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おりひめ13(追憶) [おりひめ]

平成30年7月6日金曜日

R先生逝去の報を受け

悲しくて、やりきれない気持ち・・・です
さしあたり
僕らの時代の先生の寄稿文、
再掲して先生の事
偲びましょう・・・



過ぎ去った『あの一年』がR先生の軽妙な筆致で甦ります。




この一年を顧みて



 今年一年間の活動をふりかえると今年ほど巻機に縁のあった年もなかろう。



春山合宿から送別山行までクラスの山荘旅行を含めると三十日は巻機に行ったろうか、清水に山荘があるという事より、各大会が巻機山域に集中したためでもある。



 全国大会二チーム、国体に一チーム出場という部にとっては多くの点で大変だった年であり、それなりに意義があったが、わがクラブ独自の楽しい山行が少なかった点、一抹の寂しさがあろう。以下、この一ケ年の反省や印象深い出来事をふり返ってみたい。



△ △ △ △ △ △ △ △



 今季の春山合宿は例年の如く三月下旬の六日間、山荘をベースに行われた。一年の活動の原点であり技術習得の合宿である。雪上技術は勿論、幕営技術の向上が目標であった。合宿初日は春の陽光と南風が吹く暖かな日で、男子は沢口より、キスリングを背に山荘まで歩く。舗装された無雪道路が更に延び、清水まで真冬でも車が入る時代となったが登山者にとっては便利になっても果たしてプラスだろうか。



交通機関の発達は山へのアプローチを無くしてしまい、山への序章の楽しみが失われた、とある登山家が嘆いたのもあながち嘘ではない。とは言っても沢口を後にすると悔いる気持ちだ。荷は重い。道は長い。今冬あれほど降り続いた豪雪も意外と少ない。途中、選挙の車が行き交い、雪の山郷にも春が来た事を告げる。



部落に着き、新衛門(編者注:旧山荘を管理してもらった民宿)に寄る。毎年この日、親父さんに山荘の雪堀の苦労話を聞くのだが、人手もない厳冬期は大変だったと思う。部落からスキーを背に二汗もかいて杉木立の道を登る。夏は急登で長い道も、雪道となると辛いがさして時間は掛からぬうちに天狗岩が見え隠れしてくる。もう少しの頑張りだ。T大山荘を過ぎて橋をまわると懐かしき山荘に着く。一日目の夜は楽しい。合宿の前途を祝って乾杯する。



 停滞の日もあった。炬燵を囲んでH先生の座学を聴く。こんな午後もあっていい。その夕方、N先生、I OGが雪を踏み越えてやって来た。お隣さんのT大さんに遊びに行く。快活な五人の山男が我々を迎えてくれた。うちの女子も仲々やる。我々には見せない一張羅のセーターを着ていくのだ(その気持ちは良く分かる)



 登山予定日の三日目。悪天候を予想して寝たのだが、起きてみると皮肉にも快晴だ。春山の天気は難しい。登山準備をしていないのでスキーに変更する。新雪のゲレンデは実に素晴らしい。二年生は初心者だが雪面に穴をあける数ほど上達する。三年生がその証拠だろう。寒い中での雪上訓練も辛いが、広大な急斜面での訓練は効果があった。特に雪上歩行はザイルワークと共に身につけてほしい。雪渓を登る事が多い越後の山ではいかに大切か、きっと分かるだろう。その夜、T大の三人がやって来た。酒一本空にして酔いもまわる。今夜は女子がテントに泊まる日だ。



 昨夜の予報では好天は期待出来ぬが四日目に巻機登山を実施。七時に山荘を発つ。井戸の壁手前で朝食。冷たいお握りは喉に通らない。今朝はトップのH先生が実に早いペースだ。ラストが辛い。三年男子が一泊する為七合目近くの森林限界にテントを設営する。曇り空に風強く雪面はクラストする。八合目の急登を越すと更に風強く寒い。ニセ巻の避難小屋脇で震えながらの昼食。食後ものんびり出来ず樹氷を背に証拠写真を撮って一気に下る。テントでH先生達を見送り、のどかな陽光を受けて暖かいテントの中で横になる。



