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おりひめ17-2 [おりひめ]

長い、永い、とってもナガ~イ・・・けれど、谷川の登攀史、読み応えあります!

越後山岳誌 Ⅳ

谷 川 岳

固くしまった斜面に続くトレース、一歩々々高度をかせぐ。桜坂の山荘が足下となり、麓で小休止した時に見上げた壁の上部は見えず、朝の陽光が差しても壁には夜の帳が残る。雪面は対岸の米子沢を斜めに区切る。下から見上げたよりもずっと急斜面で、背に喰い込むスキーが重くテールが斜面にふれる。喘ぎながらクラストした踏み跡を慎重に登る。三十分でようやく上のブナ林に着いた。雪庇の脇で一息入れる。
 例年、春山合宿で登る井戸の壁である。雪庇からブナ林の緩登を進むと正面に広がるニセ巻機はまだ冬の厚い装いである。桜坂は林に隠れ、背後に大原太のピーク、その上に苗揚が大きく浮ぶ。八合目のニセ巻繊を登れば東に上州、会津の山が拡がる。武尊と至仏、燧の尾瀬の山々。巻機より南には米子、柄沢桧倉の稜線が続き、清水峠が低い鞍部となり鉄塔と小屋が小さく見える。峠より一段と高まる稜線が谷川連峰である。
 谷川岳、一九六三m。富士に次ぐ第二の高峰、白根山=北岳は知らなくても二千mに未たぬ標高でこれ程知られた山も数少ない。穂高、剣と共に我が国三人岩場の一つに数えられ、開山以来およそ七百人の命を呑み込んだ。魔の山である。遭難のたびに大きく報道されるから山に登らぬ人でも谷川岳は知っている。

 
三国山脈の主稜をなす谷川連峰は清水峠から三国峠までの稜線をいう。清水峠(一四四八m)から七ツ小屋山(一六七五M)、下って蓬峠(一五二九m)より主稜は大きくS宇状に続き武能岳(一七六〇m)を登り詰めると茂倉岳(一九七八m)と一ノ倉岳(一九七四m)が平頂で並び、一ノ倉沢を足下に非対称山稜の国境稜線を進めばオキの耳を経て谷川岳(一九六三m)に連する。頂上直下の肩の小屋から広い稜線は西に延びオジカの頭(一八九〇m)、小、大障子の頭と登降をくり返して急登すれば万太郎山(一九五四m)。毛渡来越(一五六八m)に大きく降って仙ノ倉への長い登りを頑張ると素晴らしい展望が待っている。連峰最高峰、仙ノ倉山(二〇二六m)には二等三角点が置かれ四囲の山々が眼下となる。明るい草原の平標山(一九八四m)から南に向って稜線は下り、大原太山(一七六四m)から三国山(一六三六m)を降りて三国峠(コニー六m)に至るおよそ二七Kmの長い連峰である。湯桧曽川をはさんだ白毛門(一七五〇)、笠ケ岳(一八五二m)、朝日岳(一九四五m)の谷川岳東面岩壁を一望できる展望コースを含める場合が多い。

この連峰は越後と上州両国の国境であり、古くから低い鞍部を通って上越の両地域の交流があった。峠道として清水峠、土樽越(現在の蓬峠)、毛渡来越、渋沢越(どこかは不明)そして三国峠の五つがあった。主要な峠は清水峠と三国峠である。清水峠は鎌倉末期から戦国にかけて軍道の役割を果し、謙信が関東へ出陣の際、最短路として峻険な山道を上州へ軍馬を馳せた峠である。

三国峠は堆古天皇の頃(七世紀前後)に大仁鳥臣により開かれたと伝えられる。上州には蝦夷鎮定の日本武尊命や坂上田村麻呂にまつわる武尊山、三国山の伝説があり、この頃、上州から日本海側に抜ける峠が開かれたとしても不思議はないが、どの程度の交流があったかは判らない。室町後半の「北国紀行」に三国峠越えが記されてあり、冬季も通行していた。戦国期は謙信と北条氏との相剋に伴い、清水峠と同じく軍道として歴史の舞台に登場する。

江戸時代になると参勤交代の順路となり街道が整備され、湯沢、三俣、二居、浅貝、猿ケ京に本陣と陣屋が設けられ各宿場に馬二十五頭と人夫二十五人が常置した。三侯と猿ケ京には関所が置かれ旅人を監視した。参勤交代した大名は長岡の牧野、村松の堀、村上の内藤の各藩で、新潟、佐渡奉行所の役人も往来した。出雲崎に陸揚げされた佐渡の金もこの街道を通って江戸に送られた。浅貝は最盛時、戸数は七十余、駅馬百四十頭が常置したと言われるから往来はかなりのものであった。

「三国街道筋書」によると、「浅貝村より三国峠境迄一里、道幅一間半よし。岩道、石道難所、一騎打之所も御座候。境目には家なし、宮一つ門に三社有り。南東は関東分、この神赤城明神、西は諏訪明神、信州分、北は弥彦明神越後分」とある。三国峠は三ケ国の国境にあって三神を祀る三坂神社がある。峠は旧暦の十月より四月まで降雪で牛馬の通行が不能で、積雪は一丈、およそ三mに及んだという。

