SSブログ

おりひめ20 [おりひめ]

R先生 渾身の「植村直己」論

栄光も夢も雪煙に消えて

 

 植村直己がマッキンリーの稜線に消えてから一年がすぎる。昨年(八四年)二月、四十三才の誕生日に同峰登頂、南極への夢をふくらませた朗報が伝えられた。
下山途中、行方不明となり捜索が続けられたが、下旬には絶望的な文字が紙面の見出しとなり、彼の超人性に期待を寄せ、奇跡の生還に望みをつないだが空しかった。

ニ月一日、山麓のカヒルトナ氷河に張ったべースキャンプを出発。十二日に北米最高峰、マッキンリー(六一九四 m )の頂上に立った。冬季単独登頂である。七〇 年夏、初の単独登頂とあわせて夏冬の成功であった。登頂後、ブリザードのため連絡がとだえて安否が気づかわれていたが、十六日に捜索のセスナ機が元気に手を振る姿を確認したのを最後に消息を断った。

二十日からの捜索の模様は報道されたとうりである。P7210002.jpg
比較的詳細に伝えた新聞は「朝日」である。朝日新聞は山の遭難に関しては客観的な立場から報道し、時には鋭い社会的批判をのせて警鐘を鳴してきた。(例えば「五六豪雪」の大量遭難や逗子開成高校の八方尾根遭難など)
「朝日」には著名な本多勝一をはじめ疋田、武田編集員や大学山岳部出身の記者が健筆をふるっているが、今回は系列のテレビ朝日が、取材で一月から現地に入っていたため情報も早かった。同局はスポンサーではないが、取材を通して結果的には捜索にも協力した。

この遭難で捜索を直接担当したのはマッキンリー(デリナ)国立公園事務所である。二月末まで空前の航空機作戦で経費もかさみ、人件費も含めて一千万円かかった。その後の母校、明大山岳部 OB 会(炉辺会)の第一次捜索が四、五百万円と伝えられる。たった一人の遭難でこれだけの経費をかけたのは植村直己だったからである。

冬のマッキンリーは想像も絶する極寒の地の果て。その山に単独で挑んだのだから、実績のない登山者なら【無謀】の一言で非難され、捜索の航空機が飛んだかどうかも疑わしい。

登頂成功から消息不明の悲報までの報道で思ったことは、彼の冒険、登山歴を称え、生存絶望を惜しみ必ず【朗報】をもたらすのを信じて、批判めいた声が聞かれなかったことだ。素人がこの遭難に口を挟むのは気がひけるが、現地から伝えられた記事からいくつかの疑問がわいた。
全部、解明できないが、その疑問を追ってみたい。

なぜ、厳冬のマッキンリーに挑んだのだろうか?

各大陸の最高峰頂が目的ならば、十四年前の七 〇年夏に同峰に登っている。この謎をとく鍵は、八三年十月に渡米した時、つけていた日記にある。
その一部を引用する。

「十月十日、五時四五分成田よりロスに向けて出発。これから来年の三月まで約半年の予定でアメリカの旅をする予定だ。

今回のアメリカの旅の目的は南極へ向けての糸口をつかみ出したいということが最大の目標であるが、その行動として、一つは十ニ月 ~ 一月にかけて行われるミネソ夕州にあるアウトワード・バウンド・スクールに入り、犬ぞりコースに参加すること、ニつは一月中旬より犬ぞりの教科が終った後、アラスカに入り、厳冬期のマッキンレーの世界初の単独登攀すること。」
 
渡米の行動目的の第二にマッキンリー登頂をあげており、厳冬のフスカは未知なので、可能性を見極めた上で慎重に行動する旨を記している。

今回の渡米はミネソ夕の野外学校で南極向けの犬ぞり術習得が第一であって、マッキンリー登頂に関しては公子夫人にも話していない。直前の準備で荷物にピッケルを詰めているのを夫人にみつかり、「いらないんだっけ?」と言い訳している。

 では【南極へ向けての糸口】とは何か。
マッキンリー登頂前の一月三十日、カヒルトナ氷河のべースキャンプでテレビ朝日の大谷映芳ディレクターが取材をしている。同氏は八一年、第二の高峰 K2 の西稜初登頂に成功したクライマーであり、消息不明後は現地で米国の登山家、ジム・ウィックワイヤー(弁護士で K2登頂者)と協力して捜索活動に当った。

