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おりひめ28-2 [おりひめ]

手持ちの【おりひめ】最後の登場はW先生
今年の小屋開きには日帰りで参加してくださいました。

県大会から全国大会へ

 

前年の 10 月に新潟高校で、登山部の顧問会議が開かれた。
この会議ではその年の活動報告とともに、次の年の活動方針が議題となる。最後に、翌年度の大会の割振りがあって、大会運営にあたる主管校が決まる。大会のおおよその期日と会場に使う予定の山の名前も発表される習わしになっている。
現在、新潟県高体連登山部は、加盟校の数に基づいて県内を 4つの地区に分けている。上越、中越、下越、新潟。
この地区割は、昭和61年度から実施された。これ以前は A 、 B 、 C と 3 つになっていた。
3 地区の分け方は複雑で、長岡の学校が上越といっしょにAであるのはよしとして、魚沼が三条・加茂とともにBになっていた。
今は、魚沼と長岡、それに三条・加茂の4つが中越地区です。大会は、4月中・下旬の総体 1次予選(技術講習会)、 5 月中旬の春季大会、 5 月の終わりから 6 月のはじめにかけての県総体(県大会)、 9 月中・下旬の秋季大会(県大会)と 4 つある。

顧問会議で、どの大会を引受けるかの話し合いになると、なぜか秋の大会がもてもてになる。秋季大会なら主管校になってもいいという立候補が出る。
逆に、県総体だけは遠慮したいという雰囲気もある。県総体は 2 泊3日で、しかも審査がついてまわる。

総体1次予選は、新学期そうそうのことでもあり、 2 ・ 3 年生が対象であっても、準備が大変である。
春季大会は、初めて山に登る 1 年生が参加するため、 1 泊 2 日であっても大会が終わるまで緊張が続く。
秋の大会の運営希望が多くなるのも納得出来るでしょう。この会議のあった日は、丁度石川国体の最中でした。石川から戻った翌日、巻機山周辺で県総体をやるようにという連絡をもらいました。
裏巻機を中心に検討してみては、といっています。
しかし、地図を広げてながめても、 2 泊目の幕営地の目途がまったくたちません。
清水峠から巻機山に至るコースは、大いに魅力的ですが、大会で使うとなると道の整備が必要です。
4 年前に三条工業高が、県総体のコースとして第 1 次候補にあげて検討しましたが、道の整備が出来そうにもなく断念しています。
方針を、今まで大会に使っていないコースを設定する、に変更しました。

三条工業高の吉田光ニ先生と相談して、候補地を谷川岳に絞りました。三条工業高が 4 年前に主管した大会では、谷川岳が会場になりました。群馬県の土合駅から入って、白毛門山に登り、笠ケ岳、朝日岳を経て、清水峠に抜けています。今回は、まったく新しいコースとはいえませんが、新潟県側の土樽から茂倉岳に登り、武能岳と七ッ小屋山を越えて清水峠に至るルートを考えてみました。
武能岳を下ったところが蓬峠です。この峠からは、土樽へ下りる道と土合に下がる登山道があって、どちらも避難路として使えそうです。
 6 月の初めの頃は、 2千m の山の上では、天候次第でまだ油断が出来ません。悪天候に見舞われて、予定通りに日程が消化出来そうもないとき、避難路が確保されているのは、何とも心強いものです。この年の県総体は白馬岳で行われましたが、 2 日目は雨と風で出発時間を遅らせて、なおかつ登山行動を午前中で打ち切りました。
この日は白馬大池で幕営、上の小蓮華山には行けませんでした。このときのコースは、蓮華温泉から登り、同じ道を下ります。従って、日程の短縮は割合容易だったようです。
茂倉岳を会場に使うとして、まだ確認しなげればならないことがいくつかありました。
まず、1 日目に十分な広さの幕営地があるのか。登山道の整備具合いはどんななのか。
2 日目は歩いてみてどのくらい時間がかかるのか。土樽までの交通手段はどうなっているか。いずれも直接自分の目で確かめる必要があります。

10 月下旬、土樽山荘に向かいました。この日は土曜日です。午後、高速の関越道を湯沢イン夕ーで下りて、中里を通って土樽を目指しました。
丁度、紅葉の真っ盛り。周りの山々は赤と黄色に彩られ、見事の一言。
これを見に来ただけでも価値があると思った程です。陽射しも暖かく、朝早く来ていれば、山頂にも十分に立てたことでしょう。
土樽山荘の伊藤周左衛門さんに相談にのってもらい、幕営地は山荘の駐車場に決定。広さはまずまず。ただし、上越線をはさむようにして、線路と並んで伸びている高速道路が気になりました。昼夜をたがわず、ひっきりなしに走り去る自動車の騒音のひどいことといったら、想像していた倍以上です。山荘のアルミサッシの窓を閉めていても、キーンという音が小さいながらも伝わって来る。
テントではこの騒音をまともに受けて、夜まんじりとも出来ない選手が続出する恐れさえある。
その上、水はともかくとして、トイレの絶対数が足りない。全部のトイレを女子用にあてたとしても、まだ十分ではない。懸案となっている男子トイレの確保はまったく不可能。早くも男子選手の不満の声が耳に届く感じです。
この日の宿泊客は 20 数名といったところでしょうか。
玄関の棚に並でいた靴は、最初山歩きに適したものばかりでした。それがタ方になるにつれて、街で見かけるものばかりになって来ました。ネク夕イを締めた人も到着します。風呂から上がって食堂に行くと、私以外は皆んな知り合いらしく、テーブルを口の字に囲んで楽しそうです。そこから離れたひと隅に、ひとり分のご馳走が置いてありました。
にぎやかなグルーブの方を見ながら、ひとり食事をとるのも何んとなく恥ずかしい気がします。
かといって、それに背を向けて食べるのも、すねているようで気が引けました。結局、皆んなに横顔をさらす感じで、ひとりビールのコップを口に運んでいました。

明日はきっと雨になるだろう。でも、出来るだけ朝早く出発して山頂に立ちたいなあ、などとぼんやり考えていたとき、若い女性から声をかけられました。えっと思って振り向くと、石川、富山の北信越国体でいっしょだった助川さんです。
彼女は新潟県の山岳競技の成年選手でした。知り合いならこっちに来ませんか、とグループから誘いの声もかかり、伊藤さんの勧めもあって、合流させてもらいました。
年1回開かれる、植村直巳を偲ぶ会だそうです。毎年同じ時期に、この山荘に集まるとか。今年は、植村夫人が風邪で出席出来ず、参加者の人数もいつもより少ないそうです。
山荘の玄関を上がってすぐの受付のところに、登山家の
長谷川(恒夫?)、ヨットマンの多田といっしょに写っている植村直巳の写真がありました。
この高名な人達は、若くして3人ともすでにこの世になく、惜しい限りです。皆さんの話しに、ついつい遅くまで耳を傾けてしまいました。