明暦三年(一六五七年)には各宿場の問屋より清水新道開発停止願が奉行所に出されている。魚沼郡内清水村(現在の南魚沼市清水)より上州湯桧曽まで新道が開発され、そのため三国街道の往来が衰退するので停止してほしい趣が記されている。もっとも清水街道は裏街道であり清水に国留番所が置れていたから、停止願は杞憂であったのだろうが……。

明治以降、鉄道建設が進むにつれて三国街道も往来が少なくなり、特に上越線開通後は寂れた。戦後、国道一七号線として整備され、昭和三六年、峠下に「三国トンネル」が開通して、再び日本海側と関東を結ぶ主要道として脚光を浴びることとなった。峠下の宿場、浅貝部落には西武系資本により大規模な開発が進み、筍山(一七九m)山麓は苗揚国際スキー場が開設され、雄大なスロープと乾燥した雪質で知られWカップの会場にも選ばれて、東京から車で直行出来るスキー場として人気がある。夏季はテニス等の学生村で賑わいをみせている。

 北と南の両峠間の山稜は人跡が稀であったが、上州側では信仰登山が行われていた。伝承では室町初期の康暦元年(一二七九年)、谷川岳に富士山の浅間大明神が入来して地元民が山頂に祀ったといわれる。水上から少し奥に入った谷川温泉に浅間神社があり、富士、浅間大明神が祭祀されている。この神社は江戸初期、沼田城主真田伊賀守が造営したもので、水上郷一帯の総鎮守の社であった。神社に拝った富士講、浅開講の人々が天神尾根から山頂に登拝した。

谷川山頂(トマの耳、一九六三回)には薬師如来像が置かれ、薬師岳と呼ばれており、オキノ耳(一九七〇m)には奥の院が祀られて浅間岳と呼ばれていた。信仰登山の名残りに天神尾根、ザング岩、ノゾキ等の地名がある。西黒尾根の上部にザング岩の奇岩があるが、本来は天神尾根の大岩をザング岩と呼んだ。登拝の人々がその場で懺悔して登ったので名付けられたのだが、西黒尾根の奇岩の尻出し岩と取り違えられた。この山域は昭和になって登山の対象となってから地元での呼称が誤認されて地名となった例が多いが、ザング岩もその一つである。白毛門に銭入沢という小さな沢があるが、当時は一ノ倉沢がゼニイレ谷と呼ばれた。戦前の岩場開拓期には急峻なルンゼに古銭がみられたそうで、稜線から一ノ倉沢を覗くと、足元から切れ墜ちた絶壁に霧が捲く谷底には神が宿っていたと信じられたのかも知れない。


信仰登山がみられた頃、一方では秋田マタギの活躍した山域であった。明治以降は越後備の猟師が獲物を求めてかなり登っていたらしく、所謂、マタギ言葉に故来する地名が数多くみられる。


ヤバは熊狩りの時に勢子が追って来た熊に鉄砲を構えて待っていた所であり、コヤは狩り小屋を作った地点である。茂倉新道の矢場の頭(一五〇四m)は見晴らしのよいピークで絶好の地である。シシ小屋の頭(蓬峠の北西、群馬大ヒュッテ南)、井戸小屋沢(万太郎谷)や小屋場沢(毛渡沢)などがあり、シシはこの周辺でも熊のことを言ったと思われる。浅草岳の麓、五味沢では熊をクマノシシ、下田村大江部落ではシシ、新発田市赤谷地区ではシシケラと呼んでいた。かもしかは山言葉ではアオシシやクラシシと呼ぶ地方が多い。なお、清水峠西の七ツ小屋山(一六七五m)は陸地測量部の地形図作製時に天幕が七つ立てられたので地名となったという。


 蓬沢や南面の幕岩の鷹ノ巣沢はタカ狩りに関係あると思われるがこれは当宇であってタカノスとはタカスが正しくマタギ言葉で樹幹に出来た熊穴をいうのである。熊狩りに関した地名が多いが、それだけ熊も多く生息し猟師が活躍した証拠であろう。他にナカゴは熊撃ちの見張り場所、マナイタグラは熊狩りの猟場を意味しており、南面には中ゴー屋根と俎クラがあるが俎‥まないたは当字であってそれ程平坦ではない。その他、狩猟に関した地名にオジカ沢の頭(谷川岳の西方)や熊穴沢(西黒沢と赤谷川谷)がある。土樽駅の西方4Kmの一五二九mの峰はタカマタギ山と呼ばれ何か故来がありそうだ。


明治二五年から旧陸軍陸地測量部が全国の三角測量を開始して五万分の一地形図を作製し始めた。約四十年の歳月をかけて大正十三年に全国の基本測量を完成した。この地域は明治四三年頃、測量された。地名は地元の呼称を採用する場合も多く、この山城では上州側の呼称を地名に採用した傾向があり、誤認された地名もある。


谷川岳は上州側では耳二つと呼ばれていた。湯桧曽方面からみると山容が猫の耳に似てピークが並んだ双耳峰である。十九六三mの三角点の置かれている本峰をトマの耳(トバロの意味で手前にあり)少し離れたピークをオキの耳(オキ=沖、遠いの意)と呼んでいる。


信仰登山ではトマの耳を薬師岳、オキの耳を浅間岳又は谷川富士とも呼んでいた。越後側では谷川岳のことを薬師岳と呼んでいたらしいが定かでない。

 地元で耳二つ等といっていた山をいつ頃から「谷川岳」と呼ぶようになったのだろうか。おそらく明治末の測量時に誤認したのでないかと考える。谷川岳の「谷川」は河川名である。「谷川」は水上駅付近で利根川に合流する支流の一つで、谷川温泉を逆登り支流を詰めると主流のオジカ沢の頭から南東に延びる俎クラ…田植の川棚ノ頭とその南の小出俣山(一七四九m)を結ぶ鞍部が谷川の源流である。


