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おりひめ16 [おりひめ]

越後三山を載せて巻機を載せないと織姫が機嫌を損ねますので・・・

越後山岳誌・巻機山

毎年必ず訪れる山がある。巻機山である。春山合宿、夏季行事、米子沢、送別山行に春の総体一次予選会=技術講習会と秋季大会で山には五回登った。清水山荘があることにも因るが、高体連の大会が毎年といってよい程、この山域で開かれるために訪れる機会か多くなる。

 
上越線の車窓に越後三山がそれと分かる姿を写し、その奥に幾つもの白い峰を連ねる稜線が巻機から谷川まで続く上越国境の山並である。優雅で最も高いのが巻機連峰である。

 
六日町から国道一七号線と分れて登川に沿って走る道路が国道二九一号線である。今でこそ改修された立派な無雪道路であるが、十年前までは沢口を過ぎると杉林の中を九十九折の砂利道をバスは重い音をたてて登っていったもので、蟹沢から二子沢の橋までの山里には勿体ない広い直線の舗装道路を通ると隔世の感がある。

 
二九一号線に沿って流れる登川は魚野川の支流で、朝日岳に源流を発し上越国境の桧倉、柄沢、巻機の豊富な雪解水を集め、大源太の水は丸沢となって謙信尾根の手前で合流する。丸沢出合でハ00M、沢口で三八〇Mとこの間は急流で岩を噛み、岸を挟り、深い谷を刻んで一気に北流する。沢口をすぎると流れも緩くなって下長崎の扇状地を作り、三郎丸(一七〇M)で魚野川に注ぐ。蟹沢あたりからは川沿は耕地整理された水田か拡がるが、水田は一枚毎に段差があり畔に巨礫がみられるのは急流で荒れ川であった証しであろう。

 
登川の最奥の部落が清水である。六日町よりバスで五十分、バス停先の神社下が標高六〇〇Mの山間の集落である。集落が続いている沢口より約六㎞も離れ、山間部に隔絶した山村には集落形成時に謂れがあるが、この清水も例にもれない。

 
清水の歴史も古く、およそ九百年前に安倍貞任の子孫が上州湯桧曽に落ちのびて、その一部が国境を越えてこの地に入ったと伝えられている。安倍貞任は平安中期の陸奥に勢力をもっていた豪族で、俘囚の長である。俘囚とは古代に律令国家に帰服した蝦夷で、中央政府は首長に爵位を与え懐柔したが、九世紀以降弾圧政策をとったために反乱か絶えなかった。藤原氏の摂関政治の全盛期、一〇五一年に貞任は父、頼時と前九年の役をおこした。この乱は俘囚の乱としては最大で最後の乱であったが、六二年、源頼義、八幡太郎義家の討伐をうけて衣川に敗死した。衣川では戦の最中に、義家が詠んだ「衣のたては綻びにけり」の下句に「年を怪し糸の乱れの苫しさに」と上句をつけたと云う逸話は有名である。

 
清水部落の戸数は昔から二十八戸と変わらず(最近、二戸減少したと聞く)明治の国道開設時に移って来た小杉姓が一戸ある他は、この安倍貞任の子孫と言われる阿部姓(本家はバス停脇の「和泉屋」)と京小野塚と言われる小野塚姓(本家は民宿「おのづか」)が二分している。京小野塚とは木曽義仲に追われた小野塚太郎良房であり、詳細は知らぬが出身地が京都の清水と云われる。

 
地名の由来は、京小野塚の出身地に因んだ説と、「将門の乱」で知られる下総の平将門一族が上野吾妻からこの地に着いた時、清水が湧いていたという落人伝説かおり、「温古之栞」 (明治中頃の雑誌)には「清水入の家数は二十八軒……村際の清水は二間四方の井壷より噴出し滝の如く流下し矢の走る如し。村名の名称之に起る」とある。その名の通りここの水は美味い。夏まで消えぬ雪渓と花崗岩から湧き出して来るためであろうか。山荘の水で茶をたてると言って、水筒に詰めていく顧門の先生がおられる程である。

 
巻機山は標高一丸六七M。二千Mに僅かに及ばぬが越後駒、中ノ岳から谷川連峰の茂倉岳の間では最も高い。麓から眺めると独特の姿をみせる天狗岩の右に、しまりのない前巻機が広がって頂上は望めない。

 
前巻機(一八六一M)は尾根道のハ合目で急斜面を登り切って頂上かと思うと、米子沢の源頭を隔てたむこうに頂上が見えてガックリするので偽巻機とも呼ばれる。「偽巻」の方が通りがいい。それにしても偽巻機とは気の毒だ。もっと相応しい名称はないものだろうか。
 巻機山とは古文書によれば、いつも雲が山の腰に巻く様にして懸っているので「巻幡山」と云う。幡とは雲の意である。幕末に著された「越後野志」には、巻機山‥‥‥「妻有二在テ信州二近シト。村人云、山中稀二美女ノ機ヲ織ルヲ見ル。因テ巻機ト名ヅクト云。」とあり、これが機姫伝説である。この「巻機」とは機を織って布を巻くの意であろう。

