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おりひめ21 [おりひめ]

遭難の記事が続き恐縮ですが・・・
34年も前の大きな悲劇です、R先生の貴重な警鐘として残しておきたい 

高校山岳部の遭難


今年(八六年)も年明けから山の遭難のニュースが報じられた。毎年くり返される年末年始の遭難騒ぎであり、多くの死者、行方不明者が出て、社会的批判をうける。未熟な技量、天候の判断を、充分な日程をとれ、更に引き返す勇気を、という登山界の指導者や地元関係者の論評が紙面に載る。新聞の見出しからひろってみると、年末の三十一日「冬山合宿、高校生死ぬ」、一月三日「年明け遭難続出、北ア・中アで滑落して四人が不明」「剣岳でも一人」、四日「新雪に四人のまれる、青森・岩木山、スキー進行中に雪崩に」(朝日新聞より)この年末年始にかけて山で遭難した死亡、行方不明者は十二人にのぼった。

高校生が蔵王で死亡した事故は何とも気の毒な面があり、注意すれば未然に防げた遭難である。概要を記すと、山形県蔵王スキー場で雪山訓練で雪洞に寝ていた県立山形東高校の山岳部一年生の二人は雪洞が崩れて生き埋めになり、一名が死亡した。同高山岳部は一、二年生の八人が二名の教員に引率されて、二十七日から三泊四日の日程で蔵王の冬山合宿に入った。二十九日夜は三つの雪洞とテント一張に生徒二人ずつで寝た。
翌朝、四時半の起床に二人が起きてこないので他の生徒が起しに来たら、雪洞が潰れているのを見つけ、すぐに掘り出したが一名は窒息死していた。

助かった生徒の話によると、ひと眠りしたあと突然雪洞が崩れてきて助けを求めたが、 S君は三十分位で声がしなくなったという。二人の寝た雪洞は斜面にタコツボ状に掘ったもので、奥行二 m 、高さ八0cm である。これでは居住性も悪く、酸欠の危険性もある。
天井は二十 ~四十cmと薄く、夜半に雪洞の上の枝から雪が落ちて崩落した。そばにあったアオモリトドマツの枝からの落雪で潰れるような構造では危なくて泊れない。

確かなことは言えないにしても、その二人の一年生部員は雪洞を掘るのは初めてであろうし、まして雪中泊は初めての体験であったのだろう。現場で設営に立ち会った顧問はどのような指導をしたのかは判らぬが、引率した顧問のうち一名は前日に下山しており、ニ十日は K 教諭(三十才)だけだった。事故当時(その日未明)は現場から五00 m 離れた山小屋に宿泊していた。冬山はほとんど初心者の一、二年生の八人をも引率した顧問としてはいささか気になる行動である。

何かの用事で顧問の一人が帰ったのであれば、当夜は生徒と一緒に泊るべき立場である。生徒と離れて泊る際、注意をしたと思われるが、まさか雪洞が潰れるとは考えもしなかったのだろう。
問題は雪洞を掘る地形の選定やその構造であり、ビバークを強いられて雪面や時間が限定されたのでなければ、硬くしまった斜面を選び、横穴式のしっかりした雪洞を掘らなければならない。
設営時に安全面での細心の注意をはらって欲しかった。生徒の引率、指導上の責任は、当然、顧問にあるにしろ、現在の高校生の年代は雪遊びをほとんど経験していないことも遠因でないかと思う。雪に慣れ親しめる地方の高校生の事故であったから、尚その感を強くする。

