある。北魚沼と南魚沼にまたがっているので魚沼三山とも呼ぶが、近年は越後三山と呼ばれている。

 上越国境を北から南に長く走る越後山脈の南端にあって、最高峰の中ノ岳を中心として北に駒ケ岳・西にハ海山とV宇状に連なる。冬の丈余をこす豪雪と夏の降雨は激しく侵食し、稜線まで深い谷を刻み、夏なお残る雪渓は魚野、只見の急流となって流れ下る。

 三山が均整のとれた形で見えるのは小出町である。左に駒ケ岳、中央の三角錐は中ノ岳、右にそれとわかるハ海山が等間隔に三山三様に並ぶ。魚野川を眼下にした小高い丘からの眺めは素晴しい。新雪か残雪の頃が一段と良い。三月末、小千谷のはずれの雪峠から眺めた三山は、段丘と杉林が白と青の帯模様を重ねた上に白く頭をのぞかせていた。

高度感があって二千mの山とは思えない。三山の中で最も知られているのはハ海山である。古くから信仰登山で登られ、鋸歯状の特異な山頂はどこからでもすぐにハ海山とわかる。

ハ海山とは妙な山名である。山上にハつの湖=海があるからと言うが、しかし胡など麓にも山頂にもない。小さな池塘は幾つかある。大崎口と大倉口が合する四合目に雨池(池というよりは湿地であるが)とその周辺に五つの池があり山頂の剣ケ峰直下に、日の池と月の池、やや離れた五龍の池とでハ海だという。

 一説には「連峰ハつあり、其の峰次第に高くして楷を登るが如し。故にハ楷山という」とあり、ハつの湖よりハつの楷の方が相応しい。

 越後が生んだ岳人、高頭式(日本山岳会創立者の一人で「日本山岳志」の著者)は、ハ峡ハ谷からハ峡山と書いて「はっかいさん」と呼ぶのが適切であろうといっている。

 又「百名山」の深田久弥は、木曽御岳にあるハ海山の名を信仰の徒がこちらに移した説をとっているが、江戸時代にハ海山が御岳信仰の行者の霊地になった事からすれば、最も適切かもしれない。

 ハ海山は中世以来、修験行者の道場として回峰行がおこなわれていた。修験道は山岳信仰の一形態で山に登り苦行して神験を修得するもので、密教と結びついて十二世紀頃に成立した仏教の一派である。真言宗の高野山金剛峯寺と、天台宗の比叡山延暦寺がその主流であり、他に熊野・白山・羽黒山・彦山の系統があった。

 
 近世末にハ海山は御岳信仰の行者の霊場にかわり、明治以降、修験道は廃止されたが、ハ海山登拝講中が南魚沼を中心に盛んになり県内最大の山岳信仰の山として知られる。大崎のハ海山神社では、十月二十日の火渡りの行事に多くの白装束の信者が集まり、寒中の水ごりを取る行者の姿をみかける事がある。

 信仰登山で古くから開かれた登山道が多く、城内・大崎・大倉の登山口から整備された道が九合目の千本檜小屋に集まる。どのコースも信仰登山の面影を色濃く止め、祓川・清滝・縁結石・摩利支天ノゾキ松等の地名が残っている。当時は女人禁制で大崎口の六合目に女人堂がある。女性はここから上には登ることは出来なかった。

 城内口はやせ尾根や岩場が多く、変化とスリルに富んだ道で難行苦行を強い、肝を冷すに充分である。

 稜線の千本檜小屋より岩峰がハつ連らなっている。砂利をまぜたコンクリート状の岩石は疎岩で、脆いうえに豪雪の侵食をうけて硬い岩峰が鋸歯状に残ったものである。第一味の地蔵岳から四味の剣ケ峰を経てハ峰の大目岳まで巡拝するのをハ峰巡りといった。大日岳(一七二〇m)は信仰上の頂上で最高峰である。奥の院が置かれ天照大神、不動明王が祀ってある。起伏の大きい岩峰や岩場には鎖や鉄梯子がかかり、道は水無沢側にはよく踏れているので慎重に足を運べば心配ないが、今と違って信者がハ峰巡りをした頃は危険な所もあったに違いない。

 ハ海山を起点とした中ノ岳・駒ケ岳への巡回登山も盛んであった。ハ海山から最底鞍部のオカメノゾキに下って中ノ岳までは八百mも上らねばならず、今日では駒ケ岳から中・ハ海への三山縦走コースが多く選ばれる。

 
 三山の最高峰でありながら不遇な山は中ノ岳(二〇八五m)であろう。二千mをこえる山は上越国境にも幾つもない。北隣の駒ケ岳と利根川源流の平ケ岳に谷川連峰の仙の倉山ぐらいである。高度で山の品格を問うわけではないが、干m台と二千m台ではより高い山に登りたいのが人情だ。北アや南アで三千mの高山に人気が集まり、ヒマラヤの八千mの巨峰の登攀がニュースになるのと似た原理である。

 
 里から離れて三山の中央に位置するため登山コースが限られているからであろう。八海か駒からの三山縦走で頂を踏む他は、三国川の十字峡から頂上に突き上げる沢登りの直登か、十字峡を更によって丹後山から兎岳を経て中ノ岳に達するかである。兎岳からのコースも国境稜線までの急登が辛い。数年前の夏合宿で顎が出たところである。コースだけであろうか、この様な山なら他にあるが、頂上が登り甲斐がない。なだらかな円頂でピークもなく標柱があるだけで、登りきった感激がわかないのだ。

 里では中ノ岳を銀山と呼んでいた。奥只見の銀山平と関連があるのかはわからぬが、南西の中腹に金山があったという。十字峡からの直登コースの日向山をすぎた鞍部に生姜畑という地名がある。その昔、この辺から生姜の根の形をした自然金が産出したと伝えられている。

 
 駒ケ岳(二〇〇三m)は三山の代表格である。二千mの高さといい、形といい申し分がない。浦佐からの眺めは小倉山からの稜線が馬の背を想わせる。小出から湯之谷へ進むにつれてピラミダルな姿に変わり、大湯のスキー場に登ると右に限界尾根の岩峰が変化をつけ、頂上直下に大チョウナ沢が絶壁となって落ち込んで越後のヤブ山とは思われない。

 駒ケ岳という山は各地にある。北海道の大沼の駒、秋田駒は火山で高さも低いが、会津駒、甲斐駒、木曽駒はその地方の名に恥じね高山であろう。残雪時や雪消えの頃に駒の形が現われるので駒ケ岳と呼ばれる事が多く、越後駒も頂上付近に駒形をしたコマ雪がみられる事に由来する。
 
 枝折峠は車が上るので、ここを起点とするコースが最も楽である。
 峠(一〇六五m)は高さにすれば駒ケ岳の五合口にあたるからだ。道行山まで高度もかせげず単調な潅木の道だが、小倉山を過ぎると視界も開け、正面に駒ケ岳が聳え立つ。お花畑となる百草の池から急登となり岩場をこえると駒ノ小屋である。

小倉山に合する駒ノ湯口は、急登できついが、下山では駒ノ湯で汗を流す楽しみがあるから自然と足も早くなる。駒ノ湯は建て替られて新しい旅館となってしまった。懸け出した屋根が傾き、虻がとび交う露天風呂の情緒が失われたのは惜しまれる。夏でもぬるく、すぐに上れない湯には変わりはないのだけれど……。
 しかし千mを越す険しい稜線に峠が開かれたのだろうか。その名の通り枝折峠は枝を折って進まねばならない峠であった。江戸前期に発見された銀山平の銀鉱の搬出路として切り開かれたのである。

 
 寛永二八年に只見川の銀山平(現在の恋の岐川が田子倉ダムに合流する付近で湖底となった)に銀鉱が発見された。越後と会津の国境だったため紛争が生じた。幕府の裁定により銀鉱は越後側となり高田藩が採堀、経営にあたった。元禄期に最盛期を迎え、御陣屋=銀山役所や製錬所を中心に寺や遊廓まで備えた一千軒余の鉱山町が出現した。この銀を小出まで搬出する銀山街道が開かれた。

 銀山平から石抱を経て、沢沿いの谷を登り旧枝折峠(現在の明神峠)を越え、大湯に下った。小出までの四五kmに大湯、芋川などの宿場町が栄えた。だが、銀山の全盛は十年と続かずその後は鉛山として幕末まで経営されたが、安政六年、只見川の川底が破れて水没して鉱山の歴史も幕を閉じた。

 明治以降、出作部落や開拓部落がみられたが、戦後、昭和三三年に始まった電源開発により、奥只見ダムの湖底に沈んだ。

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おりひめ第15号より転載

地政学的にも貴重な文章だと思います。考えてみればR先生、山岳部の先生でしたが、本職は地歴の教師でこの方面のプロでした。






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おりひめ14-2 [おりひめ]

「ピッコロ9」より連綿と続いてきたH先生のヒマラヤ遠征記もいよいよ最終章です。
最後を飾り全文掲載します。(長いです)

遠 征 の 終 焉
◎孔雀の扇
インド・ナショナルバンクでトラベラー・チェックをドルに現金化し、少し金持ちの気分になる。三人でインド国立商品陳列館へ行ってみることにする。何か適当ないい土産物が買えるかもしれない。コンノット・プレスを右廻りに歩き、ホテルの正反対の№八ラジアル・ロードへ行った。 そこはJALのある通りで四車線もある立派な道路だ。歩道は人でごった返している。(ナッパ服もあればサリーもあり、最も標準的なのは白Y シャツにステテコ姿。サンダル穿きか裸足が圧倒的に多い。

