おりひめ7-2(追憶) [おりひめ]
同9月13日(日)
おりひめ13(追憶) [おりひめ]
さしあたり
僕らの時代の先生の寄稿文、
再掲して先生の事
偲びましょう・・・
おりひめ28-2 [おりひめ]
手持ちの【おりひめ】最後の登場はW先生
今年の小屋開きには日帰りで参加してくださいました。
前年の 10 月に新潟高校で、登山部の顧問会議が開かれた。
この会議ではその年の活動報告とともに、次の年の活動方針が議題となる。最後に、翌年度の大会の割振りがあって、大会運営にあたる主管校が決まる。大会のおおよその期日と会場に使う予定の山の名前も発表される習わしになっている。
現在、新潟県高体連登山部は、加盟校の数に基づいて県内を 4つの地区に分けている。上越、中越、下越、新潟。
この地区割は、昭和61年度から実施された。これ以前は A 、 B 、 C と 3 つになっていた。
3 地区の分け方は複雑で、長岡の学校が上越といっしょにAであるのはよしとして、魚沼が三条・加茂とともにBになっていた。
今は、魚沼と長岡、それに三条・加茂の4つが中越地区です。大会は、4月中・下旬の総体 1次予選(技術講習会)、 5 月中旬の春季大会、 5 月の終わりから 6 月のはじめにかけての県総体(県大会)、 9 月中・下旬の秋季大会(県大会)と 4 つある。
顧問会議で、どの大会を引受けるかの話し合いになると、なぜか秋の大会がもてもてになる。秋季大会なら主管校になってもいいという立候補が出る。
逆に、県総体だけは遠慮したいという雰囲気もある。県総体は 2 泊3日で、しかも審査がついてまわる。
総体1次予選は、新学期そうそうのことでもあり、 2 ・ 3 年生が対象であっても、準備が大変である。
春季大会は、初めて山に登る 1 年生が参加するため、 1 泊 2 日であっても大会が終わるまで緊張が続く。
秋の大会の運営希望が多くなるのも納得出来るでしょう。この会議のあった日は、丁度石川国体の最中でした。石川から戻った翌日、巻機山周辺で県総体をやるようにという連絡をもらいました。
裏巻機を中心に検討してみては、といっています。
しかし、地図を広げてながめても、 2 泊目の幕営地の目途がまったくたちません。
清水峠から巻機山に至るコースは、大いに魅力的ですが、大会で使うとなると道の整備が必要です。
4 年前に三条工業高が、県総体のコースとして第 1 次候補にあげて検討しましたが、道の整備が出来そうにもなく断念しています。
方針を、今まで大会に使っていないコースを設定する、に変更しました。
三条工業高の吉田光ニ先生と相談して、候補地を谷川岳に絞りました。三条工業高が 4 年前に主管した大会では、谷川岳が会場になりました。群馬県の土合駅から入って、白毛門山に登り、笠ケ岳、朝日岳を経て、清水峠に抜けています。今回は、まったく新しいコースとはいえませんが、新潟県側の土樽から茂倉岳に登り、武能岳と七ッ小屋山を越えて清水峠に至るルートを考えてみました。
武能岳を下ったところが蓬峠です。この峠からは、土樽へ下りる道と土合に下がる登山道があって、どちらも避難路として使えそうです。
6 月の初めの頃は、 2千m の山の上では、天候次第でまだ油断が出来ません。悪天候に見舞われて、予定通りに日程が消化出来そうもないとき、避難路が確保されているのは、何とも心強いものです。この年の県総体は白馬岳で行われましたが、 2 日目は雨と風で出発時間を遅らせて、なおかつ登山行動を午前中で打ち切りました。
この日は白馬大池で幕営、上の小蓮華山には行けませんでした。このときのコースは、蓮華温泉から登り、同じ道を下ります。従って、日程の短縮は割合容易だったようです。
茂倉岳を会場に使うとして、まだ確認しなげればならないことがいくつかありました。
まず、1 日目に十分な広さの幕営地があるのか。登山道の整備具合いはどんななのか。
2 日目は歩いてみてどのくらい時間がかかるのか。土樽までの交通手段はどうなっているか。いずれも直接自分の目で確かめる必要があります。
10 月下旬、土樽山荘に向かいました。この日は土曜日です。午後、高速の関越道を湯沢イン夕ーで下りて、中里を通って土樽を目指しました。
丁度、紅葉の真っ盛り。周りの山々は赤と黄色に彩られ、見事の一言。
これを見に来ただけでも価値があると思った程です。陽射しも暖かく、朝早く来ていれば、山頂にも十分に立てたことでしょう。
土樽山荘の伊藤周左衛門さんに相談にのってもらい、幕営地は山荘の駐車場に決定。広さはまずまず。ただし、上越線をはさむようにして、線路と並んで伸びている高速道路が気になりました。昼夜をたがわず、ひっきりなしに走り去る自動車の騒音のひどいことといったら、想像していた倍以上です。山荘のアルミサッシの窓を閉めていても、キーンという音が小さいながらも伝わって来る。
テントではこの騒音をまともに受けて、夜まんじりとも出来ない選手が続出する恐れさえある。
その上、水はともかくとして、トイレの絶対数が足りない。全部のトイレを女子用にあてたとしても、まだ十分ではない。懸案となっている男子トイレの確保はまったく不可能。早くも男子選手の不満の声が耳に届く感じです。
この日の宿泊客は 20 数名といったところでしょうか。
玄関の棚に並でいた靴は、最初山歩きに適したものばかりでした。それがタ方になるにつれて、街で見かけるものばかりになって来ました。ネク夕イを締めた人も到着します。風呂から上がって食堂に行くと、私以外は皆んな知り合いらしく、テーブルを口の字に囲んで楽しそうです。そこから離れたひと隅に、ひとり分のご馳走が置いてありました。
にぎやかなグルーブの方を見ながら、ひとり食事をとるのも何んとなく恥ずかしい気がします。
かといって、それに背を向けて食べるのも、すねているようで気が引けました。結局、皆んなに横顔をさらす感じで、ひとりビールのコップを口に運んでいました。
明日はきっと雨になるだろう。でも、出来るだけ朝早く出発して山頂に立ちたいなあ、などとぼんやり考えていたとき、若い女性から声をかけられました。えっと思って振り向くと、石川、富山の北信越国体でいっしょだった助川さんです。
彼女は新潟県の山岳競技の成年選手でした。知り合いならこっちに来ませんか、とグループから誘いの声もかかり、伊藤さんの勧めもあって、合流させてもらいました。
年1回開かれる、植村直巳を偲ぶ会だそうです。毎年同じ時期に、この山荘に集まるとか。今年は、植村夫人が風邪で出席出来ず、参加者の人数もいつもより少ないそうです。
山荘の玄関を上がってすぐの受付のところに、登山家の長谷川(恒夫?)、ヨットマンの多田といっしょに写っている植村直巳の写真がありました。
この高名な人達は、若くして3人ともすでにこの世になく、惜しい限りです。皆さんの話しに、ついつい遅くまで耳を傾けてしまいました。
翌朝は予報通りの雨。ゆっくり起きて朝食をすまし、 8 時30 分に山荘を出発。
玄関まで助川さんの見送りを受けました。おかげで、張り切って出発出来たみたいです。伊藤さんに教えてもらった通り、登山口まで自動車で直行。雨の中を登り始めました。登山道は聞いたように、よく整備されていました。登り口は高速道路のバーキングエリアのすぐ脇です。
道標はほとんどありませんが、 1 本道で迷う心配はまったくなし。最初はともかく登り一方です。
振り返るといつまでも、すぐ下に高速道路が見えていました。尾根筋に大きく育ったヒノキの並ぶ槍廊下に到着。太い幹が尾根をふさぎ、根も高く張り出しています。両側は切れて崖です。両手と両足を使い、張り出している根をまたいだり、その上に上がったり。
時間がかかり、歩行のリズムがくずれてしまいました。下って来る男ふたりの登山者とすれ違ったのは、この時です。
矢場ノ頭で腰を降ろしました。時計を見ると、10 時半を過ぎています。この後 1 時間歩いても、せいぜい川棚ノ頭に達するだけ。山頂は、まだはるかに遠い感じ。
雨足も衰えずとあって、山頂に立とうという決心はたちまちくずれてしまいました。下山すると決めて、ザックから無線機を取り出しました。 3局と交信して 10分余り。歩いている時は我慢出来た寒さも、じっとしている時は耐えがたいものです。
大会の丁度ひと月前、 5月の連休を利用して、当番地区の予備踏査を行いました。参加者は地区の顧問 4 名と男子部員 3 名です。三条工業高の水落先生、清水先生、真島先生と私。生徒は 3 年生の大野、松永、 2 年生の更級です。 5月2 日土曜日、授業が終ってから学校を出発。夕方土樽に着いて、無料休憩所に泊まりました。小雨が降っていたこともあって、少し離れたところに、新潟高校と新潟中央高校がテントを張っていたのを知りませんでした。
翌日もまだ小雨が残りましたが、天気はなんとか回復しそうです。ふたつの学校は、われわれよりも早く出発していきました。
休憩所の鍵を山荘の玄関に置いたのが 5時10分。登山口着、 5 時 40 分。登山道の雪の上に、先行者の新しい踏み跡がはっきりとついていました。 8 時丁度、矢場ノ頭で 10 分間の休憩。
ピッケルを手にしたのは、矢場ノ頭を越えて下った鞍部からです。目立って雪の量が多くなりました。上空には青空も見えています。でも、風は強く、冷たい。 9 時 10 分、川棚ノ頭の手前で小休止して行動食を食べる。カステラ、チョコレート、アメなど。
天気はますます回復傾向にあって、展望は開けるばかり。茂倉岳の山頂がくっきりと姿を現わしました。頂上付近は一面真っ白です。太陽の熱で溶けて枝から落ちた氷のかけらが、風で飛ばされてきて足元できらきらと光っていました。
10 時 35 分、茂倉岳山頂( 1977、9m )に立ちました。谷川岳本峰の一ノ倉はすぐそこです。
山頂には登山者が動いて見えていました。これから向かう、武能岳( 1759、6m )、蓬峠、七ッ小屋山( 1674、7m )、清水峠も一望出来る。清水峠の白崩小屋さえもはっきりとわかります。
これからあそこまで歩くと思うと、気が遠くなりそうな感じ。武能岳に向いて下をのぞくと、先行パーテイがずっと下がったところで休憩しています。
私達も昼食休憩にはいりました。パン、べーコン、レ夕ス、サバ水煮缶、調味料はマス夕ードにケチャツプ。マス夕ードがことのほか好評。防寒具や雨具の上下を身に着けてもまだ寒くてじっとしていられない。
11時10分山頂出発。 12時、茂倉と武能の真ん中、笹平の標識を通過。この鞍部で休憩。
山頂で着た雨具を全員が脱ぐ。風は強いが、寒くはない。ピッケルも背中に差した。 12 時50 分、武能岳の山頂到着。笹が多い。地面も出ている。一ノ倉と茂倉が真向いにみえる。手を伸ばすと、すぐそこといった感じに思える。一ノ倉の頂上から土合に向けて一直線に下り降りる登山者の姿が、白い雪の上に小さく見えていた。
風は強いが、展望はすこぶるよろしい。 20 分の休憩。 13 時 45 分、黄色の蓬ヒュッテに着く。雪原が広い。登山者が多い。新潟高校と新潟中央高校のパーティにようやく追いついた。でも、ふたつの学校はすぐに出発。天気はいつの間にか薄曇り。先を急ぐことに意見がまとまった。七ッ小屋山手前の登りで、先行パーティを追い抜く。
蓬ヒュッテからずっと、登山道が出ていたが、登りの斜面にはまだ雪がたっぶりと残っていた。この急斜面をキックステップで一歩一歩登る。さすがに息が切れて、トップは交替。
14 時 40 分、七ッ小屋山頂通過。休まず、そのまま清水峠をめざす。下り斜面は雪が広くついている。
かかとをしっかりと踏みしめないと、転びそうになる。ところどころ雪が硬く凍っていて、知らずにその上に乗るとすべる。
身体ごと流されそうになって本当に恐い。尾根筋のところどころに笹が出ていた。
15 時 25 分、清水峠に到着。避難小屋の中には、清水から上がって来た3 名の先着パーティがいる。われわれ 7 名と先に着いていた 3 名、それに後から追いついて来た単独行の登山者が加わって、 11 名が小屋に泊まった。
もう 3~4 名は楽に泊まれたであろう。最初の 3 名が広く場所を取って、ゆずろうとしない。小屋のうしろにふたりパーティがテントを張り、その脇では、いちばん遅く着いた 3 人連れがツエルトを立てていた。
小 1 時間もしないうちに猛烈に冷えてきた。陽がかげって急激に暗くなる。白いガスが広がる。それを透かしてみると、白崩小屋の側にテソトが 2 つかすかに見えていた。
4 日月曜日、 5 時起床。 3 人パーティの出発準備がうるさくて、寝ていられなかった。風が強く、雪もちらつく。前日見えていた周りの稜線は、時冷ガスに包まれて姿を消す。稜線の頂は、全部厚い雲におおわれて顔を見せてくれない。
6 時 50 分、小雪の舞う中を出発。雨具の上着のみを着用。新潟高校らのテントはもうすでにない。少し登って、送電線の鉄塔を目標に雪の斜面を横断。強風が吹くとザックが重いこともあって、身体がゆれる。先に下りたパーティの踏み跡がくっきりと残っていた。
7 時 20 分、国鉄避難小屋の脇を通過。みぞれで、全員が雨具を着用した。
8 時 30 分、登川の渡渉点に到着。天気は晴れ。行動食をとった。
9 時 10 分、追分を通る。
10 時 10 分、上田屋着。 50分休憩。
11時 25 分、タクシーで六日町駅に到着。予備踏査は無事終了した。予想していた通り、雪が少ない。
雪上歩行の審査は、茂倉岳直下の斜面しか使えない。それより困ったのは、清水峠に雪のないこと。
避難小屋の周りは、完全に地面が出ていた。雪上幕営が不可能であれば、テント場の規模がずっと小さくなってしまう。
はたして、全部のテントが張れるだろうか。
大会の 10 日前、 5 月22日(金)、 2 回目の事前踏査に出発。
今回は審査員を案内するのが主たる目的です。その上で、審査と運営の大会方針のすり合わせを行います。この日は、自動車で朝早く出ました。六日町、塩沢町、湯沢町の順に巡り、役場をはじめ、教育委員会、警察署、消防署、病院、駅、地区の有力者などの挨拶回りも、一気に済ませてしまおうというわけです。全部に予め依頼状を出し、電話でも大会協力のお願いはしてありました。
運転手は清水先生です。車には三条工業高の吉田先生、真島先生と私が乗り、清水先生だけはこの日私達 3 人を土樽山荘に運んだだけで帰りました。
タ刻、土樽山荘に集まったのは、地区の顧問が 4 名、審査員が 4 名の合計 8 名です。前回はテント持参のフル装備でした。
今度は出来るだけ身軽にと考えて、寝袋もピッケルさえも持ちません。この夜は山荘泊り。翌日の清水峠も、 JR にお願いして、白崩小屋に泊めてもらうことになっていました。
23 日(土)、朝と昼の 2 食分のおにぎりをつくってもらい、 5 時に出発。休憩地点に適当と考えられる場所を選び、木の枝や登山道脇の草に赤い布テープを目印として結ぶ。
天候は晴れ。茂倉山頂直下の避難小屋は、まだ雪の中に埋まったままで姿を見せてくれない。
山頂からの展望はこの日も素晴らしい。蓬峠で、ヒュッテの管理人古田さんにアマチュア無線の使用予定周波数を告げた。
無線の電波は大会中、六日町警察署でも傍受していてくれることになっている。
JR の白崩小屋は、ストーブがあかあかと燃えて誠に快適。寝具もきちんと揃っている。われわれのためにこの日、六日町駅前の事務所から職員がひとり、清水峠に上がって来た。小屋の鍵を開け、風呂まで沸かしてある。【民宿やまご】のご主人でもある小野塚さんだった。
小屋とはいいながらも、 3 階建ての立派なもので、自家発電によって電気もつく。高体連の登山大会のために、快く開放してもらった。
現在、事務所に 5 人しか職員がいないため、個人で利用を申し込んでも応じていないという。
4 年前の大会でもお世話になりました。
24 日(日)、圧力釜で持参の米を炊いてもらいました。温かいご飯を食べて、皆んな元気に清水へ向かいました。時折、小雨もばらついたりしましたが、雨具をつけると止んでしまいます。途中でコシアブラをとったり、フキノトウを摘んだりもしました。
茂倉岳の登山道にもコシアブラは、食べごろのものが沢山目につきました。
しかし、審査の準備に来たということと、先を急ぐ必要もあって、誰も手を出しませんでした。
この日の下り道は、審査の対象から外れています。特に打ち合せをすることもなく、山菜採りを楽しみました。審査員の感想は、 2 日目の歩く距離が長いこと、茂倉岳まで登り一方だから、山頂に立てない脱落チームがいくつか出るであろう、というのに集中しました。大会の準備でいちばん困ったのは、救護員がなかなか見つからないことでした。いろんな方々に知恵を借りて、病院や消防などと連絡をとっても、全部断わられてしまいます。
たまに引き受けてもらえそうになっても、山に登るのならだめとか、 1 日だけならといわれて、話しが振り出しに戻ってしまいました。
加茂高校の浜田先生には、卒業生を紹介してくれるようにお願いしました。三条高校の卒業生にも連絡をとってみました。万策尽きた感じです。でも、救護員なしというわけにはいきません。
三条工業高校の吉田先生に、知り合いの歯医者さんを口説いてもらいました。ようやく救護員が決まりです。歯科医師の大竹先生には、大会中診療を休んでもらい、大きな迷惑だけをかけてしまいました。高体連から支給された、わずかばかりの旅費のみをお渡ししました。
でも、そのお金の大半が後日、北信越大会に出場する三条工業と、全国大会に出る三条東に、餞別となって帰ってきてしまいました。
第 45 回新潟県高等学校総合体育大会
第1日目 6 月 2 日(晴れ)
天候に恵まれて、屋外の開会式には絶好の日和となった。気温が上昇して、じっとしていても汗ばむくらい。
普段駅員のいない土樽駅に、大会の受付時間に合わせて、湯沢駅から切符受取りに出張してもらった。
ホームに降り立つと、歓迎の横断幕が掲げられているではないか。歓迎県総体登山大会と書いてある。
湯沢町には、大会の後援をお願いしてあった。でも、このようにしてもらえるとは、予想もしていなかった。感激したのは、私ひとりだけではなかったと思う。開会式に引続き、天気図の作成、ペーパーテスト、テントの設営、タ食準備と、日程が予定通りに進んでいった。
テレビ局が取材に来ていた。カメラに撮ったものが、晩にニュースとして放映されたが、私達は誰も見ることが出来なかった。
第2日目6月3日(晴れ)
4 時 30 分の出発時間がせまって来ているのに、幕営地の方を眺めると、テントがいくつか立っている。
せかせても、テントをたたむのに手間がかかる。 5 分前集合どころではない。
点呼に遅れたパーティは、班の後を追いかけさせることにして、当初の予定通りに出発。
茂倉岳の登山口までは、工事用の自動車が入るため、立派な舗装道路になっている。道路の途切れたところで最初の休憩。ザックが重いこともあって、すでに汗びっしょりの選手も見られる。各班の隊列を整えた。この後、全員が顔を揃えるのは、タ方清水峠に着いたとき。
一旦登り始めると、平らなところはない。休憩の時は、登山道に一列になったまま腰を降ろして休む以外にない。
山頂まではひたすら登りが続く。特に出だしの部分が、粘土質ですべりやすく、傾斜も相当にきつい。
このコース初めての人は、ここでもう気が遠くなってしまうかもしれない。移動本部は、半谷委員長と三条地区の顧問ふたり、それに補助員 2 名で構成した。お互いに無線で連絡が取れるとあって、しいて固まっている必要もない。各班の通過を見守るため、私ひとりが三条工業の 2 年生ふたりを連れて、この坂道を先行した。
どの選手も張りきっているのか、予想していたよりも登るペースが速い。各班に先導係をつけ、先頭を歩く班長にも出来るだけゆっくりと登るように頼んだ。玉の汗を流しながら、先を急ぐ選手もいる。
4 名の選手の連携がとれていないのか、最初から 4 名がばらけ気味になっている学校もあった。
矢場ノ頭を過ぎて、川棚ノ頭にかかる辺りから、脱落パーティの連絡が無線に入り始めた。
遅れがちなパーティは、各班のいちばん後におく。それでもついて来れそうにもないときは、班から外す。外れた学校は監督が呼ばれて、選手に付き添うことになる。
監督が審査員になっているときは、審査員がひとり減ってしまう。今回の大会コースはきついと判断したのか、 4 人の選手に監督ふたりの学校がいくつかあった。そんなわけで、三条地区の選手や補助員がばてるのを、何よりも恐れた。
最後尾のサポート隊が脱落パーティとともに歩く。青空を背景に、雪を頂いた茂倉の山頂が、白い姿を見せている。それを見て闘志をかきたてる者と、逆に気の遠くなってしまう者とがあるようだ。出発からすでに 5 時間半、時計の針はすでに 10 時を回ってしまった。
頂上直下の避難小屋の屋根が、雪の上に顔を出している。ほんの 10 日前には、雪に埋もれていて、所在がまったくわからなかった。
ここまでの間に、落後したパーティのうちふたつが、登頂を断念する。
2 校とも男子で、登山口に向かって下山を開始。女子1 校も、すぐ近くに来ているにもかかわらず、停滞したままで動く気配がない。
救護係としてそばに付き添っている清水先生からの連絡では、腹痛の選手1名が岩陰に入ったままだという。
避難小屋の上部で、雪上歩行の審査が始まった。雪が減って、斜面の傾斜がさらに増した感じがする。はるか下まで見えるせいか、下りの歩行は腰の引けた選手が多く目につく。
三条東の女子も顔が下を向いたままで、足元の何かを捜しているように見えた。
山頂からは無線で、早く選手をこっちによこせという矢のような催促。上で、別の審査が行われているようだ。さらに男女ふたつのパーティが、避難小屋まで到達しないで下山することとなった。
山頂がすぐそこのように見えていても、このまま登れば小 1 時間もかかるであろう。土樽まで引き返す時間も考えると、決断は早いほうがいい。移動本部から2校に対して、下山するように指示を出した。
選手の無念な気持ちを思うと心が痛む。 4 人全員が動けないのではない。不調なのはひとりだけだ。
移動本部が最後尾となって、山頂を通過。
とっくに午後になっていた。この日の展望も素晴らしいの一言に尽きる。
茂倉岳を足早に下って武能岳の登りにかかると、再び脱落の連絡がしきりとなった。男子 1 名がこの登りで倒れた。
無線機のスピーカーから流れる声は、日射病だろうといっている。その選手が汗をかいているかどうかと、吉田先生が問い合わせた。汗びっしょりの返事が帰ってきて、一安心。様子を見に、吉田先生に先行してもらった。
行動食は持たず、朝も昼もろくに食べていなかったらしい。
コンデンスミルクをたっぶり含ませたパンをもらったら、元気を回復したという連絡。
武能岳の山頂から女子班についての連絡がはいった。上から見ると、選手がてんでばらばらに分解しているという。先頭をいく班長は下りとあって、快調に飛ばしているらしい。そのすぐ後ろを、 4 人の選手がぴったりとついて来るため、全部の学校も皆んな続いているものと思っている。
実際には 1 校だけで、それ以外の学校はかなり遅れていて、さらには 4 人の選手さえも離れ離れになっているパーティもある。先頭を追いかけて、先頭を止めてくれと、新潟中央高の中村監督に頼んだ。
武能の手前で、班から落後した学校が 3 つ。学校単位で監督といっしょに雪の上で休憩しているのが見える。その手前には、ひとり遅れた監督が歩いていていかにもつらそう。
背中のザックは、選手のものよりも大きくて見るからに重そうな感じがする。このままでは遅れがさらに大きくなると判断した。
強制的にピッケルとザックの中身を取り出して、補助員の三条工業の 2 年生に分配した。監督としての自尊心を傷をつけたことであろう。選手がどんなにばてたとしても、補助員に選手の荷物を持たせるつもりはない。残り 3 人の選手が分担して持てばいいのだし、あるいは監督が持ってもよい。
落後した選手の学校名は無線に飛び交った。でも、監督の件については触れないように配慮した。
夜、審査員のひとりから、監督に落後者がいたかどうか質問されたが、ひとりもいなかったと答えておいた。
武能岳を下りきってほっとしたときに、恐れていた事態が発生した。三条地区の学校で構成した、救護隊とサポート隊が全員登山道に集まっている。皆んなが取り囲んだ足元には、三条高の女子選手 1 名の姿が横になって見えている。これから先の行動が無理となった場合は、他の学校と同じように監督をつけて、蓬峠に残ってもらわなければならない。そうなれば、運営の人手が確実にひとり分減る。しばらく横になっているうちに、自力で歩けるまでに回復した。
蓬ヒュッテの前で、男子 1 校の監督より行動打ち切りの申し出があった。もう選手に、清水峠に向かおうという気力がなくなった。ここでテントを張り、明朝は土合に下りたい。したがって、閉会式には参加出来ない。ヒュッテの管理人の古田さんが、雪の残り具合いからして、土樽よりも土合に下った方が安全ですよといった。
これで合計 5 校が大会から消えた。午後 3 時を過ぎた頃、先発した設営隊の真島先生から清水峠到着の一報が届いた。先頭にいた男子の 1 班は、追いつく勢いで先発隊を追いかけていたのではないか。
20 分くらいで 1 班も峠に到着の連絡が入る。ずいぶんと速い。班長に選手の学校名を確認する。何んと 3 つしかない。 9 校いたはずだ。 6 つの学校はどこにいるのか。なぜそんなに急いだのか。
脱落パーティは運営上困る。予定時間より遅れても、何とか全パーティを掌握しておいて欲しかった。
七ッ小屋の登りと下りで、遅れている学校を追い抜き、移動本部が先に清水峠に着いた。
峠は日本海から関東地方への風の通り道。いつも風が強い。ガスがかかって、風は冷たい。
すでに地面に張り綱が交差して、テント間の狭い隙間を歩くのが難しい。
全選手清水峠に揃ったのはほぼ 6 時。茂倉岳で予想した時刻は 7 時であった。あの時は、暗くなって到着する学校もあるであろうと覚悟を決めていたが、何とか、足元の見えるうちに間に合った。
タ刻、白崩小屋の本部に、 2 ・ 3 名の選手の体調不良が報告された。いずれも疲労による発熱と考えられる。
解熱剤でなく、風邪薬を飲んで温かくして寝るようにという大竹先生の指示を伝える。
幸い、翌朝皆んな元気になった。土樽に下山した 4 つの学校のその後の様子が気になっていた。
山頂と違って無線の電波はかすかにしか届かないため、 JR の携帯電話を借りて、清水集落の上田屋に確認を入れた。麓本部は三条高の中村先生ひとりだけ。ふたつの学校は電車で帰宅。 1 校は土樽で幕営。もう 1 校はすでに清水に着いてテントを張っているという。
ふたつの学校とは明日の閉会式で再会出来そうだ。茂倉への登りの途中で、赤いシャクナゲの花が目を引いた。蓬峠から七ッ小屋山の間にイワカガミやイチリンソウとともに、シラネアオイの花が咲いていた。
皆んながそれを楽しむ余裕があったであろうか。
第 3 日目 6 月 4 日(晴れ)
4 時 40 分、先発隊よりもひと足早く JR の小屋を出る。 10 日前よりも一段と雪が解けて、心配していた雪の急斜面も、ことごとく夏道が顔を出している。特にルート工作をする必要もない。
登川の丸木橋の渡渉点まで一気に下り清水の集落に直行。 8 時過ぎに各班がぞくぞくと下山して来た。周囲ににぎやかな話し声があふれる。
予定通り 9 時から、審査員の講評を交えた班ごとの反省会が始まる。閉会式は菊埼審査委員長の話しが少し長くなって 1 時間近くかかった。