高校山岳部の遭難で大きな教訓を残したのは逗子開成高校の八方尾根遭難である。
八十年の暮から八一年一月にかけて襲った「五六豪雪」は各地に大きな被害をもたらし、山では遭難が続発して死者、行方不明者三十七人を出し、救助された者は107人にのぼった。
連日報道される冬山遭難騒ぎのなかでも、高校山岳部六入全員が消息を断つという衝撃的なものであった。
年の瀬、全国を襲った記録的な大雪は二+四日から東北各地の国鉄、道路を寸断し、吹雪の谷川岳ではヒマラヤ登山の訓練に登った栃木県の六人が帰らず、帰省が始まった年末には北陸地方の国鉄がマヒ状態になって、猛吹雪の続く中部山岳一帯の各地から登山パーテイーの救援、行方不明の報が相続いた。

一月二十九日朝、長野県の大町署に神奈川県逗子市の私立逗子開成高校から「教師一人と生徒五人が、ニ十五日から北アの唐松岳に登ったが、予定のニ十七日を過ぎても連絡がない」との届け出があった。
翌朝の新聞に「唐松岳の六人帰らず’逗子開成高のパーティー」の見出しが各紙社会面のトップに載った。

一行は顧問の H 教諭(四十一才)、生徒は二年三名、一年二名の男子五人で、引率の教員は冬山登山のべテラン、装備や食徴も十分で、ビバークして吹雪の止むのを待っている可能性がある、と報じている。
計画では前夜に横浜を発ち、ニ十五日は八方屋根に登り、国民宿舎の八方池山荘付近に一泊、ニ十六日、唐松岳(ニ六九六 m )に登頂、同夜は唐松岳山荘に宿泊し、二十七日に下山になっていた。全員が冬山装備で三日分の食糧を持っているが、白馬連峰は二十六日から猛吹雪が続いているので消息が気遺われた。

スキー場で知られる八方尾根は冬休みに入ると首都圏や関西方面からのスキー客で賑わい、兎平に行くケーブルに朝から長い列ができ、リフトは長時間待たされる。
このケーブルとリフトを乗り継ぐと一九OOm の国民宿舎まで歩かずに行けるため、冬山訓練を兼ねた大学や社会人のバーティーが唐松岳を目指し、八方尾根のツアーを楽しむスキーヤーが多く入る。
そのため一行六名と行動を共にしたり、目撃した登山者からの情報がいくつかあった。
ニ十五日の入山から翌二十六日朝まで一緒に行動した成跳大パーティーの話によると、同高校は登る途中で教師からアイゼンのつけ方を習っていて、冬山の基礎技術はほとんどなかったようで、二十六日の朝に第二ケルン(二千五十m 付近)で別れたという。
と、すれば、二十五日は予定の国民宿舎付近で泊らずに第二ケルンまで登って幕営をしたのである。

二十六日朝、テントをたたんでいるのを見かけた東京歯科大の二人は、唐松岳まで登る予定であったが、吹雪で第三ケルン(二一四十m 付近)で引き返した。第三ケルンは丸山ケルンとも呼ばれ、第二ケルンより一Km西にある。二人連れは戻る途中、八方池(第三ケルンのすぐ下)近くで一行とすれ違っている。
更に午後一時半頃、第三ケルンで休んでいるのを見た他のパーティーがあり、これが最後の目撃者であった。昼前から天候が悪化して引き返す登山者と出会いながら、何故早目に戻らなかったのか。それとも予定通り唐松岳に登頂しようとしたのだろうか。

二十九日に唐松岳に登った日大パーティーからの無線連絡によると、山頂近くの同山荘には誰れもいなかったという。寒波の中休みとなった三十日朝から、長野県警の要請をうけた陸上自衛隊のへリコプターによる捜索が開始された。
松本を発ったへリは午前九時すぎ、八方尾根の第二ケルン脇にオレンジ色のテントを発見、現場に強行着陸して救助隊員二人が降りた。雪に埋れたテントに記入された校名を確認したが、テントは無人で付近にも人影はなく、張り綱のあたりに無造作に差してあるスコップやテント内の様子から、六名がすぐに戻って来るように見えた。
中には寝袋六つ、炊事用具一式、サブザック四つ、食糧、ワカン五つ、へッドランプ等の装備が残されてあった。消息を断って四日目、生存はほぼ絶望的となった。
三十一日の捜索も空しく、春まで打ち切られることになった。