翌朝は予報通りの雨。ゆっくり起きて朝食をすまし、 8 時30 分に山荘を出発。
玄関まで助川さんの見送りを受けました。おかげで、張り切って出発出来たみたいです。伊藤さんに教えてもらった通り、登山口まで自動車で直行。雨の中を登り始めました。登山道は聞いたように、よく整備されていました。登り口は高速道路のバーキングエリアのすぐ脇です。
道標はほとんどありませんが、 1 本道で迷う心配はまったくなし。最初はともかく登り一方です。
振り返るといつまでも、すぐ下に高速道路が見えていました。尾根筋に大きく育ったヒノキの並ぶ槍廊下に到着。太い幹が尾根をふさぎ、根も高く張り出しています。両側は切れて崖です。両手と両足を使い、張り出している根をまたいだり、その上に上がったり。
時間がかかり、歩行のリズムがくずれてしまいました。下って来る男ふたりの登山者とすれ違ったのは、この時です。
矢場ノ頭で腰を降ろしました。時計を見ると、10 時半を過ぎています。この後 1 時間歩いても、せいぜい川棚ノ頭に達するだけ。山頂は、まだはるかに遠い感じ。
雨足も衰えずとあって、山頂に立とうという決心はたちまちくずれてしまいました。下山すると決めて、ザックから無線機を取り出しました。 3局と交信して 10分余り。歩いている時は我慢出来た寒さも、じっとしている時は耐えがたいものです。

大会の丁度ひと月前、 5月の連休を利用して、当番地区の予備踏査を行いました。参加者は地区の顧問 4 名と男子部員 3 名です。三条工業高の水落先生、清水先生、真島先生と私。生徒は 3 年生の大野、松永、 2 年生の更級です。 5月2 日土曜日、授業が終ってから学校を出発。夕方土樽に着いて、無料休憩所に泊まりました。小雨が降っていたこともあって、少し離れたところに、新潟高校と新潟中央高校がテントを張っていたのを知りませんでした。
翌日もまだ小雨が残りましたが、天気はなんとか回復しそうです。ふたつの学校は、われわれよりも早く出発していきました。
休憩所の鍵を山荘の玄関に置いたのが 5時10分。登山口着、 5 時 40 分。登山道の雪の上に、先行者の新しい踏み跡がはっきりとついていました。 8 時丁度、矢場ノ頭で 10 分間の休憩。
ピッケルを手にしたのは、矢場ノ頭を越えて下った鞍部からです。目立って雪の量が多くなりました。上空には青空も見えています。でも、風は強く、冷たい。 9 時 10 分、川棚ノ頭の手前で小休止して行動食を食べる。カステラ、チョコレート、アメなど。
天気はますます回復傾向にあって、展望は開けるばかり。茂倉岳の山頂がくっきりと姿を現わしました。頂上付近は一面真っ白です。太陽の熱で溶けて枝から落ちた氷のかけらが、風で飛ばされてきて足元できらきらと光っていました。
10 時 35 分、茂倉岳山頂( 1977、9m )に立ちました。谷川岳本峰の一ノ倉はすぐそこです。
山頂には登山者が動いて見えていました。これから向かう、武能岳( 1759、6m )、蓬峠、七ッ小屋山( 1674、7m )、清水峠も一望出来る。清水峠の白崩小屋さえもはっきりとわかります。
これからあそこまで歩くと思うと、気が遠くなりそうな感じ。武能岳に向いて下をのぞくと、先行パーテイがずっと下がったところで休憩しています。
私達も昼食休憩にはいりました。パン、べーコン、レ夕ス、サバ水煮缶、調味料はマス夕ードにケチャツプ。マス夕ードがことのほか好評。防寒具や雨具の上下を身に着けてもまだ寒くてじっとしていられない。

11時10分山頂出発。 12時、茂倉と武能の真ん中、笹平の標識を通過。この鞍部で休憩。
山頂で着た雨具を全員が脱ぐ。風は強いが、寒くはない。ピッケルも背中に差した。 12 時50 分、武能岳の山頂到着。笹が多い。地面も出ている。一ノ倉と茂倉が真向いにみえる。手を伸ばすと、すぐそこといった感じに思える。一ノ倉の頂上から土合に向けて一直線に下り降りる登山者の姿が、白い雪の上に小さく見えていた。
風は強いが、展望はすこぶるよろしい。 20 分の休憩。 13 時 45 分、黄色の蓬ヒュッテに着く。雪原が広い。登山者が多い。新潟高校と新潟中央高校のパーティにようやく追いついた。でも、ふたつの学校はすぐに出発。天気はいつの間にか薄曇り。先を急ぐことに意見がまとまった。七ッ小屋山手前の登りで、先行パーティを追い抜く。
蓬ヒュッテからずっと、登山道が出ていたが、登りの斜面にはまだ雪がたっぶりと残っていた。この急斜面をキックステップで一歩一歩登る。さすがに息が切れて、トップは交替。
14 時 40 分、七ッ小屋山頂通過。休まず、そのまま清水峠をめざす。下り斜面は雪が広くついている。
かかとをしっかりと踏みしめないと、転びそうになる。ところどころ雪が硬く凍っていて、知らずにその上に乗るとすべる。
身体ごと流されそうになって本当に恐い。尾根筋のところどころに笹が出ていた。
15 時 25 分、清水峠に到着。避難小屋の中には、清水から上がって来た3 名の先着パーティがいる。われわれ 7 名と先に着いていた 3 名、それに後から追いついて来た単独行の登山者が加わって、 11 名が小屋に泊まった。
もう 3~4 名は楽に泊まれたであろう。最初の 3 名が広く場所を取って、ゆずろうとしない。小屋のうしろにふたりパーティがテントを張り、その脇では、いちばん遅く着いた 3 人連れがツエルトを立てていた。
小 1 時間もしないうちに猛烈に冷えてきた。陽がかげって急激に暗くなる。白いガスが広がる。それを透かしてみると、白崩小屋の側にテソトが 2 つかすかに見えていた。