地元では俎クラを谷川岳と呼んでいたらしい。一ノ倉開拓期に輝しい足跡を残し先年亡くなった登歩渓流会の杉本光作によれば、昭和八年頃、谷川温泉や湯桧曽では本峰を薬師岳、耳二つ、トマの耳、オキの耳と呼び、強いて古老に聞くと谷川岳は俎クラを指したらしいと云う。五万分の一地形図では谷川岳はトマの耳の三角点を示していることを考えると測量時の誤認であったと推測できよう。


この連峰の最高峰、仙ノ倉山は越後側では三ノ字の頭と呼んでいた。現在では頂上北の前峰を三ノ字の頭というが、士樽方面から山頂の残雪が三の字形に見えるからである。仙ノ倉のセンは滝の方言で、北面に集ゼン、西ゼンの美しいナメ滝がかかり、クラは岩場のことで、倉とも記す。東面の一ノ倉沢もこの意味で、この辺で一番大きい岩場であるから「第一の岩場」である。


人名が付けられたと思われる万太郎山は越後側でサゴーの峰、サゴの頭、又は砂峰山と呼んでいた。サゴとは東南アジア産のサゴヤシの米粒状の澱粉をいうが、頂上付近の風化した砂がサゴ米に似ているため付けられたという。土樽方面で越後富士と呼んでいたのはオジカ沢の頭である。このオジカは大鹿又は雄鹿に故来している。


谷川岳東面のマチガ沢のいわれがよく判らない。マチガ沢は町ケ沢であり、かつて集落があったという説によれば、清水峠越えの物質がここで交易された。清水峠は謙信の関東出陣の最短経路で直路とも呼ばれ、軍道の性格が強かった。川中島合戦以後は関所が置かれ、江戸時代は国留番所が設けられ通行は監視された裏街道である。多くの物資がこの峠を越えて交易されたとは思えない。明治になって清水街道の工事が始まり、明治一八年に新道が完成した。開通後の二二年頃は人力車が百輛、出稼者が七十人も往来したと伝えられるからマチガ沢出合にも交易所の様な番小屋が建てられた可能性はあろう。清水峠を越えた物資を少しでも越後側に近い所で交換した方が上州の人々に有利であった。冬季の豪雪と雪崩を考えると通年の居住は困難であったろうし、清水新道もその後、雪崩で崩壊して途絶していった。


又、マチガ沢はマジカ沢の訛りで真鹿という説もあるが、鹿に関したオジカ沢もあるので狩猟に関係ありそうだが、「町ケ沢」の方が相応しい様である。大正末期、清水トンネルの工事が始まった頃、湯桧曽以北には民家が一軒あったと記録されている。どの辺なのかはわからぬが、この頃にはマチガ沢出合に集落はなかったと思われこの山城に近代アルピニズムの足跡が印されたのは六十年前の大正九年七月である。日本山岳会の藤島敏夫、森喬の二人が土樽の案内人を同行して、土樽から沢をこざき薮をこぎ、茂倉、一ノ倉の稜線から谷川岳の頂上を踏んで天神尾根から谷川温泉に下った。近代登山の幕明けである。十一年前後には我が国登山黎明期の泰斗、木暮理太郎や武田久吉が西海の赤谷川谷、阿能川岳、三国山に踏み入り、十四、十五年にかけて一高旅行部が土樽から万太郎に登り、残雪期には仙ノ倉の頂を踏んでいる。


昭和に入って谷川岳を岳界に紹介したのが慶応大OBの大島亮吉である。交通不便なこの地方にも清水トンネル建設用鉄道が水上まで延びていた。大島は昭和二年三月に二人パーティーで水上からスキーで土合まで登り、武能沢から谷川往復を狙ったがドカ雪で追い返され、谷川温泉にまわって天神尾根から頂上に立った。谷川岳の冬季初登頂である。七月には三人で一ノ倉沢と幽ノ沢の岩場を観察し、更にマチガ沢を遡行して本谷の初登攀をなした。


慶大山岳部機関誌の「登高行七年」に彼は「主として谷川岳の岩壁の下調べに行きたるなり。総じて尚研究を要すべし、近くてよき山なり」と記している。翌三年三月に谷川の岩場に心を残しつつも前穂高北尾根で転落し、不帰の旅に立った。不世出の岳人と云われた大島はこの時三十才である。


三年の秋には上越南線は水上まで開通して谷川に入山が少しは楽になり、慶応、早稲田、法政、一高、東京高師の大学山岳部が入って稜線にトレースを重ねた。


昭和五年になると春から夏にかけて一ノ倉沢の初登攀が相次いだ。ここで一ノ倉沢の概観を簡単に記しておこう。オキの耳から東尾根がマチガ沢を分け、出合の左側より一ノ沢、ニノ沢が流れ落ち、正面に滝沢の大滝が懸かり上部に滝沢スラブが広がる。その右手に第ニルンゼ、第三ルンゼが国境稜線に切れ込んで本谷の第四ルンゼが一ノ倉岳に突き上げる。一ノ倉岳からの一ノ倉尾根が幽ノ沢と区界をなし、本谷側に第五、六ルンゼを刻み、出合の右手に頭上を圧する烏帽子岩、衝立岩、コップ状岩壁の垂壁が立ちふさがる。高度八百mで平均斜度四十五度になり、逆層で雪崩に磨かれ、沢の下半はスラブで上半は垂壁とルンゼが喰い込んでいる。