八方尾根といってもスキー場の上部は二千m をこえ、白馬連峰から東に伸びる大きな支稜である。厳冬期は豪雪、吹雪の悪天候が続くのが普通であって、晴天はむしろ珍しい。麗のスキー場でも強風でリフトやケーブルが止まり、ケーブル終点の兎平のリフトが一晩のドカ雪で埋ってしまうことがあり、スキー場のゲレンデから上部は冬山登山の領域なのである。八方尾根では今までにも氷雨にうたれ、吹雪で倒れた登山者が何名かいる。その慰霊碑が一七00m から上に建てられた三つのケルンである。

これらのケルンは霧や吹雪に捲かれた登山者を無事に導いたことも多かった。
第二ケルンは国民宿舎から急坂を少し登った地点にあり、尾根はゆるやかに広がって平坦になっている。そこからは白馬連峰が右手に見え、左に五竜と鹿島槍が、振り返ると妙高、浅間、遠くに八ケ岳と富士山が浮かぶ眺望が広がる。夏なら腰を下して一息入れたくなる。
しかし、冬季は強風の吹きすさむ広い雪稜となり、所々に岩がのぞいている。稜線からはづれた斜面の吹き溜りの雪は深く、乾燥した粉雪は滑降すれば雪煙の舞うシュプールを描く。バランスを失って転倒するとすっぽりと埋って手足をもがくと沈み、雪にまみれて難渋した経験がある。

五月の連休に再開された捜索は、逗子開成高校の職員と OB 、神奈川県高体連登山部、横須賀や湘南の山岳会、それに地元遭難救助隊の凡そ四十人で隊を編成して、ニ日から第二ケルンと第三ケルン中間のオオヌケ沢を重点に行われた。
残雪の沢を下り、ゾンデ(四 m の細い鉄棒)で雪面を刺しながら稜線にむかって登った。消息を断ってから四ケ月、その間に一行六名が辿ったコースが億測され、吹雪に迷って沢に入り、雪崩にやられたのではないか、という推定で捜索が再開されたが、ゾンデの先は異物に触れず、何の手がかりも得られなかった。
ところが五月一日朝、残雪の沢をつめて唐松岳を目指して登山中の仙台市の三人パーティーが、二股発電所上流の南股川で遺体を発見した。遺体発見の一報が二日夕方、大町署に連絡が入った。
県警の調べでは、着ていた赤いヤッケと安全べルトから行方不明となっていた逗子開成高校の二年生の一人と確認された。現場の南股川は八方尾根の北側の沢で、ニ日に捜索隊が人った沢とは反対側になる。
捜索の重点を南股川に移し、四日までに教員と生徒一名、六日に残る三名の遺体が見つかり、消息を断ってから百三十日目に全員が発見された。

六人は川沿いに百m程の問にかたまっていて、状況から雪崩にやられたのではないらしい。身につけていた着衣や見つかった装備をみると、ヤッケ上下、安全べルト、ミトン(大型手袋)ピッケル、アイゼンは全員で、他にザイル二本(十一ミリ、四十m )、魔怯ピン、サブザックニ個?である。非常食はテントに残していったから空身で出発した。

テント脇で氷雪の訓練をするのならば別であるが、この装備で第三ケルンまで登っている。磁石は持たず、ワカンは全員が置いてツェルトやスコップ、へッドランプの装備もテントに残していった。コース目印用の小旗もなかった。冬山でべースを離れて行動しようというのならば、ビバークも出来る万全の用意が必要である。また、アイゼンよりはワカンを、魔法ビンよりは非常食を、ピッケルよりは地図と磁石を、というように装備の使い方に問題がある。