11 時過ぎ、選手がバスに乗車して大会が無事終了した。
3 日間、気温が急上昇したせいか、夏の到来を思わせるセミの鳴き声も聞こえた。
大会結果 最優秀校 男子六日町 優秀校 男子三条東 三条工業 三条 小千谷 安塚
奨励校 男子湯沢 新潟東工業
インターハイ出場 男子六日町 三条東
北信越大会出場 男子三条エ業 新潟
(以下略)
全国総合体育大会登山大会(男子C隊、3 班)
会場宮崎県期日 8 月 5(水) ~8 月 9 日(日)
県大会の後始末に追いまくられているうちに、いつの間にか 7 月になっていた。期末テストが終わると、もう中旬ではないか。
遅ればせながら、ようやく計画書作りから準備が始まった。 3 年生松永が受験勉強に専念したいと選手を辞退したため、 2 年生木村をメンバーに加えた。
午前中は補習授業があって、選手 4 名全員が揃うのは午後も 3 時頃になってから。
当初は、宮崎は猛烈に暑いと聞いていたため、暑さ対策を兼ねて日中のトレーニングを計画していました。ところが、そんな時間は取れそうにもありません。
選手のことは選手に任せ、午前中のトレーニングはもっばら私ひとりでやりました。計画書もパソコンできれいに作りたいといい始めて任せたところ、皆んながパソコンに不慣れとあって、予想外に時間がかかってしまいました。
打ち込みよりも、縮小印刷の設定で手間取りました。次の計画書にすぐ使えるものも、フ口ッピイディスクに残りましたので、まったく無駄ではありませんでしたが。
卒業生の間で、本間博先生の追悼文集をつくる話しが出ていましたが、具体的なことはまったく決っていませんでした。
10 月 25 日に完成するとなると、逆算して、原稿集めの手だても本気になって考える必要があります。宮崎から戻れば 8 月も半ば。お盆もあっという間に過ぎてしまうことでしょう。卒業生名簿が完成しないまま、連絡のつくところから、原稿用紙を発送し始めました。
選手は計画書作り、私ひとりは文集の準備と、方向も歩調もばらばらの状態です。
今回の大会の開会式と閉会式の会場は延岡市です。競技の最終日閉会式の前日は、柔道大会とかち合って市内の宿舎の絶対数が足りないとか。
柔道を遅らせると、お盆とぶつかる。そこで登山関係は全員、一般家庭に割り当てられて、ひと晩お世話になることになっています。
大会本部から、指定宿舎と浅草徳三さんのお名前と連絡先が、要項とともに送られて来ました。
早速、よろしくというつもりで手紙を書きました。その中に三条新聞の記事のコピーも同封しました。県大会の様子と選手の写真も載っていて、山岳部の紹介としては格好ではないかと思ったものです。
それが届いたのでしょう。おい出をお待ちしていますと、わざわざ学校にお電話をいただきました。延岡はずっと雨が降らなくて、連日温度計は 37 、8 度を記録しているという話しです。奥様は、こちらはとにかく猛烈に暑いんですよ、とおっしゃっておられました。
浅草家は、すでにふたりの息子さんが独立されて、現在はご夫婦のみ。ご主人は旭化成にお勤め、奥様は民生委員をされています。お住まいは住宅団地の中にあって、極く普通の感じの新しい 2 階建てです。
一歩中に入ると、掃除が行き届き、よく手入れされているのが伝わって来ました。
さらに目を引いたのは、机の上、夕ンス、階段の床の端などにところ狭し置かれた小物類です。
実用品もあれば、ミニチュアとしてつくられたものもありました。
最近ミニチュアの花瓶などは、どこでも見かけて珍しくはありませんが。素材はガラス、金属、陶器、貝殻など。息子さんが描いた油絵もキャンパスのまま、無造作に何枚も床に置かれてありました。
8 月 2 日(日)晴れ
総監督の三条工業高吉田先生とともに 6 人で、東三条駅を 8 時に出発。大阪から神戸に移動して、午後のひと時を異人館の見学に費やした。宅配便で事前に送る予定のメインザックは、皆んなの背中にあって何とも邪魔になる。昨日、まだ買い出しになどといってる有様では、仕方のないところか。
日向行きのフェリーの乗船手続きを済ましてから、食堂をさがしに出かけた。
日曜日とあって、待合室のレストランはお休み。何とも不便なこと。食事と若干の買物をして戻ると、新潟中央高校 6 名が到着していた。出航後すぐに入浴。
新潟中央高校がこちらの船室まで遊びに来て、顧問どうし、生徒どうしで夜遅くまで交歓。
8 月 3 日(月)薄曇り
台風9 号の接近により、船の揺れは夜半から次第に大きくなっていった。朝、べットから起きて床に立つと、壁に手を添えないと歩けないほどだ。
9 時の下船時刻が近づいても、選手 4 名はべットで頭から毛布をかぶったまま。起き上がると気分が悪くなるだろうからと、起きるに起きられなかったらしい。
前日買った朝食に、選手は誰も手をつけなかった。いちばん最後の乗客となってフェリーから降りた。
日向港の周りには高く伸びきったヤシの木、ワシソトンニアパームの並木が見られる。
道路脇にはハマユウの白い花も咲いている。新潟とひと味違う雰囲気。
夕クシーと電車を乗り継いで延岡に向かう。指定宿舎のビジネスホテルにザックを置いてから、受付場所に出かける。駅から離れた丘の上の公民館で、畳敷きの広間。
他のチームが誰も来ていないこともあって、全員が私達ふたりに注目して一瞬足が止まる。
入り口にいた女子高生が、お茶をどうぞと差しだしてくれた。ひと口飲んでやっと落ち着いたが、その間も皆んなから監視されているみたい。
そこで渡された袋は 5 個。監督とリーダーのふたりでは、なかなか持ちきれない重さだ。 5 人揃って来るべきであったと後悔する。しかし、運搬係がちゃんと設けてあった。女子高生ふたりが自転車で延岡駅近くまで運んでくれる。助かった。
タ食まで市内の散策としゃれる。他県のチームは、大会コースの下見に入っているところもあるらしい。小高い丘の上の神社は人影もまばらで、セミの鳴き声だけがすさまじい。新潟のものとくらペて、鳴き方が少し軽い感じとでもいおうか。
下に見えている風景は、三条のそれとほとんど変わらない。心配していた暑さも、三条と変わりがない。
台風が雨雲を運んで来たせいか。タ刻、静岡東高校の金子昌彦先生が私達の宿舎を訪ねて来られた。
静岡産のグリーンティーの差入れをもらう。
昨年の静岡大会ではコースの情報をもらい、事前準備に大いに役立った。
今年もすでに大会コースをくまなく歩いて来られたとか。コースの様子や感想を聞かせていただいた。
静岡県チームは 3 月と 7 月の 2 回、コースの事前調査に入ったとのこと。予算も意気込みもうらやましい限りだ。
8 月 4 日(火)雨
監督・リーダー会議
朝から激しい雨。この日の予定は生鮮食糧品の買い出し。他県のチームも同じらしい。
入れ替わり立ち替わり玄関に出て来て、空を見上げて雨模様を眺めていた。傘をさして三々五々 と、 10 時頃までには皆んなでかけたのではなかっただろうか。
延岡の繁華街は三条に勝るとも劣らないといったぐらいの規模か。
いく先々で買物をしている選手に出会った。買い出しは宮口、石附、木村の 3 人にまかせて、バスで 15 時 30 分からの監督・リーダー会議に大野とふたりで向かう。
台風の影響で飛行機もフェリーも欠航。神奈川県のチームだけがこの会議に遅れるかもしれないと、冒頭アナウンスされた。
終了後、六日町高のメソバーと初めて顔を会わせる。
入場行進の際の県高体連旗は、六日町高のリーダーが旗手を務めることに決定。
なお、新潟県の旗は新潟県に置いたままで、誰も持参していなかった。
タ食後、山行に必要なものとそれ以外のものに分けてパッキング。この宿舎はビジネスホテルのため部屋は小さく、私達は 3 つの部屋に分散していた。
打ち合せには誠に不便で、選手ひとりひとりのザックの中までは点検出来なかった。
特に、この日買った全部の生鮮食糧品に目を通さなかったのは大失敗。大会に入ってから悔しい思いをした。
終日雨が激しく、気温は30度を割って、膚寒い。
8 月 5 日(水)晴れ
開会式 7 時に宿舎を出発。バスで西階陸上競技場に向かう。
9 時、サブグランドに県ごとに集合して隊列を整える。 9 時 30 分開会式。
1 時間で終了。上空は青空、再び暑さが戻って来た。リーダーと気象係集合。リーダーの大野は筆記試験、気象係の石附は天気図の審査。
4 問の筆記試験はすぐ終了。天気図は 20 分間の放送を聞いてから書くため、 1 時間はかかる。
この間に昼食。 12 時、マイク口バスに分乗して出発。
気象係の昼食時間は最初から設けられてない。今年も弁当をバスに持込み、揺られながら食べる以外になかった。改善出来ないものか。
入山式をやる北方町の上鹿川までは道路が狭く、大型パスは通行不可能。対向車とのすれ違いもままならないとあって、マイク口バスを白バイが先導する。大名行列といったところか。途中の窓から、岩登りに最適といわれる岩峰が見えた。名前は比叡山と矢筈岳。
会場の上鹿川小学校は全校生徒が 25 名。全員で鼓笛隊をつくり歓迎してくれた。
集まってきた地元の人達は、この鼓笛隊を見るのが目的ではなかろうか。
14 時から開会。男の子の舞う神楽で入山式が終了。
15 時 30 分、川沿いに鹿川キャソプ場に向かう。すぐ、笛の合図で設営の審査。
この間を利用して、監督は交流会。若い人が多い。新採用と初めての顧問が半数くらい。
革の登山靴は少数派、軽登山靴の監督が多数を占める。私も軽登山靴で、出発直前に買った。
スニーカーの人もいる。自己紹介をして、缶ビールで乾杯。まだぎこちない雰囲気だ。大会用に特設されたテント場に、テントが立つのはこの日が初めて。
地元宮崎のチームが事前調査に入った時も、テントを張る許可を出さなかったそうだ。
まだ、芝が馴染んでいない。歩くと靴に、黒い湿った土がべっとりとつく。テントの重量が確実に増す。
雨模様とあって外に寝るわけにもいかず、狭いテントの中で 5 人が躯を互い違いにして横になった。
8 月 6 日(木)晴れ
大崩山 4 時起床。 5 時 30 分出発。
鬼の目林道の平坦な道を歩く。 1 時間程で隊列が止まる。腹痛を訴えた選手がいて、トイレ休憩になった。道の脇に移動トイレがひとつ置いてあって、その前に行列が出来ている。本日の鹿川越えコースは、明治の西南の役で敗走する西郷軍の通ったところとして有名らしい。その時は、逆方向で越えたとか。ヒノキとアカマツの中を通る登山道は、大会のためによく整備されていて歩きやすい。昨年までは、林床にスズ夕ケが一面に生い茂り、それをかき分けながら歩いたという。
地元北川町の人達が総出で刈り取ってくれた。もちろん、無料奉仕で。
樹林帯を通過してもセミの鳴き声がまったくしない。昨日までのにぎやかさが、まるでうそのようだ。
台風の接近を本能で察知して、鳴りをひそめているに違いない。通称ブヨ谷と呼ばれている地点に来たが、ブヨも見あたらない。唯一、副隊長が眼の上の血を吸われたらしく、右のまぶたを腫らしていた。
風が適度に吹いてきて、しのぎやすい。風に秋の気配を感じる。遠見岩を過ぎると、急斜面になる。
整備され過ぎたのではないか。土がむき出しになっていて、手がかりがない。滑りやすいこんな急斜面で、小休止の声がかかった。腰を下ろすことも、ザックを置くこともままならない。
ここの登りが、今大会でいちばん難儀をしたところになる。
9 時 30 分、大崩山( 1643m )の山頂に立つ。ヤブは刈ってはあるが、展望はきかない。支援隊のテントがひとつ。中の自衛隊員は大会終了まで常駐するとか。
少し下って、石塚で休憩。全員で万歳を三唱する。展望は開けてはいるが、遠くの山並はかすんでいる。 10 時 30 分、モチダ谷まで下って昼食となる。登山道に腰を下ろして食べる。引続き班ごとの交流会が始まった。選手の自己紹介と学校紹介。
40分くらいで出発。上わく塚、下わく塚と呼ばれる岩場を通過。白くガスがかかり遠くは見えないが、深い谷をはさんだ対岸に、岩壁のそそり立っているのがわかる。雄大な岩壁が垂直に落ち込んでいるとでも表現したらいいか。迫力があった。下わく塚からは急で足場の悪い下りが続く。そこにはザイルやはしごがかけてある。はしごをここまで運ぶのはさぞ大変だったであろう。
大会終了後は全部取り外す約束になているとか。
ひとりづつ順に通過するとあって、最後尾にいる監督達には岩壁観賞の時間が増えるばかり。
小積谷に下りて、巨岩の転がる祝子川を渡渉した。川に沿った細い登山道は大崩山荘へと続く。
15 時、山荘前を通過。さらに林道に出て、 16 時過ぎ、大崩キャソプ場に到着。
班ごとに整列。 4 人のうち、木村のユニフォームが上下とも泥だらけになっていて目立つ。
チームの先頭を歩いて、だいぶ苦労したようだ。
斜面を 3 段に削ってつくられたテソト場は、最上段が洗い場とトイレになっている。
台風が直撃すると知らされた。県名を書いた立て札があって、地面は白いひもで区割りされていた。
その縄張りを無視して、テソトの間隔を十分に空けるように、また、テントの周りに排水用の溝を掘るよう指示が出た。
顧問の交流会が済んでテント場に行く。ひとりがテントの中でタ食の準備をし、 3 人の選手がテントの周りに堀をつくっているではないか。それは水を流す溝ではない。水を貯めるための堀というべきであろう。要領がわからず、排水路を設けようともしないで、やたら深く掘ってあった。ついつい大きな声で叱り、埋め戻す。そうこうしているうちに、ばけつの水をひっくり返したような雨になった。
23 時 50 分、日程変更の大きな声で目が覚める。明日の起床時間が 4時から、6 時に。
その後は指示あるまでテントに待機とか。時計を見ると、あと 10 分足らずで午前0時になろうとしていた。
8 月 7 日(金)
小雨 三里河原
6 時前に皆んな起き出した。まだ行動についての指示がない。
朝食を終えたところで、 7 時 15 分、下の広場に集合の声がかかった。時計の針は 7 時を過ぎている。まだ食事中の学校もある。どこも大急ぎでテントをたたみ、メインザックにつめ始めた。
行動は半日に短縮するとの連絡。サブ行動に変更。サブザックを背にして指定場所に全員が揃ったのは、 7 時 40 分近くになってから。
8 時出発。 1 班から順に動き始めたのに、なぜか和歌山県のチームだけが隊から離れて 5 人で固まっている。何の説明もないので、皆んな不思議そうな顔をして脇を通り過ぎた。
この日はずっと幕営地にいたらしい。監督の間に、まだ各チームとも点差がないという情報が流れる。特に
体力点と歩行点は全チーム横並びとか。
昨日通った大崩山荘の前を 9 時に通過。昨日のコースをかなり戻る。一度歩いた道であり、ザックが軽いこと、点差のないという噂もあって、とにかく先を急ぐ。走らないと前の人を見失ってしまいそうだ。
10 時 50 分頃、この日の目的地三里河原に到着。
九州一の渓谷美をほこる三里河原も、増水して水の流れが激しいせいか、あまりさえない。
大会用にかけられた木の仮設橋さえも奪い去ってしまった。河原の岩は雨にぬれて、腰を降ろすと尻から冷たさが伝わってくる。 40 分間の昼食休憩の後、同じ道を引き返す。
12 時 30 分、大崩山荘に着く。山荘前の広場にC 隊全員が集合して、講義を受ける。
内容は大崩山系の植物。大崩山の標高がわずか 160 om しかないため、上部に針葉樹林帯と落葉樹林帯がかろうじて存在する。針葉樹ではモミやツガ、落葉樹ではブナが見られる。
標高の割には山が深く、人間をあまり寄せ付けなかったため、今日までこのように保存されてきた。この山系では、変種の植物も数多く見つかっている。ブナの葉は新潟のそれよりもずっと小さい。
東日本と景観はほとんど変わらないが、よく見ると植物にほんの少しづつ違いがある。
キャンプ場に戻り、バスで北川町に移動することになった。
北川町立中学校の体育館に到着。直ちに、最後の装備検査。
タ食の材料と計画書の献立の照合。灯油容器の記名の確認。コン口の台の検査。夕マネギはすでに使いきり、ニンジソはポリ袋に密閉してあったため、食欲をなくす状態であったとか。
タ食には、ジャガイモとソーセージだけのカレーが出来上がった。
立派な体育館で、内部での火気使用は厳禁。
まだ雨が降っていなかったこともあって、炊事は外でする。
明日は台風が通過するまで体育館で待機と決まる。監督の交流会の場に選手よりもひと足先に連絡が来て、最後の交流会が非常に盛り上がった。
大会役員は大会期間中、サブザック行動で宿舎泊まり。私達と違って寝袋も炊事用具も持たない。
避難と決まって、寝具を集めたり、炊き出しを受けたりで大変だったらしい。
夜は体育館の床に手足をゆったりと伸ばして、ぐっすりと眠った。
8 月 8 日(土)雨のち晴れ
北川中学校体育館台風 10 号が通過。夜半より激しい風と雨。
早くから目は覚めていたが、急いで起きることもない。外での炊事はまったく不可能。体育館の一隅にシートが敷かれ、その上だけ限定されてコン口使用の許可が出た。
停電時間が長く、回復したなと思っても、照明がすぐに消える。
8 時 30 分から講話。
役員は近くの宿舎から強風の中、ずぶぬれになって文字通り体育館にたどり着いたようだ。
瞬間最大風速 45m を記録したとか。ゲームをやったり、かくし芸披露の交流会も始まる。
宮口がチームの代表となってゲームに出場するも、なぜか反則負けになる。御苦労さま。
11時 30 分、解散式。これで競技がすべて終了した。
昼食後、開会式を行った延岡市の陸上競技場に向かう。
バスの窓から見える川は増水して濁流となり、河川敷を洗う。そこにある自動車教習所は、コースはもちろん、自動車の車体の半分まで水役している。道路の信号機は軒並そっぼを向いている感じ。
瓦の飛んでしまった家もある。街路樹が何本も倒れ、市役所と書いてあるトラックが出て後片付けが始まっていた。
競技場には B 隊が先着していて、新潟中央高校と再会。
A 隊の六日町高校と D 隊の総監督がなかなか到着しない。土砂崩れで道路が不通の連絡が入る。
14 時30 分、 B 隊と C 隊はバスの編成を組替えて、 A 隊と D 隊を待たずに出発した。
浅草さんはこの日、ふた月に 1 回の泊まりの日とか。初対面の挨拶の後すぐに会社に出勤して行かれた。奥様の友達の竹内さんも来ておられて、ふたりがかりで沢山のご馳走がつくってある。
その品数と量の多さは、三条東高山岳部員 33名全員が食べられるぐらいだ。
ひと皿の五目寿司も、普段部員が顧問に盛り付けてくれる量の倍以上はありそう。
料理の得意な竹内さんがつくった押し寿司は、見た目もきれいで食べるのがおしい感じがする。
ご飯と魚がなじむまで 1 週間の日数が必要とか。私ひとりで 3 切れいただいたが、選手は誰も手を出す余裕がなったはずだ。
香ばしい焦げ目のついたグラ夕ン、新鮮な野菜を使って彩りの鮮やかなサラダ、揚げたてのトンカツと鳥の空揚げ、刺身に、ウナギなど。
これは市内の五ケ瀬川でとれた天然アユなんですよ、といってざるに並べたものを私達に見せた。
食べきれないからと辞退したはずなのに、しばらくしてこんがりと焼けたアユに変わっていた。
折角の厚意を無にしてはいけない。何とか 1 匹だけはいただいた。
さらに、食後のアイスクリームが冷蔵庫に入っているから、ご自由にどうぞという話し。
お腹がいっばいになったら、瞼がどうしょうもなく重い。 2 年生の木村と私はお先に失礼して、早々に眠ってしまった。
21 時になっていたであろうか。皆んなは2時近くまで話し込んでいたとか。
8 月 9 日(日)晴れ閉会式
7 時 10 分までに、指定された。バスの停留所に行かなければならない。
支度を始めようとしていた時、電話がかかってきた。相手は和歌山県の総監督。
まったく面識はない。すぐ医師会病院に来て欲しいといっている。 D 隊に参加していた新潟県のふたりが、今朝がた救急車で運ばれて入院した。この電話も病院からかけているらしい。
選手だけで閉会式場の受付を済ましておくように指示を出す。浅草さんの友人の方に来ていただいて、とりあえず私だけ自動車で病院に向かう。
ふたりともベットで点滴を受けていた。ひとりはたいしたことなさそう。もうひとりは、嘔吐と下痢でかなり体力を消耗した感じで顔色がよくない。
和歌山県の総監督とホテルのご主人とで、昨夜からの話しを聞いているところに、保健所から担当の係長が到着した。
皆んなが同じもの食べて、ふたりだけ具合いが悪くなったのだから、食中毒ではないだろうという。
診断は貝による食当り。ホテルがタ食に出した、貝の処理方法がまずかったらしい。
9 時30 分から文化会館のステージでアトラクショソが始まって、 10時より結果発表と表彰式と閉会式。
約1 時間で大会日程がすべて終了。
得点は 83・3 点、順位は 12 位。閉会式後、選手 4 名だけが大分県の別府に向う。
六日町高は式後ただちに特急に乗り、宮崎市まで行って、タ方発のフェリーで大阪を目指す。
この日は船中泊。新潟中央高は宮崎市に泊まり、翌日飛行機で羽田に向かう予定。私達は逆方向を電車で別府に行き、次の日大分空港から羽田に飛ぶ計画であった。
六日町高校が行きに通ったコースの逆回りになるとか。
3つの学校が新潟県チームとして同一行動をとれば、総監督を入れて17名になり、団体割引きの恩恵もあったのに。なぜか、学校ごとにばらばらになってしまった。
再度病院に行くと、ひとりは元気になって、すぐにでも退院出来そうな様子に見える。
でも、退院はまかりならぬと、許可されず。その代わり、もうひとりの世話は十分に出来る。
私が近くで宿をとって待機する必要はなくなった。それならと安心して選手の後を追い、別府に向かうことに決めた。
延岡駅から東京行きの特急寝台富士に乗る。ホテルの最上階に展望風呂があって、 5 人で大きな浴槽を占領する。ホテルは結構にぎやかだったが、大浴場はすいていた。
ようやく、大会が本当に終ったんだなあ。
そして、明日は家に帰るんだ、という解放感が皆んなの顔に出てきた。
のんびりと温泉を楽しむ。大野と木村はさっさとふとんに入り、寝息をたてている。
私ひとり話し相手もなく、テレビを見ながら。0時過ぎまでビールを呑む。
8 月 10 日(月)晴れ
5時30分、ひとり別府駅に急ぐ。延岡に戻るため、特急寝台着星に乗る。百キ口以上も距離があるため、特別急行を使わざるを得ない。 2 日間とも寝台車に乗るなんて、最初思ってもみなかった。
入院していたふたりは帰り支度をして、病院の玄関に立っていた。
選手 4 人は夕クシーを借り切り、別府温泉の地獄巡りをしていたとか。
搭乗手続きが始まっても、4人はなかなか大分空港に姿を見せない。
いらいらしながら待つ。
15 時 40 分、羽田に向けて飛行機が飛び立った。
おりひめ第28号より転載
真面目で几帳面な【山ヤさん】というイメージのW先生です。
退職後の現在も県の山岳協会の重鎮を成していると聞きます。
おりひめ28 [おりひめ]
再度登場 鉄人M先生
山と薬
普段なにげなく使っている薬。風邪には風邪薬、頭痛には頭痛薬をと、ほぼ無意識の内に薬を選びながら飲んでいる。
当たり前であるが、その薬がなぜ風邪や頭痛に効くのか、どのように効いているのか。確認しながら飲んでいる人はどのくらいいるだろうか。
われわれ岳人にとって欠かすことのできない薬。その効き方について今回は考えてみたいと思う。(例によって Tarzan を参考にした)
われわれが使っている薬には飲み薬、張り薬、塗り薬など様々なものがある。
また、同じ飲み薬にも錠剤・丸薬・カプセルなどいくつかの夕イプがある。なぜ薬の形状が種々雑多なのか。
たとえば飲み薬。液体のものがいちばん早く効き目を現す。次が粉薬、丸薬やカプセルがその次で、錠剤は効き目が現れるまでにいちばん時間がかかる。
溶けやすいものほど体内に吸収されやすいということである。
けれども風邪を早く直したいときには液体のものがよいだろうと早合点してはいけない。
大部分の飲み薬は小腸で体内に吸収されるが、そこに到達するまでに、薬は胃酸などの消化液のなかをくぐる。
その影響を受け易い成分を持つ薬は液体のかたちで飲むと効果を現す前に分解されてしまうというわけである。
逆に、クスリの成分が、消化器官を荒らすものもあり、これも、早く溶けすぎないように工夫する必要がある。
小腸から吸収されたクスリは、門脈という血管を通って肝臓へと運ばれる。肝臓は体内に入った毒物を処理する働きがある。
体のためにと飲んだクスリも、肝臓にとっては一種の毒物である。クスリは、今度はここで化学変化を受けて最終的には分解されてしまう。ただし肝臓の処理能力には限界がある。その限界を超えた分のクスリの成分が、肝臓から出る血液の流れに乗って全身に運ばれることになる。
その結果必要とされている場所にクスリの成分が達して、そこではじめてクスリの効果が現れる。
飲んだクスリがそのまま、目的の場所に行き渡るというわけではないのである。どのタイミングで溶ければ効率よく、しかも体に負担をかけずに吸収されるか、薬のかたちは成分や目的に合わせて綿密に計算されているのである。
では、そもそもなぜ薬は効くのだろうか、冒頭にも書いたが風邪薬は風邪に効くということはわかっているが、なぜ効くのかはあまり知られていない。
素朴であり根本的な疑問である。しかし、これを知っているといないでは大きな違いがある。
特に医者などいない山においては自分で判断をして薬を飲むしかないのである。
病状を正確に判断し正しい薬の服用をしなければならないのである。(以下は、雑誌 Tarzan による)
クスリの効くメカニズムはいくつかの夕イプに分けられる。最も単純なのが、胃酸過多の場合に中和剤を飲むというケース。
これは胃酸をクスリによって化学的に中和してしまう。それからビ夕ミンなどのように、細胞の中に取り入れられたりして、何らかの効果を及ぼすもの。
さらに細胞や組織の表面にあるレセプターに働きかけて、症状を抑えるという夕イプの効きかたもある。
ある物質が、細胞などの表面にあるレセプ夕ー(受容体、鍵穴みたいなもの)に入ったときに症状が出る場合、その原因物質と非常によく似たかたちの物質が、クスリになることがある。
クスリがレセプ夕ーにぴたりと嵌ってしまい、原因物質がレセプ夕ーに入り症状を引き起こすのを妨害するのである。
抗生物質のように、病原菌を退治するクスリは別として、普通のクスリには病気の原因そのものを取り去る効果はない。
クスリはほとんどの場合、病気を治す上での補助的な役割を果たすにすぎないのだ。
熱を下げたり、頭痛を取り去ったり、吐き気を止めたり。クスリのもつさまざまな効能は、あくまで表面的な症状を抑えるためのもの。
病気を治す主体は、本人の自然治癒力なのである。異物である病気の原因と戦う白血球や、体のバランスを保つホメオス夕シスという能力が、病気という状態から体を回復させる。
クスリはその過程の不快な症状を抑え、体が病気と戦うのを支援するためのものである。
このように、薬のほとんどが対症療法にすぎないということであるが、薬の効き方を知らずに飲むことの怖さがよくわかる。もっともプラシーボ現象というおもしろいこともある。
外見上はクスリとまったく見分けのつかないただのメリケン粉を、頭痛薬と偽って患者に飲ませると 6 割以上の人が直ってしまうと言われている。これをプラシーボ現象というが、時には無知も役にたつということか?