そんな中の一人が孔雀の羽根で作った扇を沢山持って売り歩いていた。インド人には勿論売れない。我々をみつけるといいカモをみつけたとばかり、鼻髭をピクピク動かし愛想よい笑いを浮かべて向って来た。

男の持っている扇の大きさは、直径三十Cm位の小さいのと、一方、直径一m もある大きいのと二種類ある。流石デリーの大道商人だけあって、客慣れしていた。大きい方に我々の眼が集っているのをみてとると、「ビッグ・イズ・フィフテーン・ルピース・べリー・ロー・ペイ」沢山の扇を振り振り寄って来た。「小さいのはもうカトマンズで買った」と言うと、大きいのがいいと勧める。こっちも相談して半値にまけたら買おうということにする。冷やかし半分に二本でいくらか?と聞くと、ちょっと考えて、あたかも我々の腹を見透かしたかの如く、「ツー・フィフテーン・OK ?」さすが感の良さ!と驚く。そこで、すかさずもう一声。「ワン・セブン・ルピース」彼は一瞬戸惑って、しばらく考えてから、どう納得したのか、OK!OK!と二つ返事だ。三本も一度に売れるのだから半額以下になっても彼は儲けたつもりなのかもしれない。彼の計算はどうだったのだろう。あるいは案外、仕入が五ルピーぐらいで結構儲けられたのかもしれない。

でも孔雀の尾羽根一本百円もするのを四十本以上使ってある豪華な品物だから、到底日本では三百五十円で買える代物ではないし、有る筈もない。

 扇を手にし、国営の鉄筋でできた土産物陳列場に入る。さすが国営だけあって、各州、各地方の物産が並んでいる。青銅製品・象牙製品・宝石類・毛皮類が、ぎっしり並べられ、眼を見張るものばかりである。そこで真鍛製の首の長い、エキゾチックな模様の彫り込みと彩色の施してある水差しや、コップそれに象牙製のペーパー、ナイフなどを購入する。

◎デリーの「銀座」で食事をする。
 少々 、暑さバテしたので宿へ帰って一休みする。夕食はちょっと豪勢にしようと衆議一決、街のレストランへ繰り出す。

通りへ出るとさすがべテランのY氏だ、目ざとくすぐ近くに『銀座』いう店をみつけた。ちゃんと日本語の漢字で行燈風の街灯に書いてあった。中に入ると、眩いばかりのシャンデリアが輝き、予約客四十人位の席の準備中だった。我々は端っこの方に席をとる。日本なら入るとすぐさしずめ冷水か、お茶のサービスがあるのに、サービスだと思って頼んだグリーン・テーがなんと一杯二百円もした。そのあと、米の飯が恋しく、チャーハンとスープを註文する。一人前三百八十円なのだから、グリーン・テーがいかに高かったかがわかる。もっともお茶は摺り鉢型の大きな白磁に紺色の紋様のある綺麗な茶碗に入れてあり、いい香りがした。

久し振りに炊いた米の飯にありつくことができたし、お茶も飲めた。もっとも外米特有のあの匂いだけは、どうしても馴染めないので、赤い、凄く辛い「チリ」をたっぶりまぶして匂いを消して食べないととても喉が通らない。

帰り路、注意しながら歩いてくると『みかど』と日本語のひら仮名で書いた瀟洒なレストランがあった。ここは明日の夜の楽しみにしようということで、ホテルに帰る。この第四ラジァル・ロードが一帯はもしかしたら日本街なのかもしれない。明日はいよいよ待望の夕ジ・マハール行きだ。早朝の出発が気になり明日の旅を夢に描きながら、早めに眠りにつく。

◎タジ・マハール
六時、眼醒める。共同洗面所へ行って顔を洗い、用を済す。Y嬢も勿論張り切っている。亜熱帯の朝は霧もなく爽やかだ、下の広場へ出ろともう車のエンジンをかけて、運ちゃんが待っていた。早い時間なので、互いに待つ人と待たれる人は、外人でも意志が通ずる。
「ゴー・トウ・タジ・マハール?OK ?」「イエス」「アイ・セイ。ウェイト・ユー。ジャスト・モーメント」二言、三言やりとりするうちにY氏が駆けつけ、六時三十分、ハイヤーはコンノット・ブレスを出発する。第八ラジアル・ロードからスーザン・ロードへ出てスピードを上げながらインド門へ向う。『 ゲート・オブ・インデア』 は、第一次大戦の戦没インド兵一万三千五百十六人の名を刻んだ、高さ四十Mのパリの凱施門によく似た形をした堂々たるものだ。
ここでしばらく車から降り早朝の冷気で眠気を醒す。早すぎてか広場の鳩も動きが鈍い。ひとしきり記念撮影などをし、所期の目的に向かって出発する。

 デリー郊外近くなり、女学生の登校姿が目にとびこんできた。街路樹の下を皮鞄を持った生徒達が嬉々と行く姿は、どこの国も同じだ。
それにしてもこんなに早く、夏時間制なのかな?細身のスラックスに紺の薄い布を首に巻いて、さっそうと潤歩する姿は、朝の爽やかさにふさわしく、フレッシュである。

やがて街路樹もなくなり田舎へ入る。朝の市場へ急ぐ牛車に行き会う。荷台にはココヤシの大きな実が満載され、引き牛は一頭のもあれば二連のものもある。みんな水牛が引張っている。一つ二つやり過したが延々と続いている。朝のラッシュだ。ふり返えると、ココヤシの実の上に白いワイシャッ姿の青年が、どの車にも一人か二人乗っている。きっとデリーの市場でせり売りが開かれるのだろう。

 亜大陸の舗装路は南へとどこまでも続く、途中の部落へくると真鍮の水瓶を頭に載せ、片手で支えた主婦達が、四・五人道路端を歩いている。遠く先の力で道を横切り河辺へ水汲みに、降りて行く女性もいる。朝食の仕度の水を取りに行くのか、賑やかに三々五々。連れ立って楽しそうに語り合いながら行く、一日の生活の始まりなのだ。一昔前の日本の井戸端会議が始まるのだろう。青空に浮かぶ白雲が水面に反射して美しい。運ちゃんの年令を聞くと、二十五才だという。さすが隠しきれず、三ケ月前に結婚したばかりだと照れながら告白した。照れていると思ったのは我々だけで、かえって外人は聞かれなくても進んで人に話すのかもしれない。奥さんの事や結婚式の事など聞きたいのだが、細い心の動きなど通ずる術もなく(多くのインド人の英語は、わかりにくい。)昨日買った孔雀の扇の事などを話題にする。途中、第二ムガール帝国時代のフマユン城に立ち寄る。赤い城門を入ると両側にヤシの並木が続き、最奥部には栄華を極めた雄大な居城があった。白の大理石ドームはこれから行かんとするタジ・マハールの前奏にふさわしいものであった。

車は更に南下する。道端に四頭の巨象と、一頭の子象をつれた一団に出合う。真横に来たら象の腹が窓一杯になり、なんにも見えなくな
った。運ちゃんいわく。「ワン・ルビース・ショウ」だと、車を止めて象の芸を見ると、一ルピーとられるのだ。例のコブラ・ダンスと同じ物だ。せっかくの異国情緒もぶち壊し。象が座ったり、ちんちんしたりするショーは、もうサーカスでお馴染みなので見なくてもいい。

もう十時近い。早朝は少し涼しかったのに、車窓の風景はいつの間にか強烈な日射しに変わり、今日も暑熱が襲い、半袖、短バンなのに汗が出る。やっとアグラ市の市街へ入る。
間もなく決隆寺の門前町のような賑わいのする広場へ車が着いた。運転手の案内で人を掻き分けながら入場の札売り場へゆく。行列を作っている。入場料は意外と安い。門を潜って中に入ると、両側一杯に仏像とその写真、絵葉書や宝石、それに小物売場がずらりと並んでいた。その間を通り抜け、広壮に立ちはだかる赤い門を左に折れると、其処には目をあざむく、夢にまで見た白並の殿堂が凝然と現われた。

「これぞまさしく、タジ(王冠)・マハール(殿堂)だ!」碧い空の中、白大理石のためにそのあたり一帯が、ハレーションを起こし象牙色に輝いてみえる。
中央の水路に沿って緑の植え込みが整然と並び、数百m の奥にその距離を感じさせない大きさで調和のとれた大理石のモスクがたたずんでいた。歩いている人間のなんと小さいことか!