逗子開成高校の山岳部の活動状況はどの様であったのか。朝日新聞の特集記事「逗子開成高の遭難」(八一年六月十一日)によると) 一年生三名のなかで最も経験のあるK君は、今回が十回目の山行で、雪山は春の八ケ岳が一回だけであとの主な山は木曽駒、薬師、北岳の夏山であって冬山は今回が初めてである。他の二名は春山の経験もなく、まして一年生は雪を見るのが初めてといった初心者であった。

高校の場合、顧問が実質的なリーダーであることが多いが、顧問のH教諭の山歴はどうであったか。当初の報道では’冬山登山のべテラン登山歴が二十年といわれていた。
ところが関係者の話では冬山を本格的にやったこともなく、神奈川県高体連が主催する八ケ岳の冬山研修会(毎年二月)にも参加したことがないという。
山歴二十年というのは高山植物の採集を主とする夏山であって、冬はスキーに行ったことはある。お花畑で知られる白馬岳に登ったり、八方尾根には仲間と滑りに来たことはあるのだろう。現地を多少は歩いた経験があるのでないかと思われる。確かに第ニケルンから第三ケルンまではいくらもない距離で、国民宿舎の家族連れが敵策を楽しむ道である。 c れは夏山の話であって冬山はそうはいかない。

山の雑誌にも、八方~唐松岳ルートは冬山入門コースの一つとして紹介されている。遭難直後、地元の遭難救対脇の話でも「このコースは天候がよく冬山経験者であれば、一泊三日の日程で必ずしも無理なことはない。しかし経験者が一人だけのパーティーでは余りにも無謀だ」と顧問のとった行動が信じられないという。
一行の技量以上のコース設定の誤りを地元でも指摘しているが、べテランといわれた教員に冬山の経験がなかったのだから、これは無謀でなく何と言ったらいいだろうか。

前出の特集記事にワカンのことがある。山行の準備をしている時に、顧問は今回はワカンはいらない、練習に使いたい者は持っていけ、と指示している。二、三の生徒は出発前に他人も持っていくので買ってきた。そのワカンを全部置いて行った。春になって見つかった顧問のカメラに最後のスナップ、遺影というべき一枚の写真がある。
生徒全員がフードをかぷり、安全べルトをつけ、ピッケルを手にして頂上を踏んだような姿で並んでいる。撮影地点は第三ケルンの下あたりと思われるが、 この帰路に吹き狂う白魔が待ち構えていようとは夢にも想わなかった。

みるみるうちに踏み跡が消えてしまうドカ雪にはアイゼンではどうにもならない。北アルプスに登るからワカンなどは不用と考えたのか。朝日の本多勝一記者は「この時期この山でワカンがいらないとしたら、世界にワカンのいる山はない」とまで断言している。

三年続きの暖冬にピリオドがうたれ、上旬から寒波に見舞われた八十年の十二月は大雪であった。
十四日はこの冬一番の冷えこみで東北地方と日本海側で雪となり、二十三日から二十四日にかけて本州南岸を低気圧が通り、東方海上に抜けて台風並に発達した。この低気圧は東北、北海道にクリスマス豪雪をもたらして国鉄はマヒ状態になり、漁船の遭難が相続いた。

東京近郊も雪が降って大雪注意報が出た。十五日、日本海に低気圧が発生して東に進み、二十六日(この日に消息を断った)は冬型の気圧配置に戻り、日本海側は雪になり夕方から夜半にかけて低気圧は発達して三陸沖に抜けた。
二十七日から冬型は強まり、北陸地方に年末の記録的な豪雪が降った。中旬から日本列島は寒気団におおわれていたのである。
冬季に低気圧が日本海を発達して通過する際、中部山岳一帯では接近する前に風が弱まり雪が小降りになって回復するようにみえる。それは一時的な晴れ間であって、通過後は北西風が強まり、寒気が入って山では猛吹雪となる。
二十六日は「日本侮低気圧」の天気図であった。この地域の山を知る白馬村のパーティーは同じコースで唐松岳を目指したが、天候の悪化の兆しが現われたのを見て、二十五日すぐに下山している。地元のべテランとはいえ、この天候の判断は正しかった。