4 日月曜日、 5 時起床。 3 人パーティの出発準備がうるさくて、寝ていられなかった。風が強く、雪もちらつく。前日見えていた周りの稜線は、時冷ガスに包まれて姿を消す。稜線の頂は、全部厚い雲におおわれて顔を見せてくれない。
6 時 50 分、小雪の舞う中を出発。雨具の上着のみを着用。新潟高校らのテントはもうすでにない。少し登って、送電線の鉄塔を目標に雪の斜面を横断。強風が吹くとザックが重いこともあって、身体がゆれる。先に下りたパーティの踏み跡がくっきりと残っていた。
7 時 20 分、国鉄避難小屋の脇を通過。みぞれで、全員が雨具を着用した。
8 時 30 分、登川の渡渉点に到着。天気は晴れ。行動食をとった。
9 時 10 分、追分を通る。
10 時 10 分、上田屋着。 50分休憩。
11時 25 分、タクシーで六日町駅に到着。予備踏査は無事終了した。予想していた通り、雪が少ない。
雪上歩行の審査は、茂倉岳直下の斜面しか使えない。それより困ったのは、清水峠に雪のないこと。
避難小屋の周りは、完全に地面が出ていた。雪上幕営が不可能であれば、テント場の規模がずっと小さくなってしまう。
はたして、全部のテントが張れるだろうか。

大会の 10 日前、 5 月22日(金)、 2 回目の事前踏査に出発。
今回は審査員を案内するのが主たる目的です。その上で、審査と運営の大会方針のすり合わせを行います。この日は、自動車で朝早く出ました。六日町、塩沢町、湯沢町の順に巡り、役場をはじめ、教育委員会、警察署、消防署、病院、駅、地区の有力者などの挨拶回りも、一気に済ませてしまおうというわけです。全部に予め依頼状を出し、電話でも大会協力のお願いはしてありました。
運転手は清水先生です。車には三条工業高の吉田先生、真島先生と私が乗り、清水先生だけはこの日私達 3 人を土樽山荘に運んだだけで帰りました。
タ刻、土樽山荘に集まったのは、地区の顧問が 4 名、審査員が 4 名の合計 8 名です。前回はテント持参のフル装備でした。
今度は出来るだけ身軽にと考えて、寝袋もピッケルさえも持ちません。この夜は山荘泊り。翌日の清水峠も、 JR にお願いして、白崩小屋に泊めてもらうことになっていました。
 23 日(土)、朝と昼の 2 食分のおにぎりをつくってもらい、 5 時に出発。休憩地点に適当と考えられる場所を選び、木の枝や登山道脇の草に赤い布テープを目印として結ぶ。
天候は晴れ。茂倉山頂直下の避難小屋は、まだ雪の中に埋まったままで姿を見せてくれない。
山頂からの展望はこの日も素晴らしい。蓬峠で、ヒュッテの管理人古田さんにアマチュア無線の使用予定周波数を告げた。
無線の電波は大会中、六日町警察署でも傍受していてくれることになっている。
 JR の白崩小屋は、ストーブがあかあかと燃えて誠に快適。寝具もきちんと揃っている。われわれのためにこの日、六日町駅前の事務所から職員がひとり、清水峠に上がって来た。小屋の鍵を開け、風呂まで沸かしてある。【民宿やまご】のご主人でもある小野塚さんだった。
小屋とはいいながらも、 3 階建ての立派なもので、自家発電によって電気もつく。高体連の登山大会のために、快く開放してもらった。
現在、事務所に 5 人しか職員がいないため、個人で利用を申し込んでも応じていないという。
 4 年前の大会でもお世話になりました。

24 日(日)、圧力釜で持参の米を炊いてもらいました。温かいご飯を食べて、皆んな元気に清水へ向かいました。時折、小雨もばらついたりしましたが、雨具をつけると止んでしまいます。途中でコシアブラをとったり、フキノトウを摘んだりもしました。
茂倉岳の登山道にもコシアブラは、食べごろのものが沢山目につきました。
しかし、審査の準備に来たということと、先を急ぐ必要もあって、誰も手を出しませんでした。
この日の下り道は、審査の対象から外れています。特に打ち合せをすることもなく、山菜採りを楽しみました。審査員の感想は、 2 日目の歩く距離が長いこと、茂倉岳まで登り一方だから、山頂に立てない脱落チームがいくつか出るであろう、というのに集中しました。大会の準備でいちばん困ったのは、救護員がなかなか見つからないことでした。いろんな方々に知恵を借りて、病院や消防などと連絡をとっても、全部断わられてしまいます。
たまに引き受けてもらえそうになっても、山に登るのならだめとか、 1 日だけならといわれて、話しが振り出しに戻ってしまいました。
加茂高校の浜田先生には、卒業生を紹介してくれるようにお願いしました。三条高校の卒業生にも連絡をとってみました。万策尽きた感じです。でも、救護員なしというわけにはいきません。
三条工業高校の吉田先生に、知り合いの歯医者さんを口説いてもらいました。ようやく救護員が決まりです。歯科医師の大竹先生には、大会中診療を休んでもらい、大きな迷惑だけをかけてしまいました。高体連から支給された、わずかばかりの旅費のみをお渡ししました。
でも、そのお金の大半が後日、北信越大会に出場する三条工業と、全国大会に出る三条東に、餞別となって帰ってきてしまいました。

第 45 回新潟県高等学校総合体育大会

第1日目 6 月 2 日(晴れ)
天候に恵まれて、屋外の開会式には絶好の日和となった。気温が上昇して、じっとしていても汗ばむくらい。
普段駅員のいない土樽駅に、大会の受付時間に合わせて、湯沢駅から切符受取りに出張してもらった。
ホームに降り立つと、歓迎の横断幕が掲げられているではないか。歓迎県総体登山大会と書いてある。
湯沢町には、大会の後援をお願いしてあった。でも、このようにしてもらえるとは、予想もしていなかった。感激したのは、私ひとりだけではなかったと思う。開会式に引続き、天気図の作成、ペーパーテスト、テントの設営、タ食準備と、日程が予定通りに進んでいった。
テレビ局が取材に来ていた。カメラに撮ったものが、晩にニュースとして放映されたが、私達は誰も見ることが出来なかった。