 「温古之栞」には「南魚沼郡姥沢人の深山なる巻機山は牛が岳、鶴ケ岳と並び、上野国に近く其辺の高山にして木材と薬草に富む。上古より神山の称ありて元文(一七三六年)頃まで樵夫も頂上へ登る事なかりしといふ」。魚沼では古くから知られ「神山」と呼ばれていたから山岳信仰に関係があったと思われる。しかし山岳信仰では、中世以来のハ海山ほどの歴史はなく、魚沼の農山村の人々か信仰と登拝の旅に出掛ける様になったのは江戸中期以降ではなかろうか。
 明治維新の神仏分離と修験道の廃止により、その中から発生した神道修成派は魚沼中心に隆盛をみせた。その中心人物が行者、平賀明心である。信仰登山が盛んになり、明治二〇年に石摺が神字峰に祀られた。この有相は戦前、割引岳山頂に移された。又、牛ケ岳の石摺は平賀明心師の従弟によって戦前に祭祀されたという。この一派は現在も魚沼に信者が多く、毎年じ月ニ二日に里宮の巻機山権現社(バス停脇の高台にある)で火渡の祭事が行われている。この日は夏季行事で山荘にいっているのだが、どういう訳かまだ見ていない。来夏はこの夜は酒盃など手にせず部落に降りて見ることにしよう。

 
雪国の文人、鈴木牧之の「北越雪譜」には巻機連峰の破目山(われめきやま)が記されている。「魚沼郡清水村の奥に山あり、高さ一里余り、周囲も一里余り也。山中すべて大小の破隙あるを以て山の名とす。山半ば老樹枝を連ね、半ばより上は岩石畳々として其形竜躍り虎怒るが如く奇々怪々云わべからず。麓の左右に池川あり合して滝となす、絶景又言べからず」

 
この破目山は天狗岩(一五七八M)と思われる。文中の表現は天狗岩そのものであり、「左右の流川」は割引、ヌクビ沢で「滝」とはアイガメの滝である。牧之が巻機に登ったかは定かでないが、清水から眺めると巻機連峰の中では最も目立ち、特異な形状の岩峰であり、割引岳からの尾根を鉈で断切った様な正面壁は冬も雪がつかず「黒ツブネ」と呼ばれる。「百名山」の深田久弥は、測量時にワレメキ山を見聞き誤りワリビキ山として地名を付けた説を述べている。実際、深田説の如く天狗岩の左後に割引岳の三角錐の鋭峰が重ってみえ、測量時の錯誤も致し方ない。全国各地にはこの様に地元の呼称と異なる地名が付けられている例は多い。」

 
ヌクビ沢を詰め、稜線の鞍部から割引の頂上は一投足なのだがなかなか辛い。息を切らせて頂上を踏むと、南を巻機主峰で遮られる外は上中下越と会津の山々が展開する眺望が待っている。標高一九三一Mの山頂は碗を伏せた円頂で、三角点の石柱の傍に巻機大権現の石祠が祀られ山岳信仰の隆盛が偲ばれる。割引岳の三角点は県内では数少ない一等三角点の本点で、全国に三八九点、県内には十二点が置かれている。四〇~五〇㎞の三角形の網目に一ケ所設置されて測量の重要なポイントである。割引岳の他には妙高、越後駒、浅草、米山、日本平、弥彦の多宝山と見通しがよい著名な山頂に置かれている。残り五点は佐渡に二点、粟島の灯台、中条の朴坂山と新潟の松ケ崎である。」

 
割引岳のピークは山容や三角点からして登った実感が味わえる。これに対して、主峰巻機山は峰もない平頂で三角点も置れていないため、山頂が明確でない。標高の最も高い地点はどこか、と二万五千の地形図でみると、群馬、六日町、塩沢の境界点から西に二〇〇M寄った縦走路脇に一九六七Mの標高点が印されている。ちょうど偽巻機の正面の右寄が頂上にあたる。

 
夏季行事では、ヌクビ沢の鞍部から稜線の緩い登りを終えた縦走路との分岐点の広場で巻機山登頂万才!をやる。成程、標柱が立っているけれども正確に言えば頂上を踏んだことにはならない。毎年何回か登っているが、「頂上」には登っていない事になる。どうしても頂上を踏みたければ重い足を引きづって四〇〇Mは歩かなければならないのだ。そんな些細なことはどちらでも良い。平頂の北端に足跡を残すだけで充分である。最近は偽巻機で山頂を眺めて戻ることが多くなった。