その取材の中で、同峰登頂の目的は、と問われて「別にこれといった目的はなく、冬季単独登頂もやりたいが、極地の冬山を自分で試登してみたい。登頂できなくともいいが・・と言いながらも、話が一昨年の南極行で失敗したことに及ぷと、「悔しい。畜生!」とその時の気持ちを口にしている

 植村は七八年の北極点到達後、もう一つの夢である南極横断を実現すべく、七九年に米国側の協力を得ようと知人を通して関係方面に手を打つ。エドワード・ケネディに会い、マンスフィールド駐日大使も好意的に動いてくれたが、最終的には米国の南極基地を管轄している科学財団から協力拒否の返事をもらっている。
そこで四回の南米行で知己のいるアルゼンチンから南極へ渡ったのが八二年の一月。アルゼンチンは南極大陸に最も近い国であり、突出している南極半島中心に領土宣言をしている。

その半島に多くの基地を有し、その一つのサンマルチン基地に陸軍を通してもぐり込み、南極大陸横断の準備をしながら越冬して機会をうかがっていた。
同半島のつけ根にはこの大陸最一局峰のヴィンソン ・マシフ(五一四〇m )がそびえ、当然大陸横断三千キロと合せて、同峰の単独登頂をねらっていたと思われる。

長い冬が終り氷がゆるむ頃になると、南極に近いフォークランド(マルビナス)諸島をめぐる英国、アルゼンチンの軍事衝突が起り、いわゆるフォークランド紛争のために基地の陸軍は彼の冒険旅行の援助どころでなくなり、すぐ近くに聳ゆるヴィンソン・マシフにも登れず、一歩も基地から出られずに計画を断念して諦めきれずに、翌八三年三月に帰国している。

その年十月、前に記したように渡米の旅に立ったのも、もう一度米国側の協力を得るためで、マッキンリー登頂後に南極の交渉の一つの窓口であるカナダのイエローナイフ(極北地方の都市で犬ぞりに関係があるらしい)に行く予定であると言っている。

遭難取材で現地にとんだ朝日新聞の竹内記者によれば、マッキンリーは南極大陸横断の資金を出す予定のスポンサーを納得させる実績作りであり、そのスポンサーとは米国の化学と軍用機メーカーの巨大企業二社である、という。(化学会社はデユポン社と思われる)

南極行きは確かに北極点の時より、巨額な資金と米国側の全面的の支援がなければ実現不可能なのである。

冒険家、植村直己の最終舞台が南極であり、その横断成功をもって引退の花道を飾ろうとすれば南極への渡航、各種の準備、空からの補給やサポートなど二、三のマスコミ関係のスポンサーには負えない旅となる。当然この巨額の費用を負担するスポンサーをさがさねばならない。資金提供の相手に色よい返事を求めるため、植村の存在を強く印象づけることが必要であり、厳冬の雪煙の中を単身でひたすら頂上をめざしたというのであれば何か悲壮である。

登れなければ「頭をかかえて日本に帰る」と言い、べース出発前夜の一月三十一日の日記の最後に、「さあ、精神一到何事か成らざらん、マッキンレーの単独登頂をやるのだ!」
それ程重要な意味をもつ登頂とあれば準備や装備などに問題がなかったのか。
登山装備はミネソタの野外学校が終って、アラスカへ向う前にシアトルで購入している。
シアトルには八年来の友人で、先に記したジム・ウィックワイヤーが在住しており、装備品の調達に協力している。

国内からクレバス転落防止用の竹ザオを航空便で送った他は、大半の装備を米国で購入したらしい。アラスカの厳冬季登山ということで防寒対策には充分配慮したと思われるが、着用していた衣類に問題点を指摘した専門家がいる。山の遭難凍死と肌着の関係の研究で知られる武庫川女子大の安田武教授である。植村は七〇年春のエべレスト、同年夏のマツキンリー単独登頂で、同教授の作った防寒衣を着て頂上に立っている。