第2日目6月3日(晴れ)
4 時 30 分の出発時間がせまって来ているのに、幕営地の方を眺めると、テントがいくつか立っている。
せかせても、テントをたたむのに手間がかかる。 5 分前集合どころではない。
点呼に遅れたパーティは、班の後を追いかけさせることにして、当初の予定通りに出発。
茂倉岳の登山口までは、工事用の自動車が入るため、立派な舗装道路になっている。道路の途切れたところで最初の休憩。ザックが重いこともあって、すでに汗びっしょりの選手も見られる。各班の隊列を整えた。この後、全員が顔を揃えるのは、タ方清水峠に着いたとき。
一旦登り始めると、平らなところはない。休憩の時は、登山道に一列になったまま腰を降ろして休む以外にない。
山頂まではひたすら登りが続く。特に出だしの部分が、粘土質ですべりやすく、傾斜も相当にきつい。
このコース初めての人は、ここでもう気が遠くなってしまうかもしれない。移動本部は、半谷委員長と三条地区の顧問ふたり、それに補助員 2 名で構成した。お互いに無線で連絡が取れるとあって、しいて固まっている必要もない。各班の通過を見守るため、私ひとりが三条工業の 2 年生ふたりを連れて、この坂道を先行した。
どの選手も張りきっているのか、予想していたよりも登るペースが速い。各班に先導係をつけ、先頭を歩く班長にも出来るだけゆっくりと登るように頼んだ。玉の汗を流しながら、先を急ぐ選手もいる。
4 名の選手の連携がとれていないのか、最初から 4 名がばらけ気味になっている学校もあった。
矢場ノ頭を過ぎて、川棚ノ頭にかかる辺りから、脱落パーティの連絡が無線に入り始めた。
遅れがちなパーティは、各班のいちばん後におく。それでもついて来れそうにもないときは、班から外す。外れた学校は監督が呼ばれて、選手に付き添うことになる。
監督が審査員になっているときは、審査員がひとり減ってしまう。今回の大会コースはきついと判断したのか、 4 人の選手に監督ふたりの学校がいくつかあった。そんなわけで、三条地区の選手や補助員がばてるのを、何よりも恐れた。
最後尾のサポート隊が脱落パーティとともに歩く。青空を背景に、雪を頂いた茂倉の山頂が、白い姿を見せている。それを見て闘志をかきたてる者と、逆に気の遠くなってしまう者とがあるようだ。出発からすでに 5 時間半、時計の針はすでに 10 時を回ってしまった。
頂上直下の避難小屋の屋根が、雪の上に顔を出している。ほんの 10 日前には、雪に埋もれていて、所在がまったくわからなかった。
ここまでの間に、落後したパーティのうちふたつが、登頂を断念する。
 2 校とも男子で、登山口に向かって下山を開始。女子1 校も、すぐ近くに来ているにもかかわらず、停滞したままで動く気配がない。
救護係としてそばに付き添っている清水先生からの連絡では、腹痛の選手1名が岩陰に入ったままだという。
避難小屋の上部で、雪上歩行の審査が始まった。雪が減って、斜面の傾斜がさらに増した感じがする。はるか下まで見えるせいか、下りの歩行は腰の引けた選手が多く目につく。
三条東の女子も顔が下を向いたままで、足元の何かを捜しているように見えた。
山頂からは無線で、早く選手をこっちによこせという矢のような催促。上で、別の審査が行われているようだ。さらに男女ふたつのパーティが、避難小屋まで到達しないで下山することとなった。
山頂がすぐそこのように見えていても、このまま登れば小 1 時間もかかるであろう。土樽まで引き返す時間も考えると、決断は早いほうがいい。移動本部から2校に対して、下山するように指示を出した。
選手の無念な気持ちを思うと心が痛む。 4 人全員が動けないのではない。不調なのはひとりだけだ。
移動本部が最後尾となって、山頂を通過。
とっくに午後になっていた。この日の展望も素晴らしいの一言に尽きる。
茂倉岳を足早に下って武能岳の登りにかかると、再び脱落の連絡がしきりとなった。男子 1 名がこの登りで倒れた。
無線機のスピーカーから流れる声は、日射病だろうといっている。その選手が汗をかいているかどうかと、吉田先生が問い合わせた。汗びっしょりの返事が帰ってきて、一安心。様子を見に、吉田先生に先行してもらった。
行動食は持たず、朝も昼もろくに食べていなかったらしい。
コンデンスミルクをたっぶり含ませたパンをもらったら、元気を回復したという連絡。
武能岳の山頂から女子班についての連絡がはいった。上から見ると、選手がてんでばらばらに分解しているという。先頭をいく班長は下りとあって、快調に飛ばしているらしい。そのすぐ後ろを、 4 人の選手がぴったりとついて来るため、全部の学校も皆んな続いているものと思っている。
実際には 1 校だけで、それ以外の学校はかなり遅れていて、さらには 4 人の選手さえも離れ離れになっているパーティもある。先頭を追いかけて、先頭を止めてくれと、新潟中央高の中村監督に頼んだ。
武能の手前で、班から落後した学校が 3 つ。学校単位で監督といっしょに雪の上で休憩しているのが見える。その手前には、ひとり遅れた監督が歩いていていかにもつらそう。
背中のザックは、選手のものよりも大きくて見るからに重そうな感じがする。このままでは遅れがさらに大きくなると判断した。
強制的にピッケルとザックの中身を取り出して、補助員の三条工業の 2 年生に分配した。監督としての自尊心を傷をつけたことであろう。選手がどんなにばてたとしても、補助員に選手の荷物を持たせるつもりはない。残り 3 人の選手が分担して持てばいいのだし、あるいは監督が持ってもよい。
落後した選手の学校名は無線に飛び交った。でも、監督の件については触れないように配慮した。
夜、審査員のひとりから、監督に落後者がいたかどうか質問されたが、ひとりもいなかったと答えておいた。

武能岳を下りきってほっとしたときに、恐れていた事態が発生した。三条地区の学校で構成した、救護隊とサポート隊が全員登山道に集まっている。皆んなが取り囲んだ足元には、三条高の女子選手 1 名の姿が横になって見えている。これから先の行動が無理となった場合は、他の学校と同じように監督をつけて、蓬峠に残ってもらわなければならない。そうなれば、運営の人手が確実にひとり分減る。しばらく横になっているうちに、自力で歩けるまでに回復した。
蓬ヒュッテの前で、男子 1 校の監督より行動打ち切りの申し出があった。もう選手に、清水峠に向かおうという気力がなくなった。ここでテントを張り、明朝は土合に下りたい。したがって、閉会式には参加出来ない。ヒュッテの管理人の古田さんが、雪の残り具合いからして、土樽よりも土合に下った方が安全ですよといった。
これで合計 5 校が大会から消えた。午後 3 時を過ぎた頃、先発した設営隊の真島先生から清水峠到着の一報が届いた。先頭にいた男子の 1 班は、追いつく勢いで先発隊を追いかけていたのではないか。
20 分くらいで 1 班も峠に到着の連絡が入る。ずいぶんと速い。班長に選手の学校名を確認する。何んと 3 つしかない。 9 校いたはずだ。 6 つの学校はどこにいるのか。なぜそんなに急いだのか。
脱落パーティは運営上困る。予定時間より遅れても、何とか全パーティを掌握しておいて欲しかった。
七ッ小屋の登りと下りで、遅れている学校を追い抜き、移動本部が先に清水峠に着いた。
峠は日本海から関東地方への風の通り道。いつも風が強い。ガスがかかって、風は冷たい。
すでに地面に張り綱が交差して、テント間の狭い隙間を歩くのが難しい。
全選手清水峠に揃ったのはほぼ 6 時。茂倉岳で予想した時刻は 7 時であった。あの時は、暗くなって到着する学校もあるであろうと覚悟を決めていたが、何とか、足元の見えるうちに間に合った。
タ刻、白崩小屋の本部に、 2 ・ 3 名の選手の体調不良が報告された。いずれも疲労による発熱と考えられる。
解熱剤でなく、風邪薬を飲んで温かくして寝るようにという大竹先生の指示を伝える。
幸い、翌朝皆んな元気になった。土樽に下山した 4 つの学校のその後の様子が気になっていた。
山頂と違って無線の電波はかすかにしか届かないため、 JR の携帯電話を借りて、清水集落の上田屋に確認を入れた。麓本部は三条高の中村先生ひとりだけ。ふたつの学校は電車で帰宅。 1 校は土樽で幕営。もう 1 校はすでに清水に着いてテントを張っているという。
ふたつの学校とは明日の閉会式で再会出来そうだ。茂倉への登りの途中で、赤いシャクナゲの花が目を引いた。蓬峠から七ッ小屋山の間にイワカガミやイチリンソウとともに、シラネアオイの花が咲いていた。
皆んながそれを楽しむ余裕があったであろうか。

