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おりひめ10 [おりひめ]

ヨシゾエ先生、この年の春に新高へ転勤となり「おりひめ」最後の寄稿となります。

山への慕情

 私が今年の元旦に心の通う人に出した賀状に次のような拙い句を載せた。

 「過ぎし日の ヒマラヤを夢み 今はたゞ 熱き想いを 絵筆にたくして」

これは昨年の八月の下旬に心の故郷なる清水山荘で、ふとしたはずみから肋骨を四本折って一ヶ月余りにわたる病床生活を送り、その後も患部の痛みで登山らしい登山は勿論の事、少しの運動さえも出来ない身体になり、山への思慕の念をひたすらこれまで登ってきた数々の懐かしい山(この句ではヒマラヤとなっているが、それはこれまでの山々の象徴的表現なのである)を描くことによって山への情熱の鉾先をかわし、追憶の中に過ぎし日の己の姿や山を思い出そうとしている、この頃の私である。

 「熱き思いを絵筆にたくして」などと書くと如何にも、すらすらと素晴らしい絵が次から次へと出来上がっていくようだが、まさに悪戦苦闘の連続なのである。池上画伯の研究室で七名の同好の先生方が唸ったり呻いたりの連続なのである。私はこの苦闘の渦巻のような研究室で、これまで漸く三枚の油絵を描きあげた。

 一枚はヒマラヤからの帰国直後より描き続けていた、ティアンボチェのラマ寺院とアマ・ダブラムである。これはヒマラヤの風景の中で、写真や絵画の対象になる最高のものである。これはヒマラヤ写真集の中に必ず見かけるものであるし、私達(ホンマ先生、Y嬢、私)がパンジャブ・ヒマラヤ登山後、ネパールの首都カトマンズにある政府のツーリスト・ビューローでポカラへの航空便の交渉に行き、この風景の三十号位の油絵(勿論ネパール人でなく相当高名な外国人の描いたものであろう)が正面の壁に掛かっているのを見た時に一度是非描いてみようと決心したものである。

 二枚目は秋の巻機山である。我校のホームグランド的な存在である巻機山は、四季を通じて四十回も登っているし、何百回も眺めていて隅々まで知り尽くしているので、さぞ簡単に描けるだろうと思ったが、知り尽くしている山だけに実に描きにくいものである。中央に位置する天狗岩一つとってみても、まさしくその通りなのである。実際に登っているだけに一層始末が悪い。あの峻険にして厳しいスラブやオーバーハングや岩稜を、自分の納得するまで表現する事が如何に困難であるかをイヤと言う程知らされた。

 三枚目は、私達の登ったパンジャブ・ヒマラヤのAC3から眺めたラダキー・マナリー・マッカルベーの六千米級峰への鋭い山稜と遠く雲海の上に浮かぶデオ・テバヤイデラサン峰の雄姿である。これも実際、目にしているだけに、岸壁や氷壁の凄味、迫力を現す色彩に、実に苦労させられた。特に岸壁の色については悩みうなされ夜中に何度目を覚ました事であろうか。人が聞いたらあきれ軽蔑する事であろうが、これも自分で登ってきた山への愛情でありその美しい姿を出来るだけ美しく表現したいと思う。アルピニストの切ない悲願なのである。

 次に描きたいと思っている山は、勿論谷川岳である。この山も巻機山と同じく余りに沢山登り、余りにも心に残る思い出が一杯なのだ。その厳しさや鋭さや深みを表現し得る自信がないのである。十数年前、一ノ倉と南面の幕岩の遠景を一枚ずつ描いた経験はあるが、いずれも納得出来ない代物で終わった。しかし、いずれも当時の卒業生に無理に所望されて手放したが、出来れば取り戻して書き直したいと思っている。私はこれまで谷川岳を描いた沢山の有名無名の人の絵を見て来ている。酷評かもしれないが、たった一枚の絵を除いては、すべて張子の壁であり、貼り絵の境を出ていない愚作である。