ところで、われわれが山でよく使う薬に解熱剤がある、山での発熱は命取りになりかねないので必携薬ではあるが、使用には注意が必要である。これもまたメカニズムを知らずにいる人が多いのではないだろうか。
そもそも何故熱がでるのか、解熱剤はどのように作用するのか。次はこのことについて説明しよう。(以下再びTarzan による)
人間を含む噛乳類と鳥類は、恒温動物、あるいは温血動物と呼ばれる。これに対して爬虫類や両生類は変温動物とか冷血動物と呼ばれる。
何故恒温なのかと言うと、それは外界の温度にかかわらず、ある一定の体温を維持するためのシステムを体の中にもっているからだ。この体内エアコンを制御する中心は脳の視床下部にある、体温調節中枢と呼ばれる場所だ。
体温中枢では、神経を介して皮膚の表面や血液の温度を常にモニ夕ーしている。
それぞれの場所に温度計の働きをする神経末端があるのだ。そこからの情報で、たとえば体温が下がると、体の各部に体温をあげるようにと言う指令が下される。
皮膚を緊張させ、汗腺を閉じ体表の毛細血管を収縮させて熱が外に漏れないようにする。同時に筋肉や肝臓で、燃料となるブドウ糖やグリコーゲンをどんどん燃やして熱をだす。逆に体温が上がっているときは、汗腺を開き汗をだし、体表の毛細血管を開いて、血液をできるだけ外気近くに送り込む。
体表の汗の気化熱で、血液を冷やし、体温を下げるのだ。
体温調節中枢は、いわばサーモスタットの役割をはたしている。熱がでるというのは、このサーモスタットの設定温度が、何らかの理由で平常よりも高い温度に切り替えられてしまった状態だ。
人間の場合なら三十六、五度前後が平常の設定値だけれど、それがたとえば三十八度にされてしまうのである。
三十八度に設定温度が切り替わると、体温中枢は三十六、五度という体温では低すぎると判断する。それで体は寒気を感じ、ぶるぶる震え、熱を発生させ、どんどん体温をあげていく。
こうして熱が出るのだ。それでは何が体温中枢の設定温度を替えてしまうのか。
風邪などの病原菌から出る何らかの物質によって、体温調節中枢の設定温度が上がる、ということはかなり昔からわかっていた。
これは、発熱物質と呼ばれるが、その詳しい働きについて明らかにしたのがベイン博士だ。
彼の学説によれば病原菌の発熱物質が直接、体温調節中枢に働くわけではない。
その病原菌と戦う体内の白血球が病原菌の発熱物質に刺激されて、白血球自身が別の発熱物質を作る。これが直接体温調節中枢に働きかけて、設定温度をあげているのだ。
白血球が作る発熱物質はプロス夕グランジンという情報伝達物質の一種である。
なぜ、体を守るはずの白血球から、熱を出せという要請がだされるのか。体温が高い方が白血球が活動しやすくなるからだとか、病原菌によっては熱が上がるだけで死んでしまう者がいるからだとか、様々な説明がなされいるが、確かなことはわかっていない。
ただ仮にいくら白血球には有利な状態だとしても、あまりに高い体温が続くと、体そのものが弱ってしまうということも事実である。そこで使われるのがアスピリンなどの解熱剤だ。
アスピリンには、白血球がプ口ス夕グランジンを作るのを阻害する働きがあるのだ。
プ口ス夕グランジンがなくなれば、体温調節中枢の設定温度はもとの平常体温に戻される。
それで熱が下がるというわけなのである。したがって解熱剤は安易に使うべきではない。熱が下がったからといって、白血球と病原菌の戦いが終わったわけではない。
薬の働きで熱を抑え体力を回復し、十分な栄養を補給できるようにしたら、安静を保ち熱の本当の原因である病原菌を白血球がしっかり退治してくれるのをじっくりと待つ。
それが解熱剤の正しい使い方なのである。薬がどのように体内に吸収されどのように作用するかの概要が理解していただけたであろうか。
いつも使用上の注意をよく読んで服用している人は別として、やみくもに薬を飲んでいた人にはある程度参考になったのではないだろうか。
私自身もこの記事を読むまでは風邪で熱がでるのは白血球が病原菌と戦っているためにでるものだとばかり思っていたので解熱剤は多く飲めばいいんだと危険な認識でいた。
薬はそれぞれ綿密に計算されて作られているので服用法をまちがえれば薬になるどころか、毒になってしまうものであるだけに、服用には正しい知識と注意が必要であろう。
おりひめ第28号より転載
M先生ご専門は何なんでしょう?
その博識には舌を巻きます・・・
おりへめ27-3 [おりひめ]
訃報と近況報告
2 月18 日午後 13 時 40 分、長岡のN病院でH先生が逝去されました。
三条東高を 4 月に退職されたばかりで、まだ丸1年もたっていません。
1月13 日、ご自宅の玄関でお目にかかったのが最後でした。
現職であった一昨年の夏に、もう一度ヒマラヤに行きたいと、春から準備を進めていました。
6 月になって、念のためと健康診断を受けたところ、食道に異常が見つかったのです。
検査をくり返して、夏休みに入院しました。
9 月に手術を受け、一度は学校に復帰されました。
4 月の離任式で学校に来られた時は、しっかりと挨拶されて割合お元気そうでした。
6 月にもう一度学校に顔を出され、クラブ員を前にしてインターハイ、北信越大会、北信越国体に頑張るようにと激励費をいただきました。
職員の有志や三条市内の山岳部の顧問で、H先生の退職を祝う会を何回も計画しましたが、そのたびごとに先生がいずれ元気になってからとおっしゃって、延期、取り止めになっていました。
手術の難しい食道Kに耐えて、先生はよく頑張っておられたと思います。
ベットの中で今日は何歩というように、横になったまま足を動かして歩く練習をしていたそうです。
昨年 10 月 9 日、上田屋の御主人がなくなりました。
リンパ線悪性Kという病名で、六日町病院への入退院をくり返していました。
H先生も帯状庖疹に悩まされてしきりと痒みをうったえていたそうですが、同様に御主人もかゆがって奥さんを困らせていたとか。
最後まで生きる望みを失わないで病気と闘っていたようです。
死ぬとか、だめとかいう言葉を決して使わなかったと奥さんから聞きました。おふたりの御冥福を心よりお祈りいたします。H先生に対して、山岳部の名前で花環と香典を、上田屋さんには香典を、おりひめ会計より差し上げました。
H先生が退職された後のクラブ顧問には、異動でK高から来られたS先生に入っていただきました。K高でも山岳部の顧問でした。 30 代後半で、早速静岡イン夕ーハイの監督をやりました。
今年度男子は県大会 2 位になり、 3 年連続北信越大会出場をはたしました。
富山に遠征して、今年も優秀校の賞状を持ち帰っています。女子は昨年に続き 1 位です。
静岡イン夕ーハイに参加しました。
成績は 9 位です。また女子は、長野の北信越国体でも 1 位になり、北信越代表として石川国体に出場しています。踏査 7 位入賞、縦走 13 位で、総合 10 位の成績を残しました。
おりひめ第27号(平成3年)より転載
月日の流れの速さにただ頭を垂れるのみ・・・です
おりひめ27-2 [おりひめ]
鉄人M先生が再度、山のトレーニングについての寄稿をされています
今年は前回の予告通り、乳酸のたまりにくい体質に近づけるトレーニングを考えてみたいと思います。
運動と乳酸の発生のバロメー夕ーとして「 AT 」というものが最近注目を集めています。
といっても、 AT については異論を唱える科学者が大勢おり、科学的なバ口メー夕ーとはいえないところがあります。
しかしスポーツの世界では結構たくさんの人たちがこの AT を利用しながらトレーニソグする事で、大きな効果をあげているようです。
AT とは、日本語で「無酸素性作業域値」と訳されています。体のエネルギーの発生の仕方が酸素を利用した持久的なものから酸素を利用しない瞬発的なものへ移行するポイソトを指し、一般的に心拍数で表現します。
この AT と運動の関係は以下のようになります。筋肉を動かすときには、 ATP (アデノシンⅢリソ酸)という物質をェネルギーとしていますが、このATP を生み出すシステムは大雑把に二種類あります。
酸素を利用する「有酸素系(エアロビクス) J と酸素を利用しない(無酸素(アネ口ビクス)」です。
のんびりとジョギングするなど運動強度(質)が低いときは ATP の産成は有酸素によって行われ 100M ダッシュのような瞬発的な運動のェネルギーは無酸素系が利用されるのです。
この切り替わりのポイソトが AT というわけです。 AT を越えればきつい運動となり長時間の持続は困難となります。
また AT を越えなければ持続はできるが楽な?運動なのです。
さて、次に AT の測定方決を紹介しましょう。 AT の測定方法はたくさんありますが、今回は「コンコーニ法」と呼ばれているものを紹介しましょう。
コンコーニ法は、一言でいうならば、心拍数を測定しながら徐々に運動強度をあげていき、心拍数の伸びが鈍ったポイントをATとするというものです。
この方法はATを超えてエネルギーの発生が無酸素系になると酸素の需要が減り、このため血流量の伸びも低くなって心拍数にも反映されるという理論が基になっています。
では実際の方法です。ペースや記録を管理するため、二人以上で行った方がよいでしょう。
心拍数の測定には器具を利用するのがべストですが、なければ手首の動脈を指でふれて脈をとります。
1 分間の値で示しますから10秒計ったら6倍して 1 分間の値に換算します。
まず、ランニングによる方法は、できればトラックで行います。トラックが利用できなければ、距離のはっきりした200M位の直線コースを選びます。
最初のスピードは最大努力時の半分くらいの速度がいいでしょう。
200M ごとに 2~4 秒ずつ速度をあげていきます。手で脈をとる場合はその都度止まって計測しますが、計測時間は15 秒などとしてばらつきがでないようにします。
こうして求めた心拍数のデー夕をグラフ化にします。
そのグラフの中で心拍数の伸びが鈍くなっているところが AT です。
グラフにするときは縦軸を心拍数とし横軸を速度とします。しかしこの値は完壁なものではありません。
そのときの負荷の強度で 10 分間ほど運動して下さい。
だいたい「少しきついけど何とか続けられる」という感じだと思います。
そしてその10分間 AT スピードを維持したときの心拍数をトレーニングメニューをたてるときに利用します。
この方がより正確な値がとれます。
さあ、これを基にトレーニングメニューをたててみましょう。
まず AT 以下の強度では主に持久力が向上します。
たとえば測定による A T での心拍数が 160 拍/分の人ならば 140~150 拍/分程度を維持して長時間の運動に挑戦してみて下さい。
このような比較的低い強度の運動では 30 分間以上やらないと効果はないといわれています。
AT レべルでの運動ではかなり無酸素的な要素が入ってきておりこのレべルを維持して 10~20 分程度の長めのインターバルトレーニングを行うとかなりハイレべルなトレーニングとなるでしょう。
AT を完全にこえる強度の運動は無酸素系のエネルギー発生機構が動員されたものです。
山岳競技には、関係なさそうですが、これを休憩をはさんだ 1~2 分程度イン夕ーバルとして行うと、休憩の時に、たまった乳酸を除去するので乳酸の蓄積にたいしての耐性が強化されていくのです。
エベレスト無酸素登頂に成功した彼も乳酸の蓄積に対する耐性が強かった事は前回のおりひめで紹介したとうりです。
彼はトレーニングで強化した訳ではなく先天的に備わっていたようですが、われわれも少しは彼に近づけるのかも知れません。
これまで見てきたように心拍数を利用したトレーニングをする事で目的に応じたトレーニングメニューの組立てが可能になります。
それぞれの場面でそれぞれの目的に応じたトレーニングを考えてほしいと思います。
これからの山岳競技は、良い悪いは別として、体力重視の方向に向かっていくと思われます。国体競技がそのいい例ですが、競技としての登山をめざしていくのならやはり ATレベルでのトレーニングは必ず必要になってくると思います。
さらに AT をこえる程度のものも週に 1 回程度は行う必要があるのではないかと思われます。
しかし競技としての登山なんてナンセンスと考える人も大勢いるのではないでしょうか。
私もそう思う一人ですが、その立場にたったときのトレーニングはやはり安全に帰ってこれる体力づくりという事になるのでしょうか。
とすればやはり AT をこえない程度のトレーニングをなるべく長く行うという事になるのではないでしょうか。
しかもトレーニングがいやにならない程度、週に 2~3 回程度をみんなで楽しく行うという事になると思います。
さて来年はどんなメニューを組むことになるのでしょうか・・・。
おりへめ第27号より転載
おりひめ27 [おりひめ]
おりひめ第26号欠版
新任の顧問、S先生 教科は数学だそうです
群れなす花と花一輪
一九九一年の梅明けは観測史上二番目に遅い八月十日頃と記憶しています。
六月、七月、八月の山行の準備日、移動日はいつも決って大雨でした。
しかし、山行中はガスが出るにしても微小雨程度の洗礼しかなかったことは今もって、不思議な出来事と心に残っています。ただただ自然に感謝する思いです。
このような条件の悪い時の山行は天候に対していつも以上に身構え続けなければならない辛い山行になるものだ。
また、これ以前に、頂上に立っても何も見えないという切ない、気の重い山行にもなります。
だから、ついつい、こんな時の山行には何の口マソを求められるのだろうかと反芻してしまうものです。
しかし、いかなる条件下でも、登山という行為からなのか、山という舞台のお陰なのか、変化していく人間の為なのか、こうし た悪条件を背にした山行も不思議なことに山にあっては私達に感動を与え、歓喜を呼び起し、町に戻っては何とも言えぬ充足の余韻を残してくれる。
梅明けから初夏にかけて咲く花々の中にニッコウキスゲとチシマギキョウと呼ばれる花があります。
ニッコウキスゲは山地や高山の草原に群生する60cm余りの花で濃い橙黄色の花を三個余りつけるユリに似た花です。乱暴ですが、色の違うユリの花と言ってもよい花です。
七月の霧ケ峰(長野)の山行でこの花を堪能しました。そこは標高一、八〇〇M余りの所です。私は役割の関係で山岳道路を車で走り回ったこともあり、平地にいる感覚しかなかったのですが、この花の群生の中の山行でした。
昨日までの大雨が止み、太陽が初夏の輝きを持ち始め、そして、連らなる草原を覆い隠すように根付くこの花達に光を注ぎました。花々は橙黄色を黄金色に輝き返す。
そんな中での山行です。
この花は三個余りの花を下方にある順に開花していく性質がありますが、どれもこれも、一斉に開花していました。行けども行けどもこのニッコウキスゲの群生の中を歩いた。
ここちよい風も吹き、花々の語いが聞こえてくる思いでした。
映画「ひまわり」で主演女優のソフィア・口ーレンが口シアのひまわり畑を彷徨する私の青春時代の一シーンをつい重複させてしまい我を忘れてしまった。
この辺が、M先生やW先生と違う名前だけの新入りお伝い顧問なんだろうなと、後になって苦笑してしまう仕末でした。
チシマギキョウは7cm余で茎の先端に青紫色の花を横向きに必ず一個だけつけて開花する花です。
キキョウ科に属するんですが、これを乱暴に、リソドウの花と言ってよい花です。
八月の槍ケ岳からの燕岳でこれを見つけた。燕岳は標高二七六〇M ぐらいで全山に奇岩というか大岩を誰がなしたのか、芸術的に配置されていることで有名な山です。
前日には八月というのに朝方に霰に見舞われるぐらいでしたから、時折、陽は射すのですが風もやや強く、すぐガスに覆われ寒いぐらいでしたが、この天候が逆にこの山を幻想的なたたづまいを創り出していました。
この花はこんな状況下のこの山頂にありました。
岩と砂礫(サレキ)で、何の生の脈動を感じない幻想的な世界でたった一つだけ咲いていた。
それも、北と南に大岩を置き風から身を守るように狭い大地に目立たぬように、隠れているように咲いていました。
花の青紫色といい、茎と葉の緑色といい、一番、鮮やかな時でした。
チシマギキョウは別名として「弧高の花」と名付けたい。三千m近くの頂きに一つだけ力強く咲いていました。
この山行中バカチョン力メラで百枚余り写真をとりましたが、この花が唯一の失敗でした。
夢々、力メラの理由によるものでないような気がします。
どの花が一番美しいとか一番好きだと言うことではありません。なぜなら、この二つの花は花の大きさ、色合い、視覚的スケールは違うだけでなく、完壁なまでに正反対である。けれど、ともにいつか自分の周囲の自然と一体になってやろうと芽吹き、厳しい環境下で一年間耐え成長し、ほんの僅かな時間だけど力強く、精一杯咲こうとしているからです。
ある小説家が作品の中で【・・・高山の頂きに咲く一輪の花、それが真理である・・・】と書き、ある数学者が「生命を燃焼しなければ真理が見えてこない」と述べています。
だから、言うのではないのですが、私と同じ経験をする人はほぼ間違いなくチシマギキョウを選ぶと思います。
それは山行そのものが、生命の燃焼のシュミレーショソ行為だからだろうと思うからです。
この二つの花の舞台に、瞬時に行かなければ、これもたぶん、多くの人がニッコウキスゲを選ぶんだろうと思います。広大で美しい花園だったからです。
山行はこうした一面があるような気がします。
おりひめ第27号より転載
おりひめ25-3 [おりひめ]
ありがたいことに宇都宮のSさんから
「登山の為のトレーニングを考える」の前編を読みたいとのメールをいただきました。
【トレイルラン】の業界では超有名な方みたいです
喜んで掲載させていただきます。
登山の為のトレーニングを考える(その 1 )
山は我々に多くの感動を与えてくれる。登山に感動を見い出せるからこそ、人は山に登るのだと思う。山によって、また、登山の方法によっても、様 々 であろうが、いずれにせよ、山頂に立ったときの感動は、一塩である。山に登ろうと考えて、それなりの準備をして、山に登る。準備を念入りにすればするほど、山頂に立った喜びも大きいものであると思う。
準備というと計画や装備のことをすぐに思いつくがトレーニングもその中の一つであると私は考えている。山をたくさん登ることがトレーニングであると考えている人もいるであろうが、何か特別な事で体を鍛えた人とか、ベテランならともかく、初心者にはそれなりのトレーニングが必要であることはいうまでもない。
念入りにすればするほど喜びは大きくなるのである。そこで今回は、登山に必要な(向いた)トレーニングとは何かを考えてみたい。
トレーニングを、特別な運動をして、体の運動遂行能力を向上させること、と定義して話を進めたい。運動遂行能力の主体は筋肉であるが、筋肉は、かならずしも運動だけの影響で適応していくのではないらしい。
栄養、内分秘、神経、遺伝子などの影響も大いに受けるらしいのだが、トレーニングの基本因子となるのは、やはり運動であるので、運動を中心に述べることにする。
トレーニング効果が生じる運動の条件についての実験結果を紹介する。
等尺性筋力(筋肉の長さを変えないで発揮する力・動かない壁を押すような場合)の場合、力の発揮は、最大に発揮できる力の 40~50%で十分であり、一回の力の発揮は、最大なら1~2 秒間、 3 分の 2 の力なら 4~6 秒間維持すればよい。
しかし、最低一週に一回は必要である。従って、ザイルにぶら下がって、落ちないだけの筋力をつける為には、自分の体重の 40~50 %の負荷をかけたトレーニングを少なくとも、一週に一度はしなければならないということになる。
しかも、力を発揮できるのは短時間であるので、しばらくザイルにぶら下がっていられるようにするためには、筋続久力をつける他のトレーニングをする必要があるが、これは後で述べることにする。
次に、全身的な運動遂行能カとしての最大酸素摂取量の場合であるが、運動の強さは、最大酸素摂取量の 40~50 % (脈拍が 130 /分ぐらい)。その運動の継続時間は 20~30 分、頻度はー週に 2~3 回が効果が確実に生じる条件であるとされている。
従って、楽に登山ができる体力をつける為には、脈拍が 120~140 位になる運動(ランニングがおもしろい)を20~30 分続け、それを、最低でも週に 2 - 3 回行わなければならないということになる。
しかも、ここで引用した二つの例は一般人についてであり、スポーツ選手となると更に別のトレーニングが必要になるのである。
トレーニングの内容である運動は、筋肉が収縮することによって発揮される力の上に成り立っている。