第 3 日目 6 月 4 日(晴れ)

4 時 40 分、先発隊よりもひと足早く JR の小屋を出る。 10 日前よりも一段と雪が解けて、心配していた雪の急斜面も、ことごとく夏道が顔を出している。特にルート工作をする必要もない。
登川の丸木橋の渡渉点まで一気に下り清水の集落に直行。 8 時過ぎに各班がぞくぞくと下山して来た。周囲ににぎやかな話し声があふれる。
予定通り 9 時から、審査員の講評を交えた班ごとの反省会が始まる。閉会式は菊埼審査委員長の話しが少し長くなって 1 時間近くかかった。
11 時過ぎ、選手がバスに乗車して大会が無事終了した。

3 日間、気温が急上昇したせいか、夏の到来を思わせるセミの鳴き声も聞こえた。

大会結果 最優秀校 男子六日町 優秀校 男子三条東 三条工業 三条 小千谷 安塚
奨励校 男子湯沢 新潟東工業
インターハイ出場 男子六日町 三条東
北信越大会出場 男子三条エ業 新潟
(以下略)

全国総合体育大会登山大会(男子C隊、3 班)
会場宮崎県期日 8 月 5(水) ~8 月 9 日(日)
県大会の後始末に追いまくられているうちに、いつの間にか 7 月になっていた。期末テストが終わると、もう中旬ではないか。
遅ればせながら、ようやく計画書作りから準備が始まった。 3 年生松永が受験勉強に専念したいと選手を辞退したため、 2 年生木村をメンバーに加えた。
午前中は補習授業があって、選手 4 名全員が揃うのは午後も 3 時頃になってから。
当初は、宮崎は猛烈に暑いと聞いていたため、暑さ対策を兼ねて日中のトレーニングを計画していました。ところが、そんな時間は取れそうにもありません。
選手のことは選手に任せ、午前中のトレーニングはもっばら私ひとりでやりました。計画書もパソコンできれいに作りたいといい始めて任せたところ、皆んながパソコンに不慣れとあって、予想外に時間がかかってしまいました。
打ち込みよりも、縮小印刷の設定で手間取りました。次の計画書にすぐ使えるものも、フ口ッピイディスクに残りましたので、まったく無駄ではありませんでしたが。
卒業生の間で、本間博先生の追悼文集をつくる話しが出ていましたが、具体的なことはまったく決っていませんでした。
 10 月 25 日に完成するとなると、逆算して、原稿集めの手だても本気になって考える必要があります。宮崎から戻れば 8 月も半ば。お盆もあっという間に過ぎてしまうことでしょう。卒業生名簿が完成しないまま、連絡のつくところから、原稿用紙を発送し始めました。
選手は計画書作り、私ひとりは文集の準備と、方向も歩調もばらばらの状態です。
今回の大会の開会式と閉会式の会場は延岡市です。競技の最終日閉会式の前日は、柔道大会とかち合って市内の宿舎の絶対数が足りないとか。
柔道を遅らせると、お盆とぶつかる。そこで登山関係は全員、一般家庭に割り当てられて、ひと晩お世話になることになっています。
大会本部から、指定宿舎と浅草徳三さんのお名前と連絡先が、要項とともに送られて来ました。
早速、よろしくというつもりで手紙を書きました。その中に三条新聞の記事のコピーも同封しました。県大会の様子と選手の写真も載っていて、山岳部の紹介としては格好ではないかと思ったものです。
それが届いたのでしょう。おい出をお待ちしていますと、わざわざ学校にお電話をいただきました。延岡はずっと雨が降らなくて、連日温度計は 37 、8 度を記録しているという話しです。奥様は、こちらはとにかく猛烈に暑いんですよ、とおっしゃっておられました。

浅草家は、すでにふたりの息子さんが独立されて、現在はご夫婦のみ。ご主人は旭化成にお勤め、奥様は民生委員をされています。お住まいは住宅団地の中にあって、極く普通の感じの新しい 2 階建てです。
一歩中に入ると、掃除が行き届き、よく手入れされているのが伝わって来ました。
さらに目を引いたのは、机の上、夕ン
ス、階段の床の端などにところ狭し置かれた小物類です。
実用品もあれば、ミニチュアとしてつくられたものもありました。
最近ミニチュアの花瓶などは、どこでも見かけて珍しくはありませんが。素材はガラス、金属、陶器、貝殻など。息子さんが描いた油絵もキャンパスのまま、無造作に何枚も床に置かれてありました。

8 月 2 日(日)晴れ
総監督の三条工業高吉田先生とともに 6 人で、東三条駅を 8 時に出発。大阪から神戸に移動して、午後のひと時を異人館の見学に費やした。宅配便で事前に送る予定のメインザックは、皆んなの背中にあって何とも邪魔になる。昨日、まだ買い出しになどといってる有様では、仕方のないところか。
日向行きのフェリーの乗船手続きを済ましてから、食堂をさがしに出かけた。
日曜日とあって、待合室のレストランはお休み。何とも不便なこと。食事と若干の買物をして戻ると、新潟中央高校 6 名が到着していた。出航後すぐに入浴。
新潟中央高校がこちらの船室まで遊びに来て、顧問どうし、生徒どうしで夜遅くまで交歓。