今から四百五十年前、ムガール王朝の最盛期に、シャージャハン皇帝がその財力に物をいわせ、妃に対する限りない優しい、慈しみの情から巨億の工事費を注ぎ込み、二十二年の歳月をかけて完成したものである。工匠は遠く西欧からも呼び寄せられたという。

贅と美の極限であろう。皇帝はなおもその上にャムナ河の対岸に、自分のためにも同じものを作り、銀の橋で結ぶ構想を持っていたのだという。人間の欲望もそこまでいくと広大無辺で愛らしさを憶える。
左手の地下室の人口で不浄な革靴は脱がなければならない。代りに五十円(入場料の五倍)の借用料を払って、スリッパのようなオーバー・シューズに穿きかえる。

磨きぬかれたホワイトマーブルは手に触れると、女人の肌のようにしっとりと吸いつ<感じだ。この石は四百Kmも離れたマルクラーナから運ばれたものだ。暗い中へ入ると丁度窓からさし込む光が、中央を照らし二つの枢が並んでいる。勿論王と后のものである。枢には碧玉・ルビイ・血石等の宝石で装飾され、三Cm四方の一つの花に六十種もの石が、嵌め込まれた象眼細工でできている。その枢を囲んでいる衡立ては、高さ一・八m の薄い大理石のもので、イスラムとヒンズー様式の絶妙に、混和した細い雁木模様が両側から透し彫りしてある。枢の安置した地下室から階段を昇ると、広いテラスに出る。高いモスクが見上げるように聳え、それは七十四m の高さがある。この大理石の大建造物は今真昼の陽光にまばゆく輝いているが、黄昏れ時には夕日に暖かく燃え上がり、月光の中では、青白く光彩を放ち、柔和な霊気を漂わせ、何ともいえぬ神秘的光景を呈し、人々を魅了する魔力があると言い伝えられている。
十一時過ぎ混雑はだんだんひどくなる。名残り惜しいけれども、そろそろ引き上げる潮時だ。


◎アグラ城からダイビング
雑踏を抜け出し、今度はアグラ城へ立ち寄る。赤い岩石の城門を潜って入ると今までのタジ・マハールの女性的優雅さとは、うって変って武骨な城塞になる。

高い壁に囲まれた長い緩やかな坂道が階段になっていないのは、馬で往き来したのにちがいない。上りきった中庭に出ると、中央には武
勲者のための広い表彰台があり、その奥に玉座がある。周囲の城壁は更に階段を昇って上に出ることができる。南の鐘廊へ行くと大きいヤムナ河の下流、遥るか彼方にさき程までいた壮麗な白い夕ジ・マハールが望見できた。

城壁の真下はヤムナ河が滔々と流れ、天燃の要塞をなしている。
さかんに人だかりがするので行ってみると、裸で褌一つのインド人がいる。聞けば五百円で城壁から十数m下の河へダイビングしてみせるのだという。金のためとはいえ、命知らずがいるものだ。水に跳び込まないうちに途中で、窒息するのでは?金をとられないうちに退散しよう。

◎大麻もどきのタバコ

アグラ市からの帰路、運転手君は沢山立ち並ぶキュリオ(骨董屋)の一つへ案内してくれた。ウィンドウにはペルシャ製の敷物や、毛皮・象牙が沢山並んでいるが、みんなゴージャスな高価なものばかり、とても手が出ない。
ハイヤーでタジ・マハールを往復する客だからよほど金持ちとみたらしい。しかし主人の名刺をもらったきりで外へ出る。

一時間程走り、昼食のためにドライブ・インへ寄る。そこには土間にテーブルだけが数ケ置いてあり、立ち食いだ。パンとコーヒーで腹を充たし、味気ないので外へ出ると今まで気がつかなかったが、沢山の蝶々が群がり飛んでいる。カバマダラ、ヒョウモンチョウ、タテハ類ジ口チョウ類。なんで捕虫網と三角紙を持ってこなかったのだろうと、今更悔やんでも始まらない。本能的に帽子を持って追いかける。鱗粉が剥げて可哀想になる。


新婚の運ちゃんがそわそわしている。そうだ彼は早く新妻のもとに帰りたいのだ。車に乗らなくては。発車後、間もなく百Km 近い猛スビードで飛ばす。はらはらさせられるが、舗装道路は比較的広いし、車も少い。しかし、おかしい事に三十分も走ると、時々 四十Km位にスローダウンする。よくみると運ちゃん居眠りをしているではないか。「はっ」と気がついて、又猛スピードでとばす。これはたまったものではない。新婚早々で眠いのもわかるし、早く帰りたいのもわかるが外国で自動車事故死してもつまらない。何とか眠気を醒まさせようと、Y氏が話しかけるが、うわの空、生返事しか返ってこない。又ぞろスピードが落ちる。デリー郊外のヤシの木や菩提樹の並木が見えて来た時は、ほっとした。まさに地獄に仏とはこのことかもしれない。四時二十分着、長い一日だった。運転手には、九千円を支払い五百円のチップを出すと、三拝・九拝して嬉んで帰って行った。


暑いのでやけに喉が渇く、水道水は恐くて飲めないし、安宿では飲料水のポット・サービスもない。インドが厳しく禁酒国を守っているのが解る気がする。エスキモーは寒さのために、酒びたりになり身を滅す破目になったが、インドが暑さのためにその二の舞いになってはならない。


冷えたビールとウィスキーを買って来て三人で乾盃する。このビールのうまさはどうだろう。


タ食は『みかど』へ行く。バンドがいるのでドルジェが得意気によく唱っていた『 ラブ・イン・東京』をリクエストしようか?と、Y氏がいうが、この店のムードからいくと高そうだから止めようということになる。だが案外、安いのかもしれない。価格の見当がつかないことが外国では一番不安だ。

日本人は何をみてもすぐ「ハウ、マッチ」を連発するそうだが、悪い習慣というよりも、不安と購買意欲のあらわれなのだ。例によって、チャーハンとスープ、三人分で〆て千百円也。安い!

夕暗迫るネオンの街に出る。熱帯夜は何処へ行っても暑苦しく身の置き処もない。


 煙草屋を訪ね歩きやっと探しあてる。第四ラジアル・ロードのデリー駅の引っ込み線の近くまで来てしまった。
うす暗い街路の真中に色とりどりの日用品雑貨や食べ物・果物を並べた屋台が裸電球に映し出された市場があった。一番はずれへくると何やらタバコらしいのが売っている。小指位の長い円錐形でカシワの葉?を丸めたようなものだ。これをさらに十本束にし、赤か緑の粗末な紙で包み、丁度クリスマスのクラッカーそっくりの形をして売っている。「ウオット・イズ・ゼス?」「オー・ゼス・イズ・タバッコ・ユー・テスト?」と一本火縄で火をつけてくれた。吸ってみると軽くてほとんど煙の味がしない。好奇心も手伝って、「ナイス・グッド。ハウ・マッチ」「ゼス・ワン・イズ・テンパイサー」一包五円である。早速三ケづつ買う。よくみるとインド人は大抵これを吸っている。これが羽田空港の税関で今流行のマリハナと間違われ、三十分以上足止めを食う原因になろうとは夢想だにしなかった。

 明日は、とうとうインドを去る日になった。思えばニケ月、前半は烈しい闘志をみらぎらせ山に挑み、望みを達した。今は予定の観光を終えて悔いるところはない。明日の出発が三時に早まったので、ホテルの支払いを済ませ、ザックをまとめ、ベットにひっくりかえる。ヤモリと共に早く寝よう。


◎木の歯ブラシ
真暗なうちに起き、ホテル・インデアを出てJALの事務所へ急ぐ。
バスの黄色い窓明りが無性に日本を想い出させる。三人のインド人が乗り合わせ、鈴木氏がその客の世話をしていた。

 もう生涯の間に二度とここへ来ることは、あるまい。何かまだやっておくことはなかったか?望郷の念と、まだ居たい名残り惜しさとが交錯する。バスは、個人のそれぞれの思考とは無関係に動き出した。第八ラジアル・ロードを南へ走り、ロータリーのあるデラックスなホテルへ、同じ飛行機へ乗る客のためにたち寄る。我々の泊った安宿とは雲泥の差だ。運ちゃんが客待ちの間に、ネムかアカシヤのような大きな木へ、するすると登って妙なことをはじめた。バスの明りでみえる木の股に腰を掛け、筆位の枝を折った。端の方を歯で皮を剥くと、夜目にも白々と木肌が浮かび出た。やがてその白い方を更に歯で噛み砕き、ボサボサにして、歯ブラシがわりに一生懸命口の中をみがきはじめた。口の端から抱が出て、ペッペッと唾を吐きながらやっている。
生木で歯をみがくとは妙な習慣があるものだ。本当に歯をみがいているのか、或るいは何かいい香りでもでて、楽しんでいるのか、さかんにゴシゴシ、ペッべッとやっている。何かのまじないなのかもしれない、我等の名ガイド・ドルジェ君がいれば忽ち得意気に名調子で説明してくれるのだが…… 。彼はもういない。ダージリンへ無事着いただろうか?

結局目的不明のまま、客がきたので歯ブラシ?をボイと捨て、運ちゃんはバスへ戻る。途中三ケ所ほど、いずれも豪勢なホテルへ止ってインド人の客をのせ、パーラム国際空港へ着く。塔乗客は三十人ほどのインド人と我々日本人の三人だ。チェック・インの後、機上の人となり出発を待つ。自由な独身貴族なら、まだまだ旅を続けるところなのだが。それでも日航のスチュワーデスの女性の顔が懐しい。

機は一路東へ向って飛び立つ。空はもう白み始めた。真直ぐ飛べば、ヒマラヤが見える筈だがそれは希望的観測にすぎない。いったんべンガル湾の洋上へ出て東進する。

給油のためバンコクへより、四時間後、香港島の対岸、九竜の啓徳飛行場へ着陸。朝食の機内サービスは、日本食を期待したが、やっぱりパンとコーヒーだった。香港はノー・ビザで七十二時間は滞在できる。予定通り香港で二泊することにする。


◎『純金』であふれる香港
 香港島へのフェリー・ポートは、二隻でしょっちゅう住復しているので、殆んど待つことは無い。木製の昔の国鉄のような改札口を通って乗船。もっとも日本の国鉄の技術導人は、イギリスからのものだから、こちらの方が大先輩になる訳だ。大陸の九竜(カオルン)半島と香港島の間の水路は十分足らずで渡ってしまう。対岸には高層ビルが所狭しと立ち並び、やけに日本の商社の大看板が目立つ。H・T・Mの電気メーカーの看板や、アメリカの空母と駆遂艦がシルバーグレイの艦体を浮かべていると、何だか横浜港へ着いたような
錯覚をおぼえる。島へつくと大きなビルが頭上を被うようにせまってくる。日射を遮え切るテント張りのポーチの歩道へ出ると、すぐタクシーがやって来た。ホテルの交渉をする。北緯二十二度の南国では九月末だというのに、まだやけに日射が強烈だ。残金はもう全部空港で香港ドルに換えてある。エアコン付きの安いホテルがあるというので案内させて行ってみることにする。雑居ビルの二階の奥に大きな扉があった。その扉の奥がホテルなのである。ホテルというより貸し部屋といった方が正しい。