今回着用していた衣服は、肌着にウールの上下、次に裏地を起毛したポリエステルのジャンパー上下で、汗の透過がよく、最近の米国登山界で流行しているもの。その上に化繊綿の防寒アノラックと防寒ズボン。アノラックは大きすぎて袖口を短かく切り毛皮をつけ、衿にも毛皮を縫いつけた。一番上にはゴアテックスの赤いヤッケを着た。

肌着のウールは汗を含む。その上の厚い二枚の化繊は水分を含まず外側に汗が出てくる。その上にゴアのヤッケを着ると大量の汗はヤッケの内側に寒気のため凍結し、ゴア本来の機能を発揮せずに下の着衣を濡らしてしまう、と同教授はいう。
このため、ヤッケ上下は最終ア夕ックキャンプと思われる五二〇〇m の雪洞に他の装備と一緒に残されていた。

べースキャンプ(二三〇〇 m )で零下三〇度以下になり、稜線は強風が吹き、零下五〇~六〇度にもなろうマッキンリーでは防寒性を優先しなければならない、防寒と吸湿を兼ねるとすれば、ウールと羽毛の組合せが最適と思われる。

又、軽量化をはかるため、べースキャンプからの登はんではテントを持たず、雪洞を多用している。雪洞はテントより暖かいが、掘るのに時間がかかりすぎると日記に記してあり、更にシュラフなしもねらったが、極寒に対してためらいもみられて五二〇〇 m の雪洞まで持参している。

次に新聞にも報道された「靴」の問題である。今回の登頂に用いた靴はエアブーツ、又はバニーブーツと呼ばれる特殊靴である。このブーツは前回登頂の時に知りあった地元ガイド、レイ ・ジュネ(七九年エべレスト登頂後に遭難)に強く勧められた、と言っている。

元来は極地用に開発された軍用靴で、全体が二重のゴム袋となり空気を入れてバルブで調整する。軽量で、保温効果は過去に凍傷なしの保障済みである。頂上付近の稜線では零下五 〇度にも下り、雪煙の舞う列風で、体感温度がマイナス100度になる厳冬季登頂を考慮して、高所靴ではなくこの靴を選んだものと思われる。
「バニーブーツ」と呼ばれるのは、登山靴の二倍もある大きさであり、ディズニー漫画のウサギに見えるからこの名称が付けられた。特に登山用に作られたブーツでないため、底は厚いラバーで曲りやすく、滑り止めもズック靴程度で、雪山で用いるにはアイゼンをつけなければならない。このブーツ専用の特殊アイゼンも出てきたばかりで、植村はそれを知らず、登山用のアイゼンを用いていた。
靴底全体が軟らかく大きさも倍であるブーツにアイゼンを装着するには、難しく多少の慣れを要した。

二月五日頃の日記に「五分おきにアイゼンが何度もはずれ、強風で手が凍えて着け直すのに二十分もかかった。やっと直して歩き始めると反対側のアイゼンが外れる」

かなり苦労し、難渋している情景が浮ぷ。当然、体力も消耗するし、行動のペースも遅くなる。冬のマッキンリーの斜面はアイゼンもきかぬ青氷の壁になるという。
登りは何とか急斜面を越えられたにせよ、下りの氷壁では後向きでアイゼンの出歯をけり込む技術を用いるが、これができなければ前向きで下降せざるを得ない。

靴底が軟らかく、力を入れると曲ってしまうので、滑落の危険性が指摘されている。地元のガイドが勧め、同国立公園事務所がその保温性を保障しているといっても、夏季に限ってのことと思う。何しろ冬季のマッキンリー登頂に成功したのは、植村直己が単独で挑戦するまで二パーティーの六人しかいない。新しいブーツを用いるにしても、事前に小登山をするなりして履き慣らす周到さがほしかった。

冬のエべレストより最悪の気象といわれるマッキンリーに初挑戦であれば、資料を検討し国内で万全の準備を整えてからアラスカに向ったのではないだろうか。
この点に関して、植村はマッキンリーを甘くみたのでは、という指摘もある。前回、七〇年夏の単独初登頂の際は運も良く、比較的楽に登っている。べースを出発してから濡れた衣服で凍傷にかかりはじめ、食糧も底をつきかけた四日目にテントを見つけた。
このテントは一ケ月前に登頂した日本スキー隊のもので、豊富な食糧にありつき、ゆっくり休むことができた。