この年の五月、まず早大の出牛陽太郎が三人で一ノ沢からシンセン岩峰まで登り、七月に青山学院の小島隼太郎の三人パーティーがニノ沢左俣を完登した。同じ七月に東北大の小川登喜男が三人でザイルを組んで谷川に現われた。彼らは一ノ倉沢の核心部に踏み入り、中央壁より急峻で長い第三ルンゼを攀って国境稜線に出た。画期的なケルンが積まれたのは七月十六日のことである。小川登喜男は七年秋に谷川岳を去るまでの二年間の短期間に輝しい初登攀を成し遂げ、多くのトレースを残した。特に一ノ倉開拓史は彼を置いて語れない天才的クライマーである。


秋十月になってはるぱる関西からパイオニア精神の果敢な京大の四名が遠征して来て、一ノ倉に入るが果さず、衝立前沢のガンマールンゼから一ノ倉尾根に出た。


昭和六年は谷川岳登山史上で記念すべき年となった。上越線開通直前の七月下旬に再び東北大の小川パーーティーがやって来た。ビバークを重ねながら幽ノ沢ニルンゼを完登し、右俣を登って堅炭岩に抜けて、更にマチガ沢本谷を詰めて東南稜を登りオキの耳に出た。五日間で三つの難ルートに初の足跡を残すという超人的な技量と体力をみせている。


九月一日、清水トンネルが完成し上越線が開通した。新潟県、特に魚沼の長年の夢が叶い、信越線に遅れること三十二年目にして待望の新潟~上野間の最短鉄路が開通したのである。上越北、南線が徐々に延長されて来たが、最後の障壁は国境稜線の谷川連峰であった。長大なトンネルで抜けることとなり、大正二一年より清水トンネルの工事が開始された。松川、湯桧曽にループ式トンネルを掘って急勾配に対処したが、清水トンネルの工事は落盤、出水に堅い岩盤と難工事の連続で四十四名の尊い犠牲者と巨額の国費を投入し、九年と三ケ月の歳月をかけて完成して、茂倉岳直下を十分足らずで通過することになった。全長九七〇二mは、東海道線の丹那トンネルを抜いて我が国最長のトンネルとなり、開通してしぱらくの間、旅客は少なく、現在なら赤字ローカル線であったが、日本海側と関東を結ぶ最短経路として重要路線となるには月日を要しなかった。


開通後の十月に一ノ倉沢本谷、第四ルンゼに記念すべきトレースが記された。十七日、青学の小島の三人パーティーが本谷を詰めて最後は第五ルンゼとの中間リッジから一ノ倉岳に出た。翌十八日には東北大から東大に転学した小川は二名で第四ルンゼを正確に辿り真直ぐに一ノ倉岳に突き上げた。小川は本谷第二登であるが、第四ルンゼを完登した点では初登攀者と言える。更に小川は十一月、現在でも難壁であるコップ状岩壁に挑み、右岩稜を攀って尾根に出た。当時、不可能と言われた登攀であった。翌年三月、豪雪に埋れて静まりかえった一ノ倉に小川が戻って来た。一ノ沢を登り東尾根から稜線に出てビバーク、翌日は風雪の一ノ倉尾根を降りて積雪期初登攀の珠玉を手にした。


清水トンネルの開通が谷川岳を「近くてよい山」にしたのも事実だった。鉄道の使が悪かった谷川岳の直下に停車場、土合信号所(六七〇m、後に駅に昇格)ができ、上野から夜行日帰りが可能になった。この頃から社会人の山岳会が谷川岳に入山し多くの足跡を残すことになる。二千mに達しないが穂高、剣に劣らぬ岩のゲレンデに駅から直行出来る魅力は現在でも変らない。長い休みの取れない勤め人にとって夜行日帰りできる山の存在は大きい。交通が便利で有数の岩場、冬の豪雪が夏でも雪渓として残り、硬い岩稜が鋭くそびえるアルペン的風貌は同じ標高の他の山では絶対にみられない。これは岳人を引きつける条件であっても、逆にベテランに混じって一般の登山者や初心者が増えて、特に戦後は遭難事故が続発する原因でもあった。事実、開通直後に東京の青年が万太郎谷で疲労凍死した。遭難事故の最初である。単なる鉄道の開通が。山々を大きく変えたのである。


この頃より戦前に活躍した社会人山岳会は東京の登歩渓流会、日本登高会、明峰山岳会、遅れて昭和山岳会であった。特に八年頃から谷川をホームグランドにして岩に取組んだのが登歩渓流会である。東京の下町の江戸っ子が多く、そのリーダーとなり会を率いたのが杉本光作、山口清秀、中村治夫らで、当初は三つ道具は高価だった事もあるが用いず、草鞋ばきで肩で確保してザイルを組んだ。七年六月、山口清秀は一週間で一ノ沢を手始めに第三・四ルンゼ中間リッジ、負傷しながらニノ沢左俣と全部単独で登りきった。夏から秋にかけて日本登高会が南面のオジカ沢、ヒツゴー沢、タカノスB沢を遡行し、西面の赤谷川本谷も東京高師によりトレースされた。