8 月 3 日(月)薄曇り
台風9 号の接近により、船の揺れは夜半から次第に大きくなっていった。朝、べットから起きて床に立つと、壁に手を添えないと歩けないほどだ。
 9 時の下船時刻が近づいても、選手 4 名はべットで頭から毛布をかぶったまま。起き上がると気分が悪くなるだろうからと、起きるに起きられなかったらしい。
前日買った朝食に、選手は誰も手をつけなかった。いちばん最後の乗客となってフェリーから降りた。
日向港の周りには高く伸びきったヤシの木、ワシソトンニアパームの並木が見られる。
道路脇にはハマユウの白い花も咲いている。新潟とひと味違う雰囲気。
夕クシーと電車を乗り継いで延岡に向かう。指定宿舎のビジネスホテルにザックを置いてから、受付場所に出かける。駅から離れた丘の上の公民館で、畳敷きの広間。
他のチームが誰も来ていないこともあって、全員が私達ふたりに注目して一瞬足が止まる。
入り口にいた女子高生が、お茶をどうぞと差しだしてくれた。ひと口飲んでやっと落ち着いたが、その間も皆んなから監視されているみたい。
そこで渡された袋は 5 個。監督とリーダーのふたりでは、なかなか持ちきれない重さだ。 5 人揃って来るべきであったと後悔する。しかし、運搬係がちゃんと設けてあった。女子高生ふたりが自転車で延岡駅近くまで運んでくれる。助かった。
タ食まで市内の散策としゃれる。他県のチームは、大会コースの下見に入っているところもあるらしい。小高い丘の上の神社は人影もまばらで、セミの鳴き声だけがすさまじい。新潟のものとくらペて、鳴き方が少し軽い感じとでもいおうか。
下に見えている風景は、三条のそれとほとんど変わらない。心配していた暑さも、三条と変わりがない。

台風が雨雲を運んで来たせいか。タ刻、静岡東高校の金子昌彦先生が私達の宿舎を訪ねて来られた。
静岡産のグリーンティーの差入れをもらう。
昨年の静岡大会ではコースの情報をもらい、事前準備に大いに役立った。
今年もすでに大会コースをくまなく歩いて来られたとか。コースの様子や感想を聞かせていただいた。
静岡県チームは 3 月と 7 月の 2 回、コースの事前調査に入ったとのこと。予算も意気込みもうらやましい限りだ。

8 月 4 日(火)雨
監督・リーダー会議
朝から激しい雨。この日の予定は生鮮食糧品の買い出し。他県のチームも同じらしい。
入れ替わり立ち替わり玄関に出て来て、空を見上げて雨模様を眺めていた。傘をさして三々五々 と、 10 時頃までには皆んなでかけたのではなかっただろうか。
延岡の繁華街は三条に勝るとも劣らないといったぐらいの規模か。
いく先々で買物をしている選手に出会った。買い出しは宮口、石附、木村の 3 人にまかせて、バスで 15 時 30 分からの監督・リーダー会議に大野とふたりで向かう。
台風の影響で飛行機もフェリーも欠航。神奈川県のチームだけがこの会議に遅れるかもしれないと、冒頭アナウンスされた。
終了後、六日町高のメソバーと初めて顔を会わせる。
入場行進の際の県高体連旗は、六日町高のリーダーが旗手を務めることに決定。
なお、新潟県の旗は新潟県に置いたままで、誰も持参していなかった。
タ食後、山行に必要なものとそれ以外のものに分けてパッキング。この宿舎はビジネスホテルのため部屋は小さく、私達は 3 つの部屋に分散していた。
打ち合せには誠に不便で、選手ひとりひとりのザックの中までは点検出来なかった。
特に、この日買った全部の生鮮食糧品に目を通さなかったのは大失敗。大会に入ってから悔しい思いをした。
終日雨が激しく、気温は30度を割って、膚寒い。

8 月 5 日(水)晴れ
開会式 7 時に宿舎を出発。バスで西階陸上競技場に向かう。
9 時、サブグランドに県ごとに集合して隊列を整える。 9 時 30 分開会式。
1 時間で終了。上空は青空、再び暑さが戻って来た。リーダーと気象係集合。リーダーの大野は筆記試験、気象係の石附は天気図の審査。
 4 問の筆記試験はすぐ終了。天気図は 20 分間の放送を聞いてから書くため、 1 時間はかかる。
この間に昼食。 12 時、マイク口バスに分乗して出発。
気象係の昼食時間は最初から設けられてない。今年も弁当をバスに持込み、揺られながら食べる以外になかった。改善出来ないものか。
入山式をやる北方町の上鹿川までは道路が狭く、大型パスは通行不可能。対向車とのすれ違いもままならないとあって、マイク口バスを白バイが先導する。大名行列といったところか。途中の窓から、岩登りに最適といわれる岩峰が見えた。名前は比叡山と矢筈岳。
会場の上鹿川小学校は全校生徒が 25 名。全員で鼓笛隊をつくり歓迎してくれた。
集まってきた地元の人達は、この鼓笛隊を見るのが目的ではなかろうか。
14 時から開会。男の子の舞う神楽で入山式が終了。
15 時 30 分、川沿いに鹿川キャソプ場に向かう。すぐ、笛の合図で設営の審査。
この間を利用して、監督は交流会。若い人が多い。新採用と初めての顧問が半数くらい。
革の登山靴は少数派、軽登山靴の監督が多数を占める。私も軽登山靴で、出発直前に買った。
スニーカーの人もいる。自己紹介をして、缶ビールで乾杯。まだぎこちない雰囲気だ。大会用に特設されたテント場に、テントが立つのはこの日が初めて。
地元宮崎のチームが事前調査に入った時も、テントを張る許可を出さなかったそうだ。
まだ、芝が馴染んでいない。歩くと靴に、黒い湿った土がべっとりとつく。テントの重量が確実に増す。
雨模様とあって外に寝るわけにもいかず、狭いテントの中で 5 人が躯を互い違いにして横になった。