夕方、ザラメの雪に四回ほどシュプールを描く。少し登って眺めると広大な斜面に黄色のテントが実に小さい。夕食は洋風おじや。何か飲みたいが何もないのでチョコレートを湯に溶かして五人で飲みまわす。山の端に陽は落ちたが、気温下がらず三日月がかかる。湯沢あたりのスキー場の花火がシーズン最後を飾って微かに光る。二十時過ぎまで男同士の話をして寝袋に入る。



 夜半すぎ、風の音に目が覚める。(時計は三時を指す)テントは膨らみ雪面を吹き荒れる風は二十mを超えていよう。フライが音をたてて鳴り、眠れない。唸りを発して吹き続ける風に不安をかきたてられテントが倒れるのではと心配する。朝までには弱まると期待するが仲々、時間が経過しない。足先が寒い。実に長い夜明けだ。三年生は熟睡している様で羨ましい。風雪となった様でテントに雪が舞い込む。



 七時過ぎ、漸く風が呼吸する様に間歇的に吹き止み始めた。内心ホッとする頃、Nが用足しに起きる。まだ入口から外には出れぬので反対側を開けて済まさせる。風が弱まり始め八時に外に出て撤収を開始した。埋木のロープが凍ってほどけない。歯で噛んで苦心の末ほどきようやく撤収作業終了。数人のパーティーが登って行く。九時すぎる頃、あの強風が嘘の様に止み陽が差して来た。



 皆、心配していると思いながら下山開始。ブナ林を滑り降り井戸の壁の先端に出た。山荘が見える、誰かテラスに出てこちらを見ている様だ。手を振り大声でコールする。



三年をトレースに沿って下山させ、左斜面を滑り降りる。上から見ると息をつめる程の覚悟がいる。一気に斜面を横切り、ジャンプして三、四回曲がるともう下にきてしまった。ブッシュに突っかかり大きく転倒。生徒が下ったのを見てからそのまま二子沢目指して林間コースを滑る。快調!踏み跡もない最高の斜面だ。空は青く陽が眩しい。沢を渡り斜面を登れば山荘だ。H先生が迎えてくれた。



吹き荒れた稜線も白く浮かび上がっている。皆、五人を案じて心配していたと言う。「ありがとう」遅くはなったが無事下山できた。



 我々には山荘の近くで泊まるのだという安易な気持ちは無かったか?たとえベースの近くの幕営にしても非常食、予備食は持つべきで雪山であれば完全装備をすべきだろう。指導不足を痛感すると共に良い経験となった。又今回は各学年単位で雪上幕営を実施したがテント設営に時間が掛かりすぎる。こんなに立派な山荘があるのは幸せかも知れぬが、山荘に甘えているという声もあり同感である。もっと積極的な活用が必要であろう。多くの面で収穫があった合宿である。



▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲



 新学期になって慌ただしい日々が過ぎて春山講習会が近づいた。春山合宿から一ケ月後の巻機に再び行く。山麓はすっかり春の装いとなり新緑に桜が花を添え、春が一日一々と山を昇っていく。T大山荘奥のゲレンデが幕営地で、天気にも恵まれ花見も出来た。講習内容は合宿の復習とは言え、他校と比較できた点、良かったのではないか。春早い割引沢も楽しかった。ニセ巻機に突き上げる急峻な沢の雪渓は快適だ。一歩毎に天狗の頂が足下になり高度が稼げるのだ。