その後は好天にも恵まれ、トレースにも助けられて七日目に頂上に立った。
高度差四千mを三日で登れると判断し、地吹雪に阻まれビバークを強いられた時に、大型テントと食料が残されていたのは幸運であった。
撤収されていればどうなっていたかわからない。

酷な言い方をすれば、十四年前につきもあって後半、楽に登れた体験が、同峰に対して組み易し、とみて気構えに油断があった。

今回の登山行動を断片的に日記で追ってみる。二月一日、カヒルトナ氷河のべースキャンプを出発、登山開始。二月二日、悪天に悩まされている。「なぜ、冬のマッキンレーはこんなに天候が悪いのだろうか。前のときの夏のように進むことができないのがくやしい
二月三日、この日は停滞。四日は難所といわれるウィンディー ・コーナーの三六〇〇m地点でビバーク。 

「風速三、四〇m 。一日三、四時間しか行動出来ず、空身で四、五〇m ラッセルし、クレバスの中に穴を掘って荷物を取りに戻ったら猛吹雪で穴がみつからなかった」
強風で吹きとばされそうになり、スコップとノコギリをザイルに結びつけ、腹ばいになり穴を掘った。歩くのも四つんばいだ。雪洞がみつからず、「確かにこの辺りだったんだが四つんばいになって右へ左へ探しまわる。おれは死ぬかもしれない」
と乱れた文字で記す。苦心惨澹、やっと戻って「青い山派」を大声で歌って励ました。一途で純朴な人柄をしのばせるが、この日は遭難一歩手前で危く難を免れている。

二月五日、四二〇〇m 地点まで登り雪洞を掘った。この登りで先に記した様に「アイゼンの不調」を訴えている。

「風速が三、四〇m 。ザイルを背負って立っていられず、雪洞を掘ろうにも風が強く、掘る場所がない」そして、「顔の感覚もなくなってきている。気温は何度あるのか、とにかく痛い。逃げばがない。どうしたらいいのか」想像をこえる強風と寒さ、それに吹雪に阻まれ、行動もままならない。

「雪洞を掘るのに二時間以上かかってしまう。雪洞の中にも風が入ってきてマイナス二〇度ぐらいある。寝袋も凍ってバリバリだ。乾いた寝袋で寝てみたい」

二月六日、停滞して装備の整理をする。「昨日、今日の風で右頬が凍傷でやられて皮層がむくれる。両手の中指の第一関節から先の感覚なし・・・ ローソクが短かくなってしまった。夜がとても長く感じられる」

凍傷にやられて精神面にも参っているのか最後に太字で「何が何でもマッキンリー登るぞ」
と記して日記はここで終っている。

最後の一行が彼をよく知る人々にとっては異常に思えたのではないだろうか。余程、身体的にも精神的にも疲れて正常な判断力を失っていた、という関係者もいる。
この大学ノートの日記は、四ニ〇〇m の雪洞に燃料、かんじきなどと共に残されていたのをニ月二十日、現地にへリコプ夕ーで降りた大谷、ウィックワイヤー両氏により発見された。

七日以降、十二日に登頂するまでの行動は記録もなく詳細は判らないが、苦闘を強いられたことは確かであろう。

登頂前後の足どりを追うと、十三日午前十一時頃テレビ朝日のセスナ機と(十二日の午後六時五十分に登頂」と無線交信している。その時の地点を二万フィート(六一〇〇m )と報告しているから、頂上の百m下になる。
その後、連絡がとだえ最後に姿が確認されたのは十六日午後、捜索のため飛行したパイロットが、四九〇〇m の雪洞で元気に手を振っているのを発見、無線で呼びかけたが応答はなかった。
このパイロットはマッキンリーで最も信頼され、十年の経験を誇るダグ・ギーティングである。同氏は当初、いわれていた地点の標高を五二〇〇m から四九〇〇mに訂正したが、姿を確認したという証言は変えない。