 運転手は扉の横にあるフロントのマスターに何か連絡し、チッブをもらって帰って行った。大きい、いかつい扉を開けると廊下があり、左右に十室ほど部屋が並んでいる。個々の部屋には又鍵がついていて、マスターはその一つ八畳位の部屋の戸を開けた。鍵を二個渡しながら、「この辺は非常に危険なので、施鍵を厳重に守って下さい。小さいのは、この部屋の鍵、大きいのは帰って来た時、さっきの共通出人口の扉を開けるためのものです。」と、その使い方を詳しく説明し、飲み水をつめたビール瓶を置いて出ていった。ホテルとは名ばかりで、アパートにもう一つ共通扉がついたものと思えばよい。

ザックを片づけ、ビール瓶の水を飲み、ようやくほっとする。午後一階に下り、香港探訪に出る。
きすが世界の香港だ。ビルの中に縦横に通路が走り、時計・カメラ・貴金属・衣類・世界一流の商品が溢れんばかりに並んでいる。純金の指輪・腕輪がまばゆい。さすが免税の偉力がうかがわれる。
通路がビルの中なのか、外の道路なのか区別もつかない。
最も賑やかなここ、セントラルはビクトリャ・シテーともいわれ、
香港のメインストリートですぐ隣りに銀行街がある。
看板の字は、今までの横文字にくらべようやく縦書きの漢字が多くなり、なんとなく親しみを感じてほっとした気分になる。
観光案内所へ行き、市内(島内)見学の交渉をする。二時聞位タクシーで一巡し、一人二千円かかるのは高すぎる。そう広くもなさそう
なので山で鍛えた足を活用しよう。
二十分も島内の奥の方に向って歩くと、もう細い登り坂の道になり、難民の雑多なバラック建ての場末に行き当ってしまった。

 この坂の多い難民街と海岸通りの高層ビル街は、一体同じ経済基盤の上にあるのだろうか。と不思議でならない。この二つの好対照の街の中間に、名にし負う食料品店街と飯店街がズラリ軒を連らねているのである。裸のアヒルやニワトリが竹竿にぶらさがり、ブタの頭が並んでいる。こうなると奇異や気持ち悪さより、むしろ壮観で食欲がそそられるのが不思議だ。
昼めしはそれらの一軒へ入り、あっさり毎度のチャーハンとスープにし、帰途象牙製の扇や、ソファーの背当てを購人する。


◎香港の『 生寿司』
ホテルのすぐ近くに『東京』と書かれた寿司屋を発見し、大よろこびでとび込む。ところがそれがなんと二十階もあるビルの七階にあった。それでも、マグロのトロやイカがあり、日本酒にもありつけた。聞けば毎日、航空便で日本から「ネタ」を取り寄せているという。ホステスはタスキ掛けに割烹着姿だった。着物姿を見るのは二ケ月ぶりである。もう日本は近いのだ。

夜の香港は恐ろしいというが、やはり百万ドルの夜景は素晴らしい。スチールカメラと八ミリカメラに納める。二日目、島の反対側、即ち南側にあるジャンクの水上生活者達、蛋民の様子を見に行きたいのだが、こっちも蛋民なみに足代にも事欠く始末になったのであきらめざるを得なかった。それだけが心残りになった。しかし、九竜の啓徳飛行場まで行く金だけは確保しておかなければならない。乗ってしまって羽田に着けば、丸裸でも家族が待っている。
なんとしてもそれまでは、綿密に計算せねばならない。仕方なしに安い五分床屋に入る。
九月二十四日。出発してから丁度二ケ月目、香港を出発する。

 飛行機はビルの林を後に飛び立ち、間もなく海上へ出る。眼下には、南海の青海原の中、白い波に囲まれた美しい珊瑚礁が点在する。

遠征は終ったのだ。羽田空港の税関倉庫には、八千丁にものぼるグルカ・ナイフが保管されている。私達遠征隊は十二月末、横浜港に着いた三ケの木箱につめられた装備を取りに行った際、空港の税関とかけ合い、グルカ・ナイフを贈答記念品として取り扱ってもらい、刀剣所持許可証と一緒にそれぞれ三丁の所有を認可された。

日本でグルカ・ナイフは見ることができない、すべて税関の保管庫に眠っているのである。我々のみがそれを持っているのは、マナリー遠征の太い絆で三人が結ばれているからである。


あの八月二十二日マナリー峯に降った雪は、初雪だったのだろうか?それとも最後の降雪だったのだろうか?

深く詮索する問題でもないし、そのつもりもない

いつも降っているのだから。

ヒマラヤの雪は永遠である。

インド~1.jpg


おりひめ第14号より転載


 羨ましいな~。

 私もインドヒマラヤへのトレッキングに憧れています。
気はやさしくて力もちのガイドを雇って、朝は彼の「グッモーニング、サー!」の声で目覚め、「モーニングティー、サー!」と、テントの入口から差し出された、旧英領仕込みのミルクティーを味わいます。エスニックな朝食の後、「ぼちぼち行こうか」と出発。自分のペースで歩いて、疲れたらその日は終了。ガイド君は器用に泥をこねてカマドを作ります。そこで焼いた「ナン」と本場の「カレー」の美味いこと。酒は火の酒・・・あれ、インドは禁酒国だっけ?まぁ何はなくても空には満天の星。「サーブ(旦那)明日も晴れますぜ!」「明日はなんとかマナリーの見える所まで頑張りましょうや・・・」
 こんな調子でヒマラヤを拝む事ができたなら、最高の贅沢でしょうネー
 円が強いうちに実現したい夢・・・無理かな?

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おりひめ14 [おりひめ]

山荘の図面を引いたカクダ君がなかなか達者な文章を書いています。

やまびこ国体

 国体出場は中学以来の憧れであった。大会出場は、私自身を英雄にしてくれるのではないかという気持ちがあった。現に私の友達で、幾つもの大会に出場し何回もの入賞を手にした人がいる。そんな友を見ていると無性に羨ましく思えてくるのである。そんな時、私のずくのなさ(編者注:能力、才能の無さ)が、まざまざと見せ付けられる様な気さえしてくるのであった。しかし、今その大会のメインとも言うべき国体に出場出来るのであった。夢にまで見た国体に出場できる何て・・・・・・。それも私の好きな山登りで出るのだ。こんなにラッキーな事は、これ以後二度とないだろう。

 入部したての頃は、ただ先輩にくっついて行き、体力をつけてきた。苦しい事など数えきれない程、味わってきた。私の知らない事を、顧問の先生や先輩達に、なりふり構わず聞いて私自身のものにしていった。しかし、いくら聞いても疑問は膨らむ一方で、尽きる事はなかった。そんな時、私は本屋で一冊の山の本を買って読んだ。それが面白くて色々な山の本を読んだ。そうする事によって、多くの疑問が解けていった。こんな事の繰り返しの一年間だった。

 二年の時、先輩が全国大会に出場するのを羨ましく思った。本当に出場したいと思った。一度でいい、大会というものに出て、私の力量を測りたかった。しかし、その時はまだまだ未熟で、どうする事も出来ない私には、大会になど出場出来まいと思っていた。

 やがて三年になり、五月に国体予選があると聞かされ、これは、何が何でも絶対に出場してやるぞ、と心の中で固く誓っていた。しかし三年男子は二人しかいない。もう一人足りない。二年生から選ばなければならない。私は色々な角度から二年を観察したが、どっちもどっちだった。結局体のがっちりしているSを選んだ。これでパーティのメンバーは決まった。私とMとSだ。よしこれならなんとかなると思った。

 県予選の会場は米山だった。大会はおろか、オリエンテーリングのオの字も知らない我々は、内心、心配でどうしようもなかった。しかし、この心配とは反対に意外とリラックスできた。何故なのかは、思い浮かばないけれど、とにかくリラックス出来たことにホッとしていた。この時、我々のチームは勝利の女神に拾われた。まさかと思っていたが、やっぱり日頃のトレーニングや顧問・先輩達のおかげだと思った。そして私には充分の力量があるのだと確信した。

 我々のチーム三人が、県の代表になる事は出来なかった。新潟県の山岳競技の選手の選出は、優勝校チームからではなく、一位から三位までのリーダー一名づつ選ぶ方式だった。そのため我々のチ-ム二人が抜ける事になった。せっかくここまで一緒に登って来た友と、どうして一緒に出場する事が出来ないのだろうかと、怒りたい気持ちで一杯だった。

 選手が決まり、北信越予選も無事一位で通過した。いよいよ国体出場だ。

 今まで北信越大会や色々な合宿をしたが、私にはまだしっくりこないものが心の底に居座っていた。それは、他校の二人の気持ちを見通す事の出来ない事や、私にあまり話しかけてこないという事だった。いつも二人で話し、行動も二人だけでやっている様な気さえした。そんな二人に交わる事の出来ない私の性質を悔いたのも、そんな時であった。しかし、私はチームの纏め役である。こんな事は言っていられない。なんとか交わり、チームを最強のものにしなければならない。

 私の最後の締めくくりである、やまびこ国体秋季大会の開幕であった。この大会は、私の自惚れの気持ちを痛めつけ、そうあってはならない事を教えてくれた。そして色々な面で学ぶ事が多かった。例えばパーティとは何か?リーダーとはどうあるべきか?・・・・・・etc などである。楽しい事もあった。民宿の人達との団欒などが一番印象に残っている。