 グリセードで下った涸木沢は面白かった。しかしグリセードそのものはどうだろうか。高校生でなくとも下降はキックステップで確実に歩行すべきで、繰り返し身体で覚えるのが先決だろう。安全な斜面で楽しむのは悪くないが、重い荷を担いででは勧められるものではない。楽しみにして来たスキーも講師を依頼されるとそうもいかぬ。幕営地付近で五回滑っただけだが花見が出来た事で満足しなくては。講習会が終わってからの山荘での一泊、新入部員を迎えて春の陽を楽しんだ。



△ △ △ △ △ △ △ △



 帰ってすぐ五月の連休に再び巻機に来た。国体予選である。どうも部員は余り乗り気でないらしい。一般のパーティーと一緒に参加するのも良いではないか。国体の登山競技も得点種目になるそうで競争化の傾向が強く、OL(オリエンテーリング)の様な踏査競技と重量制限のある縦走競技では本来の登山の在り方と違和感があるのは歪めない。



 塩沢町から踏査競技がスタートして、清水分校に再び集まり、荷を計量して不足のパーティーは三人合計七十Kgにして縦走競技の出発。軽量化とは逆にザックに石を詰めなくてはならぬ矛盾である。雪解けの井戸の壁を登り五合目で幕営。翌朝、残雪を踏んで巻機往復、森林限界で「ホウキ雲」の雲海を眺めた。もう一汗かいて頂上に立つ。いつも会う会津、谷川の山々はまだ白い冬の装いだ。帰路、割引沢を下り、雪崩の痕跡を見る。閉会式で女子は八甲田行の切符を手にした。北陸予選での健闘を祈る。男子の得点は意外に厳しかった。踏査の失敗があったにしろ、意気込みが足らなかった。反省したい。



◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎



 六月上旬、例年の様に県大会が近づいてきた。考査後で準備の日数も少なく、すぐ大会になった。この大会に懸けている三年男子は心中期するものがあった。困ったのは女子である。予定の三人が先の国体予選で青森行となれば誰を出すか?一・二年でメンバーを組まなくてはならない。出場した女子には悪いが即席チームである。短時間ではメンバーシップは望めない。準備する事が余りにも多い。ペーパーテストの模試もやった。一夜着けの効かぬ事は君達の方がよく知っていよう。地図に着色し、コースを入れて現地のイメージを頭に叩き込ませ、予想される小テストの設問をする。テント設営、装備、食糧計画、そしてトレーニング。あっという間に前日となる。国体三人娘は実によく手伝ってくれた。(内心、男子はいい線までいくのではと期待し、女子は精一杯やればそれで良し。模試のつもりでやって来い)



 一日目。清水分校に出場校が集まる。ペーパーテストは日頃の座学と山行経験がものをいう出題だ。車道を登川まで歩いていよいよ、きついと言っておいた謙信尾根の登りにかかる。バテるパーティーも出る。空が怪しくなり清水峠で豪雨となる。女子は全員濡れながらの設営。新校OBの助け船でなんとかフライを張る。食後、濡れたまま寝袋に入る。明日は早い出発だ。



 国境稜線を巻機に向けて縦走する二日目である。ジュンクションで女子隊は二校となり、男子は快調に先の方を歩いている。女子隊の後尾をK、Y先生らと歩く。山はまだ豊富な残雪があり春山だ。北に向って千七百~九百米の頂が幾重にも連なり重厚な山波が続く国境稜線である。



 大烏帽子の登りで一年のIがバテはじめる。山行といえば今回が初めてと言っても過言ではなく、雪渓歩行もペースを知らぬのは当然だ。早めの食事を摂らせてもらい、水を余り飲ませずに兎に角食べさせた。食べなくては駄目だ。昼食後元気になった。



槍倉、柄沢山と登降を繰り返し、石楠花、山桜が灰色にガスった空に色を添える。女子は頑張り牛ケ岳の雪田で男子隊を追い抜いて巻機から八合目の避難小屋目指して下った。体力の限界を超えた十三時間の行動だったが、共に歩いた中央校の掛け声に力づけられて歩き通したのだ。