この年の暮、新しいメンバーが加わった。芝倉沢に虹芝寮を建てた成蹊高校である。山荘をベースとして年末から翌春にかけて、堅炭岩に幾つものルートを開いた。この有力メンバーの渡辺兵力、高木正孝らは八年の三月末に一ノ倉本谷・第四ルンゼを完登し積雪期初登頂のピッケルを立てた。山麓にベースを持っている強昧である。


八年の夏に登歩渓流会の山口が単独で一ノ倉・第六ルンゼ右俣を登り、杉本、中村らはタカノスC沢、幽ノ沢の第ニルンゼと右俣に新しいトレースをつけ、一ノ倉沢の核心部では、慈恵医科大の高木文一ら二名で正面の滝沢上部にルートを開いた。第ニルンゼからザッテル越えして滝沢上部に入り、ビバークを強いられ急な草付を慎重にこえて国境稜線に出た。秋になると、再三、小川登喜男がやって来た。九月に衝立岩に挑んで中央稜を攀り、十月には弟とザイルを組んで南稜にルートを開いた。これを最後に小川の姿は谷川岳では見かけなくなった。短期間の度重なる山行で健康を損ねたのである。/div>

一ノ倉の核心部のルンゼがトレースされた中で、頑なに登攀を拒んで来た垂壁があった。滝沢である。出合から仰ぐと正面に黒い岩壁が見え、大滝が懸っている。大滝をさけてザッテルを越えて上部に出るルートは慈恵医大により開かれた。しかし下部は五〇mのハングした大滝と急傾斜の逆層のスラブで、登攀は不可能といわれた。この下部突破が課題であった。昭和九年の四月にこの滝沢に挑み、ほぼ完登したと言ってもよいパーティーがあった。上田哲農が率いる日本登高会の精鋭、中村と宮北の両名が残雪の滝沢に取り付いた。大滝を埋めた三角錐の雪渓を登り、滝を突破した。残されたメモや三時半を指して止った腕時計からして、その後は順調に登攀を続けて稜線の近くまで達したと思われる。後日、二人の遺体が滝沢下のデブリで発見される悲惨な結果に終り、一層滝沢下部が注目される様になった。


この衝撃的な遭難が一段落した五月から渓流会の活動が続く。山口が衝立沢ガンマールンゼをやり、夏には中村らが一ノ倉第五ルンゼを完登し、続いて中村は杉本とザイルを組みニノ沢本谷を詰めて東尾根からオキノ耳に出た。しかし九月に第三ルンゼで明峰山岳会が遭難して一名が滑落死亡する事故が起きた。当時、谷川の遭難は地元ではどうにもならず、後日になって渓流会の手で収容された。


十年になると、登歩渓流会の谷川岳への取組み方は凄まじいものがあった。主な記録だけをひろってみると、厳冬期の二月、杉本は岩田と組んで丈余の豪雪で埋まる万太郎谷を土樽から遡行して頂上に立ち、三月には岩田が単独で北面の仙ノ倉谷の東ルンゼを登り、六月は杉本が単独で一ノ倉のニノ沢に入り、続いて杉本、山口ら五人が衝立岩北稜に登って、七月には山口が村上とザイルを組んで衝立沢アルファルンゼで滝に難渋しながらも一ノ倉尾根に披けている。


このような果敢な登攀は常に危険と困難が伴うが、遂に渓流会から犠牲者が出た。九月中旬、谷川南面の集中登山で事故がおこった。若手の伸び盛りでこの年活躍した岩田、村上の両名が未踏の幕岩でスリップし、オジカ沢に墜死した。会にとっては初の遭難であり痛手は大きかった。翌十一年四月に再び遭難がおきた。山口清秀の弟である。山口は残雪の一ノ倉本谷に入ったが、パートナーと意見が対立し、単独でガスの中を第四ルンゼに消えた。雪崩の最盛期の本谷を狙うには無理があった。ニケ月後、滝沢下の雪渓に変り果てた彼の姿があった。


昭和八年頃から、意欲的に集中して谷川岳の各ルート開拓に心血を庄いだ登歩渓流会であったが、杉本光作の言を借りれば「今まで「実業登山家」と呼ばれて一種の侮蔑の目で見られていた私達も、近代登山を谷川岳に実践してその力量を実証したのだった。」その結晶が十一年秋に出版された大冊、「谷川岳」である。


一ノ倉に次々とルートが開拓されて行くなかで登攀を拒み続けていた滝沢下部にも登歩渓流会は情熱を傾けて来た。特に杉本は昭和八年に一ノ倉に初めて入山し、第三ルンゼを完登した時から滝沢に関心を持ち、九年秋に滝沢上部の第五登を果してから下部突破の機会を狙い、試登を繰りかえして偵察と研究は怠らなかった。


昭和十四年九月二十六日、遂に滝沢下部が完登された。まったく初めて谷川岳一ノ倉にやって来た慶応大の学生、モルゲンロートの平田恭助が登攀者である。彼は滝沢が未登であることを知り、直前に北アルプスでトレーニングをして登山相手の北アのガイド、浅川勇夫とザイルを組んだ。垂壁の草付バンドからトラバースしてハングした大滝を突破、滝沢本谷を登って、四時間の苦闘の末、国境稜線に出た。登った証拠に「トラバース中、ハチマキをさいて榛の木に結びつけた。」当時では珍らしく新聞に「谷川岳、未登の滝沢、初登攀される」と大きな見出しで報道された。 新聞を見た杉本は切歯扼腕した。彼が滝沢を観察して可能性を見い出した草付バンドから登ったのである。十月、杉本は何くそ、と滝沢下部に取り付くが追い返され、再度挑戦して同ルートの第二登に成功し、七年間も狙い続けて初登攀できなかった無念を晴した。