人間の筋肉は、心臓以外の内臓諸器官の壁をかたちづくっている平滑筋、心臓壁を構成している心筋と骨格筋の三つに分類される。これらの筋肉の中でスポーツなどのからだの動きを直接的に生み出しているのは骨格筋である。
人体には、 400 種以上の骨格筋があり、ほとんどの骨格筋は、両端の腱によって、一つ以上の関節をまたいで、異なる骨にそれぞれ付着している。
それゆえ、筋肉が収縮すれば、関節を中心として、骨が引き寄せられるように動くことになる。
筋肉は、多数の筋線維から構成されている。
一本の筋線維は多数の筋原線維の束をふくみ細胞膜である筋線維鞘で包まれている。
この筋原線維は、たくさんのフィラメントの集合体である。
フィラメントは収縮機能をもつ二種類のタンパク質からできており、太いフィラメントをミオシンフィラメント、細いフィラメントを、アクチンフィラメントと呼ぶ。
この二種類のフィラメントは、相互に、規則正しく配列していて、電子顕微鏡でみると明暗の縞模様となる。この横紋のうち明るい部分を I 帯、暗い部分をA 帯、 I 帯の中央を走る縞をZ 膜と呼ぶ。このZ 膜の間が筋肉が収縮する単位となり筋節という。
筋肉が収縮するときは、どうやら、太いミオシンフィラメントの間に細いアクチンフィラメントが滑り込んでいるようである。
筋肉の構造がだいたい理解できたと思いますが、細い事を覚えてもらう為に書いたわけではなく、あくまでも、トレーニング効果が上がるように書いたということを注意しておきます。
つまり、トレーニングをしながら、使っている筋肉に意識を集中し、ミオシンフィラメントが、アクチンフィラメントに滑り込む伏態を頭に思いうかべながらトレーニングをして欲しいということである。
これで、筋収縮の原理がだいたいわかったと思うが、その様式は一律ではなく、等尺性(アイソメトリック)収縮、と、等張性(アイソトーニツク)収縮、に分けられる。
等尺性収縮とは、筋肉の長さを変えないで力を発揮するものであり、等張性収縮とは、筋肉の長さを変えながら力を発揮するものである。
後者は、短縮しながら発揮する短縮性収縮と、筋肉が伸ばされながら力を発揮する伸張性収縮に、更に分けられる。
登山に関する運動を考えれば、ほんどが等張性収縮であり、登りはおもに短縮性収縮、下りはおもに伸張性収縮になるだろうか。
滑落などの非常時に、ザイルにしがみつく運動は、等尺性収縮といえるだろう。
筋肉が収縮するためには、エネルギーを消費しなければならない。
人間が食事として体内に摂りこむ糖質、脂質、タンパク質などの有機栄養物質は、豊富な化学エネルギーを持ってはいるが、それ自体では人間が行う運動の直接の動力源とはならない。
生体内で直接の動力源として働いているのは、 ATP (アデノシン三リン酸)である。
筋中で、 ATP がADP (アデノシンニリン酸)と Pl (無機リン酸)に分解され、その際、筋肉が収縮するエネルギーを遊離させるのである。
ATP は、わずかしか筋肉にふくまれていないためにただちに ATP が再合成されなければならないのである。
この ATP の再合成には、三つの機構があり、それぞれ収縮の強さと時間により変わるのである。
短時間の最大努力の反復運動では、この ATP の再合成の反応は、酸素のない状態で生じるので無酸素的反応と呼ばれる。(乳酸の発生がないので非乳酸性機構ともいう)
第二の供給源として、無酸素的解糖がある。これは、酸素を利用しないで、グリコーゲンはピルビン酸から乳酸になるため、このェネルギー獲得代謝を乳酸性機構という。
一方、運動強度が弱いため、 ATP 再合成のためのエネルギーの供給量が少なくても十分まにあう場合は、運動中に体内に摂りこまれ、血中のへモグ口ビンによって筋肉へと運ばれてくる酸素を使い、有酸素的反応によって ATP が再合成される。したがって、この機構を有酸素性機構という。
脂肪が燃えるのはこの機構の時であり、エアロビクスや、登山も、おもに、この機構を使うことになる。
従って登山は、美容に良いということになるはずなのだが。
さて、我々の骨格筋が収縮するとき、その収縮の速さ、発揮される力、持久性などの収縮特性に差異があることに気づくであろう。
一般に筋肉の太い人は、力持ちであることは知られているが、実際、等尺性筋力は、筋肉の断面積に比例するようである。
しかし、速さ、持久性などは、どうやら筋肉の質によるところが大きいようである。人間の筋線維は、収縮速度は遅いが持久性にすぐれているSO線維、速く収縮し、発揮する張力も大きいが疲労しやすいFG線維、 FG線維とSOの両方の性質を有し、収縮速度も速く、持久能力もありFOGの 三つにわけることができる。
誰もが考える事であるが、自分の筋線維がみんな FOG 線維であったらと思う。
しかし、この線維の組成は、遺伝的要因が強く、自分でどうすることもできないようである。
一流のマラソン選手は、SO 線維が多く、ウェイトリフティングの選手は、FG 線維が多い、というように、それぞれの運動種目に適した筋線維組成を有する者が、自然選択的に各スポーッ種目へと進んでいるようである。
だからといって FG 線維が多い人が登山に向かないかというわけではなく、トレーニングによって与えられる刺激に対して、筋肉は適応する能力を有しており、トレーニングをすることで、筋線維になんらかの変化が生じるであろう。
大事な事は、まず、自分の筋線維の組成を見きわめることであり、自分の組成に合ったトレーニングをすることにあるのではないだろうか。登山に向いている筋線維組成は、もちろん、SO 線維であるが、 FG 線維の多い人でも、トレーニングによって、少ないSO線維を増強することで、よりパワフルな、登山が可能になるであろう。
登山のように、弱い運動を長時間行う場合は、おもに遅筋線維が動員されるのであるが、この場合のエネルギーである ATP の再合成は、主に有酸素性機構である。
有酸素性機構であるからもちろん酸素が必要となるわけだが、体外から活動する筋肉まで、酸素を運般する体の仕組が重要な役割をはたすことになる。
その機構については詳述はさけるが、目安となるものに最大酸素摂取量と、脈拍がある。
最大酸素摂取量は、12分間走でだいたい知ることができるので、ぜひ測定してみてほしい。
簡単に言えば、同じトレーニングで、呼吸回数が少なければ、最大酸素摂取量が増大したと考えてよいだろう。
以上、トレーニングに関して知っておくべきものを、簡単にまとめてきたが時間の都合でこれ以上書けなくなりました(編集委員が、鬼のように取りたてに来ている)ので、最大酸素摂取量を増大させるためのトレーニングはどうすればよいか、遅筋線維を増大させるにはどうすべきか、などトレーニングの実際については、登山の為のトレーニングを考える(その 2 )で述べたいと思います。
(トレーニングを科学する NHK 市民大学を参考にした)
おりひめ第24号より転載
おりひめ25-2 [おりひめ]
H先生最後の寄稿文です(一部割愛)
昭和最後の夏山合宿
昭和六十三年七月三十一日、十一時五十四分。顧問三名、三男(3年男子・・・以下同)二名、三女三名、二男五名、二女十一名、一男一名、一女八名、というなんと三十三名にのぼる大部隊が大糸線の小さな駅、北小谷駅へ降り立ったのである。
この駅では未だかつてない数の登山者の降車ではなかったろうか。
駅前で昼食を食べ、写真を撮ったり、案内板を見たりして、これからの入山の気構えが徐々に盛り上がってくる。
十二時三十五分出発。姫川の橋を渡り駅裏の車道をだらだら歩く。
沢に沿った車道が第五休憩あたりからやや登りになる。民家があるのでまだ六百米の高さしかない。夏の真盛り、しかも午後二時とくれば蒸し暑く最悪のコンディションである。
はたせるかな第六休憩後歩き出して間もなく、三時二十分。一女の三人が遅れだした。
はじめて大きい荷を背負っての登りはきついはずだ。水と石油と電燈(大型)を取り出し三女に分配する。
これから先が思いやられる。それでも四時四十二分に車道の終わる南股橋に到着する。ここで三男を先発隊として出す。
目的は水場に隣接した良いテソト場捜しである。橋を渡るとすぐジクザクの急登になる。
北斜面なので薄暗いが日陰で涼しい。ようやく尾根へ出た。右下に北股沢。左下に南股沢の水の音が両側から聞こえてくる。五時二十分、先発が空身で戻って来る。その状況報告によると登山口にテントが二張り程張れるし、二十米位下りると水場もあると云う。
広さに難(テント六張りも張れるかどうか)があるがまあ良しとしなければなるまい。
先発の目的は彼等にはテント場選定と云ってあるが、これは名目なのであって真の目的は空身で戻って来て一女のバテ荷を持ってくれることにあったのである。
それでも男子は喜んで?一女の荷物をボッカ(荷役)して戻ってくれた。
風吹登山口着、五時五十分であった。幕営・炊事・食事は電燈が必要になった。
月夜で明るい。
八月一日、快晴。七時、風吹登山口出発。狭い尾根の急登が続く。左に石楠花沢、右下にクセエ沢の水音がする。小さいピークを越えて右下をみるとなんと沢が百米余にわたって真黄色に染まっている。そこから流化水素の臭気が立ち登り鼻を突く。
名のとおりクセエ沢だ。顧問三人はカメラとビデオを構える。シャッターを切りカメラをしまって本隊に追いつくと、休憩中であった。
一女三人程(昨日とは異なる)が。バテ気味だと云う。
「では、持って貰いたい荷物を少し出して。」と云うと、これもあれもと半分も出しそうになるので慌てて少しにしろとたしなめる。
一昨年の一女の頑張りとは随分違うような気がする。休憩後、リーダーの「出発。」の掛け声がかかるや否や、タイミングよく「チョット待った。」がかかった。
これから【チョットマッタコール】が流行するようになった最初である。
高度を稼ぎながらしかもゆっくりと、四十分で休憩をとるペースで進むが次第に休憩時間が十分から十五分、二十分と長くなる。そしてリーダーの「出発!」で間髪を入れず「チョットマッタ。」がかかり五分延長してしまう。
ようやく周囲の植生がオオシラビソやヒノキの針葉樹が多くなり、「風吹大池近し!」と思わせるようになって来た。
十二時十五分。待ちに待った風吹山荘着である。昼食にする。
外人一人と、東京から来たと云う学生七人と出会う。風吹大池からは長野国体の時の北信越大会等できているので何か懐かしさのある風景であった。大池を背にした登りは急であるが針葉樹の日陰で高度も一五〇〇 m を越え涼しい。
風吹天狗原は素晴らしく、快適な草原であった。快晴の青空は白っぽい。周辺のオオシラビソは青黒く、その中に光に充ちた草原がひろびろと広がりを見せ登山道が続く。
思わず” 休憩” と叫ぶ。そういわずにはいられなかった。
一九四四米。フスブリ山手前。休憩。
14:45 分出発。
だらだらの緩い登りだ。三十人程の中学生の集団登山と出会う。引率者の少なさに驚く。
いよいよ千国揚尾根だ。二つのピークを越え、ようやく二千米を突破する。乗鞍岳手前の天狗原への最後の急登になる。
道端に黒いトカゲのようなものが這っているのをみて二女のひよちゃんか誰かがすっとんきょうな悲鳴を揚げる。
急いで行って手に取ってみるとそれはクロサンショウウオだった。そういえば直ぐ近くに水溜りがあり、卵塊があったので産卵が終わって寝ぐらへ帰るところなのだろう、そっと離してやる。
15:12 分。天狗原の見える下り尾根になる。
山ノ神と栂池から来る道の出会いへ着いたのは十六時三十分を回ってからだった。
東高登山隊の行動は驚異に値する程緩慢になっている。もう限界にきている。今日予定の白馬大池までは乗鞍岳を越えなければならない。顧問三人で相談し、この天狗原で幕営することにきめる。
よい泊地を捜さなくてはならない。
幸い一番奥に沢水を見つけ、又沢の合流点でやや乾いた泥の広場を見つけ、そこへ三張り。傍らの草地の斜面に三張り、テントを張り終わり、タ食はやはり暗くなってしまった。
血に飢えた蚊の集団の襲撃に悩まされる。そして翌日起きて真っ青。出る筈がないと思った水が下の広場いっばい。三男、二男がテント撤収に大騒ぎであった。
八月二日。白馬大池までの二時間を取り返えすべく、早く出発する。とはいいながら結局 5:50分、出発。やっばりチョットマッ夕コールがかかる。この頃になると興味半分に使うようになる。
乗鞍岳の緩やかな山頂へ出ると紺碧の水を満々と堪えた白馬大池が見えた。
黒い大きな火山岩のごろごろした道をたどって池を半周し、白馬大池山荘前にたどり着く。
ここで休憩しながら、一二年生と顧問でこれから予定通り進むか蓮華温泉へ下るか相談する。
R顧問は一女の状態ではとても無理だから蓮華温泉へ下山することを主張する。私は一女は荷物を軽くすれば、否二人分の荷物を全員で分担すれば人数が多くいるので一人の負担が少ないから続行可能を主張する。
三男も勿論荷物が増えても行きたいと云う。真島顧問もそれに傾き、予定通り小蓮華山に向かって出発と決まる。
もう一つ良い条件がある。それは二千五百米を越えると真夏でも雪が残り冷涼感があり、あまり疲労しない。それに視界が開け、縦走路の展望が何よりも心を夢中にさせてくれる。
しかも行程をゆったり取ってあるので急ぐ必要はない。
蓮華温泉ー白馬大池ー小蓮華山ー白馬岳ー大雪渓コースは直江津高校時代学校登山で毎年来ていたし、東高でも二回やっているのでここは十数回目の足跡をたどることになる。
雷鳥坂のあそこにコマクサがあり、三回目の曲がり角のハイマツの下からキ。ハナシャクナゲが咲きはじめ、七回目の角の石の左にムシトリスミレがあることまでわかる。
舟越ノ頭から稜線に出るとヤマハハコの郡落がある。ここまでくるといっきに夏山の展望が開け、小蓮華山の鉄の剣が指呼の間に見える。
小蓮華山で大休止。振り返ると白馬大池。栂池や頚城山郡、菅平の根子岳、四阿山浅間山、八ケ岳連峰、そして明日行く白馬岳、雪倉岳、朝日岳の連山と大パノラマが展開する。
山頂の鉄剣を背に記念撮影。昼食をとる。ここから三国境までは稜線上の散歩である。
14:00 三国境着。
ここにザックをデポし、私を除いて全員白馬岳まで往復する。少なくとも二時間はかかるのでその間私は自由である。
白馬岳は何度も登ったので「今更行ってもしょうがない。」と思ったのともう一つ、私にはもっと重要な目的があった。
それは、自分だけの時間をもつ必要があった。
その間に高山植物の植生と高山蝶の習性の観察が出来るからであった。
この二時間の空白は皆は頂上の石の展望板にしがみついて寒さにふるえていたであろうし、私は思う存分、コマクサやウルップソウ、チソグルマ、ヨツバシオガマ、チシマリンドウに接し、スケッチしたり、夕カネヒカゲ、クジャクチョウ、ミセマモソキチョウを観察することができた。
でも道からそれて高山植物帯に足を踏み入れていたので上の稜線を絶えず気にしていたことは確かである。
それも早めに切り上げ三国境から少し越中側へ入った雪渓まで行って送り出る冷たい水と戯れ、存分に飲んだ。
16:00 。全員が山頂から帰って来た。
早速一女がポンチョ(雨具)を抱いて、さき程まで私が植物や蝶を観察していた雪倉岳側の高山植物の真っ只中へ入って用を足した。
折悪しくか、運悪くか、夕イミングよくか、小蓮華山の下の方から稜線上にクリーム色のユニホームを着た植物監視のパトロール隊員二人がやって来たのが見えた。
用足しをし、すっかり身軽るになり爽やかな顔つきで戻って来た一女が忽ち捕捉された。
私の方は六、七百米も離れた雪渓上にいるので詳しい内容は解らないが三十分余りにもわたって相当油を絞られていたようだ。
ようやく開放されて隊列が帰って来たが壁易したR顧問の愚痴を聞いてやらねばならない破目になる。
何しろ来る途中、「高山植物を採ったり、高山蝶を捕ると十万円以下の罰金に処せられる。」という看板が二・三枚あり、三国境のザックデポ地点にも麗々しく立っていた。
遠くにニホンカモシカの姿を見る。
16:30 分。越中側へ足を踏み入れる。
鉢ケ岳は右へ巻いてだらだらの下りだ。広い尾根道は気分爽快である。鉢ケ岳の北側斜面は大きい雪渓があり、ガスで見えなくなってしまった。併し豊富な高山植物が惜し気もなく咲き乱れている。フウロウソウ、イワギキョウ、アズマギク、チングルマ、シラネニンジン、と忽ち二十数種は数えられる。
鉢ケ岳巻き道7:40 分着。
17:55分出発。大分行動が鈍化している。
雪倉岳避難小屋着、 18:35 分。前の広場で早速幕営。
水が少ないので鉢ケ岳の雪渓まで山谷、須戸と大ポリを持って戻る。
八月三日
同小屋発は 7:45 になってしまった。
二千五百米の朝はまだ寒い、それでも植物の観察に周囲の散策に出掛けた。丁度二人の女子大生にでっくわし、やはりノートをもって植物のチェックをしていたので種類を聞くと昨日から大雪渓を登ってきて五十種をリストアップできたという。
私がその朝、小屋付近の種類を書き出しただけでも三十二種あった。何しろ高山植物図鑑作製の最も基本とされたフィールドが白馬岳連峰なのだから、高山植物五百種の90%以上は存在するはずである
雪倉岳は朝の冷気をついて一気に踏破する。
8:55 分。雪倉岳山頂。
登山者が多くなった。行く手左側にはくっきりと青と白のコントラストも鮮やかな立山連峰。ふりかえると昨日山頂を極めた白馬岳の山頂が独特の形をしたシルエットが浮かび上がっている。
これからは下ったり登ったりの尾根が続く。この辺りから一人の大学生(メンバーの一人の息子 〉 をガイドにした日本のオバサン連五、六人と道ずれになる。
年令は四十歳から五十才歳位で、大学生はガイド兼、いざと云うときのボッカというところか?
なかなか屈託のないオバタリヤン族で、「日本の政治」から「今どきの若い者は・・・ 。」までいろいろな話が出て結構話が弾み、退屈な水平道も飽きないで済んだ。
よき日本のお母ちゃん達であった。
11:30分小桜ケ原着。昼食とする。
赤男山は巻き道の水平道(全然水平ではなかった)を通ったので直接登らず通過してしまった。
ここを廻り込んで二時間もすれば朝日岳だろうとたかをくくっていたらとんでもない、休憩を多くとったことも事実であるが、なんと朝日小屋へ着いたのは16:30 分であった。
小屋の前には既にオバチャン達が到着に及んでいてビールで乾盃し話の花を咲かせていた。
そして感激した事には新しい缶ビールまで用意し席まで開けて東高顧問を待っていてくれたのだ。
こんな山旅なら何度あっても嬉しい。
三男は超スピードで明るいうちに朝日岳を往復した。
タ方薄暮の頃、隣のテントの前橋工業高の顧問がウイスキーとスルメをもって遊びに来た。
本意はヒマラヤへ行って来たのを自慢しに来たのかもしれない。翌朝暗いうちに朝日岳を往復しようと二女三女と約束して寝る。
ところがである午前二時になって隣のテントが何やら騒 々 しくなった。隣は夕方駄弁って帰った、前橋工業のテントである。どうも顧問が生徒を叱っているような声だ。
聞き耳を立てる。「なんだ?心臓が痛い?それはだな、お前が心臓のある左側を下にして寝たからだよ。バカだな、反対にして寝ろよ。」と云っている。
思わず私もこれを聞いてもぞもぞと寝返りを打とうとしたら、同時にR、M顧問も衣擦れの音をさせながら寝返りを打っている。
翌朝三人、起き出すや否や大笑いであった。「本当に左側を下にして寝ると心臓が痛くなるんだろうか?」と。
でも三人共無言のうちに寝返りを打っているのを互いに確認し合っていた訳だ。それにしても夢の中の誘導というものは恐るべき効果をもつものだと痛感する。
3:30 分。電燈をつけながら朝日岳に向かう。
四十分で登頂。次第に夜の闇がうすれ朝日がさし込んでくる。明けだ!
御来光が雲海に広がり美しい。下りは三十分で小屋前へ。下る途中例の前橋工業パーティーとすれ違ったが顧問の前に卒業生、そして前にいる生徒は今にもぶっ倒れそうな烈しい息づかいをしていた。
何とも
なければよいがと心配していたが、案の定後で北又小屋へ着いてから知ったのだが、途中で心臓麻庫を起こし予定を変更して救助隊を要請しこちらの我々が通った道へ下っているということを知った。
7:00 、朝日小屋出発。
東高山岳部はぶっ倒れるような事はしない。常に臨機応変どんな危急にも対応できるし、一人一人を大切にする。その証拠に捻挫しためぐちゃんはM顧問が丁寧にテーピングしてくれた。
7:38 分、タ日ケ原着。
朝日岳の西側だから夕日なのだろうか。もう登りはないのだと思ってみんなうきうきしている。
9:01 分。イブリ山頂、休まないで通過。
9:30 分。小林トイレへ。全員は下るが私だけ彼を待つ。約三十分も待った。
11:30 分。三合目手前。小休止。
12:30 分。北又小屋着。
最後の五十段の石段がきつかった。カレーを食べ始めたらマイクロバスとハイヤーが来た。
食器を持ったまま乗車。カレーを花に食わしたものもいた。
14:00 分。小川温泉着。
幕営。奇麗なミヤマカラスアゲハが舞っていた。
露天風呂最高!