8 月 6 日(木)晴れ
大崩山 4 時起床。 5 時 30 分出発。
鬼の目林道の平坦な道を歩く。 1 時間程で隊列が止まる。腹痛を訴えた選手がいて、トイレ休憩になった。道の脇に移動トイレがひとつ置いてあって、その前に行列が出来ている。本日の鹿川越えコースは、明治の西南の役で敗走する西郷軍の通ったところとして有名らしい。その時は、逆方向で越えたとか。ヒノキとアカマツの中を通る登山道は、大会のためによく整備されていて歩きやすい。昨年までは、林床にスズ夕ケが一面に生い茂り、それをかき分けながら歩いたという。
地元北川町の人達が総出で刈り取ってくれた。もちろん、無料奉仕で。
樹林帯を通過してもセミの鳴き声がまったくしない。昨日までのにぎやかさが、まるでうそのようだ。
台風の接近を本能で察知して、鳴りをひそめているに違いない。通称ブヨ谷と呼ばれている地点に来たが、ブヨも見あたらない。唯一、副隊長が眼の上の血を吸われたらしく、右のまぶたを腫らしていた。
風が適度に吹いてきて、しのぎやすい。風に秋の気配を感じる。遠見岩を過ぎると、急斜面になる。
整備され過ぎたのではないか。土がむき出しになっていて、手がかりがない。滑りやすいこんな急斜面で、小休止の声がかかった。腰を下ろすことも、ザックを置くこともままならない。
ここの登りが、今大会でいちばん難儀をしたところになる。

 9 時 30 分、大崩山( 1643m )の山頂に立つ。ヤブは刈ってはあるが、展望はきかない。支援隊のテントがひとつ。中の自衛隊員は大会終了まで常駐するとか。
少し下って、石塚で休憩。全員で万歳を三唱する。展望は開けてはいるが、遠くの山並はかすんでいる。 10 時 30 分、モチダ谷まで下って昼食となる。登山道に腰を下ろして食べる。引続き班ごとの交流会が始まった。選手の自己紹介と学校紹介。
40分くらいで出発。上わく塚、下わく塚と呼ばれる岩場を通過。白くガスがかかり遠くは見えないが、深い谷をはさんだ対岸に、岩壁のそそり立っているのがわかる。雄大な岩壁が垂直に落ち込んでいるとでも表現したらいいか。迫力があった。下わく塚からは急で足場の悪い下りが続く。そこにはザイルやはしごがかけてある。はしごをここまで運ぶのはさぞ大変だったであろう。
大会終了後は全部取り外す約束になているとか。
ひとりづつ順に通過するとあって、最後尾にいる監督達には岩壁観賞の時間が増えるばかり。
小積谷に下りて、巨岩の転がる祝子川を渡渉した。川に沿った細い登山道は大崩山荘へと続く。
15 時、山荘前を通過。さらに林道に出て、 16 時過ぎ、大崩キャソプ場に到着。
班ごとに整列。 4 人のうち、木村のユニフォームが上下とも泥だらけになっていて目立つ。
チームの先頭を歩いて、だいぶ苦労したようだ。
斜面を 3 段に削ってつくられたテソト場は、最上段が洗い場とトイレになっている。
台風が直撃すると知らされた。県名を書いた立て札があって、地面は白いひもで区割りされていた。
その縄張りを無視して、テソトの間隔を十分に空けるように、また、テントの周りに排水用の溝を掘るよう指示が出た。

顧問の交流会が済んでテント場に行く。ひとりがテントの中でタ食の準備をし、 3 人の選手がテントの周りに堀をつくっているではないか。それは水を流す溝ではない。水を貯めるための堀というべきであろう。要領がわからず、排水路を設けようともしないで、やたら深く掘ってあった。ついつい大きな声で叱り、埋め戻す。そうこうしているうちに、ばけつの水をひっくり返したような雨になった。
 23 時 50 分、日程変更の大きな声で目が覚める。明日の起床時間が 4時から、6 時に。
その後は指示あるまでテントに待機とか。時計を見ると、あと 10 分足らずで午前0時になろうとしていた。

8 月 7 日(金)
小雨 三里河原
 6 時前に皆んな起き出した。まだ行動についての指示がない。
朝食を終えたところで、 7 時 15 分、下の広場に集合の声がかかった。時計の針は 7 時を過ぎている。まだ食事中の学校もある。どこも大急ぎでテントをたたみ、メインザックにつめ始めた。
行動は半日に短縮するとの連絡。サブ行動に変更。サブザックを背にして指定場所に全員が揃ったのは、 7 時 40 分近くになってから。
 8 時出発。 1 班から順に動き始めたのに、なぜか和歌山県のチームだけが隊から離れて 5 人で固まっている。何の説明もないので、皆んな不思議そうな顔をして脇を通り過ぎた。
この日はずっと幕営地にいたらしい。監督の間に、まだ各チームとも点差がないという情報が流れる。特に
体力点と歩行点は全チーム横並びとか。

昨日通った大崩山荘の前を 9 時に通過。昨日のコースをかなり戻る。一度歩いた道であり、ザックが軽いこと、点差のないという噂もあって、とにかく先を急ぐ。走らないと前の人を見失ってしまいそうだ。
 10 時 50 分頃、この日の目的地三里河原に到着。
九州一の渓谷美をほこる三里河原も、増水して水の流れが激しいせいか、あまりさえない。
大会用にかけられた木の仮設橋さえも奪い去ってしまった。河原の岩は雨にぬれて、腰を降ろすと尻から冷たさが伝わってくる。 40 分間の昼食休憩の後、同じ道を引き返す。
 
12 時 30 分、大崩山荘に着く。山荘前の広場にC 隊全員が集合して、講義を受ける。
内容は大崩山系の植物。大崩山の標高がわずか 160 om しかないため、上部に針葉樹林帯と落葉樹林帯がかろうじて存在する。針葉樹ではモミやツガ、落葉樹ではブナが見られる。
標高の割には山が深く、人間をあまり寄せ付けなかったため、今日までこのように保存されてきた。この山系では、変種の植物も数多く見つかっている。ブナの葉は新潟のそれよりもずっと小さい。
東日本と景観はほとんど変わらないが、よく見ると植物にほんの少しづつ違いがある。

キャンプ場に戻り、バスで北川町に移動することになった。
北川町立中学校の体育館に到着。直ちに、最後の装備検査。
タ食の材料と計画書の献立の照合。灯油容器の記名の確認。コン口の台の検査。夕マネギはすでに使いきり、ニンジソはポリ袋に密閉してあったため、食欲をなくす状態であったとか。
タ食には、ジャガイモとソーセージだけのカレーが出来上がった。
立派な体育館で、内部での火気使用は厳禁。
まだ雨が降っていなかったこともあって、炊事は外でする。
明日は台風が通過するまで体育館で待機と決まる。監督の交流会の場に選手よりもひと足先に連絡が来て、最後の交流会が非常に盛り上がった。
大会役員は大会期間中、サブザック行動で宿舎泊まり。私達と違って寝袋も炊事用具も持たない。
避難と決まって、寝具を集めたり、炊き出しを受けたりで大変だったらしい。
夜は体育館の床に手足をゆったりと伸ばして、ぐっすりと眠った。