 部員全員の協力でここまで私は成長した。本当にありがとう。そして後輩よ、思いっきり山を楽しみ本当の山の良さを追求してほしい。そして決して大会を疎かにしないで欲しい。大会は、山に登るときにどうあるべきかを教えてくれる。しかし「大会ヤ」になるな。

大会ばかりが能でない。自分達の楽しい山行をしてくれ。

おりひめ第14号より転載

当時リストラに遭って失業中だった一級建築士の彼に山荘の設計・管理をお願いしました。建築確認申請や固定資産関連で2回、工務店との打合せや設計変更等で8回、埼玉から塩沢町役場や巻機の現地へ通ってもらいました。通常、総工費の5%が相場という設計管理料を、彼は交通費と日当十◎万円分だけ受け取り、あとは全額、会に寄付させられ・・・失礼、寄付されました。
 その後、建築会社への再就職も決まり、二年ほど前には可愛い嫁さんも貰いました。[積善ノ家ニ余慶有リ」・・・ですね。ヨカッタネ、カクダ!
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ボカスのが申し訳ない位美人な奥さんです

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おりひめ13 [おりひめ]

過ぎ去った『あの一年』がR先生の軽妙な筆致で甦ります。


この一年を顧みて

 今年一年間の活動をふりかえると今年ほど巻機に縁のあった年もなかろう。

春山合宿から送別山行までクラスの山荘旅行を含めると三十日は巻機に行ったろうか、清水に山荘があるという事より、各大会が巻機山域に集中したためでもある。

 全国大会二チーム、国体に一チーム出場という部にとっては多くの点で大変だった年であり、それなりに意義があったが、わがクラブ独自の楽しい山行が少なかった点、一抹の寂しさがあろう。以下、この一ケ年の反省や印象深い出来事をふり返ってみたい。

△ △ △ △ △ △ △ △

 今季の春山合宿は例年の如く三月下旬の六日間、山荘をベースに行われた。一年の活動の原点であり技術習得の合宿である。雪上技術は勿論、幕営技術の向上が目標であった。合宿初日は春の陽光と南風が吹く暖かな日で、男子は沢口より、キスリングを背に山荘まで歩く。舗装された無雪道路が更に延び、清水まで真冬でも車が入る時代となったが登山者にとっては便利になっても果たしてプラスだろうか。

交通機関の発達は山へのアプローチを無くしてしまい、山への序章の楽しみが失われた、とある登山家が嘆いたのもあながち嘘ではない。とは言っても沢口を後にすると悔いる気持ちだ。荷は重い。道は長い。今冬あれほど降り続いた豪雪も意外と少ない。途中、選挙の車が行き交い、雪の山郷にも春が来た事を告げる。

部落に着き、新衛門(編者注:旧山荘を管理してもらった民宿)に寄る。毎年この日、親父さんに山荘の雪堀の苦労話を聞くのだが、人手もない厳冬期は大変だったと思う。部落からスキーを背に二汗もかいて杉木立の道を登る。夏は急登で長い道も、雪道となると辛いがさして時間は掛からぬうちに天狗岩が見え隠れしてくる。もう少しの頑張りだ。T大山荘を過ぎて橋をまわると懐かしき山荘に着く。一日目の夜は楽しい。合宿の前途を祝って乾杯する。

 停滞の日もあった。炬燵を囲んでH先生の座学を聴く。こんな午後もあっていい。その夕方、N先生、I OGが雪を踏み越えてやって来た。お隣さんのT大さんに遊びに行く。快活な五人の山男が我々を迎えてくれた。うちの女子も仲々やる。我々には見せない一張羅のセーターを着ていくのだ(その気持ちは良く分かる)

 登山予定日の三日目。悪天候を予想して寝たのだが、起きてみると皮肉にも快晴だ。春山の天気は難しい。登山準備をしていないのでスキーに変更する。新雪のゲレンデは実に素晴らしい。二年生は初心者だが雪面に穴をあける数ほど上達する。三年生がその証拠だろう。寒い中での雪上訓練も辛いが、広大な急斜面での訓練は効果があった。特に雪上歩行はザイルワークと共に身につけてほしい。雪渓を登る事が多い越後の山ではいかに大切か、きっと分かるだろう。その夜、T大の三人がやって来た。酒一本空にして酔いもまわる。今夜は女子がテントに泊まる日だ。

 昨夜の予報では好天は期待出来ぬが四日目に巻機登山を実施。七時に山荘を発つ。井戸の壁手前で朝食。冷たいお握りは喉に通らない。今朝はトップのH先生が実に早いペースだ。ラストが辛い。三年男子が一泊する為七合目近くの森林限界にテントを設営する。曇り空に風強く雪面はクラストする。八合目の急登を越すと更に風強く寒い。ニセ巻の避難小屋脇で震えながらの昼食。食後ものんびり出来ず樹氷を背に証拠写真を撮って一気に下る。テントでH先生達を見送り、のどかな陽光を受けて暖かいテントの中で横になる。

夕方、ザラメの雪に四回ほどシュプールを描く。少し登って眺めると広大な斜面に黄色のテントが実に小さい。夕食は洋風おじや。何か飲みたいが何もないのでチョコレートを湯に溶かして五人で飲みまわす。山の端に陽は落ちたが、気温下がらず三日月がかかる。湯沢あたりのスキー場の花火がシーズン最後を飾って微かに光る。二十時過ぎまで男同士の話をして寝袋に入る。

 夜半すぎ、風の音に目が覚める。(時計は三時を指す)テントは膨らみ雪面を吹き荒れる風は二十mを超えていよう。フライが音をたてて鳴り、眠れない。唸りを発して吹き続ける風に不安をかきたてられテントが倒れるのではと心配する。朝までには弱まると期待するが仲々、時間が経過しない。足先が寒い。実に長い夜明けだ。三年生は熟睡している様で羨ましい。風雪となった様でテントに雪が舞い込む。

 七時過ぎ、漸く風が呼吸する様に間歇的に吹き止み始めた。内心ホッとする頃、Nが用足しに起きる。まだ入口から外には出れぬので反対側を開けて済まさせる。風が弱まり始め八時に外に出て撤収を開始した。埋木のロープが凍ってほどけない。歯で噛んで苦心の末ほどきようやく撤収作業終了。数人のパーティーが登って行く。九時すぎる頃、あの強風が嘘の様に止み陽が差して来た。

 皆、心配していると思いながら下山開始。ブナ林を滑り降り井戸の壁の先端に出た。山荘が見える、誰かテラスに出てこちらを見ている様だ。手を振り大声でコールする。

三年をトレースに沿って下山させ、左斜面を滑り降りる。上から見ると息をつめる程の覚悟がいる。一気に斜面を横切り、ジャンプして三、四回曲がるともう下にきてしまった。ブッシュに突っかかり大きく転倒。生徒が下ったのを見てからそのまま二子沢目指して林間コースを滑る。快調!踏み跡もない最高の斜面だ。空は青く陽が眩しい。沢を渡り斜面を登れば山荘だ。H先生が迎えてくれた。

吹き荒れた稜線も白く浮かび上がっている。皆、五人を案じて心配していたと言う。「ありがとう」遅くはなったが無事下山できた。

 我々には山荘の近くで泊まるのだという安易な気持ちは無かったか?たとえベースの近くの幕営にしても非常食、予備食は持つべきで雪山であれば完全装備をすべきだろう。指導不足を痛感すると共に良い経験となった。又今回は各学年単位で雪上幕営を実施したがテント設営に時間が掛かりすぎる。こんなに立派な山荘があるのは幸せかも知れぬが、山荘に甘えているという声もあり同感である。もっと積極的な活用が必要であろう。多くの面で収穫があった合宿である。

▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲

 新学期になって慌ただしい日々が過ぎて春山講習会が近づいた。春山合宿から一ケ月後の巻機に再び行く。山麓はすっかり春の装いとなり新緑に桜が花を添え、春が一日一々と山を昇っていく。T大山荘奥のゲレンデが幕営地で、天気にも恵まれ花見も出来た。講習内容は合宿の復習とは言え、他校と比較できた点、良かったのではないか。春早い割引沢も楽しかった。ニセ巻機に突き上げる急峻な沢の雪渓は快適だ。一歩毎に天狗の頂が足下になり高度が稼げるのだ。

 グリセードで下った涸木沢は面白かった。しかしグリセードそのものはどうだろうか。高校生でなくとも下降はキックステップで確実に歩行すべきで、繰り返し身体で覚えるのが先決だろう。安全な斜面で楽しむのは悪くないが、重い荷を担いででは勧められるものではない。楽しみにして来たスキーも講師を依頼されるとそうもいかぬ。幕営地付近で五回滑っただけだが花見が出来た事で満足しなくては。講習会が終わってからの山荘での一泊、新入部員を迎えて春の陽を楽しんだ。

△ △ △ △ △ △ △ △

 帰ってすぐ五月の連休に再び巻機に来た。国体予選である。どうも部員は余り乗り気でないらしい。一般のパーティーと一緒に参加するのも良いではないか。国体の登山競技も得点種目になるそうで競争化の傾向が強く、OL(オリエンテーリング)の様な踏査競技と重量制限のある縦走競技では本来の登山の在り方と違和感があるのは歪めない。