おりひめ第25号より転載
本当に先生のお人柄が偲ばれる山行記録です・・・
おりひめ25 [おりひめ]
前回は、運動の主役となる筋肉の仕組み、エネルギー供給のメカニズムなどについて書きましたが、今回は、よりパワフルな運動をするためのトレーニングの実際について考えてみたいと思います。
トレーニングの話に入る前に、以外と忘れられている体力測定の話をしておきたいと思います。
陸上の選手などのように一分一秒を争う選手の場合は、常に自分の記録を取り練習のはげみにしているようですが、山岳部のように、補強としてトレーニングをしているような人は、1Kmを何分で走れたなどと、いちいち記録を取る人はまずいないと思います。
毎度おなじみのトレーニングメニューを、ただなんとなく、消化するといった人が多いのではないでしょうか。
しかも、部員全員がまったく同じメニューを消化する場合がほとんどだと思います。
そうすると当然能力以上のことをやらされている人と、楽でしかたのない人が出ることになります。
能力以上のトレーニングの効果は上がりませんし、楽でしかたのない人も、トレーニングになっていないのは言うまでもありません。
その人の能力に合った、それぞれのトレーニングメニューが必要になってくるのがわかると思います。
体力測定は、その能力を知る上で大変に重要なことなのです。
では、何を測定すべきかということが次の問題になりますが、スポーツの種類や、トレーニングの目的によって違ってきます。
高校の山岳部として測定しておくとよいと思われるのは、1500mとか3000mなどの長距離走の記録や、背筋力、脚力などがあげられると思います。
定期的に測定し、トレーニングの効果を見たり、適切なトレーニングメニューを考える上で、役に立つことと思います。
またトレーニング後の脈拍を測定することも習慣にしておくとよいでしょう。
次に、実際のトレーニングを考えてみたいと思います。
登山のように、小さい力を長時間、持続的に発揮するようなスポーツ(ローパワーの運動という)では、有酸素性機構によるエネルギーの供給が主体となります。筋繊維では、 SO繊維とFOG繊維がおもに動員されてきます。
つまり、エネルギーの供給を有酸素性機構に依存し、筋繊維ではSO繊維とFOG 繊維を動員するような運動様式によってトレーニングする方法、が登山に必要なトレーニングだと思われます。
ローパワーの運動では、有酸素性機構によるATP再合成が主役となるため、空気から体内へ酸素を取り込む能力。
循環によって筋肉へ酸素を運搬する能力。さらにATP を再合成するために、筋肉で酸素を消費する能力、といった、酸素運搬系の機能的な能力の優劣がきわめて重要となってきます。
そして、その能力を判定する基準は、最大酸素摂取量と呼ばれています。これは単位時間内に、有酸素性機構で出しうるエネルギーの最大値を意味し、とくに最大酸素摂取量を体重で割った、体重1kg当たりの最大酸素摂取量が有酸素性運動能力の指標として広く測定されています。
従って、最大酸素摂取量を増大させるトレーニングが登山に有効であることがわかります。有酸素性運動能力を高めるトレーニングの代表例として、エンデュアランストレーニソグと、イン夕ーバルトレーニングをあげることができますが、前者は休息なしで30分から60分間、ほとんど同じ強さの運動を反復するトレーニングで、ジョギングなどがそのよい例です。効果が期待できる運動の強さは、最大酸素摂取量の 60~70 %、心拍数では、160拍/分程度とされています。
様々な実験の結果では、強度が強く( 170~180拍/分)、長時間、頻回にトレーニングするほど、最大酸素摂取量の増大が著しいという、結果(考えてみればあたりまえ)が出ています。
少なくても週に3 回、 30 分以上の時間をかけて、160位の脈拍になるようなジョギングが必要ということでしょうか?
後者のイン夕ーバルトレーニングとは、最大努力の80~90%に相当する強度の運動を、休息をはさんで10~20 回反復するトレーニングをいいます。
運動時間は、30秒から90秒で、休息期間に心拍数が120~140拍/分まで低下するように実施するのが好ましいといわれています。イン夕ーバルトレーニングは、エソデュアランストレ一ニングに比べると、休息を入れることにより、より強い運動が可能になるのが特徴だと言えます。
インターバルトレーニソグの効果は、負荷の強さと、休息の長さの組み合わせによって決まります。
二つのグループに[15 秒運動+15 秒休息]×60 セット(グループⅠ)と、[三分運動十三分休息]×15セット(グループⅡ)の運動を週三日、二カ月行わせ、またもう一つのグループ(グループⅢ)に[3分運動+13分休息]×5 セットの運動を週 5 日、一カ月間行わせた実験が報告されています。
それによると、いずれのグループにおいても最大酸素摂取量は増加したが、そのトレーニング効果は、グループⅡとグループⅢの方が有効でした。
また、強度の高い 50~200m走を用いたイン夕ーバルトレーニソグ、グループと、600~800m走を用いたイソ夕ーバルトレーニング、グループ、および両者を混ぜたトレーニング、グループの三つのグループに週5日、七週間トレーニングを行わせた実験報告があります。
それによれば、いずれのグループも最大酸素摂取量の有意な増加が認められ、その増加率は約9 %、5 %、7 %であったと報告されています。
このことはインターバルトレーニングにおいては、時間条件よりも強度条件の方がトレーニング効果に大きな効果をもたらすことを示唆していると思います。
以上、最大酸素摂取量を増大させる基本的な二つのトレーニング法を紹介しましたが、同じトレーニングをするのでも、トレーニングの方法によって、効果が違うということがわかっていただけたかと思います。
そこで、毎日のトレーニングをどうするかということになるわけですが、個々の具体的なメニューを作る方法を簡単に説明しておきたいと思います。
メニューを考える時は、長期、中期、短期の三つ位に分けるとよいと思います。長期の計画は、 6 カ月位を目安に、大まかな目標を設定します。中期は、1~2カ月を目安に、より細かい部分の目標を設定します。短期は、1 週間を目安に具体的なトレーニングメニューを考えます。
そして、中心となるのが、短期の計画ということになります。 1週間の短期メニューでは、運動の強度を考えて、メリハリのある内容にします。
たとえば、月、水、金曜日は、イン夕ーバルトレーニングのような強いものにし、火、木は、軽いジョギソグにする、とか、月、木を 60~90 分のロングジョギングにし、火、水、金は、軽いウェイトトレーニングにするなどです。
また、 1週に 1日~2 日の休養日を入れることも忘れてはならないことだと思います。
疲労のたまり易い中日、(日~土の運動とすれば水曜あたり)は、軽くジョギングをしたり、疲労の程度によってはストレッチだけにするなどです。
また、気分が乗らないときには思いきって完全休養日にすることも必要だと思います。とにかく休養もトレーニングなのだと考えていいのではないかと思います。(ただし、これを理由にずる休みはいけませんよ。)
このように、短期の計画は、一週ごとに目的や、体調に応じて変えていく必要があるのです。なかなかできないことですが、
また、長、中期の計画がしっかりしていないと、かえって効果が上がらないという危険もありますが、意欲的にトレーニソグをする為には、必要なことだと思います。
クラブの練習は、全員一緒に、同じメニューを行う場合が多いのですが、週のうち、2 日ないし、3 日位は、自分の作ったメニューでトレーニソグをしてみるのもよいのではないかと思います。
登山の為のトレーニングを考える、という、題で二年もかけて書いて来たのですが、運動機能の説明に重点が移ってしまい、トレーニングの具体的な方怯まで言及できず、結局、どんなトレーニングが良いのかよくわからなくなってしまったような感じですが、とにかく、自分に合ったトレーニソグを計画的に行い、継続することが大切だと思います。
頑張りましょう。
おりひめ第25号より転載
顧問2年目のM先生です。登山を科学するって感じです
ご自身、トライアスロンに出場するほどの鉄人先生だそうです!
この年R先生が転勤、
W先生が赴任されました。
おりひめ24-2 [おりひめ]
当時の状況を窺い知ることができるR先生の貴重なレポートです
開発と自然保護ー巻機山
巻機山をめぐる観光開発計画が報道され、関心を集めているのは周知のとうりである。
この山をめぐる開発計画は、以前から何回か持ちあがっていた。
高度経済成長の末期、「列島改造論」で全国各地で観光、リゾート開発が計画され、土地投機がブームとなっていた頃、巻機山のスキー場計画が公表された。
黒川シャトーによるスキー場建設である。その後昭和四十八年秋にはじまった石油危機により高度成長は終りを告げ、安い石油に依存していた日本経済は極度の不況になり「列島改造論」は御破算になった。
当然、この巻機山のスキー場開発も計画のままに終った。
その後いくつかの話はあったようであるが、計画までには至らなかった。昭和六十一年になって大手資本が建設業者と提携して塩沢町に開発を申し入れ、具体的に動き出したのが今回の計画である。
その頃から地元の清水集落で話を聞き、山にロープーウェーがかかる大規模な開発計画を知った。
他校の顧問から「東高校の山荘はゲレンデの真中になる」と言われたりした。
このような大規模開発には多くの問題を伴う。
地元の清水集落の過疎化対策、地区の振興に期待がかかり、一方ではスキー場造成による自然破壊である。
最近の動向を追ってみると、昭和六十三年二月十日に地元が町当局に開発同意書を提出した。
地元とは清水森林生産組合を中心とする巻機山開発委員会であり、同森林生産組合は巻機山域の大半を所有している。
集落の過疎脱出のため、スキー場を核とした観光開発に同意し促進の方向を打ち出した。
但し地元には一部で開発反対の声もある。この計画が持ちあがって以来、自然保護の立場から開発反対の意見も多く、巻機山の自然を後世に残そうと登山者らが集まって、同年二月二十八日「巻機山を守る会」の設立総会を開催した。
当日は六日町に県内はじめ東京や関東から百人が集まり、この山の自然を子孫に残そうという設立趣意書や規約、役員を決めた。翌二十九日、同会は趣意書や要望書を県、町当局と六日町営林署に提出し協力を求めた。
夏になって開発業者の地元説明会が開かれた。
六月二十三日夜、会場の旧清水分校に地元住民と塩沢町関係者が集まった。開発計画の業者は大手資本の住友不動産(本社・東京、資本金七百八十億円)と大手建設業者の大林組(本店・大阪)である。
開発計画によれば、開発面積は百五十ha 、巻機山(一九六七 m )の七合目の一七三〇 m まで八人乗りのコンドラを架けて、他に山麓に四人乗り七基、三人乗り十六基リフトを架ける。
スキーセンターやレストハウスのほか、二百室(八百人収容)のホテルを建設、駐車場は四千台を収容。
スキー場は昭和六十五年のシーズンからオープンの予定。(昭和六十三年六月二十五日、新潟日報)
スキー場が建設されるのは巻機山の尾根道と威守松山麓一帯なのである。
要するに山荘からみえる斜面がほぼ全部ゲレンデとなり、西にひろがる緩い斜面にホテル、駐車場、テニスやサッカー場が出来る。業者の説明通りとすると、ゲレンデの面積はあの有名な苗場スキー場(百十九ha)を上回り、七合目からのコースは四・四km と長くゴンドラ終点との標高差は千百六十m は国内最大で、まさに広さ、長さ、高度差とも全国有数の大スキー場なのである。この建設事業費が約二百億円、スキー客は初年度で三十万人、次年度から六十~九十万人を見込んでいる。
開発業者側は一年近く調査をやり、開発のめどがつき’日本有数のスキー場"にしたいという。はたして一年位の現地調査で巻機山の自然が判るのだろうか。
魚沼でも麓の清水は豪雪で知られる。そこからニセ巻機の下までゲレンデにしようというのである。
雪崩の危険はないのか。割引沢や米子沢でない尾根筋だから出ないように見えるが、厳冬期には表層雪崩が発生すると聞く。このニ年ほど暖冬続きで少雪時のデータでは当てにならない。
一晩で一m も積る豪雪を知っているのだろうか。またコースの下部にあたる井戸の壁は、あの急斜面に大木がなく灌木の疎林であることが雪崩を物語たっている。
実際、数年前の春山合宿で巻機登山の帰路、スキーで壁の斜面を横切っただけで足元から表層雪崩をおこし冷汗をかいたことがある。計画では雪崩対策として、スキーコースをニセ巻機(八合目)から下の登山道沿いの尾根に造成し、森林の伐採を最少限に留めて、伐採する場合でも樹木のある程度の一局さ(どの程度かは不明)は残すという。
この程度の対策で急斜面の雪崩を防止できると考えているのだろうか。切株を残せば少雪時や目王となる春スキーでは雪上に切株が頭を出して危険でないのか。
無雪期の尾根道はブナ林が幅広く伐り払われ、足元には切株がひろがる中を登ることになる。
新緑や紅葉に染まって歩いた道は望むべくもない。
巻機山の地質はグリーンタフといわれる火成岩が基盤岩で、この岩盤の上に赤土と岩石が混じった地層が被い、表土は黒い腐植土である。薄い表土がはがれると、雨水によって下の赤土層は深く削られる。降雨は岩のすきまに流れこむ。頂上付近やニセ巻機の急登でみられる、あの深くえぐられた溝である。
もっとも頂上周辺は県やボランティアの尽力で修復され、木道や階段も造られた。
下の基盤も硬くしまった岩盤ではない。むしろ脆さが目立つ。
割引沢、ヌクビ沢源頭の赤茶けた脆い壁、天狗岩直下のはがれ落ちた岩石屑を見ればよく判る。
割引沢、米子沢の下流は巨大な岩が沢を埋めている。
このような地質の山に大型建設機械を入れ、山腹に工事用道路を造り、ゲレンデ造成のため表土を削ればどうなるのか。
浸み込んだ雨や雪解け水により土石流がおこる可能性がある。基盤がしっかりしていれば砂防ダムは必要ないが、地元の話では今後十数年かけて巨費を投じて建設省が砂防堰堤を作る。米子沢川(割引沢と米子沢合流点より下流)に七ケ所、米子沢には九ケ所を建設する計画である。
スキー場開発のための堰堤か否かは判らぬが、とにかく砂防工事が必要な山域なのである。
この開発計画のポイントは何か。新幹線、高速道路沿いに残された最後の大規模スキー場適地で、暖冬少雪でも雪不足の悩みはない。
この"売物"が山にかかるゴンドラである。最初の計画では下からニセ巻機の頂上まで架ける予定であったが、山頂保全法により七合目(千七百三十 m )が山頂駅となる。地形図でみるとニセ巻機急登の最後の辺である。
上越国境の稜線まで一気に運んでくれるゴンドラであり、スキー客や登山客にとってこれ程便利なものはない。
山で"楽"になれば人が集まる。多くのスキー客が集まれば色々な問題がおこってくる。
ゴンドラを降りると稜線が目の前にひろがる。四時間も汗をかいて登った稜線に、八合目の急登を一汗かけばすぐに立てる。
ニセ巻機から頂上にかけては緩やかなスロープが連なる。二千m のゲレンデは粉雪の山スキーの天国だ。
山頂から麓までの長いコースは、適度な斜度と雄大な風景でスキーヤーを魅了する。豊富な残雪で春スキーの時期も長い。上越沿線の’最後"のスキー場かも知れない。
だが厳冬期の天候を考慮しているのだろうか、降り止まぬ豪雪、目もあけられぬ吹雪、稜線部の立っていられない強風とアイスバーン。
天候不順や急変は上越国境の山では当り前である。スキー客の遭難が心配される。また春スキーでは、ゲレンデを固めるためにまく塩が植生に影響を与え、頂上周辺の湿地は姿を消すであろう。
悪天候の際にスキー客の行動を規制するとしても不可能であり、各地のスキー場で遭難騒ぎがおこっている。
高度成長期に大規模スキー場が開発され、ロープウェーや。コンドラが山に架かり、ゲレンデは山麓から山にまで拡大した。
麓のゲレンデしか知らないスキー客も簡単に山に運ばれ、山スキーの領域に入ってしまう。
巻機の、コンドラ終点駅に降りるとそこはスキー場ではなく「山」なのである。
計画通りに数十万のスキー客がやってくれば、遭難は予想される。現在でも巻機山では早春からの春スキーで遭難があり、死亡事故もおこっている。
このような大規模スキー場開発計画は巻機山に限ったことではなく・県内にも地域開発や過疎地振興を核とする開発計画がある。最大規模の計画は「マイ・ライフ・リゾート新潟」構想で、余暇の有効利用から昭和六十二年に成立した「リゾート法」を背景にして、全国各地でこの法の指定を受けようと活発化しているリゾート開発である。
該当地域は南、北、中魚沼、十日町、東頸城の十四市町村、重点整備地区は八ケ所で総面積は二万三千ha 、今後十年間で民間、公共資本が約五千億円が投下される壮大な開発プロジェクトである。
開発の主目的は雪を最大限に活用した雪国リゾート地の形成で、スキー場、ゴルフ場をはじめとする各種スポーッ施設の造成、観光農園、牧場、ホテル、温泉と多方面の行楽、観光施設を建設する。
八ケ所の重点整備地区でスキー場建設計画がないのは川口 ・堀之内地区だけで、他は規模は様々だが建設または拡張計画がある。
主な計画は魚沼丘陵地区の国際的交歓型スキーリゾート地としての上越国際スキー場拡張、当間高原の二つのスキー場新設、南越後地区のマウントパーク津南スキー場拡張、大手資本の計画としては越後三山山麓の国土計画による阿寺山スキー場があがっている。
詳細はまだ決定してないようだが、この開発プロジェクトは全国六ケ所の指定地域の一つで、国の低利融資を受ける有利な条件で巨額な資金が投入されてリゾート開発が動き出そうとしている。
これに次ぐ大規模開発計画は、「奥只見レクリエーション都市」整備構想である。
この計画は南、北魚沼の七町村にまたがる奥只見一帯をおよそ二十年かけて観光開発しようと気の長い計画である。
この構想は昭和四十五年に建設省の公園事業の一環として立案された。目的は大都市圏や地方都市からのレクリエーション需要を充足するため、スポーツ施設、子供の遊び場などを中心に、休養宿泊施設や自然保全地区を設けるというもので、現在で言うリゾート開発である。
北魚沼では昭和五十四年に同盟会が結成され、昭和五十九年に「奥只見レクリェーション地域整備構想」として計画がまとめられた。事業主体は県で、地元町村は計画立案に参加し、費用の五十%は国が負担するものである。
この長期計画は昭和六十年から動き出し、各地区ともまだ計画立案の段階であったり、ようやく用地買収が始まる地区もある状態のなかで、最も整備が進んでいるのが浅草岳地域である。
この地域では二つの地区が開発される。破間川ダムの五味沢地区では、すでにテニスコートや体験実習館などの一部の施設が完成して駐車場や遊歩道も工事に入っている。メーンとなるのは当然ながら浅草岳山域で、現地調査が行われている。浅草岳の山麓には国民宿舎の「浅草山荘」が営業している。その地域を中心に山の北西部の原生林のブナ林は昭和四十年代までに見事に伐採されて、そこに。ゴルフ場、キャンプ場、ホテル、そして大スキー場が計画されている。
計画の概要では千二百ha の面積に約三百億円が投資されて、巻機山と同様に山麓から浅草岳山頂にゴンドラが架かる大規模スキー場が造成されると聞く。
まだ計画の段階で民間企業が現地調査中であるが、山麓から集落が離れているためか、巻機と同様に考えられる自然破壊を心配する声を余り聞かない。
山麓の五味沢の集落は、過疎化が進み山の宿が一軒あるだけで、かつて盛んに木材を積み出していた長岡営林署の現業所も廃止され、森林軌道の跡が残るのみである。
浅草岳(一五八六 m )は守門岳と同じコニーデ型の休火山である。山頂から北、西斜面はゆるやかな斜面が広がり、春スキーには快適な滑りが楽しめる。四月の日曜日にはへリコプターでスキー客を山頂まで運んでいる。北西部のネズモチ平は森林が伐採されてしまい見事なブナ林は姿を消し、トラックが往復した林道が山腹を削っていろ。
この広大な斜面にコンドラを架け、リフトを作ろうという計画らしい。完成して多くのスキー客が入れば、浅草岳頂上付近の湿原は荒されていづれ裸地になるのは明らかである。
美しい原生林の伐採だけでも問題があるのに、山腹を削る造成工事は痛々しい限りである。
このような大規模なスキー場計画は何も県内に限ったことではなく、高度経済成長の昭和四十年代には、全国各地で観光ブームにのり、スキー場が建設された。
だが、その後の石油危機による不況もあるが、小規模で特色のないゲレンデや、スキー以外にこれといった取柄のないスキー場のなかには倒産騒ぎがおこっている。
そのようなスキー場を大手資本が買い取り、大きく衣更えをして成功した北海道の富良野スキー場のような例もあるが、うまくいっている例は少ないようだ。
三年程前から問題となっているのは、青森県の八甲田山のロープウェー計画である。
八甲田山は十和田八幡平国立公園に属し、その中心部は規制が厳しい「特別保護地区」である。
その八甲田山域の大岳(一五八五 m )の山頂にまたがって、山域を横断する大ロープウェー計画がもち上った。
立案したのは青森県で、昭和五十八年から調査を開始、県予算もついている。県が国立公園の真中に長大なゴンドラを架ける必要性があるのだろうか。
計画を推進している県観光課の話では二点ある。青森県は雪国でありながらスキー場が少なく、県内のスキー客が隣県に出かける。
次に、八甲田山域の観光資源が夏場中心で、冬季も含めた通年観光をはかり、地域の活性化を期待する、というものである。
八甲田山地は国立公園に指定されてから五十年すぎ、自然保護にはとくに力を入れてきた。戦後の観光ブームのなかで大衆化はさけられず、古くからの温泉地の酸ケ湯近くにロープウェーを建設した。
特別保護地区の直前の標高千三百m まで百一人乗りの大型ゴンドラが架っている。
団体客や学校登山などで終点駅周囲の高山植物は消え、崩壊も進んでいるという。
これを上廻る大規模なロープウェーを建設し、国立公園の特別保護地区を横断する計画なのである。
県内の巻機山、浅草岳は国定公園であるが、八甲田山は有数の国立公園の核心部である。このような自然保護を無視した計画に監督官庁の環境庁はどう考えているのか、八甲田の計画が実現にむけて動き出した頃(昭和六十一年二月)、環境庁は青森県から何の連絡を受けていないので、公式な発言はさけていたが、計画が本格化するなかで自然保護の立場から慎重な姿勢をとっている。
また国立公園の特別保護地区では、このような大規模ロープウェー計画が実現した例は今までないことは確かである。
現在まで国立公園にゴンドラが架った例はいくつかあるが、山頂や特別保護地区はさけている。
白馬山域の八方尾根、西穂高岳、中央アルプスの宝剣岳にはゴンドラやロープウェーが建設され、多くの観光客を山頂や稜線が望める地点まで労せずに運び上げている。
そのため自然が崩壊されているのは事実で、深刻化している。
青森県は山スキーのメッカ、八甲田山を全山ゲレンデ化しようとしている。県民の税金を投資して貴重な八甲田の自然を破壊していいのだろうか。県は立ち入り禁止区域を設定して、徹底した観光コースを整備すれば、懸念される自然破壊は防げるというが、はたしてうまく行くだろうか。
ロープウェーが架かればリフトもできて、全山がスキー場となる例は、北海道のニセコアンヌプリや山形県の蔵王をみれは明らかである。
美しい自然が残っている巻機山、その登山口の清水は昭和四十年代、人口は百七十人をこえて小学校の分校は三十人前後の児童でにぎわっていた。
成長した子供達は清水を離れ、現在、二十二世帯、九十一人に減少した。八十年余の歴史のある分校も閉校した。過疎脱却の切り札としてスキー場の建設も一手段であろう。
開発計画には部落の大半が賛成というが、自然破壊を懸念されるのも事実である。大手企業の開発に全面依存して、この先、不安がないのだろうか。若者が働く職場ができるか、否か。
地元の利益をどの程度考慮してくれるのか。山一つ越えた湯沢のようなマンションが建つのだろうか・・・ 。
現在、県内には前出の大型開発プ口ジェクトの他に、スキー場建設計画が目白押しに企画されている。上越新幹線と高速道路で首都圏と短時間で結ばれ、多くのリゾート、観光客を当て込んでいるのだが、その地元の地域振興に結びつくかどうかは疑問視される面がなくはない。
地元の人達の生き方に口をはさむわけではないが、広い視野に立って、将来性を見通した開発計画を決めてほしい。
おりひめ第24号より転載
少子高齢化とレジャーの多様化による若者のスキー離れで
どこのスキー場も経営は青色吐息・・・
湯沢町の現状を見るまでもなく
巻機はこれで良かったんだと思います。
「雲天」の【おかあちゃん】に
合掌・・・
おりひめ24 [おりひめ]
「送別山行」
自分には到底手に届かなかったものなのに、なぜかこの日を迎えることができた。
二年前、本当にこの部がイヤになり、明日にでもやめようと思っていた私がこうして「送別山行」を迎えることができたのは、先生や先輩の励まし、同輩との友情、後輩たちとの信頼などがあったためである。
しかし、なんといっても一番の理由は私の親不孝のせいである。
高校へ入って間もない頃、私は安易な理由でこの山岳部に入部した。もちろん家族は良い顔をしなかった。特に父は断固反対した。しかし、普段から父に反抗していた私が父の言うことをきいて、入部を撤回するわけがない。
私はそのまま父の反対を押し切って春季大会に臨むことになった。父はとうとう大会の日の朝まで良い顔をしなかった。おまけに私に大きな荷物を一つ「ドスン」と背中に投げつけた。
それは、以前から体調が悪いと訴えていた父の虫が知らせたのだろうか。
「和佳が山から帰って来る頃には、俺はもう白木の箱に入っている。」と一言つぶやいたのだった。
私はその言葉を無視するかのように浅草岳へと足を運んだ。
それから一週間後、父は本当に白木の箱へ入ってしまった。私は山岳部へ入部したことが父への最後の親不孝になってしまったことがとても悔しくてたまらなかった。
そう思うと部活はちっとも楽しくなく、私にとってマイナスの面だけをつきつけた。かといって部をやめることは、私のプライドが許さなかった。
私は父に対しては強気だった。だからあれほど反対されても入部した山岳部をやめるのは
父があの世で「ホラ、やっばり和佳には山岳部はムリだったんだ。」と笑われているようで、仏壇に手を合わせるのさえ恥ずかしいと思った。
それに、「私は母子家庭だから登山なんてやってられないヨ」といったように、いじけた」高校生活をあと二年以上も送るのは私には堪えられないことだった。
解答が出ないまま一年の三学期を迎えた。でも、私には本当に限界だった。父のことだけでなく、その他諸々の理由でこれ以上、この部にいるのは堪えられなかった。
それでも、成り行きで、春山合宿まで参加することになった。しかし、その合宿が私に解答を与えてくれた。合宿の日々は毎日がとても充実していて私にこれまでにない壮快感を与えてくれた。
この頃から私の父に対する親不孝の考え方が変わってきた。
今まではこの部に入部したことが親不孝とばかり思っていた。しかし、 もしかしたら、この親不孝を親行孝へつなげる方法があるかもしれない。私がこの部に入ったこ
とにより、充実した高校生活を送ることができたら、きっと父も喜んでくれるだろう。」
そう考えると部活が楽しくなり、思わぬ出来事も次々と転がってきた。
まず廃部寸前の女子部に十一人もの一年生が入部したり、行けるはずのない北海道のキップを手にしたり。恐しいほど何もかもうまくいった。
「もしかしたらこれは父が …… 。」などとかってな想像をしたくなるほどだった。
長々と父のことを綴ってきたが、やっばりこの送別を迎えることができた一番の理由は父のおかげである。
そんなことをずっと思いながら最後の山荘の夜をすごした。ランプのほのかな明かりとは対照的に一つ一つの思い出が鮮明に蘇ってきたあの夜。
沢山の後輩に囲まれてあの狭い部屋をぎっしりと埋め尽くしたあの窮屈な感覚。
私は一生忘れない。そして今、二年前に先輩たちが言った言葉を思い出す。
「やっと山が楽しくなるころ、部活を引退しなくてはならないね。」
私にもこの言葉の意味がわかる日が来た。今やっと、長い方程式が解けたような気がする。
おりひめ第24号より転載
おりひめ23 [おりひめ]
国 体 Ⅱ
仲間と山に登り始めて早 2 年。同じ服、同じ靴、同じザック、同じ帽子、そして同じ山を登ってきた仲間がこの大会で 2 名に減らされる。
その 2 名が去年体力チームとして奮闘した奴だから困ったモンだ。この 2 名と山を駆けずりまわることを考えると体が重い。どうなるかは「水戸黄門」の結末のように目に見えてわかっている。
体力でだめなら頭で勝負だ!と張切ってみても、得意の天気図が今年は無いときた。
それなら仕方無い、定点確認で点を稼ごう。それしかない。「スタート!」
三条東 D チームの出発だ。さすがに大会役員の前では調子良く足が出る。しかし数分後、思ったとおりの展開となった。体力の差を改めて感じた。ほんの15 キログラム程度のザックが足を上げさせてくれない。これが最初の難関「スキー場直登」の前の姿である。情けない。この 2 年間のトレーニングはやはり少なすぎたのだろうか。
スキー場を登りきると先に行った2人が待っていてくれた。「持つべきものは友である」という言葉が脳裡をかすめた瞬間、
目の中に地図とコンパスが飛び込んできた。
「定点確認だ。やれ。」気が狂う程疲れているのに正確に読図できるわけがない。おおよそこの辺だろうと印をつけると、
2人は早く来いと言わんばかりに走って行く。
このようにチームの仲間は定点確認の所で待っているだけであとはとっとと飛んでいってしまう。
「畜生」こんな大会に勝って何になるというのだ。こんなつまらない登山は他にない。この大会に対してというよりもむしろ、
やけになっている自分自身に対して腹が立っていた。
こんな文句を言っているのは、自分の甘えにすぎないのだ。
【♪涙の海に泳ぎ疲れてもあきらめるための舟に乗り込むな♪】
こんな歌が頭の中にこだまする。
今まで山を登り続けてきたが、いつも頂上という目標があり、必ずそこへ着けると信じていた。しかし今回はゴールがないように思えてならない。
この路を走り過ぎた後には何が待っているのか。わからない。(少なくともこの時はわからなかった。)
ー垂れた頭を上げると先に行った内の一人の顔があった。そいつは、今までになく穏やかで、「少し休もう。」と声をかけてくれた。半ばあきらめているのだろうと思った。
2分程座っていると、こんな所で何をやっているのだという気持ちが頭を駆けめぐる。
更に重く感じるザックを持ち上げ懸命に走るがスピードが出ない。これでは絶対に悔いが残る大会になることは十分承知なのだが体がついていかない。
これほどチームの足を引っばっている自分に、仲間はザックからスポーツドリンクを取り出して飲ませてくれることをやめない。なんとかして仲間に憑いて( ? )行こうと思っていると、やっとゴール寸前に設置されているペーパーテスト会場に到着。
テストを終わらせ、ゴールに転がり込んだ。「ごくろうさま。」と、先に到着したチームの人がポリ夕ンクを差し出す。
その水をガブ飲みしていると、ようやく三条東山岳部の一員に還ったような気がした。思えばこの喜びにも似た安心感が、
2年間ずっとついて回っていたようだ。
「山」自体も確かに好きだ。が、それが自分をこの部活に引きつけておいたすべてではない。この山岳部、この仲間が好きなんだ。
温泉に漬かり、サッパリとしたところで、いざ表彰式。三位、三条東 D チーム。」奥歯と握り拳で喜びを抑え、講評も耳に入らぬまま大会終了を迎えた。
おりひめ23号より転載
某君は、高校在学中2度も国体に出場したんだ
羨ましい・・・
おりひめ22 [おりひめ]
そういえば「おりひめ」は高校山岳部の部報でした
たまには現役の文章も・・・
国体ではとても貴重な経験をした。三日と間をあけない連チャン登山、優劣を競う異常な状況下の登山、両方とも初体験だった。
それもロクに準備もない。前の山の疲れの残る部員を一人だけ元気な大会至上主義者、渡辺が鞭打って準備させた。
あれだけの仕事を二日か三日でこなしたのは凄い!
当然のことながら大会前日の部室は修羅場と化し、選手(除く渡辺)はヒステリックになっていた。(特にプリティ芳徳)
傍らで先輩方はオドオドして、当初補欠だった私めは笑いながら見てた。
(いつ芳徳に殴られるかとヒヤヒヤしていた。でもよくいるでしょう「こわくないよ~んだJ とかいって意地はってるガキが、あの感じで)
ところが、真剣に働いてる奴を笑っている補欠クンにはしっかり天罰が下った。
当日、なんと選手が一人(仮名 田× 直× )たりない、従って私めは大会に駆り出されてしまった。(♪チャンチャン)
教訓・其の1
たとえ補欠といえども出場する覚悟で臨むこと
けっして選手をからかったりしないこと。
この大会 我々は3 名ずつ、2 チームにわかれA を「体力勝負チーム、B を「頭脳派チーム」とし、体力勝負の国体のため、良い備品はB チームにまわした。
体力がない故に補欠の私めは、突然、装備も満足でないのにそれを持ってる奴が現れないA チームに。ギャグだ、まったく。(やっばり天罰だ)
その上、私めは「補欠だから」と、とんでもねェことを考えていた。
ったく、ふてェ野郎だ。勝負を投げかけた私めと、どうしても勝っという大会至上主義、渡辺が組んだから当然、喧嘩腰だった。
それに、足を傷めてもふだんと変らない佐藤と、妙なチームだった。
教訓・その2
なるようになったら心を決めて真面目になること。
こんな時ビシッと決めるとかっこいい。
踏査のとき私めは、定点確認(決った点を地図にうつす)の係をやった。
「んな位、簡単なもんだ」、と高をくくって、でしゃばってしもた。やってみると割に出来ないもんだね!
めちゃくちゃ、全オーダー中最下位(もっとも途中で変ってもらった。ま、半分その人(仮名 × 辺)にも責任はあると思う)という汚点を残した。
作戦立てて、落ち着けばもっと出来たね、それを見事に落した。
そして 2 日目、ハードな国体で一番ハードな縦走。あとンなりゃたいしたことないが、そのときは死ぬほどつらい。
下は雪だし、陽は照りつけるし、まァつらかった。リーダーに怒鳴られ、がんばろうかなァと思ったが、目先のつらさに負け「るせー、出来るか、ンなことォ」と怒鳴りかえした。
惨めだったね、自分で、自己嫌悪にまみれて(あと汗も少 々 )走ったもんね。その上、いったら、いったで装備点検。指定の装備ないんだもん、これも見事にもっていかれた。
もの凄く、悔しかった。
教訓・その3
出来もしねェことを「知ったか」しないこと、世の中点数じゃないが、アホみたいなとこで落さない。世の中要領も必要だ。ンなとこでコケると後でめちゃくちゃ悔むゾ
教訓その4
死にそうだと思っても、本当に死ぬ寸前までがんばること。人間はそう簡単には死なないから。頑張れるときにやっておかないと、これまた後悔します。
今、その時の報告書を参考にしているが、当時、私めはいつになく真面目に書いている。遅れてきた選手(仮名 × 浦 × 樹)をそうとう責めいるが、今となればいい笑い話でしかない。競技では技術的、体力的、精神的なもろさを今さらながら見せつけられた。
この反省はインターハイと合宿にある程度の効果が上ったと思うが、今また大会前の自分に戻っていることがとても恥かしい。そんなことや、競技の後、全パーティーで登った焼峰が素晴しかったことでこの山は五本の指に入る山だ。 360度全てを春の山が囲み、陽ざしの中で食べた昼飯はうまかった。
教訓・その5
我儘にならないよう気をつけること。もう少し素直になること(ふだんから)
あれだけの悪条件下で 4 位というのはまあまあだと思う。さらに 5 つの教訓を心に刻むとモアべ夕ーでしょう。
一年生はよく読むように。自然は我々を呼んでいる。
これで私めのレクチャーはおしまい。
追記
話がつまらなくなったので気に入らない人は、プリティ芳徳やランボー渋谷あたりから読んでくれ。
素直じゃない私めは、後輩がいるにもかかわらずフザケた文しか書けないんだ。
さらに追記
今年は卯年、私めもうさぎちゃんがほしい(限るかわいいうさぎちゃん)
お話は町田メディチ豊和でした
ー以上
おりひめ第22号より転載
マチダくん印度のムンバイだかに仕事で行ってるって聞いたけど
お元気でしょうか?
可愛いうさぎちゃんの奥さん(クラブの後輩)とは仲良くやっているんでしょうね?
おりひめ21 [おりひめ]
遭難の記事が続き恐縮ですが・・・
34年も前の大きな悲劇です、R先生の貴重な警鐘として残しておきたい
今年(八六年)も年明けから山の遭難のニュースが報じられた。毎年くり返される年末年始の遭難騒ぎであり、多くの死者、行方不明者が出て、社会的批判をうける。未熟な技量、天候の判断を、充分な日程をとれ、更に引き返す勇気を、という登山界の指導者や地元関係者の論評が紙面に載る。新聞の見出しからひろってみると、年末の三十一日「冬山合宿、高校生死ぬ」、一月三日「年明け遭難続出、北ア・中アで滑落して四人が不明」「剣岳でも一人」、四日「新雪に四人のまれる、青森・岩木山、スキー進行中に雪崩に」(朝日新聞より)この年末年始にかけて山で遭難した死亡、行方不明者は十二人にのぼった。
高校生が蔵王で死亡した事故は何とも気の毒な面があり、注意すれば未然に防げた遭難である。概要を記すと、山形県蔵王スキー場で雪山訓練で雪洞に寝ていた県立山形東高校の山岳部一年生の二人は雪洞が崩れて生き埋めになり、一名が死亡した。同高山岳部は一、二年生の八人が二名の教員に引率されて、二十七日から三泊四日の日程で蔵王の冬山合宿に入った。二十九日夜は三つの雪洞とテント一張に生徒二人ずつで寝た。
翌朝、四時半の起床に二人が起きてこないので他の生徒が起しに来たら、雪洞が潰れているのを見つけ、すぐに掘り出したが一名は窒息死していた。
助かった生徒の話によると、ひと眠りしたあと突然雪洞が崩れてきて助けを求めたが、 S君は三十分位で声がしなくなったという。二人の寝た雪洞は斜面にタコツボ状に掘ったもので、奥行二 m 、高さ八0cm である。これでは居住性も悪く、酸欠の危険性もある。
天井は二十 ~四十cmと薄く、夜半に雪洞の上の枝から雪が落ちて崩落した。そばにあったアオモリトドマツの枝からの落雪で潰れるような構造では危なくて泊れない。
確かなことは言えないにしても、その二人の一年生部員は雪洞を掘るのは初めてであろうし、まして雪中泊は初めての体験であったのだろう。現場で設営に立ち会った顧問はどのような指導をしたのかは判らぬが、引率した顧問のうち一名は前日に下山しており、ニ十日は K 教諭(三十才)だけだった。事故当時(その日未明)は現場から五00 m 離れた山小屋に宿泊していた。冬山はほとんど初心者の一、二年生の八人をも引率した顧問としてはいささか気になる行動である。
何かの用事で顧問の一人が帰ったのであれば、当夜は生徒と一緒に泊るべき立場である。生徒と離れて泊る際、注意をしたと思われるが、まさか雪洞が潰れるとは考えもしなかったのだろう。
問題は雪洞を掘る地形の選定やその構造であり、ビバークを強いられて雪面や時間が限定されたのでなければ、硬くしまった斜面を選び、横穴式のしっかりした雪洞を掘らなければならない。
設営時に安全面での細心の注意をはらって欲しかった。生徒の引率、指導上の責任は、当然、顧問にあるにしろ、現在の高校生の年代は雪遊びをほとんど経験していないことも遠因でないかと思う。雪に慣れ親しめる地方の高校生の事故であったから、尚その感を強くする。
高校山岳部の遭難で大きな教訓を残したのは逗子開成高校の八方尾根遭難である。
八十年の暮から八一年一月にかけて襲った「五六豪雪」は各地に大きな被害をもたらし、山では遭難が続発して死者、行方不明者三十七人を出し、救助された者は107人にのぼった。
連日報道される冬山遭難騒ぎのなかでも、高校山岳部六入全員が消息を断つという衝撃的なものであった。
年の瀬、全国を襲った記録的な大雪は二+四日から東北各地の国鉄、道路を寸断し、吹雪の谷川岳ではヒマラヤ登山の訓練に登った栃木県の六人が帰らず、帰省が始まった年末には北陸地方の国鉄がマヒ状態になって、猛吹雪の続く中部山岳一帯の各地から登山パーテイーの救援、行方不明の報が相続いた。
一月二十九日朝、長野県の大町署に神奈川県逗子市の私立逗子開成高校から「教師一人と生徒五人が、ニ十五日から北アの唐松岳に登ったが、予定のニ十七日を過ぎても連絡がない」との届け出があった。
翌朝の新聞に「唐松岳の六人帰らず’逗子開成高のパーティー」の見出しが各紙社会面のトップに載った。
一行は顧問の H 教諭(四十一才)、生徒は二年三名、一年二名の男子五人で、引率の教員は冬山登山のべテラン、装備や食徴も十分で、ビバークして吹雪の止むのを待っている可能性がある、と報じている。
計画では前夜に横浜を発ち、ニ十五日は八方屋根に登り、国民宿舎の八方池山荘付近に一泊、ニ十六日、唐松岳(ニ六九六 m )に登頂、同夜は唐松岳山荘に宿泊し、二十七日に下山になっていた。全員が冬山装備で三日分の食糧を持っているが、白馬連峰は二十六日から猛吹雪が続いているので消息が気遺われた。
スキー場で知られる八方尾根は冬休みに入ると首都圏や関西方面からのスキー客で賑わい、兎平に行くケーブルに朝から長い列ができ、リフトは長時間待たされる。
このケーブルとリフトを乗り継ぐと一九OOm の国民宿舎まで歩かずに行けるため、冬山訓練を兼ねた大学や社会人のバーティーが唐松岳を目指し、八方尾根のツアーを楽しむスキーヤーが多く入る。
そのため一行六名と行動を共にしたり、目撃した登山者からの情報がいくつかあった。
ニ十五日の入山から翌二十六日朝まで一緒に行動した成跳大パーティーの話によると、同高校は登る途中で教師からアイゼンのつけ方を習っていて、冬山の基礎技術はほとんどなかったようで、二十六日の朝に第二ケルン(二千五十m 付近)で別れたという。
と、すれば、二十五日は予定の国民宿舎付近で泊らずに第二ケルンまで登って幕営をしたのである。
二十六日朝、テントをたたんでいるのを見かけた東京歯科大の二人は、唐松岳まで登る予定であったが、吹雪で第三ケルン(二一四十m 付近)で引き返した。第三ケルンは丸山ケルンとも呼ばれ、第二ケルンより一Km西にある。二人連れは戻る途中、八方池(第三ケルンのすぐ下)近くで一行とすれ違っている。
更に午後一時半頃、第三ケルンで休んでいるのを見た他のパーティーがあり、これが最後の目撃者であった。昼前から天候が悪化して引き返す登山者と出会いながら、何故早目に戻らなかったのか。それとも予定通り唐松岳に登頂しようとしたのだろうか。
二十九日に唐松岳に登った日大パーティーからの無線連絡によると、山頂近くの同山荘には誰れもいなかったという。寒波の中休みとなった三十日朝から、長野県警の要請をうけた陸上自衛隊のへリコプターによる捜索が開始された。
松本を発ったへリは午前九時すぎ、八方尾根の第二ケルン脇にオレンジ色のテントを発見、現場に強行着陸して救助隊員二人が降りた。雪に埋れたテントに記入された校名を確認したが、テントは無人で付近にも人影はなく、張り綱のあたりに無造作に差してあるスコップやテント内の様子から、六名がすぐに戻って来るように見えた。
中には寝袋六つ、炊事用具一式、サブザック四つ、食糧、ワカン五つ、へッドランプ等の装備が残されてあった。消息を断って四日目、生存はほぼ絶望的となった。
三十一日の捜索も空しく、春まで打ち切られることになった。
八方尾根といってもスキー場の上部は二千m をこえ、白馬連峰から東に伸びる大きな支稜である。厳冬期は豪雪、吹雪の悪天候が続くのが普通であって、晴天はむしろ珍しい。麗のスキー場でも強風でリフトやケーブルが止まり、ケーブル終点の兎平のリフトが一晩のドカ雪で埋ってしまうことがあり、スキー場のゲレンデから上部は冬山登山の領域なのである。八方尾根では今までにも氷雨にうたれ、吹雪で倒れた登山者が何名かいる。その慰霊碑が一七00m から上に建てられた三つのケルンである。
これらのケルンは霧や吹雪に捲かれた登山者を無事に導いたことも多かった。
第二ケルンは国民宿舎から急坂を少し登った地点にあり、尾根はゆるやかに広がって平坦になっている。そこからは白馬連峰が右手に見え、左に五竜と鹿島槍が、振り返ると妙高、浅間、遠くに八ケ岳と富士山が浮かぶ眺望が広がる。夏なら腰を下して一息入れたくなる。
しかし、冬季は強風の吹きすさむ広い雪稜となり、所々に岩がのぞいている。稜線からはづれた斜面の吹き溜りの雪は深く、乾燥した粉雪は滑降すれば雪煙の舞うシュプールを描く。バランスを失って転倒するとすっぽりと埋って手足をもがくと沈み、雪にまみれて難渋した経験がある。
五月の連休に再開された捜索は、逗子開成高校の職員と OB 、神奈川県高体連登山部、横須賀や湘南の山岳会、それに地元遭難救助隊の凡そ四十人で隊を編成して、ニ日から第二ケルンと第三ケルン中間のオオヌケ沢を重点に行われた。
残雪の沢を下り、ゾンデ(四 m の細い鉄棒)で雪面を刺しながら稜線にむかって登った。消息を断ってから四ケ月、その間に一行六名が辿ったコースが億測され、吹雪に迷って沢に入り、雪崩にやられたのではないか、という推定で捜索が再開されたが、ゾンデの先は異物に触れず、何の手がかりも得られなかった。
ところが五月一日朝、残雪の沢をつめて唐松岳を目指して登山中の仙台市の三人パーティーが、二股発電所上流の南股川で遺体を発見した。遺体発見の一報が二日夕方、大町署に連絡が入った。
県警の調べでは、着ていた赤いヤッケと安全べルトから行方不明となっていた逗子開成高校の二年生の一人と確認された。現場の南股川は八方尾根の北側の沢で、ニ日に捜索隊が人った沢とは反対側になる。
捜索の重点を南股川に移し、四日までに教員と生徒一名、六日に残る三名の遺体が見つかり、消息を断ってから百三十日目に全員が発見された。
六人は川沿いに百m程の問にかたまっていて、状況から雪崩にやられたのではないらしい。身につけていた着衣や見つかった装備をみると、ヤッケ上下、安全べルト、ミトン(大型手袋)ピッケル、アイゼンは全員で、他にザイル二本(十一ミリ、四十m )、魔怯ピン、サブザックニ個?である。非常食はテントに残していったから空身で出発した。
テント脇で氷雪の訓練をするのならば別であるが、この装備で第三ケルンまで登っている。磁石は持たず、ワカンは全員が置いてツェルトやスコップ、へッドランプの装備もテントに残していった。コース目印用の小旗もなかった。冬山でべースを離れて行動しようというのならば、ビバークも出来る万全の用意が必要である。また、アイゼンよりはワカンを、魔法ビンよりは非常食を、ピッケルよりは地図と磁石を、というように装備の使い方に問題がある。
逗子開成高校の山岳部の活動状況はどの様であったのか。朝日新聞の特集記事「逗子開成高の遭難」(八一年六月十一日)によると) 一年生三名のなかで最も経験のあるK君は、今回が十回目の山行で、雪山は春の八ケ岳が一回だけであとの主な山は木曽駒、薬師、北岳の夏山であって冬山は今回が初めてである。他の二名は春山の経験もなく、まして一年生は雪を見るのが初めてといった初心者であった。
高校の場合、顧問が実質的なリーダーであることが多いが、顧問のH教諭の山歴はどうであったか。当初の報道では’冬山登山のべテラン登山歴が二十年といわれていた。
ところが関係者の話では冬山を本格的にやったこともなく、神奈川県高体連が主催する八ケ岳の冬山研修会(毎年二月)にも参加したことがないという。
山歴二十年というのは高山植物の採集を主とする夏山であって、冬はスキーに行ったことはある。お花畑で知られる白馬岳に登ったり、八方尾根には仲間と滑りに来たことはあるのだろう。現地を多少は歩いた経験があるのでないかと思われる。確かに第ニケルンから第三ケルンまではいくらもない距離で、国民宿舎の家族連れが敵策を楽しむ道である。 c れは夏山の話であって冬山はそうはいかない。
山の雑誌にも、八方~唐松岳ルートは冬山入門コースの一つとして紹介されている。遭難直後、地元の遭難救対脇の話でも「このコースは天候がよく冬山経験者であれば、一泊三日の日程で必ずしも無理なことはない。しかし経験者が一人だけのパーティーでは余りにも無謀だ」と顧問のとった行動が信じられないという。
一行の技量以上のコース設定の誤りを地元でも指摘しているが、べテランといわれた教員に冬山の経験がなかったのだから、これは無謀でなく何と言ったらいいだろうか。
前出の特集記事にワカンのことがある。山行の準備をしている時に、顧問は今回はワカンはいらない、練習に使いたい者は持っていけ、と指示している。二、三の生徒は出発前に他人も持っていくので買ってきた。そのワカンを全部置いて行った。春になって見つかった顧問のカメラに最後のスナップ、遺影というべき一枚の写真がある。
生徒全員がフードをかぷり、安全べルトをつけ、ピッケルを手にして頂上を踏んだような姿で並んでいる。撮影地点は第三ケルンの下あたりと思われるが、 この帰路に吹き狂う白魔が待ち構えていようとは夢にも想わなかった。
みるみるうちに踏み跡が消えてしまうドカ雪にはアイゼンではどうにもならない。北アルプスに登るからワカンなどは不用と考えたのか。朝日の本多勝一記者は「この時期この山でワカンがいらないとしたら、世界にワカンのいる山はない」とまで断言している。
三年続きの暖冬にピリオドがうたれ、上旬から寒波に見舞われた八十年の十二月は大雪であった。
十四日はこの冬一番の冷えこみで東北地方と日本海側で雪となり、二十三日から二十四日にかけて本州南岸を低気圧が通り、東方海上に抜けて台風並に発達した。この低気圧は東北、北海道にクリスマス豪雪をもたらして国鉄はマヒ状態になり、漁船の遭難が相続いた。
東京近郊も雪が降って大雪注意報が出た。十五日、日本海に低気圧が発生して東に進み、二十六日(この日に消息を断った)は冬型の気圧配置に戻り、日本海側は雪になり夕方から夜半にかけて低気圧は発達して三陸沖に抜けた。
二十七日から冬型は強まり、北陸地方に年末の記録的な豪雪が降った。中旬から日本列島は寒気団におおわれていたのである。
冬季に低気圧が日本海を発達して通過する際、中部山岳一帯では接近する前に風が弱まり雪が小降りになって回復するようにみえる。それは一時的な晴れ間であって、通過後は北西風が強まり、寒気が入って山では猛吹雪となる。
二十六日は「日本侮低気圧」の天気図であった。この地域の山を知る白馬村のパーティーは同じコースで唐松岳を目指したが、天候の悪化の兆しが現われたのを見て、二十五日すぐに下山している。地元のべテランとはいえ、この天候の判断は正しかった。
この「日本海低気圧」で遭難した例では、二十三年前の、三八豪雪"の一月に北ア・薬師岳で遭難した愛知大がある。
低気圧接近前の晴れ間をねらって太郎小屋から頂上に向ったが全員帰らなかった。十三名が一度に消息を断っという悲劇で、同じ日に登頂した日本医大の一行は無事に下山している。この時も小屋にザックや食糧を置いて軽装備で出発した。秋までに全員が遺体で見つかり、山岳史上に残る大量遭難であった。
大雪警報や雪崩注意報が出ているなかを、何故行動したのか。
二十六日は朝から雪であったが風はまだなかった。
唐松岳に登るには遅すぎる午前十時すぎテントを出発した。すでに時間的にも登頂は断念したと思われるが、顧問が行動を指示していたとすれば、この山行にたいする顧問の心境を示すニつの証言がある。
出発前に一年生の父親(県立高校教諭で山岳部顧問)は、未経験の息子の山行に反対して不参加の旨を伝えたら、 H 教諭は「いや、雪上訓練だけですよ。冬山の生活技術の習得ですから」と答えている。当初の報道では二十六日に唐松岳登頂、同夜は同山荘に泊り、翌日下山の予定になっているが、計画書では二十六日は唐松岳往復と記されている。
この父親は一日だけでは上まで登れず、八方尾根で幕営して雪上訓練ならば、と息子を参加させている。
また捜索が打ち切りとなった翌日の元日に配達された年賀状には「山岳部の冬山合宿、唐松岳に登り冬山の厳しさと美しさを狭いテントの中で語り合いました」の文面に顧問の気持ちが込められていて、心の中に唐松岳があった。
天候は下り坂で登頂は無理でも、ここまで来たのだからもう少し上まで行こうと出かけた。
登る途中で引き返す東歯大の二人連れに出会っている。午後、第三ケルンに着いた頃、最後の目撃者が下山している。
小休止して戻ろうと吹雪のなかを下り始めた。第三ケルンからしばらく降りると、尾根は緩くなり第二ケルン手前で平坦地となる。視界がきかず、踏み跡も消えかけた雪面では直進するのは難しく方向も定かでない。吹き荒れる雪で上下の区別さえ怪しくなってきた。
テントらしき白い三角形を見つけるが、それは大きなシュカブラであった。歩き廻り第二ケルンの石積みを探した。五m先も見えぬ白く塗りつぶされたなかでは、探すことが無理だった。
クラストした硬雪につまづき、吹き溜りに足を取られながら六人は離れないように一団となって歩いた。先ほど見たようなシュカブラに出会った。同じ地点を廻っているように思えたが、すでに方角も判らず、とにかく吹雪に向って進もうとした。ふぶく雪が暗灰色となり、刻 々と夕闇がせまっていた。
手探りで歩いている雪面の傾斜がまして、いつしか雪は腰まで埋まり、膝で雪を押さないと進めなくなった。地形の判断がつかなくても急な雪面を降りていることに「おかしい」と気付いたに違いない。平坦な尾根を東に進むべきところを、北に向ってガラガラ沢に入り込んでいた。おそらく一度は戻ろうとした。ピッケルで雪を落し、踏み固まらないステップに足をのせが、崩れて沈むだけだった。雪にまみれて何度もくり返すが無駄だった。
一歩でも尾根に近づこうと努力をすれば、小さく雪崩れてくる。ワカンがなくては身の没する斜面を登り返すのは不可能に近い。
ここでどう判断したかは判らない。登るのはとても無理だが、転んでも何とか下降はできそうだ。この沢を降りて行けばスキー場の細野の集落に出れると考えたのか。晴れていると八方尾根からは麗に細野の家並みが見える。この眺めを頭のどこかに描いていた。
ふたたび、六人は吹雪の渦捲く谷底に踏み出した。雪をかき、泳ぐように転がりながら、歩くよりは滑り落らながら沢を下った。眼も開けられない吹雪のなかを歩まねば生への道は閉ざされる。
雪は一層激しくなり、しだいに前後の問隔がひらいて遅れる者が出た。先頭は胸まで潜る雪と格闘して前に進もうとするが、雪に沈むほうが多かった。いくらも下降しないうちに、辺りは夜の闇につつまれて急速に気温も下がった。動きを止めると容赦なく雪は顔まで白くして濡れた着衣は寒気で硬く凍った。疲れ果てた六人には空腹も寒さもなかった。虚な耳に白魔の吃味が聞えるだけだった。
遣体が発見された南股川から推測すると、第ニケルンの手前からガラガラ沢を降りたとみられる。八方尾根から南股川までニ版で標高差が九百m 、そこから二股の発電所まで川沿いに三Km 、発電所から細野まで三kmある。この猛吹雪とドカ降りの雪ではとても歩ける距離ではない。不可能と判っても下界に一歩でも近づこうと必死に吹雪と苫闘して力尽きたか、又は装備もないままビバークして極寒に耐えられずに果てたかであろう。
この年の冬は気象条件が悪く豪雪も予想され、気象庁の飯田睦次郎氏は、山の雑誌の新年号で「ここ十年近くの間、荒れ狂う吹雪が一週間も十日間も続いたことがない。そのような荒天になれば、経験の少ないリーダーや初心者によって、昭和四十四年正月、北ア・剣岳一帯で起きた大量遭難騒ぎ(死者六人、不明十二人、救助を求めた者八十人)がくり返されることは必定であろう。
過保護な現代っ子登山者が増え、あ<までも頑張る精神が失われつつあるので・・・」と警告していた。この警告が不幸にも的中した形となったが、日本の冬山はヒマラヤ以上の難しさがある。
このような長期予報も知らずに冬山合宿の計画が進められた。
準備段階で生徒がこの山行にあまり乗り気でなかったと言われ、むしろ顧問が積極的だったのではないか。雪山の美しさを知っていても腰まで潜るドカ雪や何も見えない猛吹雪、強風による体感温度の急速な低下などの冬山の恐しさを顧問は知らなかった。
厳冬期の唐松岳に初心者が登ろうという計画に無理がある。一年生の父親が不参加を申し出たことでも、この登山計画は経験者からみれば適切でなかった。
遭難当時の天候急変は予想でき、途中で吹雪がひどくなって戻るバーティーと出会いながら引き返すのが遅すぎた。
猛吹雪に襲われたのは決して不可抗力でない。何も知らぬ教員がリーダーとして初心者の生徒を連れて冬山に行くこと自体が大きな問題であり、まして全員が帰らなかったのだから、その責任は重大である。
酷な言い方だが、顧問が状況判断して行動を指示していたとすれば、過失致死の責任を問われても致し方ない。リーダーの無知、未熟が大きな原因を占めると思われる遭難事故であった。
【べテラン】の教員を信じて子供を送り出した親は、悲しみの涙を流しても流しきれるものでない。逗子開成高校は 、旧制中学時代にボート部の海難事故があり、十二名が相模灘に消えた。その鎮魂歌が有名な「真白き富士の根」である。今回、出発前にある二年生が父親に「こんどは山の歌ができるよ」といった一言が吹雪に消えることを予言していたように思えてならない。
八方尾根第3ケルン
吹雪の夜に、おリンの音に交って子供の泣き声が聴こえる、
沢筋からヘッドランプの灯りが見える等々
事故後いろいろな怪談話を聞きましたっけ・・・
おりひめ20 [おりひめ]
R先生 渾身の「植村直己」論
植村直己がマッキンリーの稜線に消えてから一年がすぎる。昨年(八四年)二月、四十三才の誕生日に同峰登頂、南極への夢をふくらませた朗報が伝えられた。
下山途中、行方不明となり捜索が続けられたが、下旬には絶望的な文字が紙面の見出しとなり、彼の超人性に期待を寄せ、奇跡の生還に望みをつないだが空しかった。
ニ月一日、山麓のカヒルトナ氷河に張ったべースキャンプを出発。十二日に北米最高峰、マッキンリー(六一九四 m )の頂上に立った。冬季単独登頂である。七〇 年夏、初の単独登頂とあわせて夏冬の成功であった。登頂後、ブリザードのため連絡がとだえて安否が気づかわれていたが、十六日に捜索のセスナ機が元気に手を振る姿を確認したのを最後に消息を断った。
二十日からの捜索の模様は報道されたとうりである。
比較的詳細に伝えた新聞は「朝日」である。朝日新聞は山の遭難に関しては客観的な立場から報道し、時には鋭い社会的批判をのせて警鐘を鳴してきた。(例えば「五六豪雪」の大量遭難や逗子開成高校の八方尾根遭難など)
「朝日」には著名な本多勝一をはじめ疋田、武田編集員や大学山岳部出身の記者が健筆をふるっているが、今回は系列のテレビ朝日が、取材で一月から現地に入っていたため情報も早かった。同局はスポンサーではないが、取材を通して結果的には捜索にも協力した。
この遭難で捜索を直接担当したのはマッキンリー(デリナ)国立公園事務所である。二月末まで空前の航空機作戦で経費もかさみ、人件費も含めて一千万円かかった。その後の母校、明大山岳部 OB 会(炉辺会)の第一次捜索が四、五百万円と伝えられる。たった一人の遭難でこれだけの経費をかけたのは植村直己だったからである。
冬のマッキンリーは想像も絶する極寒の地の果て。その山に単独で挑んだのだから、実績のない登山者なら【無謀】の一言で非難され、捜索の航空機が飛んだかどうかも疑わしい。
登頂成功から消息不明の悲報までの報道で思ったことは、彼の冒険、登山歴を称え、生存絶望を惜しみ必ず【朗報】をもたらすのを信じて、批判めいた声が聞かれなかったことだ。素人がこの遭難に口を挟むのは気がひけるが、現地から伝えられた記事からいくつかの疑問がわいた。
全部、解明できないが、その疑問を追ってみたい。
なぜ、厳冬のマッキンリーに挑んだのだろうか?
各大陸の最高峰頂が目的ならば、十四年前の七 〇年夏に同峰に登っている。この謎をとく鍵は、八三年十月に渡米した時、つけていた日記にある。
その一部を引用する。
「十月十日、五時四五分成田よりロスに向けて出発。これから来年の三月まで約半年の予定でアメリカの旅をする予定だ。
今回のアメリカの旅の目的は南極へ向けての糸口をつかみ出したいということが最大の目標であるが、その行動として、一つは十ニ月 ~ 一月にかけて行われるミネソ夕州にあるアウトワード・バウンド・スクールに入り、犬ぞりコースに参加すること、ニつは一月中旬より犬ぞりの教科が終った後、アラスカに入り、厳冬期のマッキンレーの世界初の単独登攀すること。」
渡米の行動目的の第二にマッキンリー登頂をあげており、厳冬のフスカは未知なので、可能性を見極めた上で慎重に行動する旨を記している。
今回の渡米はミネソ夕の野外学校で南極向けの犬ぞり術習得が第一であって、マッキンリー登頂に関しては公子夫人にも話していない。直前の準備で荷物にピッケルを詰めているのを夫人にみつかり、「いらないんだっけ?」と言い訳している。
では【南極へ向けての糸口】とは何か。
マッキンリー登頂前の一月三十日、カヒルトナ氷河のべースキャンプでテレビ朝日の大谷映芳ディレクターが取材をしている。同氏は八一年、第二の高峰 K2 の西稜初登頂に成功したクライマーであり、消息不明後は現地で米国の登山家、ジム・ウィックワイヤー(弁護士で K2登頂者)と協力して捜索活動に当った。
その取材の中で、同峰登頂の目的は、と問われて「別にこれといった目的はなく、冬季単独登頂もやりたいが、極地の冬山を自分で試登してみたい。登頂できなくともいいが・・と言いながらも、話が一昨年の南極行で失敗したことに及ぷと、「悔しい。畜生!」とその時の気持ちを口にしている
植村は七八年の北極点到達後、もう一つの夢である南極横断を実現すべく、七九年に米国側の協力を得ようと知人を通して関係方面に手を打つ。エドワード・ケネディに会い、マンスフィールド駐日大使も好意的に動いてくれたが、最終的には米国の南極基地を管轄している科学財団から協力拒否の返事をもらっている。
そこで四回の南米行で知己のいるアルゼンチンから南極へ渡ったのが八二年の一月。アルゼンチンは南極大陸に最も近い国であり、突出している南極半島中心に領土宣言をしている。
その半島に多くの基地を有し、その一つのサンマルチン基地に陸軍を通してもぐり込み、南極大陸横断の準備をしながら越冬して機会をうかがっていた。
同半島のつけ根にはこの大陸最一局峰のヴィンソン ・マシフ(五一四〇m )がそびえ、当然大陸横断三千キロと合せて、同峰の単独登頂をねらっていたと思われる。
長い冬が終り氷がゆるむ頃になると、南極に近いフォークランド(マルビナス)諸島をめぐる英国、アルゼンチンの軍事衝突が起り、いわゆるフォークランド紛争のために基地の陸軍は彼の冒険旅行の援助どころでなくなり、すぐ近くに聳ゆるヴィンソン・マシフにも登れず、一歩も基地から出られずに計画を断念して諦めきれずに、翌八三年三月に帰国している。
その年十月、前に記したように渡米の旅に立ったのも、もう一度米国側の協力を得るためで、マッキンリー登頂後に南極の交渉の一つの窓口であるカナダのイエローナイフ(極北地方の都市で犬ぞりに関係があるらしい)に行く予定であると言っている。
遭難取材で現地にとんだ朝日新聞の竹内記者によれば、マッキンリーは南極大陸横断の資金を出す予定のスポンサーを納得させる実績作りであり、そのスポンサーとは米国の化学と軍用機メーカーの巨大企業二社である、という。(化学会社はデユポン社と思われる)
南極行きは確かに北極点の時より、巨額な資金と米国側の全面的の支援がなければ実現不可能なのである。
冒険家、植村直己の最終舞台が南極であり、その横断成功をもって引退の花道を飾ろうとすれば南極への渡航、各種の準備、空からの補給やサポートなど二、三のマスコミ関係のスポンサーには負えない旅となる。当然この巨額の費用を負担するスポンサーをさがさねばならない。資金提供の相手に色よい返事を求めるため、植村の存在を強く印象づけることが必要であり、厳冬の雪煙の中を単身でひたすら頂上をめざしたというのであれば何か悲壮である。
登れなければ「頭をかかえて日本に帰る」と言い、べース出発前夜の一月三十一日の日記の最後に、「さあ、精神一到何事か成らざらん、マッキンレーの単独登頂をやるのだ!」
それ程重要な意味をもつ登頂とあれば準備や装備などに問題がなかったのか。
登山装備はミネソタの野外学校が終って、アラスカへ向う前にシアトルで購入している。
シアトルには八年来の友人で、先に記したジム・ウィックワイヤーが在住しており、装備品の調達に協力している。
国内からクレバス転落防止用の竹ザオを航空便で送った他は、大半の装備を米国で購入したらしい。アラスカの厳冬季登山ということで防寒対策には充分配慮したと思われるが、着用していた衣類に問題点を指摘した専門家がいる。山の遭難凍死と肌着の関係の研究で知られる武庫川女子大の安田武教授である。植村は七〇年春のエべレスト、同年夏のマツキンリー単独登頂で、同教授の作った防寒衣を着て頂上に立っている。
今回着用していた衣服は、肌着にウールの上下、次に裏地を起毛したポリエステルのジャンパー上下で、汗の透過がよく、最近の米国登山界で流行しているもの。その上に化繊綿の防寒アノラックと防寒ズボン。アノラックは大きすぎて袖口を短かく切り毛皮をつけ、衿にも毛皮を縫いつけた。一番上にはゴアテックスの赤いヤッケを着た。
肌着のウールは汗を含む。その上の厚い二枚の化繊は水分を含まず外側に汗が出てくる。その上にゴアのヤッケを着ると大量の汗はヤッケの内側に寒気のため凍結し、ゴア本来の機能を発揮せずに下の着衣を濡らしてしまう、と同教授はいう。
このため、ヤッケ上下は最終ア夕ックキャンプと思われる五二〇〇m の雪洞に他の装備と一緒に残されていた。
べースキャンプ(二三〇〇 m )で零下三〇度以下になり、稜線は強風が吹き、零下五〇~六〇度にもなろうマッキンリーでは防寒性を優先しなければならない、防寒と吸湿を兼ねるとすれば、ウールと羽毛の組合せが最適と思われる。
又、軽量化をはかるため、べースキャンプからの登はんではテントを持たず、雪洞を多用している。雪洞はテントより暖かいが、掘るのに時間がかかりすぎると日記に記してあり、更にシュラフなしもねらったが、極寒に対してためらいもみられて五二〇〇 m の雪洞まで持参している。
次に新聞にも報道された「靴」の問題である。今回の登頂に用いた靴はエアブーツ、又はバニーブーツと呼ばれる特殊靴である。このブーツは前回登頂の時に知りあった地元ガイド、レイ ・ジュネ(七九年エべレスト登頂後に遭難)に強く勧められた、と言っている。
元来は極地用に開発された軍用靴で、全体が二重のゴム袋となり空気を入れてバルブで調整する。軽量で、保温効果は過去に凍傷なしの保障済みである。頂上付近の稜線では零下五 〇度にも下り、雪煙の舞う列風で、体感温度がマイナス100度になる厳冬季登頂を考慮して、高所靴ではなくこの靴を選んだものと思われる。
「バニーブーツ」と呼ばれるのは、登山靴の二倍もある大きさであり、ディズニー漫画のウサギに見えるからこの名称が付けられた。特に登山用に作られたブーツでないため、底は厚いラバーで曲りやすく、滑り止めもズック靴程度で、雪山で用いるにはアイゼンをつけなければならない。このブーツ専用の特殊アイゼンも出てきたばかりで、植村はそれを知らず、登山用のアイゼンを用いていた。
靴底全体が軟らかく大きさも倍であるブーツにアイゼンを装着するには、難しく多少の慣れを要した。
二月五日頃の日記に「五分おきにアイゼンが何度もはずれ、強風で手が凍えて着け直すのに二十分もかかった。やっと直して歩き始めると反対側のアイゼンが外れる」
かなり苦労し、難渋している情景が浮ぷ。当然、体力も消耗するし、行動のペースも遅くなる。冬のマッキンリーの斜面はアイゼンもきかぬ青氷の壁になるという。
登りは何とか急斜面を越えられたにせよ、下りの氷壁では後向きでアイゼンの出歯をけり込む技術を用いるが、これができなければ前向きで下降せざるを得ない。
靴底が軟らかく、力を入れると曲ってしまうので、滑落の危険性が指摘されている。地元のガイドが勧め、同国立公園事務所がその保温性を保障しているといっても、夏季に限ってのことと思う。何しろ冬季のマッキンリー登頂に成功したのは、植村直己が単独で挑戦するまで二パーティーの六人しかいない。新しいブーツを用いるにしても、事前に小登山をするなりして履き慣らす周到さがほしかった。
冬のエべレストより最悪の気象といわれるマッキンリーに初挑戦であれば、資料を検討し国内で万全の準備を整えてからアラスカに向ったのではないだろうか。
この点に関して、植村はマッキンリーを甘くみたのでは、という指摘もある。前回、七〇年夏の単独初登頂の際は運も良く、比較的楽に登っている。べースを出発してから濡れた衣服で凍傷にかかりはじめ、食糧も底をつきかけた四日目にテントを見つけた。
このテントは一ケ月前に登頂した日本スキー隊のもので、豊富な食糧にありつき、ゆっくり休むことができた。
その後は好天にも恵まれ、トレースにも助けられて七日目に頂上に立った。
高度差四千mを三日で登れると判断し、地吹雪に阻まれビバークを強いられた時に、大型テントと食料が残されていたのは幸運であった。
撤収されていればどうなっていたかわからない。
酷な言い方をすれば、十四年前につきもあって後半、楽に登れた体験が、同峰に対して組み易し、とみて気構えに油断があった。
今回の登山行動を断片的に日記で追ってみる。二月一日、カヒルトナ氷河のべースキャンプを出発、登山開始。二月二日、悪天に悩まされている。「なぜ、冬のマッキンレーはこんなに天候が悪いのだろうか。前のときの夏のように進むことができないのがくやしい
二月三日、この日は停滞。四日は難所といわれるウィンディー ・コーナーの三六〇〇m地点でビバーク。
「風速三、四〇m 。一日三、四時間しか行動出来ず、空身で四、五〇m ラッセルし、クレバスの中に穴を掘って荷物を取りに戻ったら猛吹雪で穴がみつからなかった」
強風で吹きとばされそうになり、スコップとノコギリをザイルに結びつけ、腹ばいになり穴を掘った。歩くのも四つんばいだ。雪洞がみつからず、「確かにこの辺りだったんだが四つんばいになって右へ左へ探しまわる。おれは死ぬかもしれない」
と乱れた文字で記す。苦心惨澹、やっと戻って「青い山派」を大声で歌って励ました。一途で純朴な人柄をしのばせるが、この日は遭難一歩手前で危く難を免れている。
二月五日、四二〇〇m 地点まで登り雪洞を掘った。この登りで先に記した様に「アイゼンの不調」を訴えている。
「風速が三、四〇m 。ザイルを背負って立っていられず、雪洞を掘ろうにも風が強く、掘る場所がない」そして、「顔の感覚もなくなってきている。気温は何度あるのか、とにかく痛い。逃げばがない。どうしたらいいのか」想像をこえる強風と寒さ、それに吹雪に阻まれ、行動もままならない。
「雪洞を掘るのに二時間以上かかってしまう。雪洞の中にも風が入ってきてマイナス二〇度ぐらいある。寝袋も凍ってバリバリだ。乾いた寝袋で寝てみたい」
二月六日、停滞して装備の整理をする。「昨日、今日の風で右頬が凍傷でやられて皮層がむくれる。両手の中指の第一関節から先の感覚なし・・・ ローソクが短かくなってしまった。夜がとても長く感じられる」
凍傷にやられて精神面にも参っているのか最後に太字で「何が何でもマッキンリー登るぞ」
と記して日記はここで終っている。
最後の一行が彼をよく知る人々にとっては異常に思えたのではないだろうか。余程、身体的にも精神的にも疲れて正常な判断力を失っていた、という関係者もいる。
この大学ノートの日記は、四ニ〇〇m の雪洞に燃料、かんじきなどと共に残されていたのをニ月二十日、現地にへリコプ夕ーで降りた大谷、ウィックワイヤー両氏により発見された。
七日以降、十二日に登頂するまでの行動は記録もなく詳細は判らないが、苦闘を強いられたことは確かであろう。
登頂前後の足どりを追うと、十三日午前十一時頃テレビ朝日のセスナ機と(十二日の午後六時五十分に登頂」と無線交信している。その時の地点を二万フィート(六一〇〇m )と報告しているから、頂上の百m下になる。
その後、連絡がとだえ最後に姿が確認されたのは十六日午後、捜索のため飛行したパイロットが、四九〇〇m の雪洞で元気に手を振っているのを発見、無線で呼びかけたが応答はなかった。
このパイロットはマッキンリーで最も信頼され、十年の経験を誇るダグ・ギーティングである。同氏は当初、いわれていた地点の標高を五二〇〇m から四九〇〇mに訂正したが、姿を確認したという証言は変えない。
その地点は急斜面、ウェストバットレスの上の西尾根で、そのためここから下山途中、斜面を滑落してクレバスにのみ込れた、との見方があった。現地の国立公園救助隊が「ウエムラ絶望」を発表した二月二十六日に入山した明大山岳部 OB 隊は、四九〇〇m 以下に重点をおき捜していた。念のためウェストバットレスを登った三月六日、五二〇〇m 地点で大量の装備が残されている雪洞を発見した。
この雪洞は好天ならば頂上まで約一日のビバークで行けることから、ここを最終キャンプとして登頂を果したとみられる。残された装備品は石油コソロ、燃料、寝袋、ヤッケ、カリブーの肉、スコップ、ノコギリそれにフレーム付ザックなど約十五Kg
これらの装備品は下山時に絶対に必要で残していくことはあり得ない。この雪洞発見により、それまで推定されていた西尾根から下山途中に滑落したのではなく、これより上部で遭難した可能性が強まった。
とすれば、十六日に元気な姿が確認されたのは誤認であったのか。同パイロットの証言は姿を見たのが数秒間であっても間違いなければこの雪洞より下に降りたことになる。
猛吹雪で「ホワイトアウト」になって雪洞を見失って四九〇〇m まで降りた。
十六日以降、装備を取りに上の雪洞に戻る途中、何らかの事故がおこったとみられる。
だが現地を捜索した明大隊によると、雪洞を見落して通りすぎても五〇mも進めば狭い稜線になるから必ず引き返すであろうという。仮に装備を残した雪洞を見失ってべースキャンプに戻るにしても、好天であっても一日で降れる距離ではない。
その途中に強風で知られ、幾人もの命を奪っているウェストバットレスを下降しなければならず、標高差一〇〇〇m のこの氷壁は三、四〇度の急斜面で上部は青氷でアイゼンの爪が刺さらぬ状態だったという。
この斜面を空身で下降するのは自殺行為に等しく、とても考えられない。地元の同国立公園事務所は、当初の五〇〇〇m以下の急斜面で突風か、又はアイゼン不調」で滑落したとの見方を捨てていない。
一方、明大隊は頂上登頂後、この雪洞までの下山ルート途中でアクシデントがおこり遭難した可能性が強いと見ている。
五月になって第ニ次明大隊が捜索に向った。登頂の証として残された日の丸が回収されたが、植村直己の姿はどこにも見当たらなかった。悲報はついにくつがえらず、極北の自然に背かれてしまった。
二十年も前の六四年、明大農学部を卒業後、建設現場のバイトで貯めた一〇〇ドルをポケットに、氷河の山を見たい一念で米国からフランスに渡る。スキー場で働きながらアルプスに登り、モンブラン登頂以来三年余の放浪の旅をしつつ 、キリマンジャロ、アコンカグアの単独登頂とアマゾン川イカダ下りを達成する。そして七〇年、最高峰エべレストとマッキンリーに登り、初の五大陸最高峰登頂を果した。
エべレスト以外は単独登頂で夢は南極単独横断へと拡がる。
二年後の七二年、南極をやる計画でアルゼンチンの基地に渡るが、訓練不足で戻りグリーンランドのエキスモーと生活を共にして北極へのめり込んでいく
七三年グリーンランド大ぞり三〇〇〇キロ単独行に成功して帰国すると野崎公子と出会い、翌春結婚する。家庭に落ち着く間もなくその秋(七四年)再びグリーンランドに渡る。「結婚したら山をやめる」と夫人に約束したのに、北極に向う言い訳けは
「北極は山じゃない」
七六年まで足かけ三年、グリーンランドからカナダを経てアラスカまで海水原を大ぞりで走り抜いた。氷のとける夏はエスキモーと生活して結氷を待った。
走行日数三百十三日、北極圏一万ニ〇〇〇キロの旅である。
高度成長が終り物質万能主義がいささか否定された時世に、我 々に替って冒険とか探険などの夢を再現してくれた男として一躍脚光をあびた。
マスコミが放っておくわけがなく、この費用七百万円はマスコミ三社、毎日新聞、文芸春秋、毎日放送が出している。毎日新聞はアラスカのコツビューに特派員を待機させて犬ぞりのゴールを特報し、文春は旅行記を書かせ「青春を山に賭けて」以来「北極もの」まで四冊の版権を握っている。
スポンサーがつけば資金援助と引き替えに日記や写真を提供する【商業的冒険】になっていく。
輝しい冒険の実績が重なると気ままな単独行ができなくなり、スポンサーに拘束されて次の企画が待っている。北極圏の次は北極点へと冒険はエスカレートし、七八年に北極点犬ぞり単独行に出発する。莫大な経費は前述のマスコミ三社ではとても賄えず、広告の電通がスポンサーを引き受けた。
三月、極点に向けて出発。極地探険の伝統的な犬ぞりで挑んだが、安全確保に文明の利器を最大限利用して万全を期した。食糧はいうまでもなくエスキモー犬まで航空機から補給を受け、 NASA の協力で人工衛星ニンバス六号に監視され、自分の位置を知らされて気象情報まで無線で送られている。四月下旬に初の北極点単独到達に成功、迎えの航空機で犬ぞりごとグリーンランドに戻った。飛行機一回のチャー夕料が三百万円、十回以上も補給したからそれだけで三千万円を超えた。基地に連絡員を常駐させ、人件費、食糧、各種の装備に犬など合せて総経費は一億四千万円といわれている。
これには極点到達後のグリーンランド縦断も含んではいるが、それにしても莫大な金額でぜいたくな冒険である。これだけの費用を負担してもらうと講演会、パーティー、広告の義務が伴ってくる。この前後、背広姿の【冒険家】の CM が国電につり下り、二万円パーテーで頭を下げ、サイン会にかり出され、「極点に立つ」記念レコードまで出されたのも全部資金集めなのである。
「私なんか商品の一つと思われてるんですよ」と出発前にもらし「人からお金をもらって、どこかへ逃げ出して一種の乞食」と自潮しながら北極点に旅立った。
グリーンランド縦断三〇〇〇キロは初の偉業で、北極点単独行より評価はされる。八月末、グリーンランドの帰路米国の記者会見で感想を述べている。
(これまで、一つの挑戦が終るたびに満足しかねて、とうとう今回の極地旅行となった。現代の冒険には、知識としてわからないことは何もないが、私は自分の心を満たしたいのでやった。計画立案の段階で大ぷろしきを広げてしまえば、あとは引き返すことはできないわけで、これが私を駆り立てる力となった。
【周囲からの圧力】といってもいいが、それだけではない。今度の探険で私は使命を果たしたと思ったが、あとで冷静になって考えてみると、私は口ボットにすぎなかった。みんなの助言通りやったまでです。」
又、冒険に対する気持ちを次のように言っている。
「 私は意志が弱い。その弱さを克服するには、自分を引きさがれない状況に追いこむことだ。多くの方々から過大な援助と期待をいただき、自分の好きなことをやらせてもらうのだから、約束を果たさなかったら、みじめな存在になる。そうなると、少々 辛くても投げ出すわけにいかない。多くの人の支援は大きなプレッシャーだが、同時に自分の中の甘さを克服していくバネになると私は思っている」
これが本心とは思えない。大企業に【売ってしまった冒険】の商品となってしまった自分自身への言い訳けであり、余りにも大掛りとなって自分の手から離れた冒険の反省である。
旅費を節約するのでペルーの熱帯林からイカダを組み、パンツ一枚で南米の大河、 アマゾン川を下った六〇〇〇キロの旅に冒険旅行の原点がある。年令的にも一区切りをつけて、将来は北海道の原野で子供の野外学校を作り、自分の経験を伝えたいプランを抱き、最後の夢、南極への再出発の第一歩で不帰の旅に発ってしまった。いつかこんなことを言っていた。
「でも本当は怖いんです。たった一人で自然に挑もうなんて無茶な話ですよね。やっばり、畳の上で死にたいですね」と。
おりひめ第20号より転載
もう、あれから30年も経つんですね・・・
植村さん遭難の第一報を聞いたのは、当時親しくしていた探検部のTの下宿でした
植村さんの垂直よりも水平の冒険魂に憧れて探検部に入部した彼が
絶句して泣いた事を思い出します
おりひめ19-2 [おりひめ]
S先生が 再度、山とは直接関係ない名文を寄稿しています。
前の寄稿はhttp://blog.so-net.ne.jp/taku1toshi/2012-04-21
題して「ある青年教師の悩み」?
昔話をひとつ
私はどう考えてもネクラな人間のようだ。このところ身辺には落ち込むことばかり起こって、正直、陰陰滅滅としている。
思考の糸は未来に向かうことはなく、ひたすら過去に向かう。それも十数年前の学生時代に思いを馳せる。まるで救いを求めているかのように。
友人 Y との思い出を記そう。
Y は私にとっては畏友であった。つまらない講義などサボッて一緒に喫茶店で談笑するといった友人ではなかった。「あの先生の講義は最低だ。自分の著書を学生に買わせ、それをダラダラと読み進めるのがあの先生の講義だ。サボ夕ージュ、サボタージュリそういう友人ではなかったのである。 「つまらぬ講義だからこそ出席する そういう友人であった。
Y は強い自我の持ち主だった。自分の納得のいかないことに対しては、大勢順応な私などとは比較にならぬほどの拒否反応を示した。依怙地とほとんど偏執的とさえ見られる意固地さであった。
Y にはまた、確固とした独自の論理性があり、他人の介入を許す余地はなかった。
だから Y は、私たちのグループでは白眼視される存在だった。講義中でも、 Y は徹底して最前列の席にただ一人でぽつんとすわり続け、後列には私たちがすわった。
私は Y の物事に対する考え方、つまり Y 独自の論理性に興味を持っていた。いや、興味よりも羨望を待っていたといった方が正しい。
私は常に自分の論理性薄弱を意識し、劣等感に悩まされていた。友人たちとの交際で最も自己を主張する有効な手段は、それぞれの持っている固有な論理性だったのである。
私はその点において強く Y を必要としたのであろう。私は友人たちの「お前、よく Y と馬が合うなあ という言葉を尻目に Y との交際を始めた。交際してみて、やはり Y は尊敬に値する人物であり、 Y の論理性には頭をさげざるを得なかった。煙草をすわない Y は私の吐き出す煙にけむそうな顔をしながらも、私の持ち出す話題に対して、言葉少なではあるが的確に問題点を整理し明示した。
まことに恐れいった。客観的論理性よりも主観的心情的解釈を得意とする私はいつも聞き役であり、内心では自分の低能さを思い知らされていた。
ある時、 Y と何を話していたのかもう記億にないが、私はあまりの劣等意識のため、ついに Y に向かって、「ぼくは君を尊敬している。強い人間だと思う。自分の中に確固としたものを持っている。止直いって、うらやましい」といったことがある。 Y は黙ってジーの顔を見ていた。それから次第に視線を Y の組み合わされた手の方に向け、とつとつと話し出した。「おれはただ自分の思うこ
とを言うまでだし、また自分の弱さを痛いはど知っている。むしろ、お前の考え方がうらやましい。自由に生きている感じがする」
最初、私は聞いていて、 Y が私の劣等意識丸出しの言葉に対して、慰めの気持ちでいってくれたのではないかと思った。しかし、 Y の表情は険しかったし、 Y は Y 自身の心の中であれこれ自問自答しているとしか思われなかった。
私はそんな Y に、「ぼくがうらやましい?僕は大勢順応で、自分というものがはっきりしていないんだ」と言った。
その後も二人の会話は続けられたが、どちらも口数が少なくなっていった。かなり長時間にわたって話したはずなのに、 Yも私もそれほど疲れは感じていなかったようだ。
この日の Y との交際は、おそらく私にとっては史上で最も静かなものあったろう。しかし、史上で二番目か。三番目くらいに貴重なものであった。
なぜなら、この日、私は新しい発見をした。それは私がYの中に私自身を見たということである。あの強い人間であるYの中に、私のような弱い人間を見い出したのである。そして同じように、 Y も私の中に Y 自身を見い出したにちがいない。
以来、私の Y を見る目は変わってきた。今までの受身的存在から積極的存在へと変わった。 Y は私のそういった姿勢に対して、拒否するどころか歓迎するように思われた。 Y の私を見る目も変わったのでろう。
私たちはより深くお互いの中に一歩踏み込んだことになり、より身近な存在としてお互いを理解したのである。
「人間なんて、みな同じだ。そんなにちがうはずはない」 と言われればそれまでだが、しかし、私にとっては、あるいは Y にとっては確かに貴重な発見だったのだ。
陰々滅々とした現在の私の日常を、かっての日と同じように Y に話したら、 Y は独自の論理性でもって、どのように考え、どのような表情で私に向かうだろうか。人間は人間を完全に理解することは不可能であろうが、過去のある時期において、より完全に近い理解を経験し合ったと思われる
友人は、ただ笑って私を見つめるだけであろうか。
「おりひめ第19号」より転載
おりひめ19 [おりひめ]
おりひめ18 [おりひめ]
おりひめ17-2 [おりひめ]
おりひめ17 [おりひめ]
つまり、私の内部にある東京だ。
おりひめ16 [おりひめ]
巻機山とは古文書によれば、いつも雲が山の腰に巻く様にして懸っているので「巻幡山」と云う。幡とは雲の意である。幕末に著された「越後野志」には、巻機山‥‥‥「妻有二在テ信州二近シト。村人云、山中稀二美女ノ機ヲ織ルヲ見ル。因テ巻機ト名ヅクト云。」とあり、これが機姫伝説である。この「巻機」とは機を織って布を巻くの意であろう。
明治維新の神仏分離と修験道の廃止により、その中から発生した神道修成派は魚沼中心に隆盛をみせた。その中心人物が行者、平賀明心である。信仰登山が盛んになり、明治二〇年に石摺が神字峰に祀られた。この有相は戦前、割引岳山頂に移された。又、牛ケ岳の石摺は平賀明心師の従弟によって戦前に祭祀されたという。この一派は現在も魚沼に信者が多く、毎年じ月ニ二日に里宮の巻機山権現社(バス停脇の高台にある)で火渡の祭事が行われている。この日は夏季行事で山荘にいっているのだが、どういう訳かまだ見ていない。来夏はこの夜は酒盃など手にせず部落に降りて見ることにしよう。
おりひめ15 [おりひめ]
駒ケ岳という山は各地にある。北海道の大沼の駒、秋田駒は火山で高さも低いが、会津駒、甲斐駒、木曽駒はその地方の名に恥じね高山であろう。残雪時や雪消えの頃に駒の形が現われるので駒ケ岳と呼ばれる事が多く、越後駒も頂上付近に駒形をしたコマ雪がみられる事に由来する。
小倉山に合する駒ノ湯口は、急登できついが、下山では駒ノ湯で汗を流す楽しみがあるから自然と足も早くなる。駒ノ湯は建て替られて新しい旅館となってしまった。懸け出した屋根が傾き、虻がとび交う露天風呂の情緒が失われたのは惜しまれる。夏でもぬるく、すぐに上れない湯には変わりはないのだけれど……。
おりひめ14-2 [おりひめ]
「ゴー・トウ・タジ・マハール?OK ?」「イエス」「アイ・セイ。ウェイト・ユー。ジャスト・モーメント」二言、三言やりとりするうちにY氏が駆けつけ、六時三十分、ハイヤーはコンノット・ブレスを出発する。第八ラジアル・ロードからスーザン・ロードへ出てスピードを上げながらインド門へ向う。『 ゲート・オブ・インデア』 は、第一次大戦の戦没インド兵一万三千五百十六人の名を刻んだ、高さ四十Mのパリの凱施門によく似た形をした堂々たるものだ。
ここでしばらく車から降り早朝の冷気で眠気を醒す。早すぎてか広場の鳩も動きが鈍い。ひとしきり記念撮影などをし、所期の目的に向かって出発する。
それにしてもこんなに早く、夏時間制なのかな?細身のスラックスに紺の薄い布を首に巻いて、さっそうと潤歩する姿は、朝の爽やかさにふさわしく、フレッシュである。
った。運ちゃんいわく。「ワン・ルビース・ショウ」だと、車を止めて象の芸を見ると、一ルピーとられるのだ。例のコブラ・ダンスと同じ物だ。せっかくの異国情緒もぶち壊し。象が座ったり、ちんちんしたりするショーは、もうサーカスでお馴染みなので見なくてもいい。
中央の水路に沿って緑の植え込みが整然と並び、数百m の奥にその距離を感じさせない大きさで調和のとれた大理石のモスクがたたずんでいた。歩いている人間のなんと小さいことか!
左手の地下室の人口で不浄な革靴は脱がなければならない。代りに五十円(入場料の五倍)の借用料を払って、スリッパのようなオーバー・シューズに穿きかえる。
十一時過ぎ混雑はだんだんひどくなる。名残り惜しいけれども、そろそろ引き上げる潮時だ。
勲者のための広い表彰台があり、その奥に玉座がある。周囲の城壁は更に階段を昇って上に出ることができる。南の鐘廊へ行くと大きいヤムナ河の下流、遥るか彼方にさき程までいた壮麗な白い夕ジ・マハールが望見できた。
さかんに人だかりがするので行ってみると、裸で褌一つのインド人がいる。聞けば五百円で城壁から十数m下の河へダイビングしてみせるのだという。金のためとはいえ、命知らずがいるものだ。水に跳び込まないうちに途中で、窒息するのでは?金をとられないうちに退散しよう。
ハイヤーでタジ・マハールを往復する客だからよほど金持ちとみたらしい。しかし主人の名刺をもらったきりで外へ出る。
うす暗い街路の真中に色とりどりの日用品雑貨や食べ物・果物を並べた屋台が裸電球に映し出された市場があった。一番はずれへくると何やらタバコらしいのが売っている。小指位の長い円錐形でカシワの葉?を丸めたようなものだ。これをさらに十本束にし、赤か緑の粗末な紙で包み、丁度クリスマスのクラッカーそっくりの形をして売っている。「ウオット・イズ・ゼス?」「オー・ゼス・イズ・タバッコ・ユー・テスト?」と一本火縄で火をつけてくれた。吸ってみると軽くてほとんど煙の味がしない。好奇心も手伝って、「ナイス・グッド。ハウ・マッチ」「ゼス・ワン・イズ・テンパイサー」一包五円である。早速三ケづつ買う。よくみるとインド人は大抵これを吸っている。これが羽田空港の税関で今流行のマリハナと間違われ、三十分以上足止めを食う原因になろうとは夢想だにしなかった。
バスの黄色い窓明りが無性に日本を想い出させる。三人のインド人が乗り合わせ、鈴木氏がその客の世話をしていた。
生木で歯をみがくとは妙な習慣があるものだ。本当に歯をみがいているのか、或るいは何かいい香りでもでて、楽しんでいるのか、さかんにゴシゴシ、ペッべッとやっている。何かのまじないなのかもしれない、我等の名ガイド・ドルジェ君がいれば忽ち得意気に名調子で説明してくれるのだが…… 。彼はもういない。ダージリンへ無事着いただろうか?
機は一路東へ向って飛び立つ。空はもう白み始めた。真直ぐ飛べば、ヒマラヤが見える筈だがそれは希望的観測にすぎない。いったんべンガル湾の洋上へ出て東進する。
錯覚をおぼえる。島へつくと大きなビルが頭上を被うようにせまってくる。日射を遮え切るテント張りのポーチの歩道へ出ると、すぐタクシーがやって来た。ホテルの交渉をする。北緯二十二度の南国では九月末だというのに、まだやけに日射が強烈だ。残金はもう全部空港で香港ドルに換えてある。エアコン付きの安いホテルがあるというので案内させて行ってみることにする。雑居ビルの二階の奥に大きな扉があった。その扉の奥がホテルなのである。ホテルというより貸し部屋といった方が正しい。
きすが世界の香港だ。ビルの中に縦横に通路が走り、時計・カメラ・貴金属・衣類・世界一流の商品が溢れんばかりに並んでいる。純金の指輪・腕輪がまばゆい。さすが免税の偉力がうかがわれる。
通路がビルの中なのか、外の道路なのか区別もつかない。
最も賑やかなここ、セントラルはビクトリャ・シテーともいわれ、
香港のメインストリートですぐ隣りに銀行街がある。
看板の字は、今までの横文字にくらべようやく縦書きの漢字が多くなり、なんとなく親しみを感じてほっとした気分になる。
なので山で鍛えた足を活用しよう。
二十分も島内の奥の方に向って歩くと、もう細い登り坂の道になり、難民の雑多なバラック建ての場末に行き当ってしまった。
昼めしはそれらの一軒へ入り、あっさり毎度のチャーハンとスープにし、帰途象牙製の扇や、ソファーの背当てを購人する。
なんとしてもそれまでは、綿密に計算せねばならない。仕方なしに安い五分床屋に入る。
九月二十四日。出発してから丁度二ケ月目、香港を出発する。
おりひめ14 [おりひめ]
おりひめ13 [おりひめ]
おりひめ12 [おりひめ]
そう、私があの頭でっかっちで不格好なキャラバンシューズを何気なく友達から二百円で譲ってもらったのは、十一年前の教職に就いた年でした。登山をする目的や意志を持っていた訳ではなかったので仲間や生徒が貸してくれと言えば、気持ちよく靴に貫禄がつくから、いいや!程度で転々と人の手に渡り靴だけは持ち主より色々な山の経験をし箔をつけていたのです。その貫禄だけは一人前の靴を履いて名誉ある東高の山岳部の仲間に入れてもらい山行をするなど考えてもみなかった事です。
無知ほど恐いものは無いとよく言われるが、まさしくその通り、H先生、R先生の素晴らしい人柄に惹かれたのと「年に二回程山行をしてくれれば良いし、女生徒に女の先生が必要な時もある」と甘い言葉を囁かれ(?)自分も田圃で鍛えた太い足(特に太もも)があるから(私嘘言わない・・・今度みてね・・・ただし女生徒のみ)でも結局は皆さんにご迷惑をお掛けする事になってしまい本当に申し訳なく思っています。
情熱を内に秘め、いつも優しい笑みを浮かべているTさん、不言実行の人ですね。カツカツと女医のように廊下を歩くEさん、テキパキ指導をする姿をみて圧倒され尊敬していました。私にとっては色々勉強させて頂き有り難くまた、私の青春(~のつもり)の異色の思い出に、良かったと思っていますが、お二人にとっては、どんなにか疎ましかった事でしょう。一年間でしたが本当にありがとう。でもこの原稿を催促されている時は恐怖の三年生でした。
恐怖と言えばやはり八海山の初めての岩登り。私の人生であのような真面目な顔をする事はこの先ないと思う程、真剣でした。ここで滑り落ちたら三十過ぎた女が何の気を起こしたんだと笑われてしまう、また、山岳部に迷惑をかけてはいけないと必死でした。それだけに登りきっての山々の眺めは言葉では言えない。狭いピークで立って眺めるのは情緒不安定で、どっかり腰をおろして満喫しているのにミヨちゃんたら!ああ、今思っても精神衛生に良くない・・・・・・。帰宅は遅くなり御父兄には心配をお掛けしたが八ツ峰を攀り通し感慨無量です。とにかく脱落しないようにと軽量化を計りすぎて電池をも省略し、S君にも迷惑をかけてしまいましたね、君と握手した時のあり難かった事は一生忘れないでしょう。
こうして考えてゆくと懺悔しなくてはならない事ばかりです。インターハイ予選の守門岳も夏山合宿も良かった。笹ヤブの辛かった事、そして稜線に出た時の嬉しさ、イワ桜の愛らしさ。一つ一つ感激でした。それにしても小兎岳付近で幕営した所のお花さんには可愛そうな事をしたと心が痛みます。雪渓の所で小休止し雪取りしている皆の姿がガスでボンヤリしていた光景が今でも幻想的に思い出される事です。駒の湯、ぬるくて楽しくて一時間もはしゃいでしまった。朝、陽光に照らされた駒ケ岳を下から眺めた時は、胸がキュンとした。本当に山の素晴らしさを味わせてもらい感謝している次第です。
来年も許されるならば仲間に入れて頂きたいと思っています。
二年生はチームワークの良さで、さらに素晴らしい山岳部に発展させる事と思っています。
おりひめ第12号より転載
美人薄命を地でいくかのように先生はマンモの病で夭逝されました。病院へは旦那様が運転する車で通われ、お見かけする時はいつも凛とした着物姿でした。余命を覚悟してお洒落を楽しんでおられたんだ・・・今思うとそんな気がします。