その地点は急斜面、ウェストバットレスの上の西尾根で、そのためここから下山途中、斜面を滑落してクレバスにのみ込れた、との見方があった。現地の国立公園救助隊が「ウエムラ絶望」を発表した二月二十六日に入山した明大山岳部 OB 隊は、四九〇〇m 以下に重点をおき捜していた。念のためウェストバットレスを登った三月六日、五二〇〇m 地点で大量の装備が残されている雪洞を発見した。

この雪洞は好天ならば頂上まで約一日のビバークで行けることから、ここを最終キャンプとして登頂を果したとみられる。残された装備品は石油コソロ、燃料、寝袋、ヤッケ、カリブーの肉、スコップ、ノコギリそれにフレーム付ザックなど約十五Kg

これらの装備品は下山時に絶対に必要で残していくことはあり得ない。この雪洞発見により、それまで推定されていた西尾根から下山途中に滑落したのではなく、これより上部で遭難した可能性が強まった。

とすれば、十六日に元気な姿が確認されたのは誤認であったのか。同パイロットの証言は姿を見たのが数秒間であっても間違いなければこの雪洞より下に降りたことになる。

猛吹雪で「ホワイトアウト」になって雪洞を見失って四九〇〇m まで降りた。
十六日以降、装備を取りに上の雪洞に戻る途中、何らかの事故がおこったとみられる。

だが現地を捜索した明大隊によると、雪洞を見落して通りすぎても五〇mも進めば狭い稜線になるから必ず引き返すであろうという。仮に装備を残した雪洞を見失ってべースキャンプに戻るにしても、好天であっても一日で降れる距離ではない。
その途中に強風で知られ、幾人もの命を奪っているウェストバットレスを下降しなければならず、標高差一〇〇〇m のこの氷壁は三、四〇度の急斜面で上部は青氷でアイゼンの爪が刺さらぬ状態だったという。

この斜面を空身で下降するのは自殺行為に等しく、とても考えられない。地元の同国立公園事務所は、当初の五〇〇〇m以下の急斜面で突風か、又はアイゼン不調」で滑落したとの見方を捨てていない。

一方、明大隊は頂上登頂後、この雪洞までの下山ルート途中でアクシデントがおこり遭難した可能性が強いと見ている。
五月になって第ニ次明大隊が捜索に向った。登頂の証として残された日の丸が回収されたが、植村直己の姿はどこにも見当たらなかった。悲報はついにくつがえらず、極北の自然に背かれてしまった。

二十年も前の六四年、明大農学部を卒業後、建設現場のバイトで貯めた一〇〇ドルをポケットに、氷河の山を見たい一念で米国からフランスに渡る。スキー場で働きながらアルプスに登り、モンブラン登頂以来三年余の放浪の旅をしつつ 、キリマンジャロ、アコンカグアの単独登頂とアマゾン川イカダ下りを達成する。そして七〇年、最高峰エべレストとマッキンリーに登り、初の五大陸最高峰登頂を果した。

エべレスト以外は単独登頂で夢は南極単独横断へと拡がる。
二年後の七二年、南極をやる計画でアルゼンチンの基地に渡るが、訓練不足で戻りグリーンランドのエキスモーと生活を共にして北極へのめり込んでいく 

七三年グリーンランド大ぞり三〇〇〇キロ単独行に成功して帰国すると野崎公子と出会い、翌春結婚する。家庭に落ち着く間もなくその秋(七四年)再びグリーンランドに渡る。「結婚したら山をやめる」と夫人に約束したのに、北極に向う言い訳けは
「北極は山じゃない」

七六年まで足かけ三年、グリーンランドからカナダを経てアラスカまで海水原を大ぞりで走り抜いた。氷のとける夏はエスキモーと生活して結氷を待った。
走行日数三百十三日、北極圏一万ニ〇〇〇キロの旅である。
高度成長が終り物質万能主義がいささか否定された時世に、我 々に替って冒険とか探険などの夢を再現してくれた男として一躍脚光をあびた。

マスコミが放っておくわけがなく、この費用七百万円はマスコミ三社、毎日新聞、文芸春秋、毎日放送が出している。毎日新聞はアラスカのコツビューに特派員を待機させて犬ぞりのゴールを特報し、文春は旅行記を書かせ「青春を山に賭けて」以来「北極もの」まで四冊の版権を握っている。