 塩沢町から踏査競技がスタートして、清水分校に再び集まり、荷を計量して不足のパーティーは三人合計七十Kgにして縦走競技の出発。軽量化とは逆にザックに石を詰めなくてはならぬ矛盾である。雪解けの井戸の壁を登り五合目で幕営。翌朝、残雪を踏んで巻機往復、森林限界で「ホウキ雲」の雲海を眺めた。もう一汗かいて頂上に立つ。いつも会う会津、谷川の山々はまだ白い冬の装いだ。帰路、割引沢を下り、雪崩の痕跡を見る。閉会式で女子は八甲田行の切符を手にした。北陸予選での健闘を祈る。男子の得点は意外に厳しかった。踏査の失敗があったにしろ、意気込みが足らなかった。反省したい。

◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎

 六月上旬、例年の様に県大会が近づいてきた。考査後で準備の日数も少なく、すぐ大会になった。この大会に懸けている三年男子は心中期するものがあった。困ったのは女子である。予定の三人が先の国体予選で青森行となれば誰を出すか?一・二年でメンバーを組まなくてはならない。出場した女子には悪いが即席チームである。短時間ではメンバーシップは望めない。準備する事が余りにも多い。ペーパーテストの模試もやった。一夜着けの効かぬ事は君達の方がよく知っていよう。地図に着色し、コースを入れて現地のイメージを頭に叩き込ませ、予想される小テストの設問をする。テント設営、装備、食糧計画、そしてトレーニング。あっという間に前日となる。国体三人娘は実によく手伝ってくれた。(内心、男子はいい線までいくのではと期待し、女子は精一杯やればそれで良し。模試のつもりでやって来い)

 一日目。清水分校に出場校が集まる。ペーパーテストは日頃の座学と山行経験がものをいう出題だ。車道を登川まで歩いていよいよ、きついと言っておいた謙信尾根の登りにかかる。バテるパーティーも出る。空が怪しくなり清水峠で豪雨となる。女子は全員濡れながらの設営。新校OBの助け船でなんとかフライを張る。食後、濡れたまま寝袋に入る。明日は早い出発だ。

 国境稜線を巻機に向けて縦走する二日目である。ジュンクションで女子隊は二校となり、男子は快調に先の方を歩いている。女子隊の後尾をK、Y先生らと歩く。山はまだ豊富な残雪があり春山だ。北に向って千七百~九百米の頂が幾重にも連なり重厚な山波が続く国境稜線である。

 大烏帽子の登りで一年のIがバテはじめる。山行といえば今回が初めてと言っても過言ではなく、雪渓歩行もペースを知らぬのは当然だ。早めの食事を摂らせてもらい、水を余り飲ませずに兎に角食べさせた。食べなくては駄目だ。昼食後元気になった。

槍倉、柄沢山と登降を繰り返し、石楠花、山桜が灰色にガスった空に色を添える。女子は頑張り牛ケ岳の雪田で男子隊を追い抜いて巻機から八合目の避難小屋目指して下った。体力の限界を超えた十三時間の行動だったが、共に歩いた中央校の掛け声に力づけられて歩き通したのだ。

 三日目。下山して閉会式。男女共よく頑張り、晴れの県代表として広島の全国大会に出場することとなった。他校の分まで中国山地では健闘して来たい。

△ △ △ △ △ △ △ △

 代表校となった後、八月の大会までの準備も何かと大変だった。男子代表の長岡O高校と連絡を取って今後の日程を決める。強化合宿の打ち合わせ、大会申込、予算請求、列車の手配に装備の購入等で月日は実に早く過ぎた。

それに今夏、山荘十周年記念行事の準備も重なり多忙な日々であった。そのうちに国体女子にM、K、Sの三嬢が正式に県代表となり7月下旬のブロック予選に八甲田行きの切符をかけて出場する事に決まり、その準備もしてやらなくては・・・

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  △

 梅雨も明け夏本番となった七月下旬、夏季行事に引続いて清水峠~谷川縦走の夏山合宿を計画する。今回はインターハイ強化合宿も兼ねて最後のトレーニングである。北信越ブロック予選で一位となって代表権を得て戻ってきた国体三人娘も加わり部員十八名が二十五日の昼過ぎ、炎天下の中を清水峠に出発した。

広島の暑さを想定して車道を歩くが、翌日またこの道を戻るとは誰が予想したろうか。

登川で大休止してゆっくりしたペースで謙信尾根を登る。予定より遅れて清水峠についた頃、風もあり気温も低く寒気を覚えた。汗に濡れた衣服を着替えた。生徒にも着替えを指示するが徹底させなかった。

 遅い夕食後、寝る準備に取り掛かった二十二時頃、Sが熱あり寒さを訴えていると言う。検温すると三十八℃を超えている。H先生が厚着をさせ冷水で冷やす。他のテントのHも高熱という。Sは夜半に三十九℃を超え、翌二十六日二時には四十℃となる。こんな高熱は何が原因だろうか。下痢がないか心配するが本人達は熱いと言うだけでその気配はない。Hは時々うわ言を言ったという。額にのせたタオルはすぐ温かくなり相当の熱だ。三年に聞くとSは山荘で風邪気味だったという。六時過ぎまでSは四十℃、Hは三十九℃の高熱が続き、下がらない。先にH先生に仮眠してもらい途中で交代して二・三年生と一緒に看護と検温にあたった。


 今朝の投与が効いたのか、二人の熱も下がり始めた。救助隊も遅いので覚悟を決めて自力でゆっくり二人を歩かせて十一時四十分下山を始める。小休止を取りながら快晴の井坪の道を下る。十三時前に救助隊と合流した。新衛門の親父さんの顔を見て安心すると同時に下では大騒ぎをして多大な迷惑をかけているだろうと思うとすまない気持ちになる。親父さんに昨日からの経過を話したが、直接連絡してくれたらと言われても今朝の状態ではとても出来ない事と思う。十四時に雷雨の中を車道に出て役場にジープにH先生と(発熱の)二人と二年のTが乗る。救助隊の方々に厚くお礼を述べ他の部員は歩いて清水に戻る事にする。空腹を忘れていた。濡れたパンでも口に入りジュースがうまい。雨の車道を清水に戻る足は重く、歩みも遅い。昨日この道を歩いた事が一年も昔の様に思え、この一日が実に長かった。

▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲

 あの状態を考えてみると二人の高熱のある者を峠から下山させる自信は我々にはなかった。これ以上病状を悪化させず病院に運ぶ最善の方法としてヘリを要請したのである。マスコミに、他人に何と言われようが、無事に二人を親元に返さなければならない。

帰宅して新聞を拡げたら我々と同じ日時に同様な状態で発熱した高校山岳部(横浜市)の記事が目に入った。北アルプスで三日間、看病した結果手遅れとなりヘリで富山まで運ぶが肺炎を起こして死亡したのである。措置が遅れて最悪になってから救助を要請しても手遅れの場合どうするのか。遭難騒ぎで強化合宿の目的も果たさず帰校後、広島大会の準備に追われる。どうも意気があがらない感じがする。計画書も仕上がり準備も進むが時間的にはやや不充分だった。

□ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 八月二日、見送りを受けて東三条を発つ。約一名、座席が余るのだ。大事な時にNが遅刻した。子供でないのだ、なんとか広島に追いかけて来るだろう。新幹線で西へ五時間、暑い広島に降り立つ。

食糧購入、事前打合せをやり四日に会場の戸河内に向う。市中行進は暑かった。全国から山の仲間が集まって開会式となる。菅笠が揃った新潟県代表に拍手もおこる。山梨の南アルプスの大会で会った先生、富山の講習会で世話になった友人にも会えて旧交を温める。やはり全国大会に来たという実感が湧く。式後、各コースに分かれる。

 H先生と四人娘、長岡O校とも暫くお別れだ。大会の様子は報告書を読んで貰うとして我々の歩いたBコースは暑くて長い道だった。大会のコースを設定するのに苦労したと聞く。山高きが故に尊からずで、それなりの良さもあった。細見谷も奥三段峡も面白く涼しかった。長い林道にはいささか堪えたが、千米級の準平原が拡がるのは中国山脈ならではの景観だ。

 夏の一週間の旅で同じ精神状態を保つ事は非情に難しい事を思い知った。県大会で見せてくれたメンバーシップが見られず、意気込みも確かに欠けていたと思う。行動中に声が出ない。持てる力を充分に発揮する事は難しい。先の夏山合宿の挫折感もあろう。それから立ち直る時間も少なかった。多くの反省事項もあるが、それよりも全国の山の仲間と友情を深め、他校の優れた点を学び取る事が大切なのだ。

青春を中国山地で燃焼させた君達は幸せと言うべきだ。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  △

 大会も終わった。タ◎ノは夏期講習のため東京へ直行。残った九人は急ぐ旅でもない。各駅停車で山陽路を上る事にして、途中下車も大会の付録として帰りたい。尾道のグランドでテントを張り、残った食糧を始末して一泊する。瀬戸内の海を車中から眺め、倉敷の古い町並みにも立ち寄った。大阪から夜行に揺られ二日がかりで帰ってきた。

◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎

 帰ってまもなくお盆の十四日に一年遅れの山荘十周年式典。建設当時の校長以下、OGが集まった。広い山荘のテラスも狭い程だ。建設当時の思い出や苦労話に花が咲き、遠路馳せ参じてくれたOGもいて、初めて会う貫禄ある先輩も多かった。

□ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 秋、十月。東高が当番となって秋季大会が開かれた。(編者注:京都桂高校の高田直樹先生が講師として参加された)紅葉の映える巻機に三百五十名が参加、小さな事故もあったけれど秋の割引沢を満喫した。

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 これで今年の役割も終わった。春から兎に角忙しかった。

 今季、七度頂上を踏んだ巻機山であるが、来年もまた、登りたい。


おりひめ第13号より転載 (フェ~長かった~!)