平田恭助は滝沢を完登したものの他の一ノ食のルートは知らなかった。当時、宿願だった難壁の初登攀者が一ノ倉を登っていないでは彼のプライドが許さなかった。一ノ倉で出会った渓流会に入会し杉本や、風雪のビバークの松涛明らの知遭を得る。その後は残された時間を惜しむかの様に北アから北海道に積雪期山行を二十回も重ね、翌春の五月に一ノ倉に戻って来た。彼は藤田とパーティーを組み、一ノ倉本谷を登っていった。午後から天候が崩れて夜半に稜線では雪が舞った。消息を断って三日も戻らぬことから遭難が確実視され、不明者が平田であるため騒ぎが大きくなり捜索隊が出された。一ケ月後、衝立沢の雪渓の下に変り果てた平田を杉本が見つけた。更に遺体収容の日、誰も夢想もしなかった破局が待っていた。収容作業を開始直後にブロック雪崩がおき、サポート隊の三名が捲き込まれて二重遭難する悲劇が起った。一ノ倉の過酷な試練であった。


昭和の初め、大島に紹介されてから十余年、滝沢が完登されて一ノ倉沢の開拓期は終りを告げた。


 戦後、世相が一段落すると一ノ倉沢にもハーケンがこだました。昭和二五年、浅間、草津白根とともに谷川連峰が上信越高原国立公園に指定され、二九年にマチガ沢から西黒尾根に新しい登山道が聞かれた。沼田営林署の竹花巌と小川副の両氏の努力で完成し「巌剛新道」と命名された。三五年には東武資本により西黒沢から天神平にロープウェーが架設され、二十分で千五百mの稜線に立てるようになった。通年営業のため観光客の急増をまねき、山頂駅周辺はスキー揚が開設され、初滑りと春スキーを楽しひ若者がシュプールを描いている。


戦後の谷川岳で活躍した山岳会は、二十年代からの緑、鵬翔、日本山嶺の各会、三十年頃からベルニナ(のちのJCC)、雲表、山学同志会、独標、雲稜会などで、若手の精鋭が先人のトレースを追い、新しいルートを追い、新しいルート開拓と積雪期登翠に積極的に取り組んで挑んでいった。


昭和三十年頃から登山者も増えて土曜や休日前夜の上野発二十二時の夜行列車は混みあい、土合駅ホームはシーズンともなるとザックで溢れた。ベテランから初心者まで玉石混淆となると事故も多発する。交通が便利になっても谷川の自然の厳しさは変らない。戦前の開拓期、昭和十年の秋で十六名だった事故死者が、戦後は遭難続発に伴い増加し、昭和二七年には一〇〇名を越え、三〇年七月では一七八名の多きを数えた。度重なる遭難に手を焼いた地元群馬県は、三三年からシーズン中は土合に県警の山岳警備隊を常駐させて事故防止に全力をあげるが、遭難は増加の一途をたどった。


一ノ倉の核心部は戦前に主なルートは登られてしまったが、この頃、未登壁で注目を集め試登がくり返されたのが衝立岩の岩壁である。出合の右手に頭上を圧して立ちふさがる巨大な壁で、烏帽子奥壁、衝立岩正面壁、衝立コップ状岩壁がおよそ三〇〇mの高距で垂直、あるいはハングして屏風状に聳え立つ。一ノ貪の核心部のルートはルンゼやスラブが多いが、この三つの前衛壁は巨大なフェースである。


烏帽子奥壁は昭和十五年に渓流会の丹羽パーティーが初登攀しているが、岩が一ノ倉では異例な程に脆く自然落石も多く、登攀の難しさは少しも変らず、ようやく数パーティーが尾根先端の烏帽子岩に達した位である。この奥壁に新ルートが開かれた。昭和二九年、ベルニナの古川純一が変形チムニールートを攀り、三三年には雲表の松本竜雄と奥山章の両パーティーが凹状岩壁に、そしてJCCの小森康行が中央カンテに各ルートを開いた。


だが、衝立岩の正面壁とコップ状岩壁は今だに未登であった。逆層の巨大なオーバーハング、脆く剥げ落ちる壁は従来のハーケンだけでは登れず、不可能とさえ言われた垂壁であり、ともにハング突破が登攀の鍵である。多くの山岳会が虎視眈々と狙っていたが、その中で未登の逆壁に執念を燃していたのが緑と雲表、雲稜の三つである。緑山岳会は二四年以来十年、コップに執拗に取りついて試登をくり返していた。


昭和三三年、四年は谷川岳登攀史でエポックをなす年となった。三三年は厳冬期に衝立沢のベータ、ガンマールンゼ、衝立中央稜、烏帽子南壁が攀られ、春から夏にかけて烏帽子奥壁に二つのルートが開かれた。