この「日本海低気圧」で遭難した例では、二十三年前の、三八豪雪"の一月に北ア・薬師岳で遭難した愛知大がある。
低気圧接近前の晴れ間をねらって太郎小屋から頂上に向ったが全員帰らなかった。十三名が一度に消息を断っという悲劇で、同じ日に登頂した日本医大の一行は無事に下山している。この時も小屋にザックや食糧を置いて軽装備で出発した。秋までに全員が遺体で見つかり、山岳史上に残る大量遭難であった。

大雪警報や雪崩注意報が出ているなかを、何故行動したのか。
二十六日は朝から雪であったが風はまだなかった。

唐松岳に登るには遅すぎる午前十時すぎテントを出発した。すでに時間的にも登頂は断念したと思われるが、顧問が行動を指示していたとすれば、この山行にたいする顧問の心境を示すニつの証言がある。
出発前に一年生の父親(県立高校教諭で山岳部顧問)は、未経験の息子の山行に反対して不参加の旨を伝えたら、 H 教諭は「いや、雪上訓練だけですよ。冬山の生活技術の習得ですから」と答えている。当初の報道では二十六日に唐松岳登頂、同夜は同山荘に泊り、翌日下山の予定になっているが、計画書では二十六日は唐松岳往復と記されている。
この父親は一日だけでは上まで登れず、八方尾根で幕営して雪上訓練ならば、と息子を参加させている。

また捜索が打ち切りとなった翌日の元日に配達された年賀状には「山岳部の冬山合宿、唐松岳に登り冬山の厳しさと美しさを狭いテントの中で語り合いました」の文面に顧問の気持ちが込められていて、心の中に唐松岳があった。

天候は下り坂で登頂は無理でも、ここまで来たのだからもう少し上まで行こうと出かけた。
登る途中で引き返す東歯大の二人連れに出会っている。午後、第三ケルンに着いた頃、最後の目撃者が下山している。
小休止して戻ろうと吹雪のなかを下り始めた。第三ケルンからしばらく降りると、尾根は緩くなり第二ケルン手前で平坦地となる。視界がきかず、踏み跡も消えかけた雪面では直進するのは難しく方向も定かでない。吹き荒れる雪で上下の区別さえ怪しくなってきた。

テントらしき白い三角形を見つけるが、それは大きなシュカブラであった。歩き廻り第二ケルンの石積みを探した。五m先も見えぬ白く塗りつぶされたなかでは、探すことが無理だった。
クラストした硬雪につまづき、吹き溜りに足を取られながら六人は離れないように一団となって歩いた。先ほど見たようなシュカブラに出会った。同じ地点を廻っているように思えたが、すでに方角も判らず、とにかく吹雪に向って進もうとした。ふぶく雪が暗灰色となり、刻 々と夕闇がせまっていた。

手探りで歩いている雪面の傾斜がまして、いつしか雪は腰まで埋まり、膝で雪を押さないと進めなくなった。地形の判断がつかなくても急な雪面を降りていることに「おかしい」と気付いたに違いない。平坦な尾根を東に進むべきところを、北に向ってガラガラ沢に入り込んでいた。おそらく一度は戻ろうとした。ピッケルで雪を落し、踏み固まらないステップに足をのせが、崩れて沈むだけだった。雪にまみれて何度もくり返すが無駄だった。
一歩でも尾根に近づこうと努力をすれば、小さく雪崩れてくる。ワカンがなくては身の没する斜面を登り返すのは不可能に近い。

ここでどう判断したかは判らない。登るのはとても無理だが、転んでも何とか下降はできそうだ。この沢を降りて行けばスキー場の細野の集落に出れると考えたのか。晴れていると八方尾根からは麗に細野の家並みが見える。この眺めを頭のどこかに描いていた。