 
実にいい山なのに最後の頂上だけが登り甲斐のないのが借しまれる。
 
この様な巻機山に対して、割引岳は麗から望まれる鋭峰の山容や山頂からの眺望が申し分ないのに、標高が主峰に僅かに及ばないので、その点を「割引」いた、として付けられた山名でないかと思うのだが・・・。

 
なぜ、巻機山の頂上は平坦なのだろうか。今から六五〇〇万~二〇〇万年前は地質年代で第三紀と呼ばれる。第三紀はアルプス、ヒマラヤ、ロッキー、アンデスの大山脈が形成された時期で、日本列島も激しい地殻変動がみられた。第三紀後牛の中新世=二六〇〇万~七〇〇万年前にかけて、著しい火山活動がおこった。続いて沈降が始まって千~二千Mの厚い緑色凝灰岩が堆積した。これが有名なグリーンタフと呼ばれている火成岩で、東北日本の脊梁山地、裏口本の山脈、富士山周辺などに広く分布している。この頃、糸魚川から静岡にかけて断層か生じてフォッサマグナが形成された。この火山活動に続いて大海進(海面の上昇)がはじまり、日本列島の大半は海没し、日本海も生まれた。

 
中新世後期になると、今度は広域にわたり隆起して造山運動が起り、現在にほぼ近い陸地を形成した。この造山運動で奥羽山脈、出羽山地、越後山脈、三国山脈そして関東の丹沢山地が生まれ、第三紀末まで隆起を続けた。この造山運動はグリーンタフ造山運動と呼ばれる大規模なもので、アルプス造山運動と比較される。

 
海進の時期でも越後、三国山脈は海没せず陸化していて侵蝕を受けた。その後の造山運動で著しく隆起するが、この地域では只見川、魚野川の侵蝕作用が勝って、直線状の深い河谷を刻んだ。しかしこの隆起も一気に起ったのではなく、間歇的に起ったために隆起が停止した静止期は侵蝕をうけて平坦地が作られ、尾根や稜線、山頂に平坦面が残されたのである。

 
この周辺で平坦面をあげると、千九百~二千M前後では巻機山、牛ケ岳、朝日岳、越後三山の中ノ岳、それに平ケ岳の各山頂と多くを数え、干五百~千七百M前後では七ツ小屋山、蓬峠、清水峠、巻機山では七合目の物見平、天狗尾根の天狗池があげられる。この様な平頂山嶺がみられるのは早壮年期山地の特徴であり、越後、三国山脈はまだ若い青年の山なのである。

 
更にこの尚辺の山地は、我が国有数の豪雪地帯で積雪も四Mを越え、一晩でIMものドカ雪に見舞われるのも稀ではない。沢筋は雪崩の巣となり、雪溶けの晩春まで危険に曝される。北西の季節風は東~南側に大きな雪庇をつくり、春先にかけて稜線から崩れ落ち、山肌を削り岩壁を磨く。越後側が穏やかな藪山であるのに上州側は稜線から一気に薙落した岩壁が続き、非対称山稜をつくった。谷川防、一ノ倉の岩場が好例であり、土合側の東面はこれが二千M級とは思えない壮絶な岩壁が天空を遮り、穂高、剣と並ぶ岩と雪の殿堂として知られることは、ここに記すまでもない。

 
巻磯山から南へは、米子頭、柄沢、松倉、大鳥帽子と千八百~九百Mの稜線が続き、主稜は更に朝日、笠から白毛門へと延びる。ジャンクションの分岐から県境の稜線は高度を下げ、清水峠と七ツ小屋山をはさんで蓬峠と二つの鞍部となる。蓬を越えると笹の茂る稜線は式能から茂倉・一ノ倉岳と再び二千M級の岩稜を連ねる。

 
清水峠は三国峠と並ぶ上越を結ぶ主要路であった。鎌倉末期に勃興した新田氏と関係深く、南北朝の頃、三国峠と共に開かれた。一三三三年、上野で新田義貞か挙兵した時、越後の新田一族がこの峠を越えて加勢し、北條一族を滅ぼしたと云われる。戦国になって上杉謙信は関東の北條氏と争い、しばしば、関東へ進撃している。文禄三年(一五六〇年)、謙信は関東からこの峠を通って帰陣した。とあり、清水峠は「直越」=すぐごえ(「上杉記」)、「直路」=すぐぢ、「湯漬飛楚越」=ゆのひそごえ、又は「馬峠」などと呼ばれていた。