六月、衝立岩のコップがついに墜ちた。衝立沢の奥に立ちふさがって、ちょうどコップを縦に割った様にみえるのでコップ状岩壁と呼ばれる。高距三〇〇mのコップの底にあたる下部に四mの大オーバーハングが挑戦を拒んで来た。六月十五日、緑山岳会と雲表倶楽部が同時に壁に取りついた。緑は十年狙い続けた寺田甲子男が指揮をとり、左側のルートから、雲表は松本竜雄が三年前より試登していた右側にルートをとった。下部の大ハングにかかりピッチがおちる。傾めの天井、あるいは真上の壁に緑はコンクリート釘を打ち、雲表は埋め込みボルトのジャンピングをたたき込んだが、巨大ハングは越えられなかった。


翌週二十一日、再び先週打ったボルトを追って逆壁に挑んだ。緑の執念は八〇本のハーケンと六〇個のカラビナ、一〇個のアプミ、それにコンクリート釘に速乾剤にセメントまで用意し、五本のザイルと縄梯子まで担ぎ上げた事にあらわれている。雲表は新兵器の埋め込みボルトで初登攀を狙った。基部のスラプでは雑誌社とTV局のカメラが彼らの姿を追っていた。数m離れて両パーティーは 互いに攀る姿を見ながら、激しい闘志に燃えていた。ボルトや釘を打ち、アブミに足をかけ、身体は壁から離れ、ザイルを引いて宙に乗り出す。三〇分で一mも奪えぬ登攀が続いた。下部の大ハングを乗り越えて上のテラスに出た雲表の松本は、テラス直下で苦闘している緑の山本にザイルを輪にして差し出した。山本は友情のザイルに手を伸ばしテラスに立った。ここに衝立コップに二つのルートが聞かれた。テラスから上の垂壁も悪く、二隊の五人は一つのパーティーのように混じり合ってザイルを結んだ。スラブと草付の壁に時間をくい烏帽子尾根懸垂岩に出る頃、夕暮が迫った。ビバークした彼らが帰宅するより早く、全国紙がコップ状岩壁の初登攀の成功を報じた。末登の大ハングを人工登翠で登る写真までのせ、革命的な手段を用いて長年にわたる労苦が戦いとった輝しい勝利であると……。同じくコップを狙っていて遅れをとった雲稜会の南博人は四日後に第三登をなしている。


雲表の松本竜雄はこの年、七月に一ノ倉滝沢の第二、三スラブ、八月に北穂高の滝谷C沢右俣など七ルートの初登翠をなし遂げ、戦後の谷川を代表するクライマーの一人になった。


翌三四年もビッグクライムの朗報がもたらされた。厳冬期の二月末、衝立のコップ状岩壁が又も緑と雲表の両パーティーにより、同日に昨夏と同じニルートから攀られた。凍った雪はガラスの壁となり、頼りにならないボルトに身を託し、凍てつく寒気に眠れぬビバークを強いられた。緑と雲表は衝立コップの難壁の初登攀を夏冬とも分ちあった。


七月下旬、一ノ倉沢の滝沢とニノ沢を分ける末登の岩稜、滝沢リッジが横須賀山岳会の四名の六日間にわたる攻撃で登られたのもつかの間、最後の壁といわれた衝立岩正面壁を雲稜会の南博人が完登した。衝立の正面壁は脆い逆層のスラブに二段の大きなハングが頭上にのしかかり、豪雨でも濡れない大岩壁である。一ノ倉だけでなく、我が国でも最後まで残された壁で、それだけに幾つかの山岳会が最後の栄光を手にせんと狙っていた。壁にはそれらの挑戦者のボルトが打たれ、固定ザイルが幾重にも張られて無残な傷痕が残されていた。


雲稜の南は三三年から四回の試登をして適確な目で岩を読んでルートをさがしていた。八月十五日、南は藤と二人でザイルを組み、四人のサポート隊をつけ五回目の正面壁にアタックした。前回の三日間で五本のボルトと二〇本のハーケンを打ち込んだ下部ハングの突破が第一の難関であった。首をそらして天井にボルトを叩き、ハーケンを打つ。両足は壁にふれず、振れる体でハンマーを振う。脆い岩からハーケンが抜け、宙に落ちる。重力に逆ってセンチメートルを奪い取る闘いである。ハンモックに揺れて二晩のビバークの末、三日日に下部のハングを乗り越えた。上部の二回のハングを越えても脆い垂壁が続く。小さなスタンスに片足の爪先で立ち、リスを探す。スリップで滑落もした。体力の限界を超えた四目日(十八日)衝立の頭が潅木のむこうに見えた。南は胸の高鳴りを押えることができなかった。


八月末、雲表の松本は南の残置ボルトを辿り、二日で第二登を果しているが、四日も要した南の初登がいかに苦闘であったか判かろう。南は翌年二月の厳冬期、同ルートを攀り、真冬の衝立岩正面壁の初登攀の栄光をものにした。