8 月 8 日(土)雨のち晴れ
北川中学校体育館台風 10 号が通過。夜半より激しい風と雨。
早くから目は覚めていたが、急いで起きることもない。外での炊事はまったく不可能。体育館の一隅にシートが敷かれ、その上だけ限定されてコン口使用の許可が出た。
停電時間が長く、回復したなと思っても、照明がすぐに消える。

8 時 30 分から講話。
役員は近くの宿舎から強風の中、ずぶぬれになって文字通り体育館にたどり着いたようだ。
瞬間最大風速 45m を記録したとか。ゲームをやったり、かくし芸披露の交流会も始まる。
宮口がチームの代表となってゲームに出場するも、なぜか反則負けになる。御苦労さま。

11
時 30 分、解散式。これで競技がすべて終了した。
昼食後、開会式を行った延岡市の陸上競技場に向かう。
バスの窓から見える川は増水して濁流となり、河川敷を洗う。そこにある自動車教習所は、コースはもちろん、自動車の車体の半分まで水役している。道路の信号機は軒並そっぼを向いている感じ。
瓦の飛んでしまった家もある。街路樹が何本も倒れ、市役所と書いてあるトラックが出て後片付けが始まっていた。
競技場には B 隊が先着していて、新潟中央高校と再会。
A 隊の六日町高校と D 隊の総監督がなかなか到着しない。土砂崩れで道路が不通の連絡が入る。

14 時30 分、 B 隊と C 隊はバスの編成を組替えて、 A 隊と D 隊を待たずに出発した。
浅草さんはこの日、ふた月に 1 回の泊まりの日とか。初対面の挨拶の後すぐに会社に出勤して行かれた。奥様の友達の竹内さんも来ておられて、ふたりがかりで沢山のご馳走がつくってある。
その品数と量の多さは、三条東高山岳部員 33名全員が食べられるぐらいだ。
ひと皿の五目寿司も、普段部員が顧問に盛り付けてくれる量の倍以上はありそう。
料理の得意な竹内さんがつくった押し寿司は、見た目もきれいで食べるのがおしい感じがする。
ご飯と魚がなじむまで 1 週間の日数が必要とか。私ひとりで 3 切れいただいたが、選手は誰も手を出す余裕がなったはずだ。
香ばしい焦げ目のついたグラ夕ン、新鮮な野菜を使って彩りの鮮やかなサラダ、揚げたてのトンカツと鳥の空揚げ、刺身に、ウナギなど。
これは市内の五ケ瀬川でとれた天然アユなんですよ、といってざるに並べたものを私達に見せた。
食べきれないからと辞退したはずなのに、しばらくしてこんがりと焼けたアユに変わっていた。
折角の厚意を無にしてはいけない。何とか 1 匹だけはいただいた。
さらに、食後のアイスクリームが冷蔵庫に入っているから、ご自由にどうぞという話し。
お腹がいっばいになったら、瞼がどうしょうもなく重い。 2 年生の木村と私はお先に失礼して、早々に眠ってしまった。
21 時になっていたであろうか。皆んなは2時近くまで話し込んでいたとか。

8 月 9 日(日)晴れ閉会式
 7 時 10 分までに、指定された。バスの停留所に行かなければならない。
支度を始めようとしていた時、電話がかかってきた。相手は和歌山県の総監督。
まったく面識はない。すぐ医師会病院に来て欲しいといっている。 D 隊に参加していた新潟県のふたりが、今朝がた救急車で運ばれて入院した。この電話も病院からかけているらしい。
選手だけで閉会式場の受付を済ましておくように指示を出す。浅草さんの友人の方に来ていただいて、とりあえず私だけ自動車で病院に向かう。
ふたりともベットで点滴を受けていた。ひとりはたいしたことなさそう。もうひとりは、嘔吐と下痢でかなり体力を消耗した感じで顔色がよくない。
和歌山県の総監督とホテルのご主人とで、昨夜からの話しを聞いているところに、保健所から担当の係長が到着した。
皆んなが同じもの食べて、ふたりだけ具合いが悪くなったのだから、食中毒ではないだろうという。
診断は貝による食当り。ホテルがタ食に出した、貝の処理方法がまずかったらしい。

9 時30 分から文化会館のステージでアトラクショソが始まって、 10時より結果発表と表彰式と閉会式。
約1 時間で大会日程がすべて終了。
得点は 83・3 点、順位は 12 位。閉会式後、選手 4 名だけが大分県の別府に向う。
六日町高は式後ただちに特急に乗り、宮崎市まで行って、タ方発のフェリーで大阪を目指す。
この日は船中泊。新潟中央高は宮崎市に泊まり、翌日飛行機で羽田に向かう予定。私達は逆方向を電車で別府に行き、次の日大分空港から羽田に飛ぶ計画であった。
六日町高校が行きに通ったコースの逆回りになるとか。
3つの学校が新潟県チームとして同一行動をとれば、総監督を入れて17名になり、団体割引きの恩恵もあったのに。なぜか、学校ごとにばらばらになってしまった。

再度病院に行くと、ひとりは元気になって、すぐにでも退院出来そうな様子に見える。
でも、退院はまかりならぬと、許可されず。その代わり、もうひとりの世話は十分に出来る。
私が近くで宿をとって待機する必要はなくなった。それならと安心して選手の後を追い、別府に向かうことに決めた。
延岡駅から東京行きの特急寝台富士に乗る。ホテルの最上階に展望風呂があって、 5 人で大きな浴槽を占領する。ホテルは結構にぎやかだったが、大浴場はすいていた。
ようやく、大会が本当に終ったんだなあ。
そして、明日は家に帰るんだ、という解放感が皆んなの顔に出てきた。
のんびりと温泉を楽しむ。大野と木村はさっさとふとんに入り、寝息をたてている。
私ひとり話し相手もなく、テレビを見ながら。0時過ぎまでビールを呑む。

8 月 10 日(月)晴れ
5時30分、ひとり別府駅に急ぐ。延岡に戻るため、特急寝台着星に乗る。百キ口以上も距離があるため、特別急行を使わざるを得ない。 2 日間とも寝台車に乗るなんて、最初思ってもみなかった。
入院していたふたりは帰り支度をして、病院の玄関に立っていた。
選手 4 人は夕クシーを借り切り、別府温泉の地獄巡りをしていたとか。
搭乗手続きが始まっても、4人はなかなか大分空港に姿を見せない。
いらいらしながら待つ。

15 時 40 分、羽田に向けて飛行機が飛び立った。


おりひめ第28号より転載

真面目で几帳面な【山ヤさん】というイメージのW先生です。
退職後の現在も県の山岳協会の重鎮を成していると聞きます。


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