男ざかりの働き盛り R先生三十六歳の「充実した?一年間」の記録でした。ある章では「あったな~そんな事!」と膝を叩き、またある章では穴があったら飛び込みたい衝動にかられ・・・山での休憩中、タバコを片手に大判の手帳にペンを走らせていた先生の姿が目に浮かびます。

(編者注:明らかな印刷時の誤植は訂正、天気図解説や当時の新聞報道等の記述は割愛しました)




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おりひめ12 [おりひめ]

山岳部初の女性顧問だったN先生の寄稿文です


山行・・・一年を振り返って

 そう、私があの頭でっかっちで不格好なキャラバンシューズを何気なく友達から二百円で譲ってもらったのは、十一年前の教職に就いた年でした。登山をする目的や意志を持っていた訳ではなかったので仲間や生徒が貸してくれと言えば、気持ちよく靴に貫禄がつくから、いいや!程度で転々と人の手に渡り靴だけは持ち主より色々な山の経験をし箔をつけていたのです。その貫禄だけは一人前の靴を履いて名誉ある東高の山岳部の仲間に入れてもらい山行をするなど考えてもみなかった事です。


 無知ほど恐いものは無いとよく言われるが、まさしくその通り、H先生、R先生の素晴らしい人柄に惹かれたのと「年に二回程山行をしてくれれば良いし、女生徒に女の先生が必要な時もある」と甘い言葉を囁かれ(?)自分も田圃で鍛えた太い足(特に太もも)があるから(私嘘言わない・・・今度みてね・・・ただし女生徒のみ)でも結局は皆さんにご迷惑をお掛けする事になってしまい本当に申し訳なく思っています。


 情熱を内に秘め、いつも優しい笑みを浮かべているTさん、不言実行の人ですね。カツカツと女医のように廊下を歩くEさん、テキパキ指導をする姿をみて圧倒され尊敬していました。私にとっては色々勉強させて頂き有り難くまた、私の青春(~のつもり)の異色の思い出に、良かったと思っていますが、お二人にとっては、どんなにか疎ましかった事でしょう。一年間でしたが本当にありがとう。でもこの原稿を催促されている時は恐怖の三年生でした。


 恐怖と言えばやはり八海山の初めての岩登り。私の人生であのような真面目な顔をする事はこの先ないと思う程、真剣でした。ここで滑り落ちたら三十過ぎた女が何の気を起こしたんだと笑われてしまう、また、山岳部に迷惑をかけてはいけないと必死でした。それだけに登りきっての山々の眺めは言葉では言えない。狭いピークで立って眺めるのは情緒不安定で、どっかり腰をおろして満喫しているのにミヨちゃんたら!ああ、今思っても精神衛生に良くない・・・・・・。帰宅は遅くなり御父兄には心配をお掛けしたが八ツ峰を攀り通し感慨無量です。とにかく脱落しないようにと軽量化を計りすぎて電池をも省略し、S君にも迷惑をかけてしまいましたね、君と握手した時のあり難かった事は一生忘れないでしょう。


 こうして考えてゆくと懺悔しなくてはならない事ばかりです。インターハイ予選の守門岳も夏山合宿も良かった。笹ヤブの辛かった事、そして稜線に出た時の嬉しさ、イワ桜の愛らしさ。一つ一つ感激でした。それにしても小兎岳付近で幕営した所のお花さんには可愛そうな事をしたと心が痛みます。雪渓の所で小休止し雪取りしている皆の姿がガスでボンヤリしていた光景が今でも幻想的に思い出される事です。駒の湯、ぬるくて楽しくて一時間もはしゃいでしまった。朝、陽光に照らされた駒ケ岳を下から眺めた時は、胸がキュンとした。本当に山の素晴らしさを味わせてもらい感謝している次第です。


 来年も許されるならば仲間に入れて頂きたいと思っています。


 二年生はチームワークの良さで、さらに素晴らしい山岳部に発展させる事と思っています。


おりひめ第12号より転載


美人薄命を地でいくかのように先生はマンモの病で夭逝されました。病院へは旦那様が運転する車で通われ、お見かけする時はいつも凛とした着物姿でした。余命を覚悟してお洒落を楽しんでおられたんだ・・・今思うとそんな気がします。


秋刀魚の味.jpg
小津安二郎監督「秋刀魚の味」より


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おりひめ11-2 [おりひめ]

一年間だけ顧問をされたT先生が格調高い詩を寄稿しています。

「価値ある終幕の追慕」

今にして思う。・・・・・・コップの中の静かな日々、そこは、真っ白い空間の中をスローモーションで走るような”記憶の宝庫”

 

霜雪の帳をかすめ茫洋と広がる地平に

今根ざした新しい詩歌は

限りなく燃え栄る言寿ぎの意をこめて

万般 遥(カ)上に注ぎ生まるる

若きらよ

正諫の道に軌う心の温もりが

やがて哮りくる飛沫となりて

林泉と林薄の脈ある此処に

枯栄の情を心に施そう

織姫の春秋、そこは自由を保障された”ユートピア”の青春の舞台だった。風景、物、自然の瞬間的事象の中に歴史の顔が浮かび、内実の想念が呼びさまされる。

東雲は今、紫紺の光沢を掲げた

---去りゆく者よーーーーー

山河襟帯のみどりは

旅立ちの色彩と妥協を許さない感動を刻み

間奏曲の醸しだす愛惜の戯曲は終わった

---しかしーーーーー

たゆまぬ千々の響と

久遠の残光にこそ

限りなき飛翔の春は展開されてゆくのだ

怒涛の中の歓呼、歓呼の中の怒涛、玉響の昂揚、虚妄のユートピアのように一つの淡い想い出になってしまうというのだろうか、そのなかの真実、人生は万言でしか語れない。

ロードゲームに出た旅芸人のような不安定さ、がむしゃらで、精一杯で・・・・・・しかし確かに息づいておりました。

永遠の響と

自然の織りなす踏青に

喜雨をたしかめる指揮者のタクトは振られた

勇壮な追憶の視覚と鋭声は

測り知れない群青の世界を創りだした

ソプラノ アルト バスの醸しだす旋律は風致を極め

呼吸身に迫る立体的音響は多彩な心の微動となって感動を映発させた

永遠の響と

高調された眼界の道程に立って

---指揮者よーーーーー

今一度朝光を胸に掲げよう

一つの使命を終えて、織姫は三年間の春秋にピリオドをうつ。全国大会出場という足跡を残して


おりひめ第11号より転載


山荘廃止の議論がPTAより起こり、「存続嘆願書」を学校に持参、その時に丁寧に対応して下さった校長先生がT先生でした。もう一廻り以上も昔の話になりました。

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おりひめ11 [おりひめ]

ついにと言うか、とうとう野郎どもが入部して来ました。

雄大であった飯豊山

八月二十四日、朝、いろいろと準備があるので普段より早く六時に起きる。朝食を食べ、自分なりの下手なパッキングをして家を出る。

気分が悪く、あまり行く気がしないので駅へ行く足が鈍く感じられた。

十時五十分、汽車は坂町駅に着く。この町のなんとかいう食堂で、昼食を食べる。食堂から戻ると、先生たちは駅前で、今晩食べる肉を、ブタンガスで焼いている。先生はそれが終わると、僕たちにパッキングの講義とも言うべきものをしてくれた。すると、あんなに不格好だった僕のキスリングが、ものの見事に直方体の形をした塊に変わってしまった。

三時五十五分、沢の見える場所で小休止。キスリングを背負って登山をするのは今回が初めてなので、ものすごく圧迫感を感じた。キスリングの重さと暑さのダブルパンチで、こんな調子で登れるのかと不安に思った。

 五時三十五分、幕営。来る途中に吊橋が二本あり、二本目の橋は重量制限八十Kgだった。先輩からブタンガスの点け方、天幕の張り方、その他諸々のことを教わり、いい勉強になった。夜はキャンプファイアーを囲んで御飯を食べたり、歌を唄ったりして、とても楽しかった。

八月二十五日。七時五十分、なんだか訳の分からないうちに沢登りに変更。キスリングが胸を圧迫して苦しかった。足を一歩でも滑らしたら、雪渓のふりだしまで滑り落ちてしまいそうな急角度の雪面上をH先生がカッティングした所を僕たちが一歩一歩、キックステップしながら登る。何度か足を滑らしそうになり、とても恐怖感を感じた。

二時二十五分、幕営。八虫の様なものが沢山いて、Nの顔の周りを、歓迎しているかのように何十匹もとり囲んでいた。その後、Nと二人で、北股岳の頂上まで登り、ナニをする。(編者注:多分・・・大キジ? 頂上で? ウソだろ~)気分爽快、すこぶる快調ナリ。こんな事は、山へ登った者だけができる素晴らしい?事だと思う。

 夜、僕は天幕の端に寝ていたので、ものすごく寒くて、眠れなく、いい気持ちで眠っているNが憎らしくなってきたので、蹴飛ばしてしまった。(N様、すみません)本当に寒くて眠れなかったので、実際の睡眠時間は二時間位だと思う。

 八月二十六日、時刻不明。寝不足と暑さがたたったせいか、鼻血がでてしまった。先輩たちが帽子で扇いでくれたので直ぐ止まった。(三年生の皆さん有難うございました)僕は副鼻腔炎だったので、早いうちに医者に行っておけばよかったと思う。

 一時十分、飯豊山頂まで、あと少し。

一時三十五分、飯豊頂上着。僕は、このとき一人だったなら、あまりの感激に、きっとバンザーイとか、ヤッタゾーとかと、大声で叫んでいただろう。今までの僕の山に関しての常識では考えられないような山また山。「人工」という言葉は存在しない。この時ほどこの山を登って、また山岳部へ入って良かったと思った時はない。