未登の難壁が登られ「衝立ブーム」がおこり、我はと思うクライマーが続々と衝立岩に集まった。シーズンの日曜は早朝からザイルを肩に旧道を一ノ倉へと急ぎ、遅ければ下で順番を待たねがならなかった。そんな折、衝撃的な事故が起った。衝立岩宙吊り遭難である。三五年九月十九日、衝立岩正面壁上部でザイルで結ばれたまま墜死しているのを警備隊員が発見した。横浜の蝸牛山岳会の二名が滑落した。現場はハングした悪壁で、遺体収容は困難に思われた。二十日に衝立に登りに来たJCCの小森、服部が協力を申し出て、現場に向った。宙吊りのザイルには、小森、服部の技量をもってしても届かず、ザイル切断は不可能に近かった。更に二重遭難も予想され、この危険は避けねばならなかった。救助本部で自衛隊の出動が検討されたが、某新聞の記者の早合点で、二一日朝刊に「自衛隊出動、ザイル銃撃か」の見出しで報道された。現場の本部は驚いたが、論議した末に自衛隊の出動を要請した。二四日、陸上自衛隊相馬ケ原駐屯部隊の五〇名が出動、ザイルを銃撃で切断することになった。当日は朝から現場や地元関係者、警備隊と報道陣に野次馬を含めておよそ一〇〇〇人が一ノ倉出合に集まり、見守る中で銃撃が開始された。弾はザイルに当るが切断出来ず、関係者の間から溜息がもれた。午後再開され、壁に接したザイルを狙うとほどなく二本のザイルが切断され、二名の遺体は衝立スラブに音もなく落ちた。


最後の壁と云われた衝立岩正面壁が登られてから一年余、多くのパーティーが正面壁を登り、ハーケンやボルトが無数に連打され、壁が傷だらけになっても、衝立正面はやはり最後の壁であり、壁が易しくなったのではない。この遭難はザイル銃撃という世界の登山史上でも例のない事故処理であり、多くの社会的批判を浴びた事件であった。その後、衝立岩の宙吊り事故は数回おきている。


登山ブームを反映して谷川岳の遭難者も年をおって増えていった。四一年は全国各地で遭難が多発、死者一八六名に達し、谷川岳ではこの一年間の遭難が三八名と多く、そのたびにキリキリ舞いさせられた群馬県は十二月に谷川岳登山規制条例を定めた。世に言う遭難防止条例である。三月から十一月末まで、東面の一ノ倉沢、幽ノ沢、マチガ沢と南面の岩場に登る際は事前に登山計画書の届出を義務づけている。登山を規制する点から反発も強く、識者からは続発する遭難を考えれば当然という声もあって、社会的反響も大きかった。この条例では県知事が悪天候や雪崩の危険が多い場合は禁止措置を取ることが出来、十二月から二月末の厳冬期の規制は設けてなく、凍てついた岩と多発する雪崩で、命と交換して登る危険が大きい事は判りきっている。冬季は危険地区の岩場は登らないことを前提としている。


条例の賛否の論議が収まらぬうちに四二年の正月を迎えた。新年早々から北ア、八ケ岳、十勝岳、谷川岳等全国各山で遭難が続いた。 「いつまで繰り返す冬山遭難」の大きな見出しが全国紙の紙面を埋めた。当時の新聞をめくると「昨年暮から正月登山の遭難事故は警察庁などの調べによると、全国で二十件以上死者行方不明五十名を出し史上最悪の冬山となった。……山岳専門家たちは無知、無謀な行動と口をそろえて指摘している。自殺行為だけでなく、二重遭難という遭難が遭難を呼ぶような悲惨な事故がどうして跡を断たないのだろうか。


その二重遭難が谷川岳でおこった。◎◎市の山岳会の十人が正月登山で一日に人山、一ノ倉沢から三隊に分れて頂上に向った。下山予定の四日を過ぎても三人が帰らず、東尾根シンセン岩峰で消息を断った。約五十人の救助隊が土合にかけつけた。マチガ沢出合をベースとした捜索隊のテントに十日早朝、表層雪崩が襲い五人が捲き込まれて死亡した。一方、行方不明の三人は十一日に新聞社のヘリコプターが東尾根で発見、二人を吊り上げて救助した。一名は九日に雪洞で息をひきとった。入山してから晴れたのは一日だけという猛吹雪が続き、一晩で六〇センチの新雪が積る天候であった。三人のうちりーダーが冬山を一、二度経験しているだけで、他の二人は末経験者だった。三人は入山した一日、天候悪化で引き返す二組のパーティーに出会いながら、引き返す勇気がなかった。と言うよりも冬山を知らなかったと言える。


条例が施行された四二年はこの二重遭難を含めて十八名と半減したが、数名に激減したわけでなく、四四年には五〇〇人を越え、その年八月末で五〇七名という遭難死亡の犠牲者を数えた。アルプスのアイガー・マッターホルンは遭難が多く「人喰い山」、「自殺クラブ」といわれても一五〇年程で二、三百人であるから、谷川岳の遭難者が途方もない数であることがわかろう。魔の山と呼ばれて久しい。遭難の大半が一ノ倉沢で、90%以上が岩場の事故である。又、脊稜山脈で裏日本と表目本の気候の境界にあたり、天候が急変して晩春でも吹雪となる。春、秋山で稜線での疲労凍死も多い。辛夷(コブシ)の花が咲く五月、山稜の雪は雪崩れて沢筋を磨き、メイストームが吹き荒れて、連休は遭難が続発する。


開山から五十周年の今年(五六年)、すでに八名の墓標が立った。
 土合を見おろす広場の遭難碑「山の鎮」の余白も僅かである。開山以来の遭難者六九三人の名が刻まれた。


おりひめ第17号より転載

墓標.jpg

平成17年の統計では遭難者781名の名前が刻まれているそうです。・・・合掌

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エアマックス 2012

突然訪問します失礼しました。あなたのブログはとてもすばらしいです、本当に感心しました!
by エアマックス 2012 (2013-07-28 12:40) 

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