ふたたび、六人は吹雪の渦捲く谷底に踏み出した。雪をかき、泳ぐように転がりながら、歩くよりは滑り落らながら沢を下った。眼も開けられない吹雪のなかを歩まねば生への道は閉ざされる。
雪は一層激しくなり、しだいに前後の問隔がひらいて遅れる者が出た。先頭は胸まで潜る雪と格闘して前に進もうとするが、雪に沈むほうが多かった。いくらも下降しないうちに、辺りは夜の闇につつまれて急速に気温も下がった。動きを止めると容赦なく雪は顔まで白くして濡れた着衣は寒気で硬く凍った。疲れ果てた六人には空腹も寒さもなかった。虚な耳に白魔の吃味が聞えるだけだった。

遣体が発見された南股川から推測すると、第ニケルンの手前からガラガラ沢を降りたとみられる。八方尾根から南股川までニ版で標高差が九百m 、そこから二股の発電所まで川沿いに三Km 、発電所から細野まで三kmある。この猛吹雪とドカ降りの雪ではとても歩ける距離ではない。不可能と判っても下界に一歩でも近づこうと必死に吹雪と苫闘して力尽きたか、又は装備もないままビバークして極寒に耐えられずに果てたかであろう。

この年の冬は気象条件が悪く豪雪も予想され、気象庁の飯田睦次郎氏は、山の雑誌の新年号で「ここ十年近くの間、荒れ狂う吹雪が一週間も十日間も続いたことがない。そのような荒天になれば、経験の少ないリーダーや初心者によって、昭和四十四年正月、北ア・剣岳一帯で起きた大量遭難騒ぎ(死者六人、不明十二人、救助を求めた者八十人)がくり返されることは必定であろう。
過保護な現代っ子登山者が増え、あ<までも頑張る精神が失われつつあるので・・・」と警告していた。この警告が不幸にも的中した形となったが、日本の冬山はヒマラヤ以上の難しさがある。

このような長期予報も知らずに冬山合宿の計画が進められた。
準備段階で生徒がこの山行にあまり乗り気でなかったと言われ、むしろ顧問が積極的だったのではないか。雪山の美しさを知っていても腰まで潜るドカ雪や何も見えない猛吹雪、強風による体感温度の急速な低下などの冬山の恐しさを顧問は知らなかった。

厳冬期の唐松岳に初心者が登ろうという計画に無理がある。一年生の父親が不参加を申し出たことでも、この登山計画は経験者からみれば適切でなかった。
遭難当時の天候急変は予想でき、途中で吹雪がひどくなって戻るバーティーと出会いながら引き返すのが遅すぎた。
猛吹雪に襲われたのは決して不可抗力でない。何も知らぬ教員がリーダーとして初心者の生徒を連れて冬山に行くこと自体が大きな問題であり、まして全員が帰らなかったのだから、その責任は重大である。

酷な言い方だが、顧問が状況判断して行動を指示していたとすれば、過失致死の責任を問われても致し方ない。リーダーの無知、未熟が大きな原因を占めると思われる遭難事故であった。

【べテラン】の教員を信じて子供を送り出した親は、悲しみの涙を流しても流しきれるものでない。逗子開成高校は 、旧制中学時代にボート部の海難事故があり、十二名が相模灘に消えた。その鎮魂歌が有名な「真白き富士の根」である。今回、出発前にある二年生が父親に「こんどは山の歌ができるよ」といった一言が吹雪に消えることを予言していたように思えてならない。 

おりひめ第21号より転載 

 kerunn.jpg
八方尾根第3ケルン
吹雪の夜に、おリンの音に交って子供の泣き声が聴こえる、
沢筋からヘッドランプの灯りが見える等々
事故後いろいろな怪談話を聞きましたっけ・・・ 


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夏炉冬扇

南無阿弥陀仏
by 夏炉冬扇 (2014-08-20 18:36) 

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