 この日の夜は、先生と打ち溶けあって話し、先生と友達の様なものにでもなったような気がした。

八月二十七日、朝七時出発。下山の途中、先生方から水の飲みすぎを注意され、まだまだ未熟だなぁと思った。

午後七時十分、家に到着。ものすごく眠たかった。

 この度の登山を通じて感じられた事は、まず何と言っても、体力不足という事だ。15Kgキスリングを背負ってすぐ息を乱す様ではまだまだである。

 次に普段の生活習慣が、はっきり出てくるという事だ。夏休み中、水を飲んでばかりいたので、登山中、水を飲みすぎたし夜更かしばかりしていたので、早く眠りにつくことができず、あまり眠る事が出来なかった。

 最後に、知識が浅いということだ。地図を見ても、現在地を確認する事が出来ないし、登山用語、用具もまだまださっぱり分からない。

 これからは、一日一日の練習を大切にし、山についてもっと勉強し、一人前とはいかなくても、せめて半人前位のアルピニストになろうと思う。

おりひめ第11号より転載

同期のT君の文章です。彼はトレードマークが広島東洋カープそっくりの大学を卒業。もはや某一流企業の部長を狙える位置にいるんだとか。(タ◎ノちゃん、偉くなっちゃって、山頂でキジ撃ちはダメだよ! たまには山荘で会おうよ。あの頃と変わらずに月も星も手にとるようだよ。 蹴られた顔がいまだに疼くゼ・・・)

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おりひめ10 [おりひめ]

ヨシゾエ先生、この年の春に新高へ転勤となり「おりひめ」最後の寄稿となります。

山への慕情

 私が今年の元旦に心の通う人に出した賀状に次のような拙い句を載せた。

 「過ぎし日の ヒマラヤを夢み 今はたゞ 熱き想いを 絵筆にたくして」

これは昨年の八月の下旬に心の故郷なる清水山荘で、ふとしたはずみから肋骨を四本折って一ヶ月余りにわたる病床生活を送り、その後も患部の痛みで登山らしい登山は勿論の事、少しの運動さえも出来ない身体になり、山への思慕の念をひたすらこれまで登ってきた数々の懐かしい山(この句ではヒマラヤとなっているが、それはこれまでの山々の象徴的表現なのである)を描くことによって山への情熱の鉾先をかわし、追憶の中に過ぎし日の己の姿や山を思い出そうとしている、この頃の私である。

 「熱き思いを絵筆にたくして」などと書くと如何にも、すらすらと素晴らしい絵が次から次へと出来上がっていくようだが、まさに悪戦苦闘の連続なのである。池上画伯の研究室で七名の同好の先生方が唸ったり呻いたりの連続なのである。私はこの苦闘の渦巻のような研究室で、これまで漸く三枚の油絵を描きあげた。

 一枚はヒマラヤからの帰国直後より描き続けていた、ティアンボチェのラマ寺院とアマ・ダブラムである。これはヒマラヤの風景の中で、写真や絵画の対象になる最高のものである。これはヒマラヤ写真集の中に必ず見かけるものであるし、私達(ホンマ先生、Y嬢、私)がパンジャブ・ヒマラヤ登山後、ネパールの首都カトマンズにある政府のツーリスト・ビューローでポカラへの航空便の交渉に行き、この風景の三十号位の油絵(勿論ネパール人でなく相当高名な外国人の描いたものであろう)が正面の壁に掛かっているのを見た時に一度是非描いてみようと決心したものである。

 二枚目は秋の巻機山である。我校のホームグランド的な存在である巻機山は、四季を通じて四十回も登っているし、何百回も眺めていて隅々まで知り尽くしているので、さぞ簡単に描けるだろうと思ったが、知り尽くしている山だけに実に描きにくいものである。中央に位置する天狗岩一つとってみても、まさしくその通りなのである。実際に登っているだけに一層始末が悪い。あの峻険にして厳しいスラブやオーバーハングや岩稜を、自分の納得するまで表現する事が如何に困難であるかをイヤと言う程知らされた。

 三枚目は、私達の登ったパンジャブ・ヒマラヤのAC3から眺めたラダキー・マナリー・マッカルベーの六千米級峰への鋭い山稜と遠く雲海の上に浮かぶデオ・テバヤイデラサン峰の雄姿である。これも実際、目にしているだけに、岸壁や氷壁の凄味、迫力を現す色彩に、実に苦労させられた。特に岸壁の色については悩みうなされ夜中に何度目を覚ました事であろうか。人が聞いたらあきれ軽蔑する事であろうが、これも自分で登ってきた山への愛情でありその美しい姿を出来るだけ美しく表現したいと思う。アルピニストの切ない悲願なのである。

 次に描きたいと思っている山は、勿論谷川岳である。この山も巻機山と同じく余りに沢山登り、余りにも心に残る思い出が一杯なのだ。その厳しさや鋭さや深みを表現し得る自信がないのである。十数年前、一ノ倉と南面の幕岩の遠景を一枚ずつ描いた経験はあるが、いずれも納得出来ない代物で終わった。しかし、いずれも当時の卒業生に無理に所望されて手放したが、出来れば取り戻して書き直したいと思っている。私はこれまで谷川岳を描いた沢山の有名無名の人の絵を見て来ている。酷評かもしれないが、たった一枚の絵を除いては、すべて張子の壁であり、貼り絵の境を出ていない愚作である。

谷川岳特有のあの非情なまでの厳しさや、鋭さや、激しさがないのである。実に、描くには難しい山である。私の絶賛したただ一枚の絵は、今は亡き高名な山岳画家である足立源一郎作の南面を谷川温泉から眺望した絵である。私はその絵を十五年前、ヒツゴー沢と思って誤って入った悪絶のオジカ沢を雨と激流に苦しめられ、全身びしょ濡れになりスリップして重傷を負ったO嬢を庇って一晩ビバークの後、二十時間という気の遠くなるようなアルバイトを強行の末奇跡的生還をして、谷川温泉の谷川山荘なる旅館に倒れるように辿り付いた時、玄関の正面の壁にその絵を見つけ、魂が引き込まれる様な思いで無言のまま見入った事を覚えている。

私はその後、その時の感動を新たにすべく一人でその山荘を訪れたが、その絵は源一郎氏の死後、やはり山岳画家である息子さんが訪れ、譲り受け持ち帰ったと聞きがっかりしたが、実に迫力のある素晴らしい絵であった。

 私は、この原稿を書くのに少しでも参考になったり、心の思いでを甦らせてくれればと思って「おりひめ」をめくってみたのであるが、谷川岳に関する私の記事は殆ど載っていなかった。それもその筈なのである。私が谷川の岩場を最も意欲的に果敢に登っていたのは、今から十五年前の昭和三十五年から四十年の期間であったから。その当時の登攀記録は東高OG山岳会誌「ピッコロ」の初期のものに総て掲載されてある。谷川岳の最後の岸壁登攀となった一ノ倉沢三ルンゼの記事の最後の一部を紹介すると、

「・・・その地点からシンセン尾根までは、傾斜六十度位のホールドやスタンスに富んだ快適なスラブをスタカットでどんどん高度を稼ぐ。遂に待望シンセン尾根に着く。極度の緊張感から解放されて、その場に倒れたい誘惑にかられる。その場で写真を四、五枚撮り、苦闘のルートを俯瞰する時、胸がジーンとして話す事も出来ずザイルを解き、ループにして肩に担ぎ、青空とスカイラインを割する国境稜線を目指して急峻な草付きを一気によじ登る。時まさに午後四時、朝七時にテール・リッジに取り付いて、七時間にわたる生死を賭けた登高であった。太陽の光溢れ、春風頬をくすぐる国境稜線で我々二人は声もなく抱きあっていた。感動の嵐が体内を駆け巡り、目が霞み溢れ出んとする嗚咽を歯を喰いしばって耐えるのがやっとであった。何も口に出して話し合う必要はなかった。登攀前に心に描いた演出など全くつまらない俗物の思われた。芸術的なすっきりとした登攀、そんなものはどうでもよかった。唯この山頂に、生きて立っている事だけで充分であった。私の三十七才の生涯で、これ程純粋にして真剣な行為や感激があったであろうか。

また今後二度と有り得るであろうかと思うとき私は、湯檜曽川のシルエットを投げかけ始めた谷川岳に向かい『私の青春の総てを捧げた谷川岳よ!さようなら!!永遠に清く美しくあれ』と心の中で叫んでいた。」

この一ノ倉三ルンゼ登攀を最後の岩壁登攀とする事を心に誓った。

しかし五年後の四十五年のヒマラヤ遠征登山に備えて、トレーニングを兼ねてまた岩場を登るはめになったのである。

 私の長く苦しい岩壁登攀の歴史の中で最高の苦闘と思い出に満ちたものはこの一ノ倉三ルンゼであり、これが真の意味での岩壁登攀の終焉でもあった
衝立.jpg

 生涯心の中で生き続ける、この谷川岳の美しさと思い出を一枚の油絵として描きあげる事は、たとえそれが不作にして未完に終わろうとも、老いたアルピニストの悲願であり、慕情なのである。

そうして心の山、谷川岳を描き上げた後は、これまで遍歴した山々を描くべく最小の登山装備をザックに詰め、絵具箱を肩にかけ、キャンパスを腕に抱えて、残雪の山並みを、新緑のブナ林を、黒光りする岸壁を、紅葉する峠の山道を、落ち葉散る渓谷の清流を、そうして吹雪舞う山里を旅心と画心の趣くままに彷徨に歩いてみたいと思っているのが、この頃の私の心境である。


おりひめ第10号より転載

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