スポンサーがつけば資金援助と引き替えに日記や写真を提供する【商業的冒険】になっていく。
輝しい冒険の実績が重なると気ままな単独行ができなくなり、スポンサーに拘束されて次の企画が待っている。北極圏の次は北極点へと冒険はエスカレートし、七八年に北極点犬ぞり単独行に出発する。莫大な経費は前述のマスコミ三社ではとても賄えず、広告の電通がスポンサーを引き受けた。

三月、極点に向けて出発。極地探険の伝統的な犬ぞりで挑んだが、安全確保に文明の利器を最大限利用して万全を期した。食糧はいうまでもなくエスキモー犬まで航空機から補給を受け、 NASA の協力で人工衛星ニンバス六号に監視され、自分の位置を知らされて気象情報まで無線で送られている。四月下旬に初の北極点単独到達に成功、迎えの航空機で犬ぞりごとグリーンランドに戻った。飛行機一回のチャー夕料が三百万円、十回以上も補給したからそれだけで三千万円を超えた。基地に連絡員を常駐させ、人件費、食糧、各種の装備に犬など合せて総経費は一億四千万円といわれている。

これには極点到達後のグリーンランド縦断も含んではいるが、それにしても莫大な金額でぜいたくな冒険である。これだけの費用を負担してもらうと講演会、パーティー、広告の義務が伴ってくる。この前後、背広姿の【冒険家】の CM が国電につり下り、二万円パーテーで頭を下げ、サイン会にかり出され、「極点に立つ」記念レコードまで出されたのも全部資金集めなのである。

「私なんか商品の一つと思われてるんですよ」と出発前にもらし「人からお金をもらって、どこかへ逃げ出して一種の乞食」と自潮しながら北極点に旅立った。

グリーンランド縦断三〇〇〇キロは初の偉業で、北極点単独行より評価はされる。八月末、グリーンランドの帰路米国の記者会見で感想を述べている。
(これまで、一つの挑戦が終るたびに満足しかねて、とうとう今回の極地旅行となった。現代の冒険には、知識としてわからないことは何もないが、私は自分の心を満たしたいのでやった。計画立案の段階で大ぷろしきを広げてしまえば、あとは引き返すことはできないわけで、これが私を駆り立てる力となった。
【周囲からの圧力】といってもいいが、それだけではない。今度の探険で私は使命を果たしたと思ったが、あとで冷静になって考えてみると、私は口ボットにすぎなかった。みんなの助言通りやったまでです。」

又、冒険に対する気持ちを次のように言っている。 
「 私は意志が弱い。その弱さを克服するには、自分を引きさがれない状況に追いこむことだ。多くの方々から過大な援助と期待をいただき、自分の好きなことをやらせてもらうのだから、約束を果たさなかったら、みじめな存在になる。そうなると、少々 辛くても投げ出すわけにいかない。多くの人の支援は大きなプレッシャーだが、同時に自分の中の甘さを克服していくバネになると私は思っている」

これが本心とは思えない。大企業に【売ってしまった冒険】の商品となってしまった自分自身への言い訳けであり、余りにも大掛りとなって自分の手から離れた冒険の反省である。

旅費を節約するのでペルーの熱帯林からイカダを組み、パンツ一枚で南米の大河、 アマゾン川を下った六〇〇〇キロの旅に冒険旅行の原点がある。年令的にも一区切りをつけて、将来は北海道の原野で子供の野外学校を作り、自分の経験を伝えたいプランを抱き、最後の夢、南極への再出発の第一歩で不帰の旅に発ってしまった。いつかこんなことを言っていた。

「でも本当は怖いんです。たった一人で自然に挑もうなんて無茶な話ですよね。やっばり、畳の上で死にたいですね」と。


おりひめ第20号より転載

もう、あれから30年も経つんですね・・・
植村さん遭難の第一報を聞いたのは、当時親しくしていた探検部のTの下宿でした
植村さんの垂直よりも水平の冒険魂に憧れて探検部に入部した彼が
絶句して泣いた事を思い出します


nice!(8)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 8

コメント 1

夏炉冬扇

こんばんは2。
ウーム頭が…
by 夏炉冬扇 (2014-07-22 18:39) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0

おりひめ19-2家庭菜園8.1 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。