 
謙信は関東への通路として、三国峠も通ったが、難路の清水峠を採ったのは上越の春日山から関東への最短経路であったためである。松之山街道から十日町を経て、六日町に出て清水街道を南下して清水峠を越えた。「直越」とか「直路」は最短経路を意味している。後になって、これに囚んで峠の北尾根は「謙信尾根」と呼ばれたが、軍勢を率いて人馬一体となり、あの急登を越えたのであろうか。又、清水から上州水上の藤原まで十五里あったので、十五里尾根とも言われる。

 
清水峠は軍争上、重要視され、謙信は坂戸城の出城、「清水城」を築いている。活水城は志水城とも書き、謙信の部将、長尾伊賀守の持城であった。峠を挾んで関東の北條氏との戦いか繰返されたらしい。

 
一方、信越の覇を競った謙信、信玄の対決は風雲急を告げ、川中島の合戦(一五五三年から六四年にかけて五回)がはじまる。合戦になってから、謙信は軍事上からこの峠の通行を禁止し、清水に関所を設けた。関所はバス停脇の「和泉屋」のところに置かれ、城主長尾伊賀守を取締の任に当らせた。

 
つい最近まで清水城は、威守松山周辺の尾根にあった見張小屋の館程度と想像していたが、そうではない。清水城址は、部落から街道を南へ〇・四K行った、柄沢山北西尾根の上に本丸跡がある。かなりの規模の山城で、ここからは街道と峠が一望され、動勢をつかむのに絶好な地であった。

 
謙信の死後、代を継いだ景勝は越後をまとめるが、慶長三年(一五九八年)会津に移封された。堀秀流入封後は、清水城は廃城となり、関所は国留番所に替った。国留番所は関所と同じ所に置かれ、江戸時代には年貢に苦しむ農民が脱出、又は関東から潜入するのを防ぐため峠の通行を厳しく監視をした。この番所は明治三年に廃止されるまで存続したが、三国街道に宿場が設けられ、越後の大名が参勤交代で通る表街道であったのに対し、清水街道は間道にすぎず、華やかな舞台には登場しなかった。

 
明治になって清水峠越えの新道開発が日の目をみて、明治六~七年に開発工事が行われ、政府の本格的工事は明治十三年から十八年まで六年の歳月を要して完成した。同年九月の開通式には北白川殿下、山縣有朋、新潟、群馬県知事が湯桧曽村に参列して馬車三台と人力車百輛の行列を呈したと伝えられる。開通後の明治二十二、三年頃は群馬への出稼者が一日に七〇人往来し、人力車百輛が動いたといわれるが、冬季は交通が途絶し、豪雪によって崩壊され、次第に衰退の一途を辿らざるを得なかった。

 
明治政府がその重要性を認め、長い歳月と莫大な費用をかけて建設した新道は、いわゆる旧道で土合側ではマチガ、一ノ倉、幽ノ倉、式能沢と大きな沢を迂回し、等高線に沿って走る側の道である。随所に切石を積んだ石垣が残っている。そして湯桧曽川沿に白樺尾根まで続く新道が、その昔の清水街道にあたり、新旧が逆に呼ばれているのは谷川岳開拓期に入った登山者が勘違いしたのではないかと思われる。

 
清水峠越えに再び開発の手が加わったのは、戦前の送電線建設工事である。信濃川の豊富な水力に目を付けた国鉄が、東京周辺の電車動力に利用する計画を立てたのは大正年代であった。計画は大遅に遅れ、昭和六年、中魚沼に千手発電所の工事か着工され、同十四年に第一期工事が完成し、送電が開始された。高圧の送電線は、十日町の対岸から魚沼丘陵をこえ、六日町から清水街道沿いに走り、清水峠を越えて東京までおよそ二〇〇㎞、送電される。

 
更に戦後、千手の下流に小千谷発電所の工事も開始され、昭和二十六年に二本目の送電線が峠を越えた。両発電所とも最大十二万Kwの発電力で、完成時は国内最大の出力を誇っていた。

 
峠越えの送電線工事では、古い清水街道、旧国道が各所で役に立ったのは言うまでもない。峠には「雪崩見張所」が置かれ、近年まで職員が常駐して送電線を守っていた。

 
戦後、著名の山々が観光開発の波に洗われて、北アルプスをはじめ、南ア、谷川岳にもロープウェーか掛かり、スパー林道が高山を走る様になった。「上越の知られざる山」として紹介されて以来、巻機にも多くの登山客が押しかけて来る。芽葺屋根が軒を並べた清水部落も、カラー鉄板の屋根に替り、民宿の看板が目立つ昨今である。

 
春の巻機、夏の割引、ヌクビ沢、秋の米子沢、早春の山荘と四季を織りなす巻機山はすばらしい。豪雪に埋まれた今冬、山は清水とともに眠っている。
IMG_0029.jpg


おりひめ第16号より転載
感想:清水ってそんな歴史と伝統のある部落だったという事がよく分かるR先生の素晴らしい講義でした。

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