 三日目。下山して閉会式。男女共よく頑張り、晴れの県代表として広島の全国大会に出場することとなった。他校の分まで中国山地では健闘して来たい。



△ △ △ △ △ △ △ △



 代表校となった後、八月の大会までの準備も何かと大変だった。男子代表の長岡O高校と連絡を取って今後の日程を決める。強化合宿の打ち合わせ、大会申込、予算請求、列車の手配に装備の購入等で月日は実に早く過ぎた。



それに今夏、山荘十周年記念行事の準備も重なり多忙な日々であった。そのうちに国体女子にM、K、Sの三嬢が正式に県代表となり7月下旬のブロック予選に八甲田行きの切符をかけて出場する事に決まり、その準備もしてやらなくては・・・



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  △



 梅雨も明け夏本番となった七月下旬、夏季行事に引続いて清水峠~谷川縦走の夏山合宿を計画する。今回はインターハイ強化合宿も兼ねて最後のトレーニングである。北信越ブロック予選で一位となって代表権を得て戻ってきた国体三人娘も加わり部員十八名が二十五日の昼過ぎ、炎天下の中を清水峠に出発した。



広島の暑さを想定して車道を歩くが、翌日またこの道を戻るとは誰が予想したろうか。



登川で大休止してゆっくりしたペースで謙信尾根を登る。予定より遅れて清水峠についた頃、風もあり気温も低く寒気を覚えた。汗に濡れた衣服を着替えた。生徒にも着替えを指示するが徹底させなかった。



 遅い夕食後、寝る準備に取り掛かった二十二時頃、Sが熱あり寒さを訴えていると言う。検温すると三十八℃を超えている。H先生が厚着をさせ冷水で冷やす。他のテントのHも高熱という。Sは夜半に三十九℃を超え、翌二十六日二時には四十℃となる。こんな高熱は何が原因だろうか。下痢がないか心配するが本人達は熱いと言うだけでその気配はない。Hは時々うわ言を言ったという。額にのせたタオルはすぐ温かくなり相当の熱だ。三年に聞くとSは山荘で風邪気味だったという。六時過ぎまでSは四十℃、Hは三十九℃の高熱が続き、下がらない。先にH先生に仮眠してもらい途中で交代して二・三年生と一緒に看護と検温にあたった。




 今朝の投与が効いたのか、二人の熱も下がり始めた。救助隊も遅いので覚悟を決めて自力でゆっくり二人を歩かせて十一時四十分下山を始める。小休止を取りながら快晴の井坪の道を下る。十三時前に救助隊と合流した。新衛門の親父さんの顔を見て安心すると同時に下では大騒ぎをして多大な迷惑をかけているだろうと思うとすまない気持ちになる。親父さんに昨日からの経過を話したが、直接連絡してくれたらと言われても今朝の状態ではとても出来ない事と思う。十四時に雷雨の中を車道に出て役場にジープにH先生と(発熱の)二人と二年のTが乗る。救助隊の方々に厚くお礼を述べ他の部員は歩いて清水に戻る事にする。空腹を忘れていた。濡れたパンでも口に入りジュースがうまい。雨の車道を清水に戻る足は重く、歩みも遅い。昨日この道を歩いた事が一年も昔の様に思え、この一日が実に長かった。

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 あの状態を考えてみると二人の高熱のある者を峠から下山させる自信は我々にはなかった。これ以上病状を悪化させず病院に運ぶ最善の方法としてヘリを要請したのである。マスコミに、他人に何と言われようが、無事に二人を親元に返さなければならない。

帰宅して新聞を拡げたら我々と同じ日時に同様な状態で発熱した高校山岳部(横浜市)の記事が目に入った。北アルプスで三日間、看病した結果手遅れとなりヘリで富山まで運ぶが肺炎を起こして死亡したのである。措置が遅れて最悪になってから救助を要請しても手遅れの場合どうするのか。遭難騒ぎで強化合宿の目的も果たさず帰校後、広島大会の準備に追われる。どうも意気があがらない感じがする。計画書も仕上がり準備も進むが時間的にはやや不充分だった。

□ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 八月二日、見送りを受けて東三条を発つ。約一名、座席が余るのだ。大事な時にNが遅刻した。子供でないのだ、なんとか広島に追いかけて来るだろう。新幹線で西へ五時間、暑い広島に降り立つ。

食糧購入、事前打合せをやり四日に会場の戸河内に向う。市中行進は暑かった。全国から山の仲間が集まって開会式となる。菅笠が揃った新潟県代表に拍手もおこる。山梨の南アルプスの大会で会った先生、富山の講習会で世話になった友人にも会えて旧交を温める。やはり全国大会に来たという実感が湧く。式後、各コースに分かれる。

 H先生と四人娘、長岡O校とも暫くお別れだ。大会の様子は報告書を読んで貰うとして我々の歩いたBコースは暑くて長い道だった。大会のコースを設定するのに苦労したと聞く。山高きが故に尊からずで、それなりの良さもあった。細見谷も奥三段峡も面白く涼しかった。長い林道にはいささか堪えたが、千米級の準平原が拡がるのは中国山脈ならではの景観だ。

 夏の一週間の旅で同じ精神状態を保つ事は非情に難しい事を思い知った。県大会で見せてくれたメンバーシップが見られず、意気込みも確かに欠けていたと思う。行動中に声が出ない。持てる力を充分に発揮する事は難しい。先の夏山合宿の挫折感もあろう。それから立ち直る時間も少なかった。多くの反省事項もあるが、それよりも全国の山の仲間と友情を深め、他校の優れた点を学び取る事が大切なのだ。

青春を中国山地で燃焼させた君達は幸せと言うべきだ。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  △

 大会も終わった。タ◎ノは夏期講習のため東京へ直行。残った九人は急ぐ旅でもない。各駅停車で山陽路を上る事にして、途中下車も大会の付録として帰りたい。尾道のグランドでテントを張り、残った食糧を始末して一泊する。瀬戸内の海を車中から眺め、倉敷の古い町並みにも立ち寄った。大阪から夜行に揺られ二日がかりで帰ってきた。

◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎

 帰ってまもなくお盆の十四日に一年遅れの山荘十周年式典。建設当時の校長以下、OGが集まった。広い山荘のテラスも狭い程だ。建設当時の思い出や苦労話に花が咲き、遠路馳せ参じてくれたOGもいて、初めて会う貫禄ある先輩も多かった。

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 秋、十月。東高が当番となって秋季大会が開かれた。(編者注:京都桂高校の高田直樹先生http://www.takadanaoki.jp/が講師として参加された)紅葉の映える巻機に三百五十名が参加、小さな事故もあったけれど秋の割引沢を満喫した。

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 これで今年の役割も終わった。春から兎に角忙しかった。

 今季、七度頂上を踏んだ巻機山であるが、来年もまた、登りたい。


おりひめ第13号より転載 (フェ~長かった~!)

男ざかりの働き盛り R先生三十六歳の「充実した?一年間」の記録でした。ある章では「あったな~そんな事!」と膝を叩き、またある章では穴があったら飛び込みたい衝動にかられ・・・山での休憩中、タバコを片手に大判の手帳にペンを走らせていた先生の姿が目に浮かびます。

(編者注:明らかな印刷時の誤植は訂正、天気図解説や当時の新聞報道等の記述は割愛しました)




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夏炉冬扇

南無阿弥陀仏
by 夏炉冬扇 (2018-07-08 18:25) 

taku1_lily

先生とこは
真宗大谷派でした(うちと同じ)
南無阿弥陀仏・・・
案ずるかな
あなかしこ・・・あなかしこ
by taku1_lily (2018-07-08 21:57) 

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