谷川岳特有のあの非情なまでの厳しさや、鋭さや、激しさがないのである。実に、描くには難しい山である。私の絶賛したただ一枚の絵は、今は亡き高名な山岳画家である足立源一郎作の南面を谷川温泉から眺望した絵である。私はその絵を十五年前、ヒツゴー沢と思って誤って入った悪絶のオジカ沢を雨と激流に苦しめられ、全身びしょ濡れになりスリップして重傷を負ったO嬢を庇って一晩ビバークの後、二十時間という気の遠くなるようなアルバイトを強行の末奇跡的生還をして、谷川温泉の谷川山荘なる旅館に倒れるように辿り付いた時、玄関の正面の壁にその絵を見つけ、魂が引き込まれる様な思いで無言のまま見入った事を覚えている。

私はその後、その時の感動を新たにすべく一人でその山荘を訪れたが、その絵は源一郎氏の死後、やはり山岳画家である息子さんが訪れ、譲り受け持ち帰ったと聞きがっかりしたが、実に迫力のある素晴らしい絵であった。

 私は、この原稿を書くのに少しでも参考になったり、心の思いでを甦らせてくれればと思って「おりひめ」をめくってみたのであるが、谷川岳に関する私の記事は殆ど載っていなかった。それもその筈なのである。私が谷川の岩場を最も意欲的に果敢に登っていたのは、今から十五年前の昭和三十五年から四十年の期間であったから。その当時の登攀記録は東高OG山岳会誌「ピッコロ」の初期のものに総て掲載されてある。谷川岳の最後の岸壁登攀となった一ノ倉沢三ルンゼの記事の最後の一部を紹介すると、

「・・・その地点からシンセン尾根までは、傾斜六十度位のホールドやスタンスに富んだ快適なスラブをスタカットでどんどん高度を稼ぐ。遂に待望シンセン尾根に着く。極度の緊張感から解放されて、その場に倒れたい誘惑にかられる。その場で写真を四、五枚撮り、苦闘のルートを俯瞰する時、胸がジーンとして話す事も出来ずザイルを解き、ループにして肩に担ぎ、青空とスカイラインを割する国境稜線を目指して急峻な草付きを一気によじ登る。時まさに午後四時、朝七時にテール・リッジに取り付いて、七時間にわたる生死を賭けた登高であった。太陽の光溢れ、春風頬をくすぐる国境稜線で我々二人は声もなく抱きあっていた。感動の嵐が体内を駆け巡り、目が霞み溢れ出んとする嗚咽を歯を喰いしばって耐えるのがやっとであった。何も口に出して話し合う必要はなかった。登攀前に心に描いた演出など全くつまらない俗物の思われた。芸術的なすっきりとした登攀、そんなものはどうでもよかった。唯この山頂に、生きて立っている事だけで充分であった。私の三十七才の生涯で、これ程純粋にして真剣な行為や感激があったであろうか。

また今後二度と有り得るであろうかと思うとき私は、湯檜曽川のシルエットを投げかけ始めた谷川岳に向かい『私の青春の総てを捧げた谷川岳よ!さようなら!!永遠に清く美しくあれ』と心の中で叫んでいた。」

この一ノ倉三ルンゼ登攀を最後の岩壁登攀とする事を心に誓った。

しかし五年後の四十五年のヒマラヤ遠征登山に備えて、トレーニングを兼ねてまた岩場を登るはめになったのである。

 私の長く苦しい岩壁登攀の歴史の中で最高の苦闘と思い出に満ちたものはこの一ノ倉三ルンゼであり、これが真の意味での岩壁登攀の終焉でもあった
衝立.jpg

 生涯心の中で生き続ける、この谷川岳の美しさと思い出を一枚の油絵として描きあげる事は、たとえそれが不作にして未完に終わろうとも、老いたアルピニストの悲願であり、慕情なのである。

そうして心の山、谷川岳を描き上げた後は、これまで遍歴した山々を描くべく最小の登山装備をザックに詰め、絵具箱を肩にかけ、キャンパスを腕に抱えて、残雪の山並みを、新緑のブナ林を、黒光りする岸壁を、紅葉する峠の山道を、落ち葉散る渓谷の清流を、そうして吹雪舞う山里を旅心と画心の趣くままに彷徨に歩いてみたいと思っているのが、この頃の私の心境である。


おりひめ